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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年03月04日

Pre-match Words ~松本山雅FC・喜山康平編~(2015年10月2日掲載)

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【Pre-match Words 松本山雅FC・喜山康平編】

(2015年10月2日掲載)

Q:セカンドステージも終盤戦に差し掛かっていますが、ここまでのチームのパフォーマンスをどのように捉えてらっしゃいますか?

A:最初はJ2でやってきた戦い方をそのままというか、さらに質を上げてという形で挑んだJ1の戦いだったんですけど、そこで開幕戦に引き分けたり、色々な試合を経験しながら7連敗があったり、どうしても最初上がってきた勢いとかも試合に勝てなくなったりすると忘れがちになって、試合の内容としても手応えのないというか、そういう試合が少し続いてしまったと思います。ただ、後半戦に入ってからは新しい選手も何人か加わって、試合内容だったりやろうとしていることというのは出せている試合が多くて、それにやっぱり自分たちの目標であるトップ15ということを目指すなら絶対的に勝ち点が必要な訳で、そこに結び付けるための試合というのを、まだ90分通してできていないのが今のこの順位かなという風に思っていますね。

Q:中盤にアンカーを置くシステムは試合途中から採用することはあっても、スタートからというのはセカンドステージに入ってからだと思いますが、あのシステムだと守備がある程度は安定する手応えはありますか?

A:そうですね。バイタルの所に人数を割けるというか、システムの特性上の部分があって、2ボランチでやって2シャドー1トップみたいな形にすると、どうしても2シャドーが守備でだいぶ下がってきてしまうことがあって、これから攻撃となった時にオビナ1人しか前にいないということが、押し込まれる相手だと結構あったんですけど、アンカーが入って3ボランチみたいにして2トップにすると、もう1人の2トップの片方にも取った後に当てる所が2つできますし、そういう意味でもカウンターというのも自分たちの特徴の1つなので、そういうのも出やすい展開になっているのかなというのはあります。

Q:3-3-3-1みたいなシステムの時は2列目のサイドをやっていたと思いますが、ボランチよりもちょっとゴールに近いあのポジションにはどのように取り組んでしましたか?

A2ボランチの時より走る運動量というのはもう少し長い距離が求められますし、攻撃になった時にアンカーがいてくれるので、あまり後ろを気にしないでどんどんボックスの中に入って行けたりとか、結構自由にできる面があったので、そういう意味では運動量を求められますけど、やりがいのある楽しいポジションではあるなとは思っています。

Q:元々攻撃性の高い選手ですから、あのポジションは楽しくやっていたのかなとも思っていましたが、そういう部分は大きかったですか?

A:そうですね。やっぱりゴール前に行けるのが楽しいですし、実際そこでシュートまで行くシーンというのは何回かあったんですけど、決めることができなくて今はディフェンスをやっているんですけど(笑) でも、楽しかったですね。

Q:今おっしゃったディフェンスをやってらっしゃるということで、3バックの左というポジションに新たに取り組まれていますが、そのポジションに関しては率直にいかがですか?

A:実際にやり出したのは2年前のキャンプで、割と左のセンターバックをやることが多くて、ディフェンスが元々その年は少なくて、「人数合わせ的な感じかな」とか思いながら(笑) でも、キャンプが終わるくらいにソリさんに「色々プラスにもなるだろうし、人数合わせでやっている訳じゃないから」みたいなことを言われて、元々ポジティブには取り組んではいましたし、でもそういう風に言われてもっとボランチに戻った時にプラスになることがあるというのはより考えながらやるようになりましたし、実際そういう積み重ねで。J1でやるとは思っていなかったですけど、やることになったので新鮮ですね。

Q:反町監督に起用の意図を伺ったら、「後ろで少しボールを持ちたいから、喜山を後ろで使っている」とおっしゃっていましたが、その部分に関してはゲームの中で出せている手応えはありますか?

