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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年03月11日

Pre-match Words ~名古屋グランパス・竹内彬編~(2016年7月8日掲載)

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【Pre-match Words 名古屋グランパス・竹内彬編】

(2016年7月8日掲載)

Q:ここからはキャリアのお話を聞かせて下さい。名鑑で最初に出てくるクラブ名は城郷SCとなっていますが、そのクラブがサッカーを始めたクラブですか?

A:はい。そうです。城郷幼稚園に通っていて、城郷小学校に入ったんですけど、幼稚園の頃にサッカーチームができたんです。でも、もちろん幼稚園生だったので、親がお見送りをしないといけないチームだったんですけど、当時は僕の弟が母のお腹の中にいたので、お見送りができないということで、友達がサッカーチームに入っていく中、僕はなぜかスイミングスクールに入ったんですよ(笑) それで小学校に入るタイミングで城郷SCに入りました。

Q:そうすると幼稚園の頃からサッカーをやってみたい気持ちはありながら、ちょっと我慢していたという感じですか?

A:そうですね。メチャクチャ我慢していて、だいたいみんながサッカーチームに行く時間と、僕がスイミングスクールに行く時間が一緒だったんですよ。それで、僕は集合住宅みたいな所に住んでいたんですけど、サッカーに行く人たちは門を出て左に曲がっていく中、僕は右に曲がっていくという、悲しいテレビアニメみたいなシチュエーションが印象に残っていますね(笑) まあサッカーをやりたくてしょうがなくて、小学校に入ったらもう弾けたようにサッカーをやっていました。

Q:城郷SCは少年団だったんですか?

A:いえ、単体のクラブチームでした。色々な小学校から子供が集まってくる感じでしたね。

Q:強さ的にはどのくらいのレベルだったんですか?

A:横浜市は結構チームが多くて、全部で200チーム近くあるので、横浜市で優勝するというのはかなり難しいことだと思うんですよ。でも、12年生の部の時は市で優勝して、34年生の部、56年生の部の頃は市でベスト16とかベスト8ぐらいでした。

Q:それってかなり強い方ですよね。

A:僕らの時は弱くはなかったですけど、12年生の頃はJの下部組織も、例えば日産プライマリーもほとんど周りと変わらないんですよ。ただ、小学校の頃には横浜市選抜というのが5年生からあって、運良くその選抜に選ばれて、そこで色々な友達ができました。それこそ阿部翔平(千葉)とか藤本淳吾(G大阪)、榎本哲也(横浜FM)、栗原勇蔵(横浜FM)とかが同じタイミングで横浜市選抜に入ったメンバーなんですけど、そこが同じスタートラインだったとすると、そこからプロまでの歩みは彼らと相当なキャリアの違いですけどね(笑)

僕は小学6年の時に「中学はどこでやろうかな?」と考えて、マリノス、フリューゲルス、ヴェルディ、ベルマーレと近くのJクラブのセレクションを軒並み受けに行って、全部ダメだったんです。最後の方までは残るんですけど、結局は選ばれなくて、もう近所の横浜新井JFCでサッカーをやるしかないような状況でした。もちろん中学校の部活という選択肢もあったんですけど、横浜市選抜の選手が色々なクラブに行く中で、部活というものにちょっと抵抗もあって、「じゃあ自転車でも通える地元のクラブにしよう」と思って行ったんですよね。

Q:ちなみに横浜市選抜に入っていた頃のポジションはどこだったんですか?

A:フォワードか今で言うトップ下みたいな所ですね。"ハーフ"でした。攻撃的な選手だったんです。

Q:ファンタジスタ系ですか?スピード系ですか?

A:どうだったんですかね。でも、昔はドリブルで結構相手を抜いていましたね。それを言うのも恥ずかしいんですけど(笑) スピードは特になかったので、逆を取ってみたいなドリブルをしていたと思います。それこそ1人でやってしまって、コーチから「1人でやるな」と真剣に怒られるくらいで。

Q:先ほどお名前が出た選手以外の横浜市選抜のチームメイトで、Jリーグかそこに近い所まで行った選手はいますか?

