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サッカー フットサル コラム 2022年12月31日

圧倒的な技術力と類稀なる身体能力 ペレの全盛期を見ておきたかった・・・

後藤健生コラム by 後藤 健生
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ペレ

1970年メキシコ・ワールドカップ決勝(対イタリア戦)で先制ゴールを決めたペレ

ペレ(本名:エドソン・アランチス・ド・ナシメント)が12月29日に亡くなった。82歳だった。

2020年の11月に亡くなったディエゴ・アルマンド・マラドーナに続いて、20世紀のサッカーが生んだ2人のスターが相次いで亡くなったことになる。

ペレとマラドーナ……。約20年の世代の差はあるが、20世紀のサッカーを代表するスター選手であることに間違いない。

だが、2人には大きな違いがある。

ペレは、第一線を退いてからはニューヨーク・コスモスで現役に復帰。“サッカー後進国”のアメリカ合衆国でのサッカー普及に携わった。そうして世界の尊敬を集める形で現役を引退すると、その後は指導者になることはなく、また過度にビジネス傾倒することもなく、サッカー界とは適度な距離感を取りながら世界にサッカーの美しさを伝える広報官のような役割を続けた。ペレの場合は、その笑顔が人々の記憶に永遠に残ることだろう。

一方のマラドーナは、薬物問題などさまざまなスキャンダルに塗れた選手生活を送り、現役引退後もさまざまなクラブやアルゼンチン代表で監督を務めて失敗と成功を繰り返し、物議を醸し続けて60歳で短い人生を終えた。

ペレとマラドーナは、先日のワールドカップでついに優勝を遂げたリオネル・メッシと比較することもできるだろうが、メッシがゴールを生み出すことに特化した選手であるのに対して、ペレとマラドーナはチーム全体をリードしてゲームの流れを作りながら得点も決めることのできる、よりオールラウンドな選手だった。

その伝で、ペレやマラドーナはやはりメッシより上の選手であるように思う。

メディアでも報じられているが、ペレは「10番」という背番号の重要性を定着させた選手でもあった。

20世紀の末に現在のような固定背番号制が普及するまで、サッカーの背番号はポジション別に決められていた。

ゴールキーパーが「1」。そして、DFからFWに「2」から「11」の番号が与えられていたのだ。初めて背番号が導入された当時のツーバック・システム(2-3-5)に従って右のフルバックが「2」、左のフルバックが「3」というように決まっていた。

スリーバックが普及すると、イングランドではもともとセンターハーフだった「5」番の選手が最終ラインに入ってセンターバック(CB)となったので「5」はセンターバックの番号だが、ブラジルでは「5」はボランチの番号となった。

FW5人は右のウィンガーが「7」で、センターフォワード(CF)が「9」、左ウィンガーが「11」。インナーが「8」と「10」だったが、ブラジルでは「8」はポジションを下げてボランチとなり、左のインナーの「10」の選手が攻撃的MFとして花形になったのだ。

もっとも、ペレがセレソンで「10」を付けるようになったのはまったくの偶然だった。

1958年のスウェーデン大会を前の選手登録の時、ブラジル・スポーツ連盟(CBD)が背番号を記入し忘れてしまったので、FIFAが勝手にブラジル代表の背番号を決めてしまった。そして、どういうわけかペレに「10」の背番号が与えられたのだ。

大会前年の1957年7月に16歳で代表にデビューしていたペレも、当時はまだレギュラーではなかった。ワールドカップでも、ペレが初めて起用されたのは3戦目のソ連戦からだったのだ。だから、もしCBDが背番号を決めていたとしたら、ペレに「10」が与えられることはなかったはずだ。

こうして、偶然にもペレは「10」番を付けてスウェーデン大会でのブラジルの初優勝に大きく貢献。ペレといえば「10」というイメージが定着し、そして世界のサッカー界で「10」は特別な背番号ということになったのだ。

そうした“偶然”を生み出すあたり、ペレはやはり「神の子」の1人なのであろう。

幸い、僕はペレがプレーする姿を何度か目にすることができた。

初めて来日したのは1972年5月のことだった。日本サッカーの低迷期だったが、国立競技場が満員となって一種の社会現象も引き起こした。

DF山口芳忠の執拗なマークを受けたペレだったが、山口の鼻先で鋭いターンをしてマークを外して後半立て続けに2ゴールを決めて見せた。

この時の反転のスピードを見ても、ペレというのは非常にスピードのある選手だったということが分かる。

技術的にうまいのは当然なのだが、うまいだけの選手ならブラジルにはいくらもいる。

他の選手と違ったのは、戦術的な引き出しが多く、周囲の味方をうまく使って攻撃を組み立てることができるところであり、そして優れたフィジカル能力を生かすのがペレのプレーの特徴だった。

100メートル走は10秒台だったというし、一瞬の加速力は目を見張るものがあった。また、ほとんど助走をつけることなく高いジャンプができたので、172〜173センチとけっして長身ではないもののヘディングでも多数のゴールを決めている。

ペレは、アフリカ系のブラジル人だった。鉱山や砂糖やコーヒーのプランテーションでの労働のためにアフリカ大陸から連れてこられた奴隷たちの子孫である。

ブラジルという国もかつては人種差別の激しい国で、アフリカ系のサッカー選手とは契約しないというクラブもあったほどだ。多くのアフリカ系黒人選手がプロとして活躍できるようになったのは1940年代頃の話である。そうした先人たちが切り開いた舞台で、ペレの年代になると多くのアフリカ系選手がそのボールテクニックと身体能力を生かして活躍することになる。

しかも、今から考える信じられないことだが、当時はブラジル以外のサッカー強国ではアフリカ系の選手などほとんど存在しなかったのだ。そんな時代に独特のボールタッチのリズムと身体能力を兼ね備えた多数のアフリカ系選手を擁したブラジルが世界のサッカーをリードするようになり、1958年に初めてワールドカップでの優勝を遂げたのだ。

まさに、そういう時代の最先端にいたのがペレなのであり、またペレの存在そのものがアフリカ系選手の地位をさらに高めた。

まさに、ペレは新しい時代を切り開いた時代の寵児でもあったのである。

先ほども述べたように、僕は1972年、つまり3度目のワールドカップ優勝の2年後のペレを目撃することができた。しかし、それはもう彼の晩年と言ってもよかった。その後も、ペレはニューヨーク・コスモスの一員として、さらには釜本邦茂引退試合のゲストとして何度か来日している。だが、それはもちろん全盛期のペレではなかった。

圧倒的な技術力とフィジカル能力を兼ね備えたペレの全盛期を、一度でもいいから見ておきたかったものである。

文:後藤健生

後藤 健生

後藤 健生

1952年東京生まれ。慶應義塾大学大学院博士課程修了(国際政治)。64年の東京五輪以来、サッカー観戦を続け、「テレビでCLを見るよりも、大学リーグ生観戦」をモットーに観戦試合数は3700を超えた(もちろん、CL生観戦が第一希望だが!)。74年西ドイツ大会以来、ワールドカップはすべて現地観戦。2007年より関西大学客員教授

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