mas o menos

メルマガ

お好きなジャンルのコラムや
ニュース、番組情報をお届け!

メルマガ一覧へ

最近のエントリー

カテゴリー

アーカイブ

2020/04

S M T W T F S
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

このブログについて

J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年04月01日

『Foot!』Five Stories ~倉敷保雄【後編】~(2017年4月14日掲載)

mas o menos
  • Line

『Foot!』Five Stories ~倉敷保雄【後編】~

(2017年4月14日掲載)

『Foot!』で月曜から金曜までそれぞれMCを担当している5人のアナウンサーに、これまでの半生を振り返ってもらいつつ、どういう想いで今の仕事と向き合っているかを語っていただいています。五者五様の"オリジナルな生き方"を感じて戴ければ幸いです。

Q:八塚さんもおっしゃっていましたけど、ラジオ福島にスポーツ中継は競馬しかなかったんですよね?

A:はい。競馬中継の面白さはもちろんあったと思いますけど、視力が弱かった僕にはいろいろと難しかったんです。現代のように高解像度のモニターがあれば助かったでしょうけどね。秋冬開催は白鳥が渡ってくる頃まで続くんです。時には双眼鏡を曇らせて、前が見えなくなってしまったこともありました。そうするとトイレの中で賭け事をやっている人の声が甦ってくるんです。ちょっと怖い会話です。「馬の名前を間違えたらおっかないことになるかも」と。

僕は「絶対に双眼鏡を曇らせてはいけない」と思って、メガネからコンタクトに変えたんですが、当時のハードレンズはどうしても合わなくて、結局目から内出血してしまって、「君、このままだともっと目が悪くなるよ」と眼科医に言われて、コンタクトはやめてしまいました。それからも「視力の弱さをどう補うか?」という試行錯誤に明け暮れていたので、競馬中継に対する楽しい思い出というのはあまりないんです。今だったら違うアプローチをするでしょうけど、当時はそれほど好きになれなかったというのは残念です。競馬中継は本当に面白い中継なのにね。

Q:ラジオ福島時代は音楽番組へ力を入れられていたというのは、Wikipediaにも書いてありました。

A:そうです。音楽番組を週に7本ぐらい担当していて、帯番組もありました。僕は入社1年目から「東京で再就職したい」といううわついた気持ちもどこかにあって、「すべては東京に帰るための修行だ」なんて考えながら勤務していた、いけない新人だったんです。ところが「ここはかりそめの土地なんだ」なんて思っていたはずが、福島という土地と福島の人たちをそれからどんどん好きになってしまうんですけどね。

当時は「ここでできることはみんなやっておこう」と考えたので、休みの取れる日には東京に帰ってきて、当時の東芝EMIやワーナー・パイオニアなどレコード会社の担当ディレクターに名刺を持って会いに行ったんですよ。自分でアポを取って。「福島で音楽番組を担当しているアナウンサーですが、マドンナ担当の方はどなたでしょうか?」「デュラン・デュランの担当はどなたですか?」なんてね。

そうすると地方から訪ねて来るパーソナリティなんて珍しかったらしく、向こうとしてもプロモーションの機会ですから、たくさんの方が時間を割いて会って下さったんです。そうすると僕宛てに"宣材"が届くんです。新人の1年生の所にだけ、先輩の所には来ないレコードとか、宣伝のTシャツとかグッズが。いっぱい届くようになったんですよ。まあ怒られましたね(笑)

Q:怒られるんですか?(笑)

A:うん、凄く(笑)。 「すみません。生意気で」と謝りましたけど、納得は行かなかったですね。でも、生意気な新人がいるんだったら「やらせてみようか」とチャンスを与え続けて下さったのがありがたかったです。良い会社なんですよ。「失敗すればいいのに」という気持ちも少しはあったかもしれないですけどね。

そうしてどんどん音楽担当アナになっていくわけです。ツテはどんどん増えますし、いわゆる"呼び屋さん"という東北のプロモーターが「仙台から東京に移動する前に、福島に寄ったら君の番組に出られる?」という連絡をくれたりするようになりました。あるいは「来日するアーティストに、君の番組の名前をコールさせたから使ってね」というような話がどんどん来るような環境を作っていったんです。

当時のEPIC・ソニーは丸山(茂雄)さんという天才的な社長が就任した時期であり、TM NETWORKとか久保田利伸さんたちが出てきて、あわせて『PATi・PATi』などの雑誌が出始めた、J-POPの走りといえる時期だったので、やっていてすごく面白い時代でしたね。レコードからCDが出始めたタイミングです。スポーツを忘れて夢中になっていました。