A:うーん、自分が後ろにいる意味というのはもうちょっと出していかないといけないかなというのは思っていますね。もっとフォワードに良いクサビを入れたりとか、逆サイドにサイドチェンジしたりだとか、自分の所から展開するような流れを、自分がそこで出ているならもう少しやらないといけないなという感じですね。

Q:中学時代や高校時代を知る者としては「ディフェンダーをやるんだ」という感じもありますが(笑)、新鮮に取り組めている感じなんですね。

A:そうですね。まあかなり周りに助けられながら、イイちゃん(飯田真輝)が主に真ん中をやっているので、かなり助けられながらやっている部分はあります。でも、色々な対戦相手、色々なフォワードのタイプがいて、そういうのも色々な駆け引きとかをしながら、楽しみながら新鮮にやっています。みんなに言われますけどね。昔から知っている人には。

Q:「なんでディフェンダーやってるの?」みたいなことですか?(笑)

A:「えっ、後ろ?」みたいな(笑) 「だいぶ下がったね」みたいな。

Q:ご自身としても今シーズンは初めてのJ1だと思いますが、自分の思い描いていたイメージと実際に戦っている現実とのギャップはありましたか?

A:うーん...(熟考) あまりなかったですけど、7連敗している時は「ここまで勝てないか」とは思っていましたね。

Q:自分のプレーという面ではいかがですか?

AJ2の中でも去年だったらジュビロだったりジェフだったり、毎年J1仕様のチームがあったので、そういう意味でもイメージはしやすかったというか、「そういう感じなのかな」という風に臨んで、個人としてもあまりそこは変わらなかったかなというのはありますけど、やっぱり応援で持って行かれる力はJ2J1で違うなというのは、開幕戦から思いましたね。

Q:それはスタジアムのサポーターも含めた雰囲気ということですか?

A:はい。専用のスタジアムも多いですし、お客さんの人数もJ1J2ではだいぶ違うので、特にグランパスとの開幕戦(△3-3)は3-1で勝っていながら割とすぐに1点入れられて、そこからスタジアムの雰囲気にやられたみたいな感じで。そういうのはJ2ではなかったかなというのは思いましたね。

Q:開幕戦のゴールはJ1初ゴールだったと思いますが、振り返ってみるとどういうゴールでしたか?

A:カウンター気味で結構長い距離を走って、1回自分の所に来たんですけど、シュートを打とうと思ったら打てなくて。打てなくて回転して、1回パッて中を見たらオビナが凄く優しいパスを出してくれて、ちょっと「オフサイドかな?」と思ったんですけど、逆にそれで力が抜けて、良いトラップができて。「普通はファーに打つだろうな」と思ったので、「ニアに打ってやろう」と思って。その時は結構ゾーンに入っていたと思います。

Q:感慨みたいなものはありましたか?

A:ああ、どうだろう。点を取った時はメッチャ嬉しかったんですけど、ソッコー失点したので(笑) 「これはマズイぞ」と。スタジアムの雰囲気も含めて。そうしたら案の定同点にされて、最後はPKを与えて。何とかGKが止めてくれたので引き分けでしたけど、あまり自分のゴールというよりは「試合運びが甘かったな」という感じが強かったですね。やっぱり点を取っても勝たないと意味がないので。

Q:ここまでの2ゴールという数字に関してはいかがですか?

A2点とも長い距離を走って、ペナの中でシュートを打ったという意味では、去年から課題というか、そこは自分にとって求めていた部分で、映像とかを見返すと、「ここでもう1個早くダッシュのスタートを切っていたら、もしかして自分がセンタリングに合わせられていたかもしれないな」というのが結構今まであって、それを今年の課題として持っていたので、そういう意味では結構ソリさんもスプリントというのは大事にしていて、フィジカルコーチもそういう重要性というのを結構言っているので、そういう課題にしていた部分が2点とも形になったので良かったなと思います。

Q:今回はホームゲームということで、アルウィンで試合を見る時は僕も常に鳥肌が立つような感じなんですけど、そこで長くプレーされている喜山選手にとって、改めてアルウィンっていかがですか?

A:やっぱり練習で出せないパワーというか、アドレナリンを含めてそういうものを出させてくれますし、後半キツい時になっても「まだ行けるぞ」という風に思わせてくれるスタジアムでもありますし、サポーターもなかなか苦しい中で試合前のアップの時の応援を少し変えて、盛り上げたり鼓舞してくれたりとか、そういう気持ちも感じているので、何とか応えたいなと思っています。

Q:前にも同じことを伺った時に「これが当たり前だと思っちゃいけない」とおっしゃっていたことが僕は凄く印象的だったんですけど、それは今も変わらないですか?

