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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年03月10日

Pre-match Words ~FC東京・秋元陽太編~(2016年6月14日掲載)

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【Pre-match Words FC東京・秋元陽太編】

(2016年6月14日掲載)

Q:ご自身にとってもFC東京へ覚悟を持って移籍されてきた今シーズンだと思いますが、ここまでのチームのパフォーマンスはどのように捉えてらっしゃいますか?

A:最初は開幕戦(●0-1 大宮)で負けてしまって、その後は2連勝して、また鹿島(1st-第4節 ●0-2)に負けてしまってと、勝ったり負けたりというのを繰り返してしまって、4月に入ってちょっと苦しい時期が続きましたけど、そこでみんなで選手ミーティングもして、みんなで「こうした方が良い」「ああした方が良い」という意見を出し合った上で、5月から今までで失点も減ってきたと思います。ACLは本当に残念でしたし、それ以外では苦しい試合も多いですけど、何とかそこでも勝ち点を取って今まで来られているので、これをしっかり続けることが大事かなと思います。

Q:ご自身のパフォーマンスについてはいかがですか?

A:正直に言うとあまり良くないですね。僕も悩んでやっていたりとか、それがプレーに繋がってしまったりとか、あまり自分の中では納得していないというか、そこまで満足できるようなプレーはできていないです。

Q:具体的に言うと悩んでいた部分というのはどういう所ですか?

A:ディフェンスラインとのコミュニケーションだったり、自分の強みだったシュートストップという所で若干の迷いが色々なことから生じてしまい、それがうまくできずにいたことで、それを引きずってズルズル行ってしまって、悪循環で違うプレーも良くなくなって、また違うプレーもダメになってと。そういう所でちょっと考え過ぎた部分もあったので、「しっかりもう一度自分を見つめ直してやらなくてはダメだな」という感じになりました。

Q:それは移籍初年度ということもあって、「多少気負いがあったかな」という感じでしょうか?

A:結構移籍してきているので(笑)、気負いというのはそこまでないですけど、今まで在籍してきたチームとはまた違ったプレッシャーの中で、自分のプレーをどう出すか、どう表現しようかという部分をちょっと考え過ぎてしまったのかなとは思います。

Q:第5節の名古屋戦はスコアを見ると3-2でしたけど、僕が印象的だったのは永井(謙佑)選手に点を取られた時に、秋元選手も一旦は下を向きながらも、その後ですぐにゴールからボールを出していて、あの切り替えが「凄く早かったな」と思っていて、アレが3点目に繋がったのかなという気もしました。

A:ああやって(平山)相太さんが決めた後に守り切れなかったという部分は、自分の中で凄く悔しかったです。でも、まだ終わっていなかったので、切り替えなくてはいけないという所で、ああいう自分の姿勢というのをしっかり出さないといけないなと思いました。

Q:あのへんの切り替えは難しいと思いますが、そういう部分は試合の中で意識していますか?

A:移籍するに当たって、愛媛の時代とか自分がチームを引っ張っていかないといけない時代に、僕が失点した後に文句を言ったり、悔しがっている姿というのは見せてはいけないなという想いがあったので、それが本当に今に繋がっています。失点すると悔しいですけど、ここから盛り返さないといけないという部分で、すぐに切り替えなきゃいけないというのは思いますね。

Q:キーパーとしては3-2の勝利というのはいかがですか?

A:正直勝ったことは素直に嬉しいですけど、2失点してしまいましたし、僕もそんなにチームを助けるプレーはできていなかったので、そこまで満足はしていなかったです。

Q:湘南戦(1st-第11節 〇1-0)は古巣対決ということもあって、かなり気合いの入ったゲームだったと思いますが、湘南戦はいかがでしたか?