A:横浜市選抜から横浜新井JFCへ一緒に行って、ベルマーレユース、流通経済大と進んで、ジェフリザーブズに行った小沼純矢という背が大きくて左利きの選手がいるんですけど、その彼は一応選手名鑑に載るような選手ですね。

Q:名前だけは拝見したことがあります。新井JFCは2人も好選手を輩出している訳ですね。

A:輩出と言っても、当時はありえないような練習も結構していて、それが結果的に今でも非常にタメになったと思っているんですけど、小川監督という方の指導で、バックランをひたすらやるとか。

Q:修行みたいな感じですね(笑)

A:そうですね。修行です(笑) 練習も週3回しかなくて、水曜日に新井中学校の体育館を、土日に新井中学校のグラウンドを使うことしかできなかったんですよ。水曜日は体育館なので、そこを0.5日とすると週に2.5日ぐらいしか練習できない訳で、体育館も人数に制限があるのでミニゲームをやって、残っている選手は体育館のステージに手でグッと登って、手首だけで自分の体を支えて耐えるという、まさに修行のようなことを10分間続けるとか(笑)、球際でボールを挟んで足をぶつけ合ったタイミングで、どっちがそのボールを収めるかとか、色々なことをやっていましたね。

でも、その経験は良かったと思います。中学生時代は思春期でもありますし、サッカーを根詰めてやり過ぎて「もういいや」となってしまう人もいる中で、週3日しか練習がなかったので、サッカーを楽しんでやっていましたね。しかも土日は朝の9時から暗くなるまでグラウンドを使うんですよ。

Q:なんか極端ですね(笑)

A:ホント極端なんです(笑) 午前中はシュート練習とかもやりますけど、昼ご飯を食べたら、午後は夏だったら6時くらいまで、冬だったら4時半までずっとゲームをしているので。45チームでグルグル回すという。それは良かったですよ。一応チームとしてはそういう練習環境の中で、神奈川県ではベスト8やベスト4まで行くチームで、神奈川県自体で全国大会に行くチームは2チームぐらいですし、関東大会には4チームぐらい行けるので、そういう所を狙えなくはないチームだったんですよ。当時はマリノスに新子安と追浜があって、そことやって勝つか負けるかという勝負をしていて、だいたいは負けるんですけど、そういうモチベーションもありましたし、藤本淳吾くんは途中で横浜栄FCに移って、そのチームも僕らみたいな立ち位置でやっていて、そういう面では面白かったですね。

Q:栄も強いチームだったと思いますけど、そうすると栄と新井はライバル同士という感じでしたか?

A:たぶん栄の方が色々な面でしっかりとしたクラブだったと思いますけど(笑)、僕らの頃は立ち位置的に一緒ぐらいだったと思います。

Q:それでも週3の練習でマリノスと良い勝負ができるって、チームメイトのポテンシャルも相当高かったんじゃないですか?

A:いやあ、どうですかね。まあ確かに渡り合えていたので、言ってみれば"雑草魂"ですよね。でも、試合会場に行ってマリノスやフリューゲルスが会場に入ってきて、練習着に着替えた瞬間にはビビってましたけどね。僕らはみんな違うジャージを着ているのに、彼らはJリーグの選手も着ているものと一緒のジャージを着て、みんな統一感を出しながら来られた日にはビビってました(笑)

Q:中学の頃は市選抜や県選抜に入っていたんですか?

A:入っていないです。市の選抜はなくて、県トレセンは県の1部リーグに所属しているチームから推薦で1チーム2人か3人は行っていましたけど、僕は選ばれなかったので。ただ、チームでは10番だったんですけどね。

Q:まだ前目の選手だったんですね。

A:余裕で前目ですね。10番を付けていたことだけはお伝えしておきます(笑)

Q:キャプテンですか?

A:いえ、副キャプテンでした。僕は結構副キャプテンが多くて、たぶん"副キャプテンキャラ"なんでしょうね。「先頭に立つ男ではないけど」という感じなのかなと。

Q:中学時代って遊びたい盛りじゃないですか。しかもお住まいも横浜で、平日も水曜しか練習がない状況だったら、他の平日は何をされていたんですか?

A:他の日は中学2年までは一切練習していなくて、塾に行ったり、中学生ができるくらいの遊びをしていました。コンビニのちょっと座るスペースで、何かを食べながらおしゃべりするくらいがMAXで(笑) でも、中学3年になったらもう先輩はいないので、中学の部活の練習に参加させてもらえたんですよ。それで水曜以外は毎日部活の練習に混ぜてもらっていました。

Q:その頃はもうプロへの意識はイメージとしてあったんですか?

A:ないです。自分の中のMAXは全国高校選手権でMVPを獲ることで、実際にはMVPなんてないんですけど、小さい頃から見てきていた高校選手権がすべての憧れで、そこで活躍することがサッカーでの頂点でしたね。ずっとテレビで見ていましたし、三ツ沢が近かったこともあってよく父親と見に行っていたので、中学の時はそこが頂点でした。

Q:高校サッカーのヒーローは誰だったんですか?

