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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年03月17日

Pre-match Words ~名古屋グランパス・小川佳純編~(2016年9月30日掲載)

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【Pre-match Words 名古屋グランパス・小川佳純編】

(2016年9月30日掲載)

Q:ここからはキャリアのお話を聞かせて下さい。サッカーを始めたのは宝陽幼稚園の年中さんの時だったんですね。

A:そうですね。園庭にも小さいゴールがあって、その道を挟んだ向かい側にも芝ではないですけど、ちょっと草の生えたサッカーコートがもう1面あって、たまたま宝陽幼稚園にサッカークラブがあったという感じですね。教えるのは幼稚園の先生なんですけど、そこでやり始めたのがサッカーを始めたきっかけだと思います。別に両親がやっていた訳ではないですし、上に兄弟もいないので、本当にそこの幼稚園に通っていたからサッカー人生が始まりましたね。

Q:自分からサッカーをやりたいと思ったんですか?それともその幼稚園だったから余儀なく始めたという感じですか?

A:どうなんですかね。でも、幼稚園の時は休み時間になるとみんな園庭で遊ぶじゃないですか。その時にはゴールもあるので、自然と女の子も一緒にサッカーをやっていた記憶はあります。

Q:幼稚園のチームで大会に出たりするんですか?

A:凄く覚えているのは、マクドナルドが主催した幼稚園の大会みたいなのが、府中に何面も土のグラウンドがある所で開かれて、全員にマクドナルドのサービス券みたいなものが配られて、それを持って帰ったというのは覚えています(笑)

Q:それが一番古いサッカーの大会の記憶みたいな感じなんですね。

A:そうですね。ゴールにもマクドナルドの"M"のマークが付いていたのは凄く覚えています。ただ、幼稚園の頃なので、みんなボールに"団子"みたいに集まってという感じなので、自分が上手かったかどうかも覚えていないですね。

Q:4人ぐらいJリーガーが出ている幼稚園なんですよね?

A:そうなんです。南雄太さん(横浜FC)と三田光さん(FC岐阜コーチ)、山田卓也さん(奈良クラブ)の4人ですね。

Q:名門幼稚園という感じですね(笑)

A:何なんですかね(笑) 同じ幼稚園からJリーガーが4人出ているということに関しては、なかなかないと思いますし、僕がいた時は普通の先生だった、今の園長先生も多分サッカーが好きで、そういうのはあったと思うんですけど、別に選手を集めている訳ではないですからね。なかなか聞かないじゃないですか。「この幼稚園からJリーガーが何人出ている」とか(笑) でも、園庭にゴールがあって、サッカーをするという幼稚園の習慣があったからサッカーを始めたのだと思うので、もしその幼稚園がサッカーではなくて違うスポーツに力を入れていたら、そのスポーツをやっていたかもしれないですし、面白いですよね。

Q:通っていた小学校にもチームがある中で、その幼稚園のOBチームでプレーされていたんですよね?

A:そうですね。僕が通っていた富士見丘小学校にもサッカー部があって、その地域では強かったらしいんですけど、僕がいた時はそこまで凄く強い訳ではなかったんですよね。確か幼稚園を卒園してから小学3年までは在籍できるということで、その時はまだ遊び程度の感覚でやっていましたし、幼稚園の時からやり慣れていた先生や友達とサッカーできるのが楽しくて、小学校のサッカー部ではなく、幼稚園のOBチームでやっていました。

Q:サッカーを始めた時にそういう楽しい環境でやれたというのは、きっと良いことだったんでしょうね。

A:そう思います。先生たちも一緒にゲームをやったりしてくれましたし、そこで「サッカーが楽しい」と思えたからこそ続けてきたと思うので、そこで「楽しくない」と思っていたら止めていたかも知れないですし、サッカーの"入り"という所で宝陽幼稚園でやれたのは大きかったと思いますね。

Q:小学3年の時に三菱養和の千歳船橋スクールに入られるんですね。もう今は千歳船橋スクールってないですよね?