A:僕たちもベトナムで本当に厳しい試合をして、みんなで勝利を勝ち獲って帰ってきて湘南戦ということで、湘南もその時は苦しい状況でしたけど、2連勝してきていてという部分では逆に良かったなと。あれがそのまま負け続けていた湘南だったら本当に怖いですし、曺(貴裁)さんも良く知っているので、「絶対にセットプレーは何かやってくるな」と凄く僕は警戒して臨んでいましたね。

Q:まさにそのセットプレーで東京の左サイドからショートコーナーの形で、奈良輪(雄太)選手から(長谷川)アーリア(ジャスール)選手という、マリノスの下部組織で一緒にやっていた選手同士のプレーがあったと思いますが、あのシーンはいかがでしたか?

A:あのシーンはショートで何かやってくるというか、僕たちを混乱させるだろうと思ってやっていたので、ちょっとニアが空いていたというのも見えていましたし、アーリアがヘディングはそんなに得意な選手ではないというのもわかっていたので、「前には来ないだろうな」と思って、逆に前に突っ込み過ぎないようにはしていましたね。

Q:たぶん足で触っていなかったら中に詰めている選手もいて、すぐに足が出たのは凄いなと思ったんですけど。

A:逆に前に突っ込み過ぎなかったからこそ、足が残ってくれたなという印象はあります。

Q:アレは手応えのあるセーブという感じですか?

A:いえ、本当に「足に当たってくれてありがとう」ぐらいですね(笑)

Q:逆に言うとどういうセーブだと「良かったな」というセーブになるんですか?(笑)

A:やっぱり試合が終わった後に、結果としてチームが勝っていて、そのセーブが「勝利に繋がったね」と周りからもチーム内からも言ってもらえるようなセーブが、僕は一番のセーブじゃないかなと思います。

Q:湘南戦は勝ちに繋がったので、ナイスセーブだったんじゃないですか?(笑)

A:そこまでそんなに。苦しい試合が続いていましたし、勝つことが大事だったので。

Q:おそらくスタジアムに来ていた方も秋元選手に凄く注目していたと思いますが、あのゲームに勝てたということに関してはいかがですか?

A:ベトナムでは勝ちましたけど、Jリーグでは結果がまだ出ていなかったこともあって、もう内容よりも結果という所をみんなで意識してやったので、1-0という渋い試合という感じでしたけど、勝つということがその時期の僕たちにとっては大事でしたし、それが結果として出て良かったなと思います。

Q:高橋秀人選手は同い年だと思いますが、なかなか序盤戦は出場機会がない中で、こういうタイミングでしっかり起用に応えていると思います。ああいう選手の存在はチームにとって大きいですよね。

A:それは本当に大きいですね。ヒデも苦しい時期があったと思いますし、僕ではわからないぐらいの想いがあったと思うので、そうやってヒデがその時期を乗り越えて活躍しているという部分では、若手にも凄く良い刺激になりますし、僕自身も凄く良い刺激をもらえたなと思います。

Q:コンビネーションということで言うと、CBとのコンビネーションは大事だと思いますが、代表選手でもある森重(真人)選手と丸山(祐市)選手との連携は深まってきていますか?

A:時間が経つにつれて、それは深まってきていると思います... といいですけど(笑)

Q:丸山選手とは湘南の時も一緒にコンビを組んでいたと思いますが、そういう意味でのやりやすさはありますか?

A:その時のマルは3枚の真ん中だったので、またちょっと違う所もあります。今は4枚の真ん中ですから。でも、マルの特徴というのは湘南の時に凄く感じたので、そういった部分ではやりやすさはあります。

Q:「成長しているな、アイツも」という感じですか?

A:まず湘南で見た時に「うわあ、凄く能力高いなあ」と思っていて、僕は1回マリノスの時に練習生で来た時のマルのイメージだったんですけど、まったく違っていましたね。マルがいなかったらというのは凄く思います。

Q:頼もしい後輩という感じですか

A:本当に人間的にも素晴らしい選手だと思います。

Q:今回はホームゲームということで、味スタは独特の雰囲気があると思いますが、味スタでプレーするというのはいかがですか?

