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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年03月08日

Pre-match Words ~横浜F・マリノス・中町公祐編~(2016年4月22日掲載)

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【Pre-match Words 横浜F・マリノス・中町公祐編】

(2016年4月22日掲載)

Q:ご自身としては2節以降ずっとスタメンが続いていますが、自分のパフォーマンスについてはどう感じてらっしゃいますか?

A:ゴールも早い段階で決められましたし、チームの結果が自分の結果だと思っているので、そういう意味では良いと思います。

Q:鳥栖戦(1st-第4節 〇2-1)のゴールはヒーローインタビューで「見たことのない弧を描きましたね」とおっしゃっていましたが、あのゴールを振り返っていただけますか?

A:ちょっと自分で言うのも何なんですけど、色々な要素が詰まっているゴールかなと。状況判断の部分とあとはボールをコントロールするテクニックだったり、瞬時にその判断ができたゴールだったので、「なかなか生まれないゴールかな」というのはその時に一瞬思いました。

Q:ルーズボールが来て、トラップで目の前の選手を外しましたが、あれは思い通りのトラップでしたか?

A:いや、全然そんなことはなくて。トラップ自体は思い通りですけど。シュートのクリアが跳ね返ってきた時に結構ボールに回転が掛かっていたので、まずはそれをコントロールするために前に押し出そうと思ったんですけど、相手が来ていたのでそこの判断をとっさに変えて、相手をいなすという所と、あとはボールの回転をいかに吸収してトラップするのかという所がうまく行きました。

Q:GKが出ている状況で、シュートコースもあそこしかなかったと思いますが、コースも完璧でしたね。

A:完璧でしたね(笑) あれはあのパフォーマンスに繋がっていくんですけど、あのトラップが良かったからシュートのイメージも湧いたと思います。あまりあそこからいきなりトラップして、あのリズムであのシュートを打つというのは、なかなか自分の発想の中でも常に持ち合わせているものではないので、色々なものが重なったと思います。

Q:あのパフォーマンスもかなり満足そうな感じでしたね。

A:たぶん自分で驚いているだけなんです。「入っちゃったよ」みたいな(笑) そういう感じですね。

Q:そこまでゴール数が多いタイプの選手ではないと思いますが、やっぱりああいうゴールというのは格別ですよね。

A:アビスパ福岡に在籍していた時は1シーズンで10点取ったんですけど、ゴールで自分の価値を高めてきたという自負がありました。ただ、F・マリノスに入ってきてからは、それだけではなくて、力のある選手を生かしながら自分も生きるという所にシフトチェンジしていく中で、ちょっとゴール数は減っていますけど、その中で自分の役割というのはきっちり認識しているので、そこはあまり焦ってはいないですね。

Q:中盤は中村俊輔選手が広範囲に動くタイプで、喜田(拓也)選手もクオリティは高いですけど若い選手で、あのトライアングルのバランスについて中町選手はどのように考えながらプレーしてらっしゃいますか?

A2013年に優勝争いをした時は富澤選手(清太郎・千葉)がドシッと構えてくれて、シュンさんが自由に動く分、僕がその穴を埋めるというのが結構スムーズに行きました。今もその形になりつつあるというか、シュンさんには本当に自由に動いてもらって、トップ下の選手で違いを生み出せるというのがチームの勝敗を分けるというのはもうサッカーの常なので、うまくシュンさんを生かしながら自分が生きるというのを確立していきたいなと思っています。

Q:バランスを取りながら前線へ上がっていくことも少なくないと思いますが、そのあたりの折り合いはどう考えてらっしゃいますか?

A:そこは僕と喜田の関係性だと思います。彼が残っているなら多少後ろは捨ててでも行っても良いと思いますし、後ろの4人が強固なのでそこも信頼関係だと思うんですけど、後ろを見つつも思い切って行く所は行くという感じですね。

Q:2節以降の中盤はずっとあのトライアングルでプレーされていますが、徐々にそのバランスもうまく取れつつある手応えはありますか?