A:ないですね。幼稚園のOBチームでやれる期間が決まっていて、小学3年の時にサッカー部に入るか、他のチームに入るかというタイミングで、両親が色々とチームを探してくれた中で、千歳船橋に三菱養和のスクールがあるというのを知って、小学校のサッカー部とどっちにするか考えて、養和に決めました。ただ、幼稚園の時も結構そうだったんですけど、最初はみんながやっている所に1人で入っていくということが、性格的に苦手な子だったらしくて、幼稚園に行く時も「お母さんの所から離れたくない」って泣いたりとか(笑)、入っちゃえば全然ケロッとして楽しくやるんですけど、一歩入る所までが結構難しかった子供だったらしくて、僕もそれだけは凄く覚えている光景で、自分から養和を選んだはずなのに、養和のグラウンドに初めて入る時もぐずっていた記憶があるんですよね。

でも、養和もコーチの方も含めて環境が凄くしっかりしていて、本当に入ってからは幼稚園の時と一緒で、すぐに楽しくサッカーをやっていたと思うので、それは宝陽幼稚園もそうですし、養和もそうですし、教えて下さった指導者の方たちに凄く恵まれたことが本当に大きいと思います。実家に帰った時には幼稚園に顔を出したりしますしね。

Q:それは凄いですね。

A:僕が通っていた頃の先生がまだ何人かいらっしゃいますし、養和ももちろんそうですけど、そうやって戻りたくなるような素晴らしい場所だったので、良いクラブを渡り歩いてこられたかなという感じはありますね。

Q:養和のスクール時代は対外試合とかってあったんですか?

A:当時は養和のスクールが千歳船橋を含めて、関東近辺に4つか5つぐらいあったんですよ。調布、千歳船橋、清瀬とかあって、その養和内のスクール対抗みたいな試合も定期的にあったりして、その時は巣鴨に行ってやるみたいなことはありましたね。小学5年とか6年ぐらいになって、"養和選抜"みたいな形でJの下部組織と試合をしていた記憶はあります。

僕は小学4年から6年までは"調布"だったので、公式戦は三菱養和調布で出ていましたけど、小さな大会とかは養和選抜A、養和選抜Bみたいな形で、養和の各スクールから集まってきた選手たちで出るみたいなこともありましたね。そこからまたジュニアユースに上がれるかどうかという"ふるい"もありましたし。それでも、まずは楽しくサッカーをやるという感じでしたよ。

Q:養和はそういう雰囲気がありますよね。

A:そうなんです。だから、スパルタコーチみたいな人もいなかったですし、本当に『サッカーを楽しむ』ということを、幼稚園と小学校の頃は教わっていたなと。「行きたくない」とか「もう止めたい」とか、そういうことも全くなかったので、楽しかった記憶しかないですね。

Q:じゃあ大変だったのは、養和の最初にぐずった時ぐらいですね(笑)

A:そうですね。最初の"入り"だけでしたね(笑)

Q:ヴェルディジュニアユースのセレクションを受けているんですよね?

A:そうなんですよ。落ちたんですけど(笑)知らない人たちの中で自分を出すみたいなことが、当時は苦手だった気がしますね。セレクションとかだと「自分をしっかり出そう」というような気持ちが重要だと思うんですけど、そういうのがあまり得意ではなかったんです。だから今までも僕より他にいっぱい上手い選手はいましたし、そこまで小学校も中学校も目立つ選手ではなかったので、ただちょっとしっかりボールを止めて、ボールを蹴れて、ちょっと足が速いという、たぶんそれぐらいの選手だったと思います。

Q:養和のジュニアユースでは3年生の時に全国大会に出ているんですよね?

A:はい。結構僕たちの代は強くて、プロも4人くらい出ていますし、全国ベスト8ぐらいまで行ったんですけど、チームが強いというのもあって、市船(市立船橋)から声が掛かったりしたんです。その時もたぶん10番を付けていたんですけど、「何で自分が10番なんだろう」というのはずっとわからなかったですね(笑)

Q:嬉しさより不可解さみたいな感じですか?

A:そうです。「何で俺なんだろう?」って。選抜に入っている選手もいましたし、「自分よりアイツの方が上手いのにな」って思う選手がたくさんいて、「何で俺が10番を付けているんだろう?」と思った記憶は凄くあります。

Q:でも、10番は後々になって小川選手の代名詞みたいになっていきますよね。明治時代もそうですし、今もそうですし。

A:そうですね。付けたいと思っている番号じゃないんですけどね(笑) 「俺が10番を付けたい!」と思っているようなタイプではないですし、プレースタイルも一般的なイメージの10番ではないので、「何でだろうなあ」って。

Q:10番を付けさせたくなる何かが小川選手にあるんでしょうね。

A:「10番っぽい選手が他にいなかっただけじゃないか」とか思ってますけどね(笑)

Q:中学3年で全国大会に出られたというのは、やっぱり良い思い出ですか?