A:僕は湘南の時にJ2優勝が決まったのが味スタで、去年残留が決まったのも味スタなので、良い印象しかないというのが正直な感想です。

Q:サポーターの雰囲気はいかがですか?

A:本当に熱いというイメージはあります。湘南でプレーしていた時から「うわあ」っていう感じはありました。満足させられるように僕は頑張らなくてはいけないという想いはあります。

Q:ここからはキャリアのお話をお聞きしたいと思います。選手名鑑を見ると最初の所属クラブはCYD FCになっていて、サッカーを始めた年齢は6歳になっていましたが、6歳の時にもうCYD FC(以下、CYD)に入っていたんですか?

A:そうです。幼稚園の年長さんの時ですね。

Q:どういうキッカケでサッカーを始められたんですか?

A:元々体を動かすことが好きで、兄の友人がサッカースクールに入るからということで、母親が僕をそのチームに連れて行ったんです。本当は小学校1年からしか入れなかったんですけど、当時の僕は怖いもの知らずだったらしく(笑)、特別に入れてくれたので、そこから始めたという感じです。

Q:ご出身の町田と言えば、いわゆるサッカーどころですよね。

A:そうですね。太田宏介選手(フィテッセ)とはよく対戦していました。彼はつくし野SSSというチームで、いつも町田市の予選の準決勝ぐらいで当たっていて、どちらかが勝てば都大会に行けるようなタイミングでいつも対戦して、勝ったり負けたりしていたイメージがあります。

Q:ちなみにGKはどのくらいのタイミングで始められたんですか?

A:小学校2年生くらいですかね。まあたまにはフォワードもやっていましたけど。

Q:良いとこどりですね(笑)

A:そうですね。「やれ」って言われたらフォワードもやっていました(笑)

Q:このインタビューシリーズでもGKの方に結構お話を聞いてきていて、「何となくやらされたから」というのがGKを始めたキッカケとしては非常に多かったんですけど、秋元選手はどういうキッカケでGKを始められたんですか?

A:ある試合でPK戦になった時に「誰がキーパーやる?」みたいになって、誰もいなかったので僕がやって勝って、そのまま続けることになりました。

Q:すぐにGKは面白くなっていった感じですか?

A:最初は何も知らずにやっていたので、PKを止めて、勝って、ワーみたいな感じで。そうしたらコーチからも「キーパーちょっとやってみろよ」みたいなことを言われて、そこからは楽しくなっていきましたね。僕は凄く運が良くて、チームがキーパーをやっていた経験のあるGKコーチの方を呼んでくれていたんですよ。それで技術的なことを色々教えてもらったので、それは凄く面白かったですし、凄く大きかったですね。それで「キーパーって面白いな」と感じた部分もあったと思います。

Q:町田の同級生で言うと小林悠選手(川崎)もいらっしゃったと思いますが、町田市の選抜もあるんですよね?

A:町田市は複雑で、町田JFCという小林悠選手がいたチームと、FC町田という(太田)宏介が入っていたチームがあって、僕たちはどっちにも属していないチームだったので、その2つのチームとはまったく接点がなかったですね。町田JFCはセレクションで集められた完全なエリートです(笑)

Q:そうすると町田のサッカー少年は町田JFCでプレーすることが1つの目標みたいな感じですか?

A:やっぱりそうなんじゃないですかね。町田JFCFC町田とか。

Q:「そうなんじゃないですかね」ということは、そんなにそこには興味がなかったということですか?(笑)

A:まったく興味なかったですね(笑) CYD自体が凄く楽しかったので、みんな仲良くやっていましたし、僕自身もそういう方が向いていたかもしれないです。

Q:小学校の頃に東京都選抜には入っていたんですか?

A:入っていました。

Q:それって結構エリートじゃないですか?

