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野球 コラム 2022年12月28日

2022年に亡くなった元MLB選手&関係者「67年間のドジャースの声」「殿堂入りした不正投球者」

MLB nation by 豊浦 彰太郎
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ブルース・スーター

ブルース・スーター

年の瀬だ。今年逝去した元プレーヤーや関係者の中から以下の6人を紹介したい。

ジェレミー・ジアンビ 2月9日没 享年47歳

自宅で拳銃で胸を撃ち抜いての自殺だった。

球歴はわずか6年で、4球団を転々とした。どこでも準レギュラー止まり。また、ステロイド使用やマリファナ不法所持による逮捕歴などのトラブル歴がある。

しかし、彼はマイケル・ルイスの名著「マネーボール」で、守備と走塁はまるで苦手も出塁率に優れる「一芸に秀でた選手」の1人として描かれたことで知られている。鈍足ながら出塁率の高さを評価され、トップバッターにも起用された。そしてトップバッターでありながら、競った展開の終盤では出塁すると代走を起用された。

また、2001年プレーオフでのデレク・ジーター(ヤンキース)の瞬間的な伝説プレー「ザ・フリップ」の餌食としても有名だ。

マイク・ブリトー 7月11日没 享年87歳

キューバ出身のドジャースの名物国際スカウト。1981年に旋風を巻き起こしたフェルナンド・バレンズエラを発掘した人物として知られる。

その年の「フェルナンドマニア」現象は、メジャー史に残るものだ。全くノーマークだった20歳のメキシコ人投手が、開幕後は快刀乱麻の投球を披露し、サイ・ヤング賞と新人王をダブル受賞した。その結果、本拠地のドジャー・スタジアムだけでなく、遠征先でもバレンズエラ観たさにファンが押しかけたのだ。

彼の実力だけでなく、その得意なキャラも人気に拍車をかけた。ずんぐりむっくりの体型に大きな目をギョロギョロさせた愛らしい顔つきで、英語はほぼ話せず。連日押しかけるメディアの取材時には、常に通訳が同席した。それが、ブリトーだった。

そのブリトーも、パナマ帽に立派な口髭、くわえた葉巻と、見るからにラテンの遊び人的風貌で、彼も時の人となった。

後年はドジャー・スタジアムのネット裏で、スピードガンを操作する姿が連日テレビの画面に映った。

ビン・スカリー 8月2日没 享年94歳

ドジャースがニューヨークのブルックリンに本拠地を置いていた1950年から2016年まで、67シーズンも同球団のプレイ・バイ・プレイ・アナウンサーを務めた。

スカリーが登場したのは、野球中継のラジオからテレビ時代への転換期だった。そして、彼の引退時にはネット中継がかなり主流になっていた。そう考えると、とてつもない長いキャリアだったことがわかる。

スカリーの魅力は、そのエレガントな風貌通りの美しい声と聞き聴き取りやすいアメリカン・イングリッシュ、そして「Holy Cow!」(ハリー・ケリー)、「SSSEEYA!」(マイケル・ケイ)、「It‘s Gone!」(アキ猪瀬)のような煽り系の決め台詞を用いない紳士的な放送スタイルにあった。時には沈黙も金なりを心得た人で、1974年のハンク・アーロンのルース超え715号や、1988年ワールドシリーズ第1戦でのカーク・ギブソンの逆転サヨナラ代打ホームランの後は、しばしコメントを控えて歓声だけを視聴者に届けた。

野球放送のスタイルは、プレイ・バイ・プレイ・アナウンサーがリードしつつ、カラー・コメンテーターが絡む、というものが一般的だ。しかし、スカリーの場合はそのキャリアのほとんどがひとり語りだった。コンビを組む場合も、あくまでプレイ・バイ・プレイ同士でイニングを分け合った。ひょっとすると見かけとは異なり、職人気質の頑固者だったのかもしれない。