A:東福岡対帝京が印象に残っています。あの雪の決勝も国立に見に行きましたし、その次の年も同じカードで、もうビデオテープが擦り切れるくらい見ていました。たぶん決勝だったと思うんですけど、千代反田(充)さんが試合中にコンタクトがなくなったらしく、ロッカーへ下がったんですよ。それでのちにグランパスでチームメイトになって、チヨさんに「あんなの試合中にダメでしょ」と言ったら、「コンタクト替えてたからしょうがないだろ」と言われて(笑)

そのぐらい高校選手権で自分が憧れていたスーパースターと同じチームになることに対して、不思議な感覚はありましたね。僕がテレビとか雑誌でしか見たことのない人と、プロになって対戦したりできるので、最初は本当に不思議な感覚がありました。今はさすがに慣れましたけどね(笑)

Q:そうすると、たとえ入れる力があったとしてもJクラブのユースではなくて、進路としては高校のサッカー部ですよね。

A:そうですね。ジュニアユースに上がるタイミングでほとんどJの下部組織に入れなかったので、自分の中で「無理だな」というのがありました。ただ、中学3年の段階でフリューゲルスユースのトレーニングにはずっと参加させてもらっていたんですけど、そのタイミングでフリューゲルスが消滅してしまったので、入団も実現はしなかったんです。

でも、中学3年の頃は何も考えていなかったので、「高校選手権に出られる名門高校でサッカーをするんだ」ということしか考えていなくて、どうやって通うかとか、どうやって入るかとかもまったく考えていなかったんです。それで塾の模擬試験とかあるじゃないですか。そこに書く志望校も"静岡学園"とか"市立船橋"とか"東福岡"とか、とりあえず書きましたけど、塾の先生も混乱する訳ですよね(笑) ただ、書いてはみたものの親とも話す中で「気持ちはわかるけど」と。レベルを考えても「わざわざ県外に行っても」というのがあって、神奈川県内で探すことになった時に、桐蔭学園と桐光学園がまず候補として出てきた訳ですけど、一般入試で入るしかなかった僕には少し学力が高くて難しいなと。

そんな流れの中で、僕が小学5年の時に向上高校が選手権に初出場したんですよ。確か決勝で盛田剛平さん(甲府)たちがいた桐蔭学園に勝って、全国大会では南宇和とやって負けたんですけど、その印象が強かったんですよね。向上高校は家からちょっと遠かったんですけど、誘っていただけたので行こうかなということになりました。そこでターニングポイントになったのは、「オマエは下手だからディフェンスをやれ」と言われたことで、そこでディフェンスになっていなかったら、その後もどうなっていたかわからないので、そこは大きかったですね。

Q:そうするとディフェンダーになったのは高校からだったんですね。

A:高校3年の頭からです。2年まではチームの真ん中の攻撃的な選手でした。

Q:高校に入ってすぐに試合には出ていたんですか?

A:そうですね。ゴールデンウィークぐらいから試合に出させてもらえたので、それも良かったと思いますね。それこそ中学の時に志望校として書いていた名門校に行っていたら、3年間ずっと球拾いだったかもしれないですし、自分の身の丈にちょうど合った所に行けて、1年生から試合に出してもらえたというのは良かったなと思います。1年生の時はセンターフォワードをやっていましたね。

Q:長身ストライカーですね。ヘディングでゴールを決めまくるみたいなタイプですか?

A:いえ、結構まだ足でのゴールが多かったですね(笑) ランニングプレーヤーでした。足下に受けてスタートというよりは、流れながら受けて自分も生きるみたいなプレーヤーでした。

Q:失礼ながらあまり想像できないですね(笑) 高校1年と2年の時の選手権予選は初戦で負けていると思いますが、結果という意味での高校3年間はいかがでしたか?

A:神奈川チャンピオンになって全国大会に出るというのが最大のモチベーションでやっていたんですけど、だいたい県でベスト16ぐらいでしたね。選手権予選に限らず、関東大会予選やインターハイ予選でもそのぐらいでした。それがチームの力通りの結果だったと思います。

Q:高校選手権でスターになることを夢見ていた竹内少年からすると、「思っていたのと違うな」という想いも当時はありましたか?

A:それがあまりなかったんです。「全然理想と違うな」とか「やってられないな」というのは一切なくて、県のベスト16ぐらいで負けているのに、教科書の端っこに『全国高校サッカー選手権大会優秀選手 竹内彬』って書いたりしていて(笑) 夢のまた夢のようなことを、授業も聞かずに書いているような高校生でした。よく言えばサッカーに対して純粋過ぎたんだと思います。

Q:でも、そういう自分自身に対するイメージを信じている自分がいた訳ですよね?