当時はまだ"はがき"の文化で、もらったはがき1枚で僕も悩んだことがずいぶんありました。「何気なく口にした一言で傷つく子供たちがいるんだ」とか「真剣に向き合っているファンを前にすれば、知ったかぶりはすぐにばれる。わかったようなことを言ってはいけない」とかね。こっちもたかが二十代のお兄さんでしたけど、リスナーたちとマジメに向き合った毎日でした。本当に楽しかった。その中でもやっぱり趣味の部分は捨てられなかったので「音楽だけでなく曜日の1つだけは特撮の日にしよう」とかね(笑)

Q:完全に自分のための時間ですね(笑)

A:当時、郡山の『やまのいカルチャーセンター』にM1号という特撮ファンの間では有名なお店があって、代表の西村(祐次)さんという方と知り合いになったんです。ラジオにも出てもらいました。彼は日本の主要な特撮系の資料雑誌に、たくさんの貴重品を提供している有名なコレクターなんですけど、その人と知り合ったことで東宝に知り合いができて、『ゴジラ』のコメンタリーに繋がり、ひいては出演にも繋がっていく流れができたり、ということもその頃の話なんです。まだ僕の話はサッカーには辿り着かないですよ(笑)

Q:全然辿り着かないですね(笑) 『今夜はロケットパンチ!』にかなり思い入れがあるという風に聞いています。

A:代表作ですね。企画から始まってあらゆるブッキング、原稿、選曲、出演、ミキシングに完パケまで一人でしていた帯番組なので。編成に「音楽の番組なんだよね?」と言われたから、「そうです。ロックです。"Rock,It,Punch"です」と(笑)

Q:苦しいですね(笑)

A:造語ですもの。"ロケットパンチ"という言葉を使いたかったのですが、それだけだと音楽の番組には聞こえないから「ロックの番組です!」と言い張ったと(笑) でも、人気番組だったと思いますよ。

Q:そうするとラジオ福島では音楽番組が主な担当だったんですね。

A:楽しかったことは9割9分が音楽ですね。あとはラジオカーに乗ったり、ヘタなニュースを読んでいたりとか。僕はニュースを読むのが本当にヘタクソなんですよ。今でもヘタだと思うなあ。

Q:ラジオ福島を辞められた理由は、お母様の体調のことが大きかったんですよね?

A:はい。母親がガンだと思ったので「もう辞める」と言って辞めてしまいました。その時の母の病気はガンではなかったので早とちりでした(笑) でも、何も考えず東京に帰ってきてしまったので、半年間は無職でした。ボーナスももらわずにすぐに辞めたんです。

Q:ラジオ福島は何年までいらっしゃったんですか?

A:83年に入社して88年の8月で辞めたので、5年半ですね。吉川晃司さんの『サヨナラは八月のララバイ』をメッセージがわりに最後の曲として掛けて辞めました。本当に突然辞めたので、後からリスナーに怒られました。

Q:そうだったんですね。

A:「今日で辞めます。さようなら」と言って辞めちゃったので。その時は「母が死んでしまう」と思い込んでいたので、「辞めよう」しかなかったんです。

Q:辞められてからの半年間は何をされていたんですか?

A:アルバイトですね。あまり楽しいものはなかったけど、東京ドームであった"年越しライブ"は良かったですね。ドン・ヘンリーが来て、ドラムを叩きながら『ホテル・カリフォルニア』を歌ったんです。僕の仕事はベンチに潜んでの影アナ。「ああ、ジャイアンツ側のベンチで"ホテカリ"が聞けるんだ。凄い!いいバイト!」と思っていたら、ベンチの中では音がグアングアン回って。「こんな曲じゃないよなあ」と思ったのを覚えています(笑)

半年間は結婚式の司会などで食い繋いでいると、文化放送が記者職なんですけど、新番組の立ち上げに当たってリポートできる人を探すというオーディションがあったんです。だから、記者でしたけど大好きな文化放送で採用してもらえて嬉しかったです。しかも給料として提示して下さった金額が本当にありがたくて、報道部の方々は社員並みに扱ってくれたんですよ。文化放送のあった方角には、今でも足を向けて寝られません。すべてが僕にとってはありがたかったですね。でも、あれから文化放送からのオファーはないんですよね(笑) 最近はこれまた憧れだったTBSでちょいちょいお世話になっています。

Q:報道部の記者として文化放送に入られたと。

A:報道部の記者として2年間、その後にスポーツ部に移って半年だったので、文化放送には2年半お世話になりました。文化放送って僕が学生だった頃に一番入りたかった憧れの局だったので、「そこで仕事ができるなんて素晴らしいな」と感激しましたよ。報道記者として国会、警視庁、裁判所にはよく行きましたし、事件現場にも行きました。そこで東京の取材システム、報道システムを勉強できたのが僕にとっては大きな財産です。

