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野球 コラム 2021年12月30日

2021年のさようなら「追悼編」ー 名将というよりチアリーダーのラソーダ / アーロン対王の本塁打競争 / ボール8個を掴むリチャードー

MLB nation by 豊浦 彰太郎
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今年も多くの偉大な野球人が逝去した。その中から、以下の5人について個人的な思い出も含めて語りたい。

トミー・ラソーダ 1月7日没 享年93歳

I bleed Dodger Blue.(オレにはドジャーブルーの血が流れている)の名言で知られる。1976年終盤から足掛け21年ドジャースの監督を務め、リーグ優勝4回(77年、78年、81年、88年)、ワールドチャンピオン2回(81年、88年)、という実績を挙げた。日本では、野茂英雄がメジャーデビューした際の監督として知られている。

それでも、「名将」というステレオタイプな表現は、監督としての彼の本質を語るに適切ではない。むしろ、チアリーダーだろう。「監督にできることなど何もない。選手が気持ち良くプレーできるよう舞台を整えてあげるだけだ」これが信条だった。

このスタンスは、ラソーダが監督に就任した当時は結構画期的だった。前任のウォルター・オルストンも23年ドジャースの監督を務めたが、選手を支配する専制君主だった。いや、オルストンだけではない。それが当時のスタンダードだった。

それが、ラソーダ以降少しずつ変化した。ブレーブスで14季連続地区優勝のボビー・コックスも、ヤンキースで4度世界一のジョー・トーリも、ラソーダほどの華やかさはなかったが、基本的には同タイプだ。

近年、監督像はまた変わりつつある。専門スタッフによる分析データに基づいた起用方や戦術を理解し実践することが役割となった。ラソーダはあの時代にこそふさわしいリーダーだったのだ。

ドン・サットン 1月18日没 享年75歳

ラソーダ元監督が大往生した11日後、かつてのボスの後を追うように天に召された。

無類のタフネスを誇る右腕だった。史上14位の324勝(256敗)もさることながら、5,282.1投球回は同7位だ。200投球回以上をデビューからの15年連続を含み20度達成した。また、故障とは無縁で、先発登板の回避は現役最終年のただ1度のみ。また、引退後はブロードキャスターとしても長く活躍した。

個人的には、NHKが放送した1977年のヤンキースとのワールドシリーズでの姿が目に焼き付いている。当時「大リーグ」は活字と写真の中の存在で、録画とはいえテレビ観戦できるのは画期的だった。ヤンキースのレジー・ジャクソンの伝説的な3打席連続本塁打で幕を閉じたこのシリーズ初戦のドジャースの先発がサットンだった。ビデオデッキはまだ普及しておらず(わが家になかっただけ?)、テレビ観戦も一期一会だった。ドリフのカトちゃんの教え通り(若い読者、分かります?)、宿題を片付け銭湯にも行ってテレビの前で正座した。サットンは7回3失点だった。

ハンク・アーロン 1月22日没 享年86歳

ぼくがアーロンを初めて意識したのは小学4年の秋、1973年のことだ。

朝刊スポーツ欄のある記事にぼくの目は釘付けになった。それは、アーロンという選手がルースの記録にあと1本と迫る通算713本塁打でシーズンを終えた、というものだった。

その年の夏休み、子供向けの伝記「ベーブ・ルース物語」を図書館で借りて読んだ。その伝記(かなり古かったと思う)は、通算714本塁打は不滅の記録と紹介していたのに・・・そして翌年、開幕早々に記録は更新された。

その年の秋、日米野球時にアーロンは来日した。後楽園球場で王貞治とホームラン競争を行ったのだ。しょせんは試合前のエキシビションなのだが、当時のぼくにとって、これは世界の頂上決戦だった。今からすれば滑稽ですらあったが、少なくともその日朝からのぼくの緊張感は、近年(でもないか)で例えるなら侍ジャパンのWBC決勝戦前のそれであった。結果は10本対9本で王は惜敗。両者にとってベストシナリオだったかもしれない。