A:そうですね。その時も高校3年になって、いざ「卒業したらどうするんだ」というのを担任の先生に突き付けられるまで、その後のことは何も考えていなかったですし、高校選手権がすべてだったので、そのことしか考えていなかったですね。ただ、高校3年からでしたけど「結構ディフェンダーでもやっていけるな」という手応えはあったんですよ。だから、チームとして結果が出なくても、個人的に神奈川県の国体メンバーに選ばれて活躍したいなというのはあったんですけど、そこにも選ばれなくて。当時の自分は「自分の方が優れているのに、結果を出しているチームからばっかり選ばれてるな」という風に思って悔しかったですけど、今から思えばそれも実力だったんだなとは思いますね。

Q:その頃はかなり悔しい想いをした時期という感じですか?

A:そうですね。選手権のことばかりを考えていたとはいえ、そこは本当に悔しくて、『高校選手権出場』ってノートに書くのと同じぐらい、『神奈川ナンバーワンディフェンダー』ってずっとノートに書いていたんですよ。恥ずかしい話なんですけど。

Q:全然恥ずかしくないですよ。ただ、とにかく授業は聞いてないですよね(笑)

A:とにかく聞いてないです(笑) とにかく聞いてないです。高校の周りが山だったので、『大山』という山があるんですけど、そこが雲に隠れると雨が降るみたいな気象の流れがあったんですよ。「雨降ったら階段ダッシュかよ。最悪だな」とか思いながら、基本は外を見ていました(笑)

Q:そうすると、もう上に繋がるかどうかとかは関係なく、とにかく全ての中心がサッカーだったということですね。

A:そうですね。高校3年までは先のことは何も考えていませんでした。まああれこれ考えていたら、「もしできなかったら」というようなことを考え出していたと思うんですよ。それがなかったのは良かったなと思います。

Q:高校3年の時の選手権予選は弥栄西にPK戦で負けるんですよね。その時の喪失感って凄かったんじゃないですか?

A0-0で延長が終わって、PK戦は5本目で僕が外して負けたんですよ。「これで終わっちゃったんだ」と思って泣きましたね。

Q:『この世の終わり』みたいな感じですか?

A:そうですね。『この世の終わり』に近かったですね。でも、今思えば向上高校で良い仲間ができたので、それは凄く良かったです。今でもみんなで集まると「オマエのせいで負けた」というのは"鉄板"で、毎年同じことを言うみたいな(笑)

Q:逆にそういう経験があったことで、大学でもサッカーを続けようと思った部分もあったんですか?

A:どうしても高校3年の秋ぐらいから、初めて進路と向き合わなくてはいけないじゃないですか。大学でサッカーをやろうと思っていたんですけど、その前にヴェルディのサテライトの練習にも参加したんですよ。人のつてを辿って。ただ、トップチームまでは話が行かず、大学でやるしかなくなったんですね。

僕は中学時代も高校時代もある一定のライン以上には認められてこなかったので、関東1部の大学は無理だと思っていて、当時は関東2部だった大学か、あるいは北海道の大学に行きたくて、親にその旨を伝えた所、自分の中で「大学のトップリーグは無理だ」と決めつけていた所もあった中で、それを父親に見透かされていて「オマエ、チャレンジしない道を選んで認められなくてもいいのか?」と言われて、そこで「ハッ」としたんですよね。それで高校の担任でもあって、当時はサッカー部のコーチでもあった今の監督の小林賢一郎さんが国士舘大学の出身で、「じゃあ一言言ってやるよ」と言われたんですけど、国士舘側からすれば僕はわざわざ獲るような経歴は持っていなかった訳ですよ。ただ、OBからの推薦ということで入ることができたので、「この4年間は全てをサッカーに懸けてプロになろう」と決意して、そこで初めて「プロになる」って決めました。

でも、新入生の出身校も名門ばっかりで「これはヤバいな」と思っていたんですけど、僕は卒業するギリギリまで高校の後輩たちと一緒に練習をしていたのに、意外と引退してからは練習をやっていない新入生のヤツらが多くて、僕の方が彼らより下手だったのに上手く見えたんだと思うんですよ。コンディションの問題で。それで最初からトップチームに行けて、当時はJFLのチームもあったので、JFLの公式戦にいきなり出ることができて、自分にとっては芝生でサッカーできることがとにかく嬉しくて(笑) 県のベスト16ぐらいは高校の校庭なので土ですからね。それでうまく自信を付けることができて、先輩のケガもあってトップチームの関東大学のリーグ戦にも出て、そのまま1年が終わったら関東選抜にも選ばれて、そのぐらいからですね。自分に自信も付いて「やれるな」と思ったのは。

