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【村上晃一】
1965年京都市生まれ。京都府立鴨沂高校→大阪体育大学。
ラグビーの現役時代のポジションは、CTB(センター)、FB(フルバック)。1986年度西日本学生代表として東西対抗に出場。
87年4月ベースボール・マガジン社入社、ラグビーマガジン編集部に勤務。90年6月より97年2月まで同誌編集長。出版局を経て98年6月退社し、フリーランスの編集者、記者、ラグビージャーナリストとして活動。J SPORTSのラグビー解説は98年より継続中。1999年から2019年の6回のラグビーワールドカップでコメンテーターを務めた。著書に「仲間を信じて」(岩波ジュニア新書)、「空飛ぶウイング」(洋泉社)、「ハルのゆく道」(道友社)、「ラグビーが教えてくれること」、「ノーサイド 勝敗の先にあるもの」(あかね書房)などがある。
10月20日の夜は、元日本代表LOの林敏之さんが会長を務めるNPO法人ヒーローズの10周年記念パーティーが大阪中之島のホテルで開催された。サブタイトルは、「ウェールズをやっつけろ!Red! Red! Red!」。33年前の1983年10月22日、日比野弘監督率いる日本代表は、アウェイでウェールズ代表を追い詰めた。24-29(トライ数は4本対5本)という大接戦を繰り広げたのだ。その主要なメンバーが集って、当時の思い出を語り、11月の日本代表戦を盛り上げていこうという催しだった。平尾誠二さんは、このイベントの発起人の一人でもあった。奇しくもその日の朝に旅立ったわけだ。
僕はトークコーナーのコーディネーターとして早めに控室に入った。林敏之さんはしみじみと、「平尾もここに来たかったんかなぁ。席、用意しよか」と話していた。僕もそう思った。平尾さんはこういう場所にあまり来ない人ではあったが、ひさしぶりに共にウェールズと戦った仲間と話したかったのではないかな。
この日、やってきたのは伝説の名勝負に出場したメンバー9名。石山次郎、藤田剛、池田洋七郎、林敏之、千田美智仁、川地光、河瀬泰治、角日出夫(旧姓・小林)、東田哲也という面々。当初は来る予定だった松尾雄治、大八木淳史の両氏は、平尾さんの逝去により取材や出演などが入り、急きょ欠席となった。会場には報道陣も多数詰め掛けていた。平尾さんは、試合当時、同志社大学3年生だった。同期の東田さんが取材を受けた。
「今年の春、『暖かくなってきたから、体調がいい』というメールをもらっていました。さまざまな治療法を試みていたようです。快方に向かっていると信じていたので、きのうメールを送りました。『不参加は知っているよ。しばらく会っていないから、体調が良くて、時間があったら食事でもしよう。連絡がほしい』と。現実を突き付けられ、辛いです。友達であり、よきライバルでもありました。ラグビーからプライベートまで、楽しい時間をありがとう、今はそう言いたいです」
会食の始まる前にトークコーナーがあったのだが、冒頭のあいさつで東田さんは「平尾は楽しいことが好きだったので、明るくやりましょう」と話した。ウェールズ戦で平尾さんとCTBコンビを組んだ小林さんは、「とにかく、2人で、タックルしまくったのを覚えています。きつかったですねぇ」と懐かしげに振り返った。なぜウェールズに対して健闘できたのかという質問には、小林さんが「春からメンバーを固めて準備をしたから」と言った。ウェールズのぬかるんだグラウンドでボールが滑ることを想定し、ボールを水で濡らしながら練習するなど昨年のエディー・ジャパンと似たことを、33年前に行っていたわけだ。
とても楽しい会だった。約400人の参加者が静まりかえったのは、林敏之会長がヒーローズを立ち上げた経緯を語ったときだ。神戸製鋼時代のことに話が及ぶ。「僕がキャプテンをしていた時、なかなか勝ちきれなくて、その後平尾がキャプテンになって、全国社会人大会で初めて優勝することができました。その表彰式のとき、平尾がとことこ歩いて来て、『林さん、賞状もらってきてえや』と言うんです。何言うてんねん、賞状はキャプテンがもらうもんやろ。そうしたら、平尾が『林さんしかないやん。なあ、みんな、林さんに賞状もらってもらうぞ!』って僕に譲ってくれたんです!」。林さんは涙で顔をくしゃくしゃにして最後は絶叫した。すすり泣きも聞こえた。
溢れだす涙を気にせずに話し続ける林さん。きっと平尾さんは、この熱い先輩の姿を笑顔で見守っているだろう。そんな気がした。小学生の全国大会を主催するなどラグビー普及に尽力する林さんは最後に言った。「20周年に向けて突っ走りたい。これからも、人が喜んでくれるような活動をしていきます!」