何が一番勉強になったかというと、記事の信憑性の見極めの早さです。サッカー中継を担当するためにニュースを探すとしても、書き方でどこまで取材しているかがわかるので「これは怪しい情報だ」という見極めがかなり早いと思います。記事の信憑性はシステムがわからないと見極めにくいので、この訓練ができたのは大きなプラスです。東京にはこういう記者がいて、各局の力関係はこうで、記者クラブには良さと弊害があって、といったことをつぶさに最前線で見られましたし、諸先輩の取材のアプローチもとても勉強になりました。自分より頭の良い人ばかりでしたからね。

あとは事件が起こった現場においても、どういう報道規制が敷かれて、どういう順で報道されていくのか、国会内では代議士はどこでぶらさがりの話が聞けて、ジャンルによって誰の情報が正しくて、誰の情報が怪しくてとか、どこでゴハンを食べているか、といた些末なことまで覚えました。裁判所なら"冒陳"から始まって、各局がどこまで報道するのか、その踏み込み具合の浅さや深さなどがわかった訳です。ただ、僕はこの2年間で少し気持ちが病みました。

Q:いろいろな現場に行くお仕事ですからね。

A:現場に行って取材をし続けるには気持ちが強くないとできないんです。文化放送は良い局で、「遺族にマイクを向ける必要はない」「悲しみの声を拾う必要はない。悲しみは他の方法でも伝えられるはずだ」という諸先輩の方々がアドバイスをくれたので、とても救われていたんですけど、それでも近しい人の死を目の前にして立つことすらできない方たちを、何度も何度も目にしてしまったんです。

そうすると、家に帰ってもそのことは家族に話せないんですよ。「今日は何があったの?」と妻は気遣って尋ねてくれるし、聞いてくれようと待っていてくれるんですけど、話せない。家に帰るのがだんだんツラくなってきて、電車のホームで30分だけ本を読んで帰ったりとか、そういうことが続いてきて「これはもうダメかな」という時期に、番組再編のタイミングであるタレントを雇用するための予算が必要になって、報道部の何人かが辞める必要が出てきたんです。

その頃にスポーツ部に声を掛けて下さる師匠筋の先輩がいて、「オマエ、スポーツ部に来るか?」と聞いてくださったので、「行きたいです」と答えると、その方向で話が着々と進行していって、報道部長に「僕、辞めます」と手を挙げることになったんです。「本当に悪い。辞めてくれるか」とお礼まで言われたんですけど、「すみません。スポーツ部に行きます」と言ってスポーツ部に移籍した訳です(笑)

スポーツ部の方々も本当に尊敬すべき優しい方ばかりで『ライオンズナイター』の特番を2試合くらいやらせてもらいました。当時の文化放送は『はっきりいってライオンズびいき』で、僕はスタジオでの留守番役としてイニングごとに応援メッセージを紹介する"ライオンズびいきマン"なる役割でした。「辻、初ヒット(発彦)。打ってくれ!」みたいなダジャレばっかりで(笑) やっとスポーツに辿り着いたとは言え、中継の現場からはまだ遠い所でした。

それで半年が過ぎ、シーズンが終わったタイミングで卒業させてもらって、また半年間は無職に戻るんです。でも、その時には自分の中には確固たる覚悟があって、「いよいよ今度こそ絶対にスポーツの現場に行こう」と思っていました。文化放送の中継の現場ではスポーツ中継をしている他社の方々と知り合えたんです。その方々に連絡をしながらチャンスを待つ。自分を鍛えながらね。そのタイミングでJリーグ誕生ですよ。

Q:ようやくサッカーの話になりそうですね(笑)

A:文化放送を離れたタイミングで、八塚さんがいらっしゃる圭三プロの方から「八塚がやっている仕事を手伝ってもらえませんか?」と声を掛けていただきました。それがNHKスポーツニュースの影読みだったんです。その仕事は「上手くないと1回でも切られる」と脅かされていた仕事なんですけど、幸運にもOKだったみたいで、僕はそれから何年もお世話になることになりました。

そこではNHK報道の仕組みを勉強できた訳です(笑) NHKにはこれだけの機材があって、これだけの人材がいて、こういう報道体制を敷いて、ここのフロアでは何をしていて、スポーツがこういう立ち位置で、といったことを知りました。NHKでの仕事と並行してスポーツ中継の現場に参加すべく僕は準備をしていたんですけど、運が良かったのは、まさに93年のJリーグ開幕に向けてスポーツアイというチャンネルが立ち上がっていたことです。