A:当時も町田のチーム自体が凄く強かったので、それで目に留まったんじゃないかなと思います。

Q:都選抜だとのちのJリーガーが結構いたんじゃないかなと思いますけど、どういう選手がいたんですか?

A:宏介と(小林)悠は一緒にやっていたので、この3人はいました。他の選手もずっとそのままサッカーをやっていた選手が多いですね。

Q:ヴェルディの選手も入ってくる訳ですよね。

A:ヴェルディは入ってこないんですよ(笑) 最後の方で入ってくるというか、山雅の喜山(康平)と弦巻(健人)はもう"別格"みたいな扱いでした。U-12のナショナルトレセンとかだけ来るみたいな。

Q:「何だよ、アイツら」みたいな感じですか?(笑)

A:「うわ、ヴェルディの人たちだよ」みたいな感じでしたね(笑) あの2人はメチャクチャ有名でした。

Q:そんな彼らとも選抜で一緒になって、仲良くなっていった感じですか?

A:いえ、"ヴェルディ軍団"とは全然仲良くなかったですね。怖かったです(笑)

Q:それでも中学時代はF・マリノスのジュニアユース菅田に行かれる訳じゃないですか。東京にも他にチームがあると思いますけど、なぜ菅田だったんですか?

A:たまたま小学校4年生くらいの頃にマリノスと練習試合をして、その時にマリノスの監督の方が「ウチに来ませんか?」と誘って下さったみたいなんですけど、ウチの監督が「中学校からお願いします」と言っていたらしく、そのことを覚えて下さっていたんです。それで小学校6年生の9月ぐらいに、監督に呼ばれて「マリノスから話が来ているけどどうする?」と言われました。CYDにもジュニアユースがあったので、もちろん「上がって欲しい」と言われていたんですけど、昔からマリノスは好きだったので「行きたい」という意志を伝えたら、CYDの監督も「わかった。じゃあ行ってこい」と認めてくれたという感じです。

Q:ヴェルディ軍団に対して「エリートだなあ」と思っていた少年が、いきなりマリノスに飛び込むのもなかなか勇気のいる選択だったんじゃないですか?

A:その時のマリノスのジュニアユースは新子安、菅田、追浜と3チームあって、新子安はその中でもエリートという印象で、菅田は元々横浜フリューゲルスの練習場で、追浜は横須賀地区の選手が集まる中で、追浜は僕の家から遠かったんですよね。それで調査票みたいなものに記入する時に、新子安か菅田のどちらか行きたい方に"○"を付けなくてはいけなかったんですけど、その時に新子安に凄く良いキーパーが入るというのを知っていて、「2人とも新子安に行ったらどちらかが試合に出られなくなるな」というのも思いつつ、『どちらでもよい』という欄に"○"を付けたら、「じゃあ君は菅田に行きなさい」ということになったんです。でも、僕の中ではそこが運命の分かれ道でした。新子安に行っていたらどうなっていたかわからないですね。

Q:運命の"○"だった訳ですね。

A:当時のCYDの監督にはメッチャ怒られました。「なんで新子安に行かないんだ」と。新子安に行く選手はほぼ全員プロの卵たちという感じでしたからね。F・マリノス全体もそうでしたけど、菅田はフリューゲルスという色もありましたし、練習場もちょっと違う所にあったので、"ニッサン"的な感じもそこまでなかったですからね。

Q:それこそ横浜線で町田から通っていたんですよね?

A:通っていました。町田から横浜線に乗って鴨居という駅で降りて、そこからバスで通っていました。もう中学校の終業のチャイムが鳴ったらダッシュで帰って、すぐに着替えて行っていましたね。

Q:菅田は秋元選手が在籍していた時代を振り返ると、新子安や追浜と比べても結果的に一番Jリーガーを輩出したんじゃないかなと思いますけど、レベルはかなり高かったですか?