A:みんな仲も良くて、親同士も含めて家族ぐるみでみんなが仲良くしていて、コーチたちも凄く仲良くしてくれて、本当に良い雰囲気のチームだったので、自分は周りの選手に引っ張ってもらって何とか付いて行ったような感じでしたけど、本当にサッカーの楽しさを忘れずにやりながら、チームも強くて初めての全国大会に出るという楽しさも味わえましたからね。確か会場もJヴィレッジだったと思うんですよ。そういう普段行くことのない場所でそういう大会にも出られて、「凄く良い経験をしたな」と思いますね。

Q:養和の同期からは大沢朋也(カマタマーレ讃岐)、青木良太(ザスパクサツ群馬)、山口貴弘(大分トリニータ)と小川選手の4人がプロになっていると思うんですけど、やっぱりその4人はチームの中でも当時から目立っていた感じだったんですか?

A:大沢朋也が一番凄くて、「コイツにはもう敵わないな」というような選手でした。あとは青木良太もテクニックがずば抜けてありましたし。

Q:青木良太は最初からディフェンスじゃなかったんですか?

A:最初は中盤とかで、中学3年ぐらいの頃にサイドバックをやり始めて、そこからたぶんディフェンスラインに入ったんだと思うんですけど、山口は身体能力の高いセンターバックという感じで、やっぱり大沢朋也と青木良太はちょっと別格でしたね。養和にいて一緒にやっていた時も、その2人は「たぶんプロに行くかもしれないな」というのはあったと思うんですけど、僕がプロに行くとその段階で思っていた人は周りに誰もいなかったと思います。それぐらいの選手でしたね。

Q:でも、10番を付けていた訳ですよね。周囲は期待していたんじゃないですか?

A:中学1年の時は全然試合に出ていなくて、小林(海児)コーチという2年と3年の時の監督が、1年の頃は遠征に連れて行かれないメンバーたちに「ちゃんと見てるから」と言ってくれて、その小林コーチが僕に何か良いモノを感じてくれていたのか、2年になって監督になってからは試合に絡み出したんですよね。何を見てそう思ってくれたのかはまったくわからないですけど(笑)、1年の時は小林コーチの言葉でモチベーションを保ってやれていました。10番を付けていたのは何でかわからないです(笑)

Q:市船はセレクションだったそうですが、もちろんお住まいだった東京にも強い高校はあったと思うんですけど、「市船に行こう」と思った一番の決め手は何だったんですか?

A:全国大会が終わった後に、「市船のセレクションに来ないか?」という誘いを受けて、それで養和の4人でセレクションを受けたんですけど、そんなに自信もなかった自分に「セレクションに来てくれ」と言ってくれて、しかも市立船橋なんて名門の高校は、そう簡単に声が掛かるような高校ではないですし、そういう高校からセレクションのオファーが来たのが自分にとっては驚きでした。

元々そこまでの名門校に行こうなんて思っていなかったので、普通に都立駒場のセレクションも受けましたし、養和の何人かが行くことになる国士舘高校のセレクションも受けましたし、桐光学園も確か受けたと思うんですよね。いくつか受けた中で市船には受かっていたんですけど、場所も千葉でしたし、僕は勉強も自分なりに頑張ってやっていたので、いわゆる"文武両道"を掲げる都立駒場のような高校に行くか、都内でサッカーを頑張っている高校に行くか、市船に行くかで迷いました。ただ、布監督(布啓一郎・ファジアーノ岡山コーチ)が「是非来て欲しい」というようなことを言いに、養和のクラブハウスまで来てくれたんです。その時は両親も一緒にいて、しかも中学校にも来てくれたんですよ。ウチの両親も「何でウチの子にここまで」と思っていたはずですけど(笑)、僕としてはそこまでしていただけて凄く嬉しかったんですよね。

でも、「市船にサッカーで行くということは、その後の進路もサッカーで進んでいくということを覚悟しないといけないよ」と両親に言われて、今まで勉強も頑張ってやってきて、良い成績も取ってきたけど、市船にサッカーで行くということは、その後の人生もサッカーの実力で進んでいくしかないと。その選択肢の中で自分でどういう道を歩むかという所で、そこが人生の岐路でしたね。そこで市船に行っていなければ今の自分はないですし、たぶんプロにもなっていなかったと思うので、そういう風に親が教えてくれたことも凄くありがたかったです。ただ、サッカーは好きでしたし、しかも市船に行くと決めた後にあった、僕らが中学3年の時の選手権で市船が全国優勝して、「ああ、日本一のチームに行くんだ」と思って心を震わせていましたけど、あんな厳しい3年間が待っているなんて予想もしていなかったですね(笑) 入る前と入ってからのギャップには本当にヤラれました。

Q:何が一番のギャップでしたか?