ある日、僕の大学の友達から電話があって「自分の職場に来ている英語の先生がスポーツの制作会社にもいる人らしくて、スポーツ中継ができる人を探しているらしいけど紹介しようか?」と言ってくれたんです。その方はキャロライン洋子さんのお兄さんで、倉地浩さんというとてもハンサムな方だったんですけど、その頃お勤めだった会社がスポーツアイのサッカー中継に関わっている会社で、僕のブラジルサッカーとオランダサッカーとの出会いという話にいよいよなっていくと(笑)

Q:やっと来ましたね(笑)

A:ようやくね(笑) 「サッカー中継に携われるかもしれない」と思ってお会いした所、「実績はありますか?何かオンエアのテープがありましたら、聞かせてください」と言われて、「わかりました」とは答えたものの、「さて、困ったな」と(笑) ところが、偶然というのは恐ろしいもので、そのタイミングで何と「Jリーグを喋りませんか?」というオファーがあったんです。文化放送で仕事をしていた時に関わりのあった会社の方から「実況がいないんだけど、できますか?」と言われて、「もちろんです」って(笑) 「もう何回もやっていますから」「良かった。じゃあ是非お願いします」ということで。嘘ばっかりなんですけどね。それで初めて喋ったサッカーの試合が、そのままセルビデオになって販売されていたという(笑)

Q:それはヒドイ(笑) その試合が先ほどおっしゃっていたマリノス対グランパスですね。

A:そうです。そのダビングを倉地さんの所に持っていったら見るでもなく「それでは宜しくお願いします」と話が決まって(笑) 「オランダサッカーはオランダから留学生で来ている方が解説者で、ブラジルサッカーは向笠直さんが解説者です」と説明されました。

Q:向笠さん!

(※向笠さんはパウロ・ファルカン日本代表監督の通訳を務められ、『Foot!』にもご出演経験のある方)

A:そうそう。やっとここまで来ましたね。

Q:Jリーグに関しては、マリノス対グランパスの後も継続して中継のお仕事があったんですか?

A:単発でしたね。当時はまだフリーランスが伸び伸びやっていく時代ではなく、例えばテレビ神奈川から頼まれたり、テレビ埼玉から頼まれたり、個々の会社との付き合いの中で粛々とやっていて、Jリーグのライブよりベースは海外サッカーだったんです。当時は毎週船便で届く素材を使った録画モノの中継で、資料もなく、ダイヤモンドサッカー以降における日本の海外サッカー中継のリスタート、再黎明期に立ち会ったという所ですよね。

Q:そうするとブラジルサッカーとオランダサッカーというのは、今でも倉敷さんにとって特別なリーグですよね。

A:特別です。自分にとって礎となるリーグですし、たくさんのことを学ばせてもらって自分の中枢になっています。例えば初めて海外サッカーを観戦に行ったのも、記者会見に参加したのも、代表の取材をしたのもオランダからです。当然記者申請をしたのも初めてでしたね。

西部謙司さんにお会いしたのもその頃ですよ。オランダで会ったんです。「こんな所で日本人に会うなんて珍しいですね」とお互いに言っていて、後にその時の話を照らし合わせていくと「そうか!あなただったんですね!」という(笑) それはアヤックスミュージアムのこけら落としだったんです。一番最初に入場した日本人は僕であり、その後ろに西部さんがいたんです(笑)

Q:歴史ですねえ。

A:ただ、どうしても録画中継が多い環境だったので、僕は「ライブ中継ができない人」という認識を持たれていた様子で、ライブ中継が激増するのはスカパーが立ち上がってからかな。

Q:僕は大学生になってから海外サッカーをガッツリ見られる視聴環境が整ったので、やっぱり倉敷さんの実況というとリーガ・エスパニョーラなんですよ。あれはほとんどライブでしたよね。

A:ライブでしたね。縦積みでマドリーとバルサを常にやっていて、そこで金子達仁さんと初めて出会い、その時の流れでクラシコの現地中継などに繋がっていく流れですね。そして、2002年を睨んでスカパーがワールドカップに向けて相当に力を入れ始め、予選も相当な試合数を放送していたんです。その頃は頻繁に海外中継にも出掛けるようになっていましたね。

Q:僕が倉敷さんを初めて認識したのはリーガの中継なんです。当時はライブ3試合に録画1試合でやっていたはずで、そのライブの方では倉敷・金子という2人がゴールデンコンビという流れがあって、僕も含めて見ている人たちも「何だ、この中継は!」と思ったはずです(笑)

A:賛否両論だった、でしょう(笑)

Q:「ああ、こんな中継があるんだ」と思って、それが僕にとっては当時のJ SKY SPORTSに興味を持った大きな要因でもあるんですけど、特にリーガの中継に関しては「他と違うことをやってやろう」という気持ちって強かったですか?

