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サイクル ロードレース コラム 2013年5月18日

ツール・ド・フランスを知るための100の入り口:主催者の数奇な運命

ツール・ド・フランス by Naco
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ツール・ド・フランスを知るための100の入り口:主催者の数奇な運命

パリ解放後シャンゼリゼ通りを行進するフランス軍(1944年8月25日)/写真:By Jack Downey, U.S. Office of War Information [Public domain], via Wikimedia Commons

現在、国際的スポーツイベント会社アモリー・スポール・オルガニザシオン(A.S.O.)によって運営されているツール・ド・フランス。初代主催者であるスポーツ紙『ロト』からA.S.O.の手に渡る契機となったのは、戦争だった。

ツールを開催していた『ロト』の編集者たちは、もともと反ユダヤ主義に同調し、第二次世界大戦時中、同紙の株は多くのドイツ人に売却された。

やがてパリ解放とともに、ナチス・ドイツに加担した人々の粛清が始まり、ツール2代目ディレクター、ジャック・ゴデも、あわや牢獄行きとなるところだった。エミリアン・アモリーという名の救世主がいなければ。

ゴデには、ドイツ軍を支持したいわゆるコラボラトゥールの嫌疑がかかっていた。当時3万人近くがその罪で牢獄にぶちこまれたといい、占領下で『ロト』を統率したアルベール・ルジュンヌのように実際に処刑された者もいる。

しかしゴデにはそれを逃れる格好の口実があった。ドイツを支持しながらも、闇でナチの対抗勢力であるレジスタンス向けの印刷も行っていたのだ。

発注主は、ジャーナリズムで財を築いたエミリアン・アモリー。彼自身、ドイツ軍とレジスタンスの双方向に力を貸し、印刷技術をもったゴデに、それを手伝わせた。

かくしてゴデは戦犯扱いを免れただけでなく、差し押さえられた『ロト』の代わりに、スポーツ紙『レキップ』の発行を許可された。とはいえ、その後『レキップ』がツールの再開をあっさり任されたワケではない。

1947年の再開に向けては、他紙も名乗りをあげていた。主催権利を獲得するため、前年には両陣営によりミニツールが開催される。

最終的にアモリーのロビー活動や、ゴデがもつツール開催のノーハウが功を奏し、『レキップ』と『ル・パリジャン・リベレ』(アモリーが創刊)のコンビがめでたくツール開催権利を手に入れた。

その後1965年、資金繰り悪化により、『レキップ』はアモリーに身売りされ、1992年には、アモリー・スポール・オルガニザシオン(A.S.O.)が設立された。今ではパリ〜ルーベなどの主要自転車ロードレースをはじめ、フランスオープンゴルフ、パリマラソン、ダカールラリーなども開催している。

代替画像

Naco

1999年末、ホームページを立ち上げ、趣味だった自転車ロードレースの情報記事を掲載しはじめる。2000年夏からは、ツール・ド・フランスの現地観戦レポートを開始。同サイトには、ロードレース・ファンたちが数多く訪れている。現在、フリーランスのジャーナリストとして自転車専門誌に記事を寄稿している。

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