Q:記録を見たら関東大学リーグのデビュー戦は相手が駒澤大学で、巻誠一郎(熊本)と深井正樹(相模原)の2トップがいたと思いますけど、そこはなかなか強烈でしたよね。

A:途中から赤嶺真吾(岡山)も出てきたんですかね。当時の深井さんと巻さんは本当にヤバかったので(笑)、たぶん負けたと思うんですけど、がむしゃらにやったのは覚えています。その後に選抜チームに選ばれて、良い刺激を受けて「もっと頑張らなきゃな」と思って、2年生になったら全日本大学選抜にも選ばれて、その頃は良い感じで行けましたよね。

Q:グランパスからのオファーはいつ頃だったんですか?

A4年のゴールデンウィークぐらいに初めてグランパスが声を掛けて下さって、「練習に参加して欲しい」と言われました。最初はその練習参加がどのくらいの意味を持つのかがわからなくて、そこで話を聞いていると「獲得を前提に」ということで、もうプロは意識していましたけど、グランパスなんて本当にビッグクラブだったので、「ええ~」みたいな感じでした。J2でもどこでもいいから「プロになる夢を実現させたい」という感じだったので、良いオファーをもらえた上に、結局僕は2回もグランパスに入団しちゃって(笑) もうグランパスには本当に感謝しかないですよ。

Q:4年も他のクラブにいて、古巣に戻ってきてバリバリのレギュラーとして活躍するって、Jリーグの歴史を紐解いてもなかなかないパターンだと思うんですけど、『グランパス愛』っていうのは相当強いんですよね?

A:そうですね。まあ"愛"というと大げさに感じるかもしれないですけど、このクラブに対する感謝は本当に大きくて、まずどこにでもいるようなレベルの自分をプロにしてくれたことと、契約満了でもなかったのに、自分の勝手な意見で出場機会を求めてレンタル移籍で出て行って、ここに帰ってくる前の年は年齢も31歳になっていて、リーグ戦にも8試合しか出ていなかったんですよね。ケガもありましたけど、それも含めて実力で。それにもかかわらずオファーをしてくれたと。もちろん編成の部分で、立ち位置的にセンターバックの3番手、4番手、5番手ぐらいとして必要だったということは十分理解していましたし、入ってしまえばそこはフラットだと思っていたので、「頑張ろう」という気持ちで来ましたけど、そこも感謝しかないですよね。

だからこそ今の状況はクラブに対しても、サポーターに対しても申し訳ないですし、現実的に順位表を見るとかなり降格圏も近いですし、そこを意識せざるを得ないので、「絶対に落としてはいけない」という想いは強いです。そこを意識している時点で良くないことはわかっていますし、グランパスへの感謝の気持ちは残留させることだけでは返せないですけど、とにかく降格だけは絶対に避けなくてはいけないという気持ちは強いです。

Q:これが最後の質問です。今までのお話をお聞きしていると、かなり激動と言っていいキャリアを積んでらっしゃったと思います。あえてざっくりお聞きしたいんですけど、そういうこともひっくるめて、今の自分っていかがですか?

A:本当に幸せでしかないですよね。やっぱりサッカー選手をやっていると、試合に勝ったり負けたり、試合に出たり出られなかったり、当然ストレスを感じるようなこともありますけど、それは表面的なものであって、こうやって小さい頃からの憧れであるプロ選手として活動させてもらっていることに対して、本当に幸せを感じなくてはいけないですし、不満や色々なものへのストレスを感じている場合ではないと。もっと大きな所で考えると、決してサッカー選手として突出した少年時代ではなかった自分が、限られた人しか立てない舞台でやれていることに本当に感謝しなくてはいけないなと。だからこそ、1年でも長くプレーを続けて、大好きなグランパスで結果を残したいと思います。

【プロフィール】

向上高、国士舘大を経て、2006年に名古屋へ加入。サイドバックやセンターバックでの出場を重ねるも、2011年には千葉へ期限付き移籍で加入し、翌年に完全移籍。2015年に名古屋へ5年ぶりに復帰すると、以降は不動のレギュラーとしてチームを支えている。


※所属チームを含めた情報は、当時のものをそのまま掲載しています。

ご了承ください。

取材、文:土屋雅史

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