A:純粋に2つのことを生かそうと思っただけです。1つは「リーガ・エスパニョーラはこんなに面白い」ということ。もう1つは「金子達仁さんって天才だな」と思ったので、「天才には好きに喋ってもらった方がいい」と泳いでもらいました。味付けではないですけど、「こういうことを添えたら、天才はもっと反応するのかな」ということを気にしながらやりました。面白かったですよ。

でも、これはよくある話だと思いますけど、そういうコンビが普段から仲が良いかと言うと、そうではなくて。もちろん仲が悪いという意味ではないですよ(笑) ですけど、金子さんとのプライベートな接点はほぼないですね。結婚式にはご招待いただきましたが、ほぼないです。おそらく好きなことが違い過ぎるのだと思います。ただ、マイクの前の金子さんはリーガに猛烈に近づいて来ると。非常にインパクトがあって、放送に対して真摯です。言葉の感覚、声の良さも含めて、僕の中で彼はほぼパーフェクトに近い"お相手"だったんです。

放送の中で「ここを補って欲しい」とか、「ここをプラスして欲しい」ということに対して、ほぼ満点に近い回答を当時の彼は出し続けてくれました。彼にとっても放送は経験がないものだったので、リスペクトし、何が正解かを明確にはわからずにやっていたと思うんですけど、たくさんの発明がありましたよね。「ウィー」って叫ぶ言葉だったり。

彼があの頃に生み出して、今の実況や解説者が知らずに使っている言葉がいっぱいあります。例えば『面白い』という言葉は金子さんからですよ。『まだある』も金子さんです。間違いない。金子さんが口にした言葉の中でも特に印象的だったので。「ああ、この言葉は市民権を得るだろうな」と思っていたら案の定でしたね。そういう意味では日本のサッカー中継にボキャブラリーを足してくれた1人だと思います。

Q:今のWOWOWさんの中継がどうとかじゃなくて、もともとリーガって"余地"がメチャメチャあるリーグで、語弊があるかもしれないですけど「真剣に見るリーグじゃないリーグ」って印象があって、例えば現地のカメラワークもラージョの女性オーナーが子育てに疲れて、スタジアムで寝ちゃってる所を映したりとか(笑)、そういう娯楽性にあふれているリーグで、そのテイストが倉敷さんと金子さんのテイストとマッチしていたのが、当時のJ SKY SPORTSのリーガ中継だったと思っているんですけど、そのあたりはいかがですか?

A:「オランダともブラジルとも違うな」と思いました。スペインにおけるサッカー中継は、「小さな子供が飽きないようにするためにはどうしたらいいか」という工夫も常に凝らしているそうです。子供って1分間もじっとしていられませんから、その子たちを飽きさせないようにするためには、どういうカメラアングルがいいのか、どういうツールを使って見せてあげたらいいのかを考えると。それでも子供は飽きるんですけど、大人たちがそういう風に工夫しているのが面白いんですよ。

例えばこれはディレクターの多くが勘違いしていることですけど、子供向け番組は「子供が見るんだから、この程度でいいだろう」という考え方が大きな間違いなんですね。有名なNHKの『おかあさんといっしょ』は、NHKの中でも選ばれた優秀なスタッフによって作られていて、彼らが真剣に向き合って作らないと子供は見てくれない訳です。子供が見て楽しい番組というのは難しいです。"子供だまし"と"子供が夢中になるもの"は違うんです。スペインのサッカー中継は「子供が見ても飽きないように、大人が頑張って工夫している番組」ということなんですね。

Q:なるほど。

A:それならそれに対していちいち注釈のような形で「これはこうやって笑いましょう」という風に乗った方が、勢いをそのままにできるという判断はありました。

Q:今はウチではないですけど、スポナビライブでまたリーガを喋られているじゃないですか。やっぱり楽しいですか?

A:楽しい。玉乃淳さんという、また違ったタイプの天才に出会ってね(笑) 下田さんもおっしゃっていたけど、彼との中継は毎回じゃなければ楽しいね(笑)

Q:そういうものなんですね(笑)

A:下田さんの気持ちがよくわかります(笑) 「これって聞き逃していいのかな」「でも、訂正しちゃうと流れが死ぬからな」とか。天才とやるのは難しいよ(笑)

Q:倉敷さんの実況のスタイルもお伺いしたくて、いわゆる一般の人が考える実況のスタイルではないじゃないですか。そのあたりは今でもかなり自覚的にやってらっしゃるのか、たまたま辿り着いたのが今のスタイルなのか、という部分に関してはいかがでしょうか?

