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サイクル ロードレース コラム 2011年5月10日

【ジロ・デ・イタリア2011】第3ステージ レースレポート

サイクルロードレースレポート by 宮本 あさか
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悲しい事故がジロを襲った。ゴール前25kmのボッコ峠からの下りで、ワウテル・ウェイラントが激しい落車の犠牲となった。左のペダルが縁石に引っかかり、体は20m近くも飛ばされてしまったという。レースドクターがすぐに駆けつけ、心臓マッサージや薬剤注入が行われたが、「彼の心臓は打つことをやめてしまった」。5月の緑美しきイタリアで、26歳の若い命が消えた。

1年前のちょうど同じステージ、2010年ジロ第3ステージはフィニッシュラインで両手を天に突き上げた。2008年ブエルタでもスプリントで区間1勝。2006年に母国ベルギーのクイックステップ・ダヴィタモンでプロ入りし、トム・ボーネンのリードアウト役として、またクラシックレーサーとして活躍を見せてきた。今季からは新天地を求めてレオパード・トレックへ移籍。母国語のフランドル語だけでなく、英語やフランス語も流暢に操り、人懐っこい性格でファンやメディアの人気者でもあった。そして9月には待望のパパとなるはずだったのだが……。

グランツール中の事故で選手が亡くなったのは、1995年ツール・ド・フランスでのファビオ・カザルテッリの落車事故以来となる。ジロ102年の歴史では、4度目の死亡事故。2年前のジロでは、ペドロ・オリリョが崖下に転落する騒ぎもあった。オリリョは命こそ奇跡的に助かったが、選手生命はそこで断たれている。

いつも笑顔のウェイラントが、肩を落とし、泣きじゃくっている姿を見たことがある。大親友のフレデリック・ノルフが、2009年ツアー・オブ・カタール第5ステージの朝、ベッドの上で冷たくなっていたときのことだった。ホテルで行われた追悼集会では、遺影の前で、最後まで一人たたずんでいた。そして2011年5月9日、やはり異国でのレース中に、ウェイラントは親友のもとへと旅立ってしまった。彼の家族や関係者に哀悼の意を表すると共に、心の底から、ワウテル・ウェイラントの冥福を祈りたい。

走行中のプロトンには、当然、事故の詳細は伝えられていなかった。だからこそゴールまで、選手たちは力を尽くして戦った。

スタート直後は、飛び出したい選手と飛び出させたくないチームとの激しい駆け引きで彩られた。ようやく4選手が逃げの切符をもぎ取ったのは30km地点を過ぎてから。大会直前のツール・ド・ロマンディで区間優勝と数日間のリーダージャージを経験し、絶好調のまま大会入りしたパヴェル・ブルットを筆頭に、ジャンルーカ・ブランビッラ、ダヴィデ・リッチビッティ、バルト・デクレルクの4人は、しかし、前日のセバスティアン・ラングのような20分ものリードはもらえなかった。50km地点で最大6分差をつけたあとは、プロトンからじわじわと距離を縮められていく。

3級ボッコ峠の山頂では4人がポイント争いを演じ、ブランビッラが先頭通過を果たす。しかし峠を下り切った先の中間スプリントポイントでは、先頭にもはや4人の姿はなかった。スプリント勝負に持ち込みたいスプリンターチームや、ゴール前9km地点の山を利用して攻撃を仕掛けたいアタッカーたち、さらにはアクシデントを避けるために前方に留まりたい総合狙いのチームがそれぞれに猛烈な加速を行ったせいで、約13kmを残して逃げは終わりを告げていたのだ。そしてマドンナ・デッレ・グラツィエ「慈悲の聖母」峠の麓で、一旦集団はひとつになった。

ただし上り突入と同時に数人がアタックを仕掛けると、途端に集団がばらけた。マリア・ローザ姿のマーク・カヴェンディッシュや前日勝者アレッサンドロ・ペタッキは、厳しい勾配に喘ぎ、2日連続のスプリント勝負の夢をかなえられなかった。一方で2009年ツール10位のクリストフ・ルメヴェル、パブロ・ラストラス、アンヘル・ビシオソ、ダニエル・モレーノは上手く前に飛び出した。さらにはルメヴェルのチームメート、デーヴィット・ミラーも単独で追走を仕掛けて……、5人でゴール地へとなだれ込んでいった。

数的有利を利用して、ガーミン・サーヴェロの2人が優勝争いの主導権をつかもうと試みる。つまりルメヴェルが発射台役を務め、ミラーが真っ先にスプリントを仕掛けた。ただし2005年ブエルタ以来5年半ぶりのグランツールを、そして2002年以来9年ぶりのジロを戦う34歳ビシオソの、グランツール初区間勝利にかける執念にはかなわなかった。それでも同じく34歳で、すでにグランツールでは区間8勝(+TTT1勝)を手にしてきたミラーは、生まれて初めてのマリア・ローザに——マイヨ・ジョーヌとマイヨ・オロならそれぞれ3日間ずつ着用したことがあるけれど——袖を通すことになった。

なお、ステージ後の表彰式は、落車事故の影響で中止された。翌第4ステージのスタート時には、1分間の黙祷が捧げられる予定だ。またステージをどう走るのか——勝負を争うのか、それともノーコンテストにするのか——は、選手たちの意志に委ねられる。ジロ開催委員会は、選手の決定を全面的に尊重するとのことだ。


●ジロ開催委員長アンジェロ・ゾメニャン

まず最初に、ワウテルのご家族とアンヌソフィー夫人に、謹んで哀悼の意を表したい。彼らは今夜22時30分に、マルペンサ空港に到着する。トレディーチ医師の説明どおり、手の尽くしようがなかった。救急団員はできる限りの事をしたが、最初から状況は絶望的だった。彼らの努力と素早い仕事には感謝している。UCI会長、イタリア自転車連盟、プロ選手会会長からも哀悼のメッセージが届いている。

われわれは第8ステージで、ラメツィア・テルメでの事故犠牲者(2010年末にサイクリスト7人が自動車事故で死亡)への追悼行事を予定していた。不幸なことに、もう1人、追悼すべき人間が増えてしまった。この先どうすべきなのかは、レオパード・トレックや他チームの意思を尊重しつつ、決めていく予定だ。また、これ以上の詳細を決定する前に、まずは家族と面会したいと思っている。


●ジロレースドクター、ジョヴァンニ・トレディチ医師

不幸なことに、状況は絶望的だった。救急処置は事故後15〜20秒ほどですぐに開始された。私は1番メディカルカーに乗っており、プロトンのすぐ後ろにつけていたからだ。すぐに彼の側に停車した。彼は道の真ん中で、体をひねった体制で、意識を失って倒れていた。前頭骨が大きく損傷しており、すぐに危機的状態だと気がついた。すぐに救急医療のエキスパートが、蘇生のための処置を始めた。移動型集中治療救急車にもすぐに連絡を取り、事故後の1分半後には現場へ到着した。蘇生のスペシャリストたちが、すでに治療に当たっているスタッフへと合流した。その後救助ヘリコプターがジェノヴァから来てくれるのを待ちながら、45分間に渡って、様々な蘇生を試みた。しかし到着した医師は、もはや蘇生を試みても無駄であると判断し、17時前後の死亡が確定した。われわれに何もできることはなかったんだ。

宮本あさか

宮本 あさか

みやもとあさか。パリ在住のスポーツライター・翻訳者。相撲、プロレス、サッカー、テニス、フィギュアスケート、アルペンスキーなど幼いときからのスポーツ好きが高じ、現在は自転車ロードレースの取材を中心に行っている。

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