A:そうですね。縦の中心のラインというか、真ん中のラインがしっかりしないとどうしても崩れて行ってしまうとは思っているので、そういう意味では「良くなってきているんじゃないかな」という実感はあります。

Q:遠藤渓太選手や喜田選手の台頭など、若い選手の活躍も目立つ中で、中町選手もチームの中心選手としての役割を担う立場ですが、チームを引っ張っていこうという自覚はかなり持ってらっしゃいますか?

A:もともとチームへのロイヤリティが高い選手だと自分では思っていますし、そこが良い影響を与えるようにというか、試合に出る出ないというのはもちろんシーズンによってあると思うんですけど、自分が発する言葉や行動でチームに良い波及効果があるようにというのは常に考えてやっています。

Q:選手会長としての役割とリンクする部分もありますか?

A:そうですね。誰でもやれるものでもないとも思っていますし、逆に僕がこの立場でやることによって、若い選手もそうですけど、F・マリノス全体が良い方向へ進むようにというのは考えています。

Q:これは是非聞きたいんですけど、中村選手のフリーキックが今年はもう2本決まっているじゃないですか。割と良いポジションで中町選手はそのフリーキックを見ていると思いますが、あれって近くで見ていていかがですか?

A:最高の特権を得ているなという(笑) あのキックはちょっと別格ですね。「別格ですね」という言葉がちょっと安いぐらいで。僕もフリーキックの練習を一緒にしているんですけど、ちょっとキックの質とスピードと、またあの種類が異質ですね。あれはそうそう真似できるものではないなというのがあります。ましてや試合中にあれをやってしまうので、チームメイトとしては凄く助かります。

Q:同じプロのJリーガーとしても「本当に凄いな」という感じなんですね。

A:アレは凄いですね。ちょっとボールの軌道とスピードが違うんですよね。あとは相手との駆け引きが上手いというのと、それによってボールの球質が違うというのと。今のマリノスで言うと僕が一番近くで見ているでしょうね(笑)

Q:ちょっと見とれちゃうような感じですか?

A:蹴った後に入って、喜びに行って、みたいな、結構自分が無我夢中になっている感じもあるかもしれないです。

Q:結構良い立場ですね(笑)

A:良い立ち位置にいますね。みんなファンとかサポーターもわかっているんじゃないですか、俺が蹴らないって(笑) 自分でも感じるんですけどね。あそこで俺が蹴ったら、見に来ていた何万人の期待を裏切ることになるから、なかなか蹴りづらいというのはあるんですけど(笑)

Q:難しい立場と言えば難しい立場ですね(笑)

A:難しいですね。ただの傍観者になっています(笑)

Q:ここからは群馬時代の話をしたいんですけど(笑)、どの名鑑を見ても出身地は埼玉になっていますよね。このあたりからお聞かせいただけますか?

A:元々は埼玉県の与野市出身で、小学2年生の3学期に群馬へ引っ越したんですけど、僕の父は前橋高校(以下、前高)出身で、祖父と祖母は前橋に住んでいました。群馬へ引っ越しが決まった時に僕の2つ上の兄もサッカーをしていたので、前橋のどこでサッカーをするかという話の中で前橋ジュニアが出てきて、その当時は小学2年生はチームに入れなかったんですけど、たまたま僕と同い年に2つか3つ上の兄がいるという子が何人かいて、「じゃあ一緒にやりなよ」という所から前橋ジュニアに入ったんです。なぜ前橋ジュニアに辿り着いたのかはわからないですけどね。前橋エコーでも良かったのかもしれないですし(笑)

Q:サッカーを始めたのは小学2年生ですか?

A:いえ、4歳の時です。通っていた幼稚園にサッカーチームがあって、合宿とかもやっちゃうようなチームだったんですけど、関東大会みたいな大会にも出ましたね。

Q:幼稚