A:意識していることもあるけれど、「こういうスタイルでやろう」というのとはちょっと違うのかな。変化しますからね。ただ、"作り方"という点ではひな形があります。まず「始めにこんな話をしよう」があります。それは"おしながき"に近いんですけど、試合が始まるまでに情報と筋書きと1つの見立てとして「これはどうですか?」というものを提示して、その後はしばらく試合を追いながら、解説の良さを引き出して、前半のまとめがあって、後半に向けては「まだこういうやり方があるんじゃないか」「これだけの戦力がまだ残っている」「これだけのエネルギーが残っていたらどうなるか」ということをなるべく明るいトーンで、見る人がその時間を楽しく過ごせるように話すんです。

試合がつまらなくなった時でも興味を持ってもらえそうな話を用意しておくとか、そういう準備は意識してやっています。なるべくネガティブな話題は避けているつもりですが、どうやっても人は喜んだり、傷ついたりします。人間が2人いたら必ず違う反応になるのはどうしようもないことですからね。「人はこういう形でも傷つくこともある」ということを、できるだけ想像しながらやろうと思っています。

Q:我々にとっても守るべき大事なことだと思います。

A:それからトーンに関してもかなり意識はします。それは自分の中での将来の目標という話になってしまうんですけど、僕は将来「ラジオに帰りたい」と思っていて、「ラジオでやるためには何をすればいいのか」という勉強をしているんです。サッカーは何にでも通じていますよね。世界に通じていますし、あらゆる文化と手を取り合えるとも思っているので、サッカー万能説を唱える僕のスタイルにシンパシーを感じて下さる人がいるのであれば、そこをもっと追求したいです。音楽でも映画でも小説でも、街で触れた何気ないことも、そこからサッカーを繋いでいって、造詣を深めていけばラジオパーソナリティにもなれるんじゃないかと思うんです。そういうアプローチは他の人と違うのかもしれませんね。

Q:たぶん倉敷さんという存在が知られていくと共に、倉敷さんが発信することの影響力も、もちろん以前より増していると思うんですね。先ほどおっしゃったように、2人の人がいれば受け取られ方もまったく違うという事実がある中で、倉敷さんは何かを発信することが他のコメンテーターの方より多いと思うんですけど、そういう怖さを感じることってありますか?

A:いつも怖さはあります。でも、自分は半分ジャーナリストだとも思っています。僕はキャリアは浅くとも文化放送の報道記者だった訳で、自分の中での覚悟というものはその時から変わらないです。言い切らなければ意味がない。それはラジオパーソナリティも実況も一緒で、言い切れない人に魅力はないんじゃないでしょうか。フリーランスとして他の人との差別化を図るのであれば、「『僕はこう思う』ということを言い切らない限りは、認めてもらえないものだろう」という覚悟はあります。怖さはもちろんありますけど、それを言い切れないのであればパーソナリティを目指すべきではないんじゃないでしょうか。

Q:それはキャリアを積み重ねていくことで感じたことですか?それとも元々持っていたものなのでしょうか?

A:始めの方にお話したように、僕は控えめでおとなしくて、自信のない少年だったので(笑)、少しずつ積み重ねていったものですし、自分の中でサッカーを語り始める前にふらふらしながらもやっと創り上げて、そこから始めた、辿り着けたサッカー実況者なので、僕は大変な遠回りをしてきたアナウンサーだと思いますね。音楽も勉強してきて、報道も勉強してきて、いろいろな世の中の仕組みがわかってから、「そろそろ、オマエはサッカーを始めてもいいですよ」と"お天道様"に言われた気がしますね。

ただ、そこまで待たされた分だけ、僕はサッカーからたくさんのものをもらっているんです。大切な人との出会いだったり、それこそ『Foot!』ではたくさんの場所に行かせてもらって、たくさんのスタジアムを見ることができて、たくさんのものを食べたり、飲んだり、触ったりすることができたというのは、自分の人生の中でどれもかけがえのない幸せな瞬間だと思えるから、『Foot!』との出会いも僕にとっては本当にありがたくて、感謝してもし切れないくらいのものだと思っています。

Q:倉敷さんは今の5人のMCの中でも一番『Foot!』を長く担当されています。ここはあえてザックリとお聞きしたいんですけど、倉敷さんは『Foot!』というものをどういう風に捉えてらっしゃいますか?