A:キーパーには岡山でプレーされている中林(洋次)さんがいらっしゃったので、僕は中学3年になるまでAチームの試合には出ていなかったですし、僕の代で菅田はなくなってしまったので、後輩もいなかったですし、そういう部分で団結力は凄くあったと思います。中学3年の時も夏のクラブユースはF・マリノスの3チームの中で僕たちだけ全国に行けたので、本当に良かったと思います。

Q:1個上には札幌の都倉(賢)選手もいたんですよね。

A:都倉くんは超怖かったです(笑) 今は凄く優しいですけど、中学生の頃はメッチャ怖かったです。今も仲の良い菅田時代のチームメイトも「都倉くんはマジで怖かったのに、何で今はメッチャ良い人になったんだろう?」みたいな(笑)

Q:みんな当時を忘れていない訳ですね(笑) 当時の菅田には奈良輪選手や藤川祐司選手(元YS横浜)、ハウバート・ダン選手とか、同級生のチームメイトに後々名前の出てくる選手が多かったと思いますが、菅田での3年間というのは今から振り返っても大きな3年間でしたか?

A:本当に僕の中では大きかったですし、みんな凄く仲が良くて、練習は18時からだったんですけど、1時間半前ぐらいに練習場へ来ていて、僕もダンとかみんなにシュートを打ってもらって、そこから練習みたいな感じだったので、それが凄く楽しかったです。普通に行っても余裕で間に合うんですけど、みんなとそういうのをやりたくて、学校が終わったらすぐに練習へ行っていましたね。

Q:今でもみんなで集まったりするんですか?

A:はい。今でも"菅田軍団"は仲が良いですね。去年の年末もみんなでサッカーして、みんなでゴハン食べてという感じで。奈良輪は僕と入れ替わりで湘南に行くことが決まっていたので、「何で行っちゃうの?」みたいに言われましたけど(笑)プロには行かなかった選手で凄く仲良くしている友人もいますし、そういう意味でも菅田で良かったなと思います。

Q:中学3年までなかなか試合に出場する機会がなかった中で、ユースに昇格することになると思いますが、それは迷いなくという感じでしたか?

A:正直迷いはありました。1つ上に飯倉(大樹)選手もいましたし、「飯倉選手がプロに上がったら、僕はプロには行けないだろうな」という考えもあったので、多少なりとも違う選択肢も考えたんですけど、ジュニアユースの監督からは「F・マリノスでやった方がオマエのためだ」とも言われたので、飯倉選手はいましたけど、あえて厳しい道を選んだというのはありましたね。

Q:例えば菅田で同期だった鈴木雄太選手(群馬)は向上高校に進学したじゃないですか。もちろん高校に行くという選択肢もあったと思いますし、今より選手権自体の華やかさもあった時代だと思いますけど、高校サッカーに進むというイメージはあまりなかったですか?

A:憧れは凄くありました。ただ、やっぱりプロになるということを考えると、試合に出られるかどうかはわからないですけど、F・マリノスのユースに上がって、厳しい中でやった方が僕には合っているのかなと。1年生から試合に出られる環境も良いと思いますけど、苦しい時期を知らないでプロになるよりも、みんなが飲む水を作ったり、洗濯したりとかという部分をやった方がいいんじゃないかなという感じはありました。あとは親も「F・マリノスで頑張った方が良い」という後押しをしてくれたので、ユースへの昇格を決めました。

Q:実際に入ったユースはどうだったんですか?

A:僕が1年の時に飯倉さんは2年で、その時からずっと試合には出ていて、僕もなかなか試合に出られなかったですけど、例えば何かの大会で突破が決まっているような予選リーグの試合とかには出させてもらっていて、そういう良い経験も積めましたし、飯倉さんがいたからこそ、飯倉さんに付いていけるようにという想いもありました。

Q:飯倉選手は常に自分の中で意識する大きな存在なんですね。

A:そうですね。身長もほぼ一緒で、ジュニアユースからユースという育ってきた環境も一緒ですし、年齢も近いですからね。

Q:そうするとAチームの試合に出始めたのは高校3年からですか?