A:そうですね。やっぱり「これがJ2になってしまったら減ってしまうかもしれない」という危機感もありますし、本当に全員とは言わないですけど、松本山雅を応援している人は毎週末の試合を生きがいにしてくれているサポーターも多いので、そういう人たちの生きる力に少しでもなれれば良いなと思いますし、たぶん僕もあるチームのサポーターなので、試合に勝つとその週はちょっと気分が良いですし、今年はそういう意味ではなかなか良い気分になってもらえていないと思うので、あと5試合は良い気分になってもらいたいなと思っています。

Q:ここからはキャリアのお話を聞かせてください。小学校時代のプロフィールを拝見すると、ヴェルディジュニアに入られる前に2つの所属チームが記載されていますが、それはどういう流れですか?

A:まず南百合丘SCは神戸にいる相馬(崇人)くんとか、岡山にいる近藤徹志くんとかも出ているチームで、僕の3つくらい上の代が全日本少年サッカー大会に出ていたりとか、川崎では有名なチームだったんです。僕が通っていた真福寺小学校には2年生から入れるチームがあったんですけど、そこではなくて「ちょっと強いチームでやりたいな」と思ったんですよね。小さい頃に全国大会も見に行っていたので、そのイメージもあって入ったんですけど、小学校に通ってみると普段は凄く仲良くしている友達も、週末は別々というのがあって、その友達たちが月曜とかに週末の試合のことを話している輪に入れないというのが結構嫌で(笑)

クラス数とか人数もそんなに多くないような仲の良い小学校だったので、ちょっと「これは仲間とやった方が楽しくできるな」と思いましたし、ちょっとチーム力が落ちても「自分が勝たせればいや」と思って、最初の移籍を決めました。あとは自分の父親がその真福寺FCの監督をやっていたのもありましたし、2つ上の兄もずっとそこでサッカーをやっていましたし、幼稚園の時とかに一緒にやったりもしていたので、愛着はあって1年で移籍しましたね。

Q:そんな愛着があって、父親も兄もいたチームを捨てて(笑)、ヴェルディジュニアに行った理由は何だったんですか?

A:最初はヴェルディのスクールに入っていたんですよ。兄もヴェルディジュニアに小学4年から1年くらい入っていて、小学校の頃はスクールの練習が6時前ぐらいに終わって、その後にジュニアの練習が始まるんですけど、そのままウチの母親と残って、クラブハウスの2階に室内から見られる所があるので、そこでずっと練習を見ていたんです。スクールに3年通って、たぶんそういうのもあったのでコーチとかも存在は知ってくれていて、3年の時にスクールのコーチから「ヴェルディジュニアに入らないか?」と言われました。でも、ヴェルディジュニアは本来4年生からしか入れなくて、誰も同い年がいないので不安はあったんですけど、ヴェルディは幼稚園の頃からメッチャ好きだったので、もう即決したと思います。たぶん。あまり覚えてないですけど(笑)

Q:全少で日本一も経験していて、結果も相当出していますけど、かなりジュニア時代は楽しかったんじゃないですか?

A:濃かったですね。実際に1個上の代は陵平くん(林陵平・山形)や須藤右介(相模原)とか結構Jリーガーになった選手がいますし、上田康太くん(磐田)もいて、僕は結構康太くんに憧れていて、10番でムチャクチャ上手かったんですよ。コレは本人には言ったことないですけど(笑) そういう上手い選手とやれる環境にいた中で、小5の時に1個上の全国大会にメンバーから漏れて出られなくて、それが1つ目の挫折みたいな感じでしたね。それで、次の年は絶対に出て優勝してやると思っていたので、練習とかもそこから凄くするようになりましたし、実際にキャプテンで優勝できたので嬉しかったですね。決勝はレイソルとやったんですけど、相手のエースは船山(貴之・川崎)だったんですよ(笑) その頃からアイツもかなり有名で、足もムチャクチャ速かったですし、ちょっと太ってはいたんですけどね(笑) もう怪物的な感じだったんですよ。まあ楽しかったですけど、過去の栄光です(笑)

Q:普通にジュニアユースにも上がって、ユースにも上がってまた全国優勝も経験して、今から振り返ってみるとちょっと天狗になっていたような部分はありましたか?