A:僕の中では『Foot!』に対して愛情しかないです。「『Foot!』がなぜ受け入れられてきたのか?」と言えば、それはパーソナルな部分が凄く大きい。アットホームで、ホスピタリティがあって、『Foot!』らしさと皆さんが感じてくれるものがあるとすれば、それは『Foot!』を好きな人たちを抱えていたからです。陰で支えてくれる海外のスタッフもいますし、出演者に関して言えばそれぞれの個性をちゃんと見せてあげたりとかね。

僕は"3"という数字は日本の中でも特別な意味を持っている数字だと思っていて、「3日経てば忘れる」という言葉があったりとか、3ヶ月ごとの周期という概念があったりとか、『3年目の浮気』とか、いろいろなことがある中で、長くやっていると良くも悪くも見ている人も変わると思うんです。慣れてくれていた人が離れていく、逆に知らない人が入ってくる。そういうことが、何か"3"という数字の中で繰り返されてきたような気がしていてね。

フットボールが世界ではどれだけ日常の中に溶け込んでいるのか、フットボールが好きな表現者が日本にもどれくらいいるのか、フットボールを通して表現できる絵や音楽がどれだけあるのか、といったいろいろを、僕は常に新しいファン、離れて行ってしまったファン、離れずに残ってもらっているファンを意識しながら伝えている部分はありますね。

「いつも見てくれている人、ありがとう」「新しい人、ありがとう」「離れて行ってしまった人、元気でやっていますか?また機会があったら会いたいですね」という気持ちの中で繰り返していて、その中でいつも語り切れない、伝え切れない面白さがあって、長く『Foot!』に出てもらっている出演者の方々と一緒に、「今日も元気にやっていますよ。今日もフットボールを語りにやってきましたよ」「ああ、また語り切れないまま、今日も終わりの時間です。じゃあまた!チャオ!」という日常の風景を伝えたいなと思います。それは特に東日本大震災があってから感じることなんですけど、僕たちにとって唯一放送ができなかったのがあの金曜日でしたものね。

Q:そうでしたね。

A:あの時に感じたことは無力感です。「結局娯楽だものな」ということです。でも、娯楽だからこそできることもあって、娯楽を提供できる環境があるなら、それは続けるべきだと思います。楽しさだったり、繋がりだったり、新しい出会いだったり、優しさだったり、ちょっとした温かさであったり、ということだと思うんですけど、そういうことがいつもここに来ればある、と。そこに例えばスタジアムの"ホーム"に近い感覚を持ってくれたらいいなと思っています。

この番組があることで「ホームを持っているんだ」と。「いつもの顔がここにある」と。しばらく離れていて、ここには来ていなかったけど、たまに来た時に「変わらない顔がここにはある」とホッとしてくれたり、「自分の居場所がここにはある」と思ってもらえたり、「自分が傷つかなくて済む場なんだ」と思ってもらえるのならありがたいなと思っているんです。"ホーム"には知り合いがいて、友達がいて、1つの応援するチームがあるのと同じ感覚で、僕は『Foot!』というものと接しています。

Q:僕は『Foot!』を3年間に渡って視聴者として見ていて、その後で8年間もスタッフとして携わらせてもらったんですね。そもそも何で『Foot!』が好きだったかと言えば、「ああ、すべてのものがフットボールに通じているんだ」ということを視聴者の時も番組から感じていましたし、自分がスタッフになってからも「それを一番伝えたいな」と思っていた部分が強いんですけど、「すべてのものはフットボールに通じている」という感覚は倉敷さんの中で強いですよね。

A:すべてに通じていると思いますね。世界の文化、世界の言語、世界の食生活、書き物にも音楽にも、旅の中にも。フットボールの単語1つ知っているだけで、世界と繋がるキーワードがたくさん出てくるじゃないですか。世界にフットボールをやっていない国はないですから。そういう意味でも世界で最も強いキーワードの1つだと思いますよ。だから、ワールドカップがオリンピックより多くの国と地域で親しまれているんでしょうね。

インターナショナルスポーツってそんなにたくさんはないです。ボール1つでできる競技というのもそんなにないですし、本来は立つべき足をわざわざ使ってやるなんて非常に不自然な訳で、そういう意味ではとても人間的な行為ですよね。無駄な行為な訳です。手を使うことによって進化していった生き物が、手を使わずに頭や胸を使って、「何で手を使わないの?」って(笑) ゴールキーパーだけが手を使えるというルールもまた不可思議な所で。これを考えた人は天才だと思いますけど、いずれ誰かが発明したに違いない所も興味深いですよね。

だから、そういう不可思議な競技だからこその奥深さもある訳で、100通りの語り方があって、100通りの答えがあって、その中にはマジョリティもマイノリティもあって、小さな子供でも、サッカーをよく知らない親子でも、やたらと詳しいオヤジでも、それぞれに楽しみ方があって、棲み分けができるからインターナショナルなんです。だからこそ、フットボールには無限の可能性があるんです。だからこそ、伝えていて楽しいんです。

Q:僕が倉敷さんと長く付き合わせていただいてきた中で、一番テンションが上がったのを目撃したのはヤリ・リトマネンに会った時だと思います(笑) あれってやっぱり相当思い出深い出来事ですか?

