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朝、選手らのスーツケースが次々とチームバスに積み込まれ、出発準備のため、ホテルのロビーには慌ただしく行きかう人々の姿。ツールで連日見られる光景だ。
やがて蜘蛛の子を散らすように、選手やスタッフたちは一斉に出発地点やそれぞれの持ち場へと去り、静寂が戻ったホテルの玄関に、ぽつんと取り残されたスーツケースがひとつ。リタイアしたニール・スティーヴンスのものだった。
そんな場面が、D・ウォルシュ著『インサイド・ザ・ツール・ド・フランス』という本の中に出てくる。マッサージ、メカニックによるバイク調整など、レース中は至れり尽くせり。しかしひとたびドロップアウトすると、そのシステムからポーンと放り出される。
あらゆるケアは、レースを続行する者だけの特権だ。スティーヴンスの場合、自宅までの交通手段をみずから確保せねばならず、飛行機も含めあちこち当たった結果、なんとかレンタカーを手配することができた。しかし、モンペリエからスペインまで、疲れた体に鞭打って運転せねばならなかった。
上記は1990年代半ばの記録だが、この冷淡なシステムは、今でも余り変わりない。とくに、チーム内で祝い事がある日の棄権選手は物悲しい。ツールも残すところ1週間というある夏の夜、モナコの自宅に向けて旅立ったマーク・レンショーのように。
それは、プロトンの一行が国境を越え、イタリア北部の町にゴールした日のことだった。数日前から体調不良だったレンショーは、ずっとプロトンの最後尾であえいでいた。しかし、ついに前に進めなくなり、途中棄権を決めたのだった。
夕食は、チームメイトと離れてホテル内の一般のレストランで摂った。疲労感を漂わせ、意気消沈するレンショーを、傍らにいた母とガールフレンドは黙って見守るしかなかった。2人は彼を応援するため、この日モナコから駆けつけていた。翌日の休息日を一緒に過ごすつもりだったが、宿泊することなく直帰になってしまった。
食事後、ホテルの玄関先に姿を現した3人は、無言で荷物を車に積み込み始めた。重苦しい空気を払拭するかのように、レンショーがやっと口を開いた。「できる限りのことはやった。モナコの自宅はこれからドライブで2時間。近いから助かるよ」。最後はかすかに微笑んだ。
あたりには、見送るチーム関係者などいない。リタイア後、宿に戻るなり完全に放置され、チームのサポート体制から唐突に切り離された。
この日の優勝者は、皮肉にもレンショーのチームメイト、サイモン・ゲランス。見上げれば、明かりのつく2階の部屋で、祝宴中のようだった。けれどレンショーは蚊帳の外。残酷なまでの明暗だ。
開け放たれた窓から漏れる歓談の声に背を向けるかのように、運転席に向かうレンショー。3人を乗せた車は、やがて闇夜に吸い込まれていった。2008年夏、レンショーの初ツールが終わった。
Naco
1999年末、ホームページを立ち上げ、趣味だった自転車ロードレースの情報記事を掲載しはじめる。2000年夏からは、ツール・ド・フランスの現地観戦レポートを開始。同サイトには、ロードレース・ファンたちが数多く訪れている。現在、フリーランスのジャーナリストとして自転車専門誌に記事を寄稿している。
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