A:高校2年のJユースカップで飯倉さんがケガをしてしまったので、その大会は出ましたけど、それまではたまに出るくらいでした。

Q:高校3年の時はかなり結果が出ていますよね。クラ選が準優勝で、プリンス関東が優勝。Jユースカップが3位ですね。

A:僕たちの代の1つ下にアーリアや(齋藤)陽介とか、今は山形にいる田代(真一)とか、能力の高い選手たちがいたので、彼らに助けられた部分もありましたけど、プリンス関東は優勝できて、クラブユースは準優勝で、最後のJユースカップも3位になれたので、本当にチームとしても個人としても凄く良い1年だったと思います。

Q:夏はヴェルディに負けるんですよね。

A:はい。決勝で負けました。

Q:それこそ小学校の頃に「何だよ」と思っていた彼らもいた訳ですよね(笑)

A:代表でも一緒になったりして、もうその時は仲が良かったので(笑)

Q:ヴェルディに負けたというのもより悔しかったんじゃないですか?

A:本当に悔しかったです。あと1個で優勝というのもありましたし、優勝したら10年ぶりぐらいだという風にも聞いていましたから、悔しかったです。最後の最後で決められたんですよね。

Q:Jユースカップも最後は神戸ユースにPK戦負けだったんですよね。それって何とも言えない幕切れではないですか?

A:でも、僕たちらしかったかもしれないです。試合が終わった時はもちろん悔しかったですけど、帰りの新幹線ではみんなで和気あいあいとした感じだったので、高校3年の時は本当に良い1年間でした。まあ(ハーフナー・)マイク(ADOデン・ハーグ)みたいな面白いヤツもいましたし(笑)、個性溢れる選手が多かったなと思います。

Q:先ほどお話に出た中林選手も飯倉選手も、それこそ秋元選手もそうですし、今年から古巣に復帰した高橋拓也選手もそうですけど、F・マリノスは180センチ前後のGKが下部組織から続々とプロになっているじゃないですか。それはどういう所が要因だと思いますか?

A:僕らの先輩の榎本哲也さんも180センチぐらいですけど、スピードとかバネとか反応という部分で凄くレベルが高かったので、榎本さんを指導していたGKコーチがいたということも関係しているのかなと思います。だからこそ背が低くても、違った部分で勝負できるような所を伸ばしていくという感じはあったと思います。

Q:当時からGKのチームメイトには、あまりそこまで大きな選手はいなかった感じですか?

A:群馬にいる(鈴木)雄太は188センチぐらいあって大きかったですけど、雄太は雄太でまた違ったタイプのGKという感じでしたね。1個上の中林選手も飯倉選手も同じぐらいですから。でも、スピードや反応という部分は本当にレベルが高かったです。

Q:逆にF・マリノス自体がプロまで見据えた上で、そういう選手を下部組織に勧誘しているような所もあるんですかね?

A:多少なりともあるとは思いますけど、やっぱり榎本さんというモデルがいたからこそ、そういう身長の選手でもプロに育てられるという考えはあったと思います。

Q:GKは身長があった方が有利と思われるポジションじゃないですか。その中で180センチ前後でもプロで十分やれるということを秋元選手は示し続けてきたと思いますが、逆にそういう身長だからこそ「大きいヤツには負けないぞ」というような気持ちをずっと持ち続けてきた所もあるのでしょうか?

A:もちろんありますし、身長が大きな選手とはまた違った強みというのも、ジュニアユースから育ってきたことでわかっていた部分はあったので、身長の大きな選手が苦手な部分で僕たちが得意にしていた部分もありましたし、そういう所はしっかり意識してやってきました。もちろんGKである以上は身長が大きい方が有利だとは思いますけど、「違った所で勝負したい」という気持ちも僕らにはありましたし、1個のポジショニングだったり、クロスへスピードを持って入るという部分は、日頃の練習から凄く意識してやってきました。

Q:六反勇治選手(仙台)、林彰洋選手(鳥栖)、武田洋平選手(名古屋)、村山智彦選手(湘南)などを筆頭に、1987年生まれのGKがJ1に凄く多いと思うんですけど...