マイク・マーシャル 5月31日没 享年78歳

1974年にリリーフ投手として初めてサイ・ヤング賞を受賞した「アイアン・マイク」(鉄人マイク)について語るには、投手としての業績とともに、その特異なキャラにも触れねばならない。

マーシャルは14年のキャリアに計9球団に在籍し、97勝(112敗)&188セーブ。ハイライトはドジャース在籍の74年で、106登板で投球回数はなんと208.1。これだけ登板し完了も83もありながら、セーブは21だ。彼(と多くの当時のリリーフエース)はセーブが付くか否かに関わらず、中盤からでも登板したからだ。

マーシャルは、現役時代に運動生理学で博士号を取得したインテリでもあった。しかし、彼の現役時代、野球選手には粗野なカントリーボーイが多かった。そんな中、物理を語りチェスを愛する彼は明らかに異質だった。マーシャルは気難しい変人として、次第に敬遠されるようになったらしい。パイロッツ在籍の69年のことだ。彼の居所を同僚が探していると、監督までもが「どうせ、またチェスの準備でもしているのだろう」と皮肉るようになり、そのうち「おい、見ろや。あそこで頭脳そのものがウォーミングアップしてるぞ」とディスりだしたという。

しかし、パイロッツ時代はまだ良かった。「ボールフォア」(選手の興奮剤使用を暴露しベストセラーになった)の著者で同じくインテリやくざ?のジム・バウトンというチェスの相手がいたからだ。

70年代に、当時国内随一の大リーグ通として知られた八木一郎氏が専門誌に寄稿したコラムによると、氏がドジャースの球団幹部とマーシャルについて話した際に、その幹部はこう言ったそうだ。「ほう、マーシャルはチェスが好きなのかね」。どうやら、栄光を極めたドジャース時代、彼にはチェスの相手もいなかったらしい、というのがオチだった。

JR・リチャード 8月4日没 享年71歳

70年代後半最高の投手の一人であったリチャードの人生は、波瀾万丈そのものだった。彼は、身長203センチの巨体&コワモテ、しかも荒れ玉の豪速球タイプと、相手打者から最も恐れられるタイプだった。1976年に20勝、77〜79年には3年連続18勝を記録。78〜79年は奪三振が303&313でともに両リーグ最多だった。しかし、絶頂期に脳卒中で倒れ、キャリアは絶たれた。

個人的に思い出深いのは、70年代に船便で取り寄せた「スポーティング・ニューズ」で見た彼の写真だ。何と右手で8つのボールを掴んでいた。「なんちゅうばかでかい手や!」ぼくの中のリチャードのバケモノイメージは増幅された。

1980年、リチャードは例年以上のスタートを切った。初選出の球宴でも先発し、2回無失点だった。しかし、この頃には腕や指先の痺れを訴えるようになった。病院で検査を受けると右鎖骨下の動脈がほぼ塞がっている状態だったが、医師は手術までは必要ないと判断した。その5日後、彼は試合前の練習中に昏倒した。手術後はメジャー復帰を目指したが、夢は叶わず。引退後は、2度の離婚とその慰謝料負担、投資の失敗と災難続き。一時は路上生活者となったが、牧師となりその後はホームレスコミュニティへの支援活動で地域社会に貢献した。

文:豊浦彰太郎

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豊浦 彰太郎

1963年福岡県生まれ。会社員兼MLBライター。物心ついたときからの野球ファンで、初めて生で観戦したのは小学校1年生の時。巨人対西鉄のオープン戦で憧れの王貞治さんのホームランを観てゲーム終了後にサインを貰うという幸運を手にし、生涯の野球への愛を摺りこまれた。1971年のオリオールズ来日以来のメジャーリーグファンでもあり、2003年から6年間は、スカパー!MLBライブでコメンテーターも務めた。MLB専門誌の「SLUGGER」に寄稿中。有料メルマガ『Smoke’m Inside(内角球でケムに巻いてやれ!)』も配信中。Facebook:[email protected]

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