A:いや、正直ケガばっかりしていたんですよ。たぶん中学から高校までの6年間で半分くらいしかサッカーをやっていなくて。だから、代表とかに選んでもらって、ムチャクチャ刺激を受けて帰ってきているのに、戻ってきたらケガでサッカーできないというような感じがずっと続いていて、8ヶ月くらいのケガとかもあったので、天狗になるというよりも「サッカーやりてえよ」という気持ちばっかりで、結構大変でしたね。色々な人に当たっていました(笑)

Q:両親とかですか?

A:両親もそうですし、ジュニアユースやユースの指導者の方々には大変お世話になりました(笑) 今ではいつもネタにされるんですけど、ヴェルディはブラジル体操と言って、試合前に気合い入れて、みんなで合わせながらやるアップがあるんですけど、それとかも1人でやっちゃっていて。

Q:1人でですか?(笑)

A:みんな一緒にやっているのに、もうなんか「一緒にやりたくない」みたいな。中3とかのヴェルディのヤツらとかって、相手がちょっと弱かったりするとチャラチャラするような部分があって、そういうのが許せなくて、「同じテンションでやりたくない」みたいな。超問題児だったんですよ(笑) それで1人でアップとかしていると、今はなでしこJAPANも担当しているフィジカルコーチの広瀬(統一)さんに呼ばれて、「オマエ、どうしたんだ!?」とか言われて(笑)

その時の監督はINAC神戸をやっている松田(岳夫)さんだったんですけど、松田さんにも何回も呼ばれて、色々と相談に乗ってもらったり、色々な映像を見せてもらって、色々な話をしてくれましたね。「今、おれらはこういうサッカーをやりたいから、オマエにはこういう風にして欲しい」とか凄く言ってもらって。本当に育成のスタッフには感謝しています。結構夜遅くまでリハビリとかをしていて、バスとかもなくなっちゃうんですけど、僕は小田急よみうりランドの山道をずっと通っていたので、「山道は危ない」みたいなことになって、割と実家も近かったので「車に乗っていくか?」みたいな感じで、新吉さん(菊池新吉・川崎GKコーチ)とか色々な方に車に乗せていただいて家まで送ってもらったりとか。まあ、半分くらいそれ目当てで遅くまでいたんですけど(笑)、育成スタッフの皆さんにはお世話になりまくっていました。

Q:ちなみに高3時代の監督が、今のチームでヘッドコーチをやっていると思いますが(笑)、それってどういう感覚なんですか?

A:僕は実は柴田(峡)さんとはあまりやっていないんです。高3の時もケガがメッチャ多くて、実際3ヶ月くらいしかやっていないんですよ。

Q:優勝した高円宮杯は出てないですよね?

A:そうなんです。だから優勝した実感もなくて。クラブユースは出ていて優勝したので、そっちの実感はあったんですけどね。だから、他の選手に比べたらそこまで"柴田さん練習"をやっていないので、他の選手に比べて心に恐怖心みたいなものは持っていないですよ(笑) 結構他のヤツらは柴田さんに会った瞬間にあの練習を思い出すと思うんですけど、僕はそこまででもなくて(笑) でも、柴田さんも高3の時は結構話をしてくれましたね。実は1回コンバートを勧められて。

Q:基本的にはずっとフォワードですよね?

A:まあサイドハーフとかもやっていたんですけど、「オマエ、ボランチやれ」と言われて。その時は結構ポジションにこだわりがあって、なぜか知らないけど当時の僕は泣いたらしいんですけどね。でも、こっちに来て「ほら、言っただろ」って言われました(笑) そういうのも含めて親身になって話してくれたので、そういう人と一緒に戦えるというのは幸せですよね。

Q:柴田さんは変わっていないですか?

A:変わっていないと思います(笑) ユースの頃の練習はさすがにプロではできないと思うので。時代的にもギリギリだったんじゃないかと(笑) 自分はちょっとしか経験していなかったですけど、今やったら...っていう(笑)

Q:かなり順調にキャリアを積んだ中でトップチームに昇格しましたが、2年目に岡山へ期限付き移籍をされたと思います。当時を振り返っても、なかなかヴェルディで活躍するのは難しいなという感じでしたか?