A:もう監督が怖過ぎて、「あの養和に来てくれた時の優しかった監督はどこへ行ったんだ」って(笑) でも、年末にOB会の集まりで会ったりするんですけど、今は本当に優しいですよ。

Q:実際に飛び込んだ市船は「これはレベルが高過ぎるな」という感じでしたか?

A:同世代の中でも「アイツの方が上手いな」というのはありましたけど、「自分の代になったら試合に出られるかな」という感じでした。セレクションで入った組と入っていない組もあって、やっぱり"入った組"はそれなりに実力があって、1年生大会とか1年生だけの対外試合の時は出ていましたね。

でも、自分が1年の時の3年生には前の年に日本一を獲った時の主力選手が何人もいましたし、中澤聡太さん(セレッソ大阪)とか永井俊太さん(柏レイソルU-18監督)とか本橋卓巳さん(松本山雅FC U-18コーチ)とかがいて、そのあたりのメンバーは「本当に上手いな」と思いましたね。「自分たちが2年後にこのレベルまで行けるのかな?」というぐらいの差はありました。GKには植草裕樹さん(清水エスパルス)もいましたしね。ただ、僕は永井さんが一番衝撃でした。ミスはないですし、右足でも左足でもボールが蹴れますし、パスも凄かったですからね。本当に上手かったです。

Q:選手権のメンバーには1年から入っていたんですよね?

A1年の時は最後に滑り込みで25人のメンバーには入れましたけど、ベンチ入りの20人には入らないという立ち位置でした。だから、開会式で前年度優勝の優勝旗返還をするために5人で歩かなくてはいけなくて、メンバー外の5人で歩くというのをやりましたね(笑)

※市立船橋は開幕戦を控えていたため、メンバー入りしていた選手はアップをしていた。

Q:小川選手もカップか優勝旗を持ったんですか?

A5人の内、優勝旗、カップ、カップ、カップで何も持たないのが1人だけいて、それが僕だったと思います。ただ歩いているだけという(笑)

Q:それ、素晴らしいエピソードですね(笑)

A:確かそうだったと思います。2年の選手権も20人のメンバーには入りましたけど、ベンチで1試合も出られなかったので、本当にちょっとずつ上がって行った感じですね。1年の時はメンバー外で、2年はベンチで、3年は試合に出るみたいな。もちろん1年や2年でも試合に出られる選手もいるじゃないですか。そういう選手ではなかったです。

Q:3年生の時は起伏のある1年間だったと思いますが、今から振り返っても濃厚な1年間という感じですか?

A:そうですね。上もいなくなって、「3年になったから試合に出られるかな」という甘い考えもちょっとあった中で、もちろんライバルもいっぱいいて、最初の頃は出ていたんですけど、自分の出来も良くなくて、夏ぐらいまでは出たり出なかったりでした。前半途中で替えられて「走ってろ」って言われたりとか、そういう厳しい状態だったんですよ。

でも、なぜか運良く県トレセンには入っていて、おそらくスタッフの方が僕のプレーを気に入ってくれていたんだと思うんですけど、市船で試合に出たり出なかったりしていた3年の時に国体のセレクションには呼ばれたりしていて、結局メンバーにも入って、国体で千葉県選抜が優勝したんです。その時もずっと主力で出ていて、要は国体だから他のチームの方が監督をされているので、布先生がいないんですよ。それで凄く伸び伸びやれたという感じだったんですよね(笑) それで布先生も何試合か国体を見に来ていて、「布先生が来ている」という話を聞いたら、試合中もちょっと緊張しちゃうみたいな(笑) そこで楽しくやれていたことで、結局国体後ぐらいから市船でも出られるようになったので、その時期もターニングポイントですね。

Q:3年間で一番楽しかった時期という感じですか?