A:ああ、確かに。

Q:「ああ、確かに」って感じですか(笑)

A:そう言われると、そうですね(笑)

Q:前から「ちょっと不思議だな」と思っているんですけど、やっぱり同い年のGKと対戦する時は、より「負けたくないな」と思うものですか?

A:負けたくない想いは本当にありますし、林選手は小学校の頃から知っていて、その時から凄く大きかったというイメージがありました。六反選手は僕がF・マリノスを出た時に入ってきたので面識はないんですけど、足元もしっかりしていて背も大きいという感じで、その時に僕はJ2のクラブに行くことになったので、悔しいですけどそこからまた這い上がろうという想いを持ったキッカケにもなりました。

(武田)洋平は中学校から一緒にやってきたので、もう昔から知っている選手という感じですし、村山選手は面識はないんですけど、JFLから這い上がってきて山雅をJ1に昇格させてという経緯もあって、僕も愛媛から段階を踏ませてもらったという意味では凄くシンパシーも感じていますし、奈良輪が一緒にやっていたので色々と話を聞いていたこともあって、僕は凄く好きなタイプなんですよね。僕が湘南を出て村山選手が入ってきたことも含めて凄く応援していますし、今は会った時には色々と話せるような関係になりましたけど、J2時代に彼を意識していたおかげで僕も成長できたと思うので、そういう部分では本当に感謝しています。

Q:本当に多いんですよ。それこそ桐畑和繁選手(柏)も河田晃兵選手(甲府)もいますし、やたらと1987年生まれのGKがいるんですよね(笑)

A:でも、今から思うと色々な道を歩んできた選手が多いですね。87年生まれは変わったタフなヤツが多いんですかね(笑)

Q:秋元選手はF・マリノスの下部組織で育って、トップに上がってからは出場機会を得られず、愛媛、湘南と移籍して、今はFC東京に来ている訳で、キャリアとしては"波乱万丈"と言ってもいいようなここまでなのかなとも思いますが、あえてざっくりお聞きしたいんですけど、今の自分っていかがですか?

A:何ですかね... 「人に恵まれたな」というのは凄く思います。正直に言うとF・マリノスから愛媛に行った時は「ここでダメならもうサッカーを辞めよう」と思っていたので、そこからまた個人的にも凄く成長できたのは、あの愛媛での2年間があったからだと思います。そういう意味では辛い時期でも乗り越える力を身に付けることができたのは、あの愛媛の2年間だったのは間違いないです。

そういうことも含めて凄く良い経験ができているなと思いますね。そこからもいきなりJ1のクラブではなくて、J2にいた湘南に移籍して、そのJ2でしっかり結果を出して、湘南と共にJ1に行くことができましたし、その湘南でJ1への残留を果たせて、FC東京というビッグクラブからオファーをいただけたという意味では、F・マリノスも含めて所属してきたそれぞれのチームでやってきたことが評価されているということは凄く嬉しいですね。

Q:そのキャリアはご自身で気に入ってらっしゃいますか?

A:どうなんですかね?(笑) 確かにアップダウンは凄くありましたけど、僕は色々な所に行けて良かったと思っています。

【プロフィール】

横浜FMの下部組織で育ち、2006年にトップチームへ昇格。2012年に完全移籍で加入した愛媛でレギュラーとして活躍すると、2014年には湘南でJ1昇格に大きく貢献。今シーズンからはFC東京の守護神として、最後方からチームを支えている。


※所属チームを含めた情報は、当時のものをそのまま掲載しています。

ご了承ください。

取材、文:土屋雅史

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