A:いや、結構手応えはあったんですよ。でも、プロになった時もケガをしていて、練習をし出したのが5月の終わりくらいだったので、最初はフィジカルの差を感じたり、5ヶ月くらい休んでいたこともあって単純にサッカー勘もなかったですから。ただ、その時のサテライトは柱谷(哲二)さんが見てくれていて、メチャクチャ鍛えられて、フィジカル的にも選手個人としても凄く成長しているなというのが感じられた半年ぐらいだったんです。

1年目は試合自体には最後の方で1試合しか出られなかったんですけど、周りにも「オマエ、結構いいよ」みたいに声を掛けてくれる先輩もいたので、手応えがある中で2年目を迎えたら、いきなりフッキは来るわ、ディエゴは来るわで(笑) それでも僕の中ではやれる自信もありましたし、そのシーズンに来た名波(浩)さんと2週間ぐらい一緒にやれたんですけど、それが凄く楽しかったんですよ。アドバイスもしてくれましたし、動いたらパスが出てくる感覚もあって、「これは凄い」と思いながらやっていたんですけど、強化の人に呼ばれて「ここでチャンスはない」って言われて。それで移籍の話になって、「どこですか?」って聞いたら「地域リーグの岡山だ」と。

ただ、1つは小学校からずっと一緒にやっていた弦巻(健人)も岡山に移籍するというのもあって、サッカー観は合うのでパスを出してくれる人が1人はいるというのと、あと1つはヴェルディという環境しか知らなくて、非常に恵まれた環境だったと思うので、1回外を知っておくのも色々と大事かなと思ったんです。実は昔から指導者をやりたくて、もちろんずっとトップレベルでやれるのが一番良いに決まっているんですけど、そういうのを体験するのも必要かなとも思いましたし、岡山には昇格という明確な目標もあったので、フロントの人たちも熱が凄くあって、「これはやってみる価値はあるな」と思って行きました。

Q:実際にゴールも凄く記録して、カテゴリーも2つ上げた格好になりましたが、充実感はかなりありましたか?

A:ありましたね。一番難しいと言われる地域決勝リーグの3連戦も体験して。今では考えられないですけど、そういうことがあったので、レベルは違うかもしれないですけど、この前の3連戦も地域決勝の3日連続とかに比べたら、「2日も休めるじゃん」と思えますし、やっぱり当日にバスで6時間ぐらい掛けて移動して、試合してそのまま帰ってくるとか、グラウンドも土だったりとか色々と経験しているので、人間的に多少のことでは動じなくなったかなというのは思いますね。

Q:ずっとトップレベルでやってきた選手がそういう環境に行くと、喜山選手みたいにそういうものを感じて得られる選手と、逆にそこで終わってしまう選手とはっきり分かれると思いますが、その経験をしっかり自分のものにできている理由は何だと思いますか?

A:やっぱり「ここで終わらねえぞ」というのはずっと思っていましたね。自然の流れで考えたら、過去の例とかを見てもそのまま終わっていくのが流れだと思いましたし、「周りもそういう風に考えているだろうな」と思っていたので、「絶対にここで結果を出して上に行く」というのは常に思っていましたし、そういう環境なので楽な方向に逃げようと思えば逃げられる状況は結構あったと思いますけど、そういう時にその気持ちがあったので、今があるのかなと思います。

例えば選手名鑑とかを見ていても、セリエAとかって下部リーグから上がってきた選手って結構いるんですよね。だから、僕も名鑑を見ながら「こうなってやろう」と思っていました。セリエAでバリバリ活躍している選手も、若い頃にレンタルとかで下部リーグに移籍していたりするじゃないですか。でも、日本ではまだあまりそういう例もなかったので、「自分もこうなってやろう」と思いながら名鑑を見ていましたね(笑)

Q:そこから1回ヴェルディに戻って、カマタマーレに移籍した後に、山雅に来たんですよね。ここへ来る時はどういう決意で移籍してきたんですか?