(※2007年のシーズン前に『Foot!』でフィンランド&スウェーデンロケを敢行。倉敷さんがかねてから自身のアイドルとして公言していたリトマネンとの対談が実現した)

A:人はいくつになっても子供の頃のようにドキドキした気持ちが持てるんですね。だいたい会おうと思えば、出待ちするとか方法はいろいろある訳で、なにも番組で『憧れのアイドルに初めてご対面!』なんて演出をしなくてもいいんですよ。それが約束の日に来なくて、次の日に何とか会うことができて、自分はと言えば浅草で作っていったハンドメイドの刺しゅう入り帽子を持って待って立っていて(笑)、ついにやってきた彼が嬉しそうにそれをかぶってくれて、相変わらず不愛想な顔でいながらも笑ってくれている、というのが全部僕の知っているヤリだったので、何か一言で表現すると、子供の頃に経験した楽しかった記憶を後付けでもらったような不思議な感覚が嬉しかった。あんなに楽しい取材はなかったなあ。

Q:これが最後の質問です。これもあえてザックリお聞きしたいんですけど、夢ってありますか?

A:夢?昆虫学者になることです(笑)

Q:最初に戻りましたね(笑)

A:いやいや(笑) まだまだ僕はフットボールを通じて知ったことや、知り合えた人との繋がりというのがたくさんあるので、「これから生きていく時間を、どういう形でシンクロさせていこうかな」と思っています。その中には、中継という仕事もまだしばらくはあるでしょうし、今までにまだ自分がしたことのないものもあるでしょう。

何より時間を掛けて知り得た友達を大切にしていきたいですね。もう年齢的にもいい感じなので(笑)、ここからはもっと新しい人に出てきて欲しいと思いますし、そのためにも「こういうことも許されるんだよ」というような部分は、老害にならない程度で、アンテナショップのような感じで残してあげたいなと。「このくらいまでなら悪ノリしても許されるんだよ」というのを誰かが先にやってあげないと、次の人たちは難しいと思いますし、それが全体の底上げという点になればいいと思うんです。

素晴らしい実況を見せてあげて、全体を底上げするという方法もあると思いますけど、それは僕にはできそうもないので、せめて「誰もやらないやり方を僕がしよう」と思っています。それで失敗することもあるかもしれないけれども、DAZNが登場してきたこのタイミングでこそやっておくことは大事なのかもしれないなと。そこはもういろいろなことへの恩返しですね。「もらった分だけ返さなくては」という気持ちだけです。

(この項終了)

【土屋から見た倉敷保雄さん】

僕はそもそも倉敷さんのリーガ・エスパニョーラ中継と『Foot!』を見て、J SKY SPORTSに入ろうと思ったクチなので、初めてお会いした時には、「おお!クラッキーだ!」とそれはそれは嬉しくて。ただ、スタッフになって一番最初の収録の時にいきなり注意されたんです。ある大物ゲストがいらっしゃっていて、テンション上がり過ぎた僕に「もっと礼儀をわきまえないといけないよ」と。正直その時はかなりショックでしたけど(笑)、そういうことをちゃんと教えてくれる方なんです。

海外ロケもご一緒しました。倉敷さんのアイドル、ヤリ・リトマネンを訪ねる旅。エールディビジの全スタジアムを回る旅。プレミアリーグの全スタジアムを回る旅。木村浩嗣さんをスペインへ訪ねる旅。どれも印象に残っていますが、一番最後のスペインロケで僕がどうしてもやりたい企画があったものの、スケジュールの都合上、みんなで行くのは難しい場所で。逡巡していた僕に「やりたいなら行っておいでよ。待ってるから」と声を掛け、背中を押してくれたのも倉敷さんでした。アレは嬉しかったなあ。

「すべてのものはフットボールに通じている」。これは僕が『Foot!』から教えてもらったことでもあり、倉敷さんから教えてもらったことでもあります。フットボールには無限の楽しみ方があり、無限の広がりがある、と。特に2000年代中盤からの数年間は週1回の放送だったこともあって、甲斐D、石神Dと毎回どうサッカー(※こちらはあえてサッカー、と)に紐付きながら、どうサッカーだけの話題にとどまらない番組を作っていくか、考えるのが本当に楽しかったんです。あの数年間が、僕のサッカーの仕事に対する大半を形作ってくれたと言っても過言ではありません。

最近は小説『星降る島のフットボーラー』まで上梓され、より活躍のフィールドを広げられている倉敷さん。本文の中でも出てくるように、最終的には「ラジオに戻りたい」という気持ちが強いようですが、個人的にはまだまだサッカーの中に潜む、日常に繋がるアレコレをテレビの中でご紹介して戴きたいなと。それこそ今までと同じで「誰もやらないやり方」で。そこにもし、僕が協力できる余地があるのなら、是非また一緒にお仕事させてもらいたいなと思っています。

  • Line