モーリー・ウィルス 9月19日没 享年89歳

LA移転後のドジャース黄金時代を支えたスピードスター。キャリアイヤーは1962年で、タイ・カッブのメジャー記録96盗塁(1915年)を47年ぶりに更新する104盗塁を記録。MVPに選出された。

ナ・リーグはこの年、球団拡張とともに試合数も154から162へ増やしているが、ウィルスは154試合目では95盗塁だった。そのため彼の104盗塁は、ルー・ブロックが1974年に118盗塁で更新するまで、カッブの154試合制での記録と併記されていた。

引退後は、1980年8月から81年5月までマリナーズの監督を務めたが、不成績に加え、自軍に有利になるよう本拠地の打者席の枠の位置を変えさせ処分を受ける不祥事もあった。

私生活でも、薬物に溺れた時期があった。自伝では大女優のドリス・デイとの関係を示唆しているが、デイは否定している。

息子のバンプは1983〜84年に阪急ブレーブスに在籍したが問題児で、上田利治監督と度々衝突した。

ブルース・スーター 10月13日没 69歳

通算300セーブ。リリーフ投手として4人目の野球殿堂入りを果たした。

彼を語る際に、その輝かしいキャリアとともに、代名詞でもあったスプリット・フィンガー・ファストボールに触れぬ訳にはいかない。

プロ入り後、すぐひじを故障したスーターは、73年の春季キャンプで、マイナーリーグ・ピッチングインストラクターのフレッド・マーチンからスプリッターの習得を勧められた。これが転機となった。

76年にメジャー昇格。翌年には31セーブ&防御率1.34。79年には当時のメジャー記録タイの37セーブでサイ・ヤング賞を受賞した。

その全盛期のスプリッターは、正にアンヒッタブルだった。スパーキー・ライル(77年サイ・ヤング受賞)やローリー・フィンガース(殿堂入り)ら70年代を代表する救援投手は、どちらかと言えば投球術で打ち取るタイプだったが、スーターはそうではなかった。相手打者を圧倒して打ち取るという点では、現在のクローザー像の奔りだったと言えなくもない。

ゲイロード・ペリー 12月1日没 84歳

通算314勝、両リーグでのサイ・ヤング受賞(兄のジムとともに兄弟での受賞者でもある)、そして殿堂入りと栄光に満ちた球歴だが、それ以上にスピットボールに代表される異物使用やボールへの加工など、ありとあらゆる「不正投球」を駆使した人物として知られる。

メジャーでは近年、異物を付着させる投球が厳しく取り締まられるようになったが、ペリーの現役時代は言ってしまえば「イカサマばくちも芸のうち」だったのだ。そして、彼が活躍した1960〜70年代は、今より観客もテレビ中継も少なく、高性能カメラでマウンド上の所作がアップで映し出されることも稀だった。おそらく、そのそうな環境がペリーの輩出を許した?ことはまちがいないが、サイン盗み同様、不正投球も野球の歴史とともにあったことも付記しておくべきだろう。

実は2019年の3月、アリゾナでのスプリング・トレーニングで彼の姿をお見受けした。当時80歳だったはずだが、その時の印象は「相当老いたなあ」というものだった。

文:豊浦彰太郎

代替画像

豊浦 彰太郎

1963年福岡県生まれ。会社員兼MLBライター。物心ついたときからの野球ファンで、初めて生で観戦したのは小学校1年生の時。巨人対西鉄のオープン戦で憧れの王貞治さんのホームランを観てゲーム終了後にサインを貰うという幸運を手にし、生涯の野球への愛を摺りこまれた。1971年のオリオールズ来日以来のメジャーリーグファンでもあり、2003年から6年間は、スカパー!MLBライブでコメンテーターも務めた。MLB専門誌の「SLUGGER」に寄稿中。有料メルマガ『Smoke’m Inside(内角球でケムに巻いてやれ!)』も配信中。Facebook:[email protected]

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