A:いろいろ重なったんです。岡山からそろそろ環境を変えたいなと思っていた時に、ケツさん(川勝良一・前東京V監督)が呼んでくれたんですけど、実際は全然試合に絡めなくて、レベル的にもちょっと差があるというか、ヴェルディのサッカーに実際入ってみると「レベル高いな」と思っている中で試合にも絡めなくて、「このままじゃどうかな」と感じていた時に「讃岐に行かないか?」という話をもらったんです。でも、最初は正直凄く嫌だったんですよ。せっかくJ2まで戻ってきたのに、またJFLに行くのもそうでしたし、岡山から環境を変えたくてヴェルディに戻ってきたのに、讃岐って岡山にメッチャ近いんですよ(笑) 電車で50分くらいで行けちゃうので、「そんな所に行くのか」と思って。

でも、実際に行ってみたら今も監督をされている北野(誠)さんが凄く信頼してくれて、試合勘とか自信も取り戻すことができたんですよね。そんな中でやっぱり試合に出続けていくと、また上のステージでやりたいという想いがあって、実際に「次の年も残ってくれ」と讃岐は声を掛けてくれて、もちろん愛着や感謝の気持ちもあったので残りたいという想いはあったんですけど、山雅からも話をもらっていたんです。ちょうどその時にC級のライセンスを取りに行っていて、讃岐で一緒にプレーしていた西野(泰正)さんも一緒に受講していたんですけど、「山雅からこういう話があるんですけど」って相談したら、「オマエ、絶対に行けよ」と言ってくれて。「選手としてそんなチャンスはなかなか来ないぞ」と背中を押してくれて、色々考えた結果として来ることになりましたね。

Q:お話を聞いていると、色々な経験をしながら、色々な場所で色々な出会いがあって、このクラブでJ1まで辿り着いた訳じゃないですか。実際に今までのことを振り返ってみると、今こうやってJ1でプレーできているということは率直にいかがですか?

A:自分の力というよりは、「本当に周りの人に恵まれたな」ということしかないですね。結局人の繋がりって凄く大事じゃないですか。そういうものに恵まれているなと思っているので、出会ってきた人を裏切らないように、自分がプレーすることでその恩を返していきたいなと思っています。

Q:色々なクラブを経験してきた中で、あえてザックリお聞きしたいんですけど、松本山雅っていかがですか?

A:山雅は特別なクラブですよね。みんなの色々な愛情が詰まっている感じがします。ここまで来るのに色々な出来事があって、色々な人の気持ちが詰まっているのを凄く感じます。

Q:そのクラブでピッチに立つというのは、やはり相当責任感が必要だなという感じですか?

A:難しいんですけど、自分が最終的に思い切って楽しくやることでしか、みんなのそういう気持ちには応えられないと思いますし、そういう気持ちで毎試合ピッチには立っていますね。色々な人の想いを含めても、結局自分が全部ピッチの上で出し切るしかないと思っています。

Q:これを最後の質問にしようと思っていて、これもあえてザックリお聞きしたいんですけど、これからの夢ってありますか?

A:あります。ありますよ...

Q:言いたくない感じですか?

A:いや、全然言っても良いですけど...

Q:やっぱり言いたくない感じですか(笑)?

A:やっぱりアンダー世代でしたけど、1回日の丸を付けて国歌を歌ったりして、日本を代表して戦うと、その特別感は忘れられないですし、そういうのは誰もが思っていると思うんですけど、もう一度日の丸を付けることは夢でもあります。でも、あまり夢は見ないようにしているんですけどね。結構「何年後にここにいて」とか「10年後はこうなっている」みたいに目標設定した方が良いみたいな感じがあるじゃないですか。でも、その目標が自分の中で大きくなり過ぎてしまって、追い付かなくなるタイプだったんですよ。今までの人生で色々あったんですけど。なので、こっちに来てからは11日やることをやって、積み重ねて行った先にそういうものがあるのかなと感じていて、実際に山雅に来てからJ1へという道のりもそういう積み重ねで実現できたので、今はそういう風に思っています

【プロフィール】

東京Vの下部組織で全国優勝や年代別代表を経験しながら、2006年にトップチーム昇格。以降は地域リーグ時代の岡山や、JFL時代の讃岐を経て、2012年に松本へ加入。昨年はレギュラーとしてチームの昇格に大きく貢献し、今季は自身初となるJ1の舞台で躍動している。


※所属チームを含めた情報は、当時のものをそのまま掲載しています。

ご了承ください。

取材、文:土屋雅史

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