A:でも、最後の選手権が一番楽しかったです。監督もなぜか凄く優しくて(笑) 後から考えると、布先生も最後の1年と決めていた年でしたし、選手権に向かうまでの1ヶ月ぐらいは市船に入ってから一番楽しかったですね。

Q:布先生が優しいと、ちょっと調子狂っちゃうんじゃないですか?(笑)

A:いえ、全然狂わなかったですよ(笑) 「布先生の笑顔が見られただけで、何で僕らもこんな嬉しい気持ちになれるんだろう?」って、本当にそんな感じですよ(笑) 選手権前は基本的に優しかったですし、練習中に監督が笑うと「おお、今日は何か機嫌良いぞ」みたいに、みんな嬉しくなっちゃって(笑)

Q:それで最後を日本一で締め括るなんて凄いことですよね。

A:あれは出来過ぎでしたね。

Q:もう聞かれ尽くしていると思うんですけど、決勝のスーパーミドルは本当に凄かったですね。

A:そうですね。今から見ても凄いと思うんですけど、何も考えずに無心で打っていましたね。頭の中は真っ白でした。

Q:その時の光景は覚えていますか?

A:もちろん覚えていますよ。その前のセットプレーの時の動きとか、最初はこうしようとしていたとか。サイドのフリーキックで、横パスをもらいに行こうとして、「あ、蹴ったからこぼれ球に行こう」と思って、こぼれてきたから「とりあえず打っとけ」という感じで。感覚で打ったシュートという感じでした。しかもその年から成人の日に決勝が行われることになって、あれだけお客さんで埋まった国立で試合をするのは代表戦ぐらいしかないと思うので、凄い状態の中で「良く決めたな」と自分でも思いますけどね(笑)

Q:本当に色々なことがあった中で、市船での3年間というのはやっぱり良い思い出ですか?

A:うーん... 良い思い出... 良い思い出も、そうではない思い出もたくさんありますけど、全部まとめて言ったらもちろん良い思い出ですね。今の選手としての軸というか、基盤は市船で創ってもらったかなと思います。中でもメンタルが一番鍛えられた自信はありますね。僕は"人間界"の中で一番怖い人が布先生なんですよ(笑)

Q:"人間界"って(笑)

A:世の中で一番怖い人が布先生で、世の中で一番怖い人と3年間一緒にやったので、その後は誰に怒られても、誰に何を言われても、"怖さ"というものを感じなくなったんですよね。

Q:その感覚が麻痺しちゃったのかもしれないですね(笑)

A:麻痺しているかもしれないです。本当に。良い経験をさせてもらえました。あそこでの3年間があれば、他に何も怖いものはないですね(笑)

Q:これを最後の質問にしたいんですけど、幼稚園時代からサッカーを始められて、高校も紆余曲折がありながら最後は日本一になって、今回はちょっとそこまで話が届かなかったですけど、明治大時代も2部から1部に上がったりした中で、プロの世界まで辿り着いてらっしゃる訳ですが、そんな今の自分っていかがですか?

A:高校時代もそうですし、中学時代もそうでしたけど、1年は試合に出られなくて、2年でベンチに入って、3年で試合に出たり、大学時代も関東選抜のセレクションに行く、選抜に入らない、またセレクションに行く、次は選抜に入る、とか本当にちょっとずつ積み上げてきて今があると思うんですよね。

サッカーってミスが必ず起きるスポーツで、完璧にプレーできる選手なんて1人もいないですし、まだまだちょっとずつ成長している最中に今はいると思うので、だからこそ続けられるという感じですね。だから、その分だけ積み重ねてきたことは、今の自分の中でしっかり積み重なってきていると思うので、過去の自分と比べて今が一番良いという自信は持っていますよ。「あの時の方が良かった」とかは思わないです。「今の自分が一番良い。けれども、それもまだ道の途中だ」という感じですね。

【プロフィール】

市立船橋高3年時の高校選手権決勝では、自らの決勝ゴールで日本一を経験。明治大を経て、2007年に入団した名古屋でも、翌年に新人王とベストイレブンに輝くと、2010年にはリーグ優勝に大きく貢献。複数ポジションをこなせる戦術理解度の高さはリーグ屈指。


※所属チームを含めた情報は、当時のものをそのまま掲載しています。

ご了承ください。

取材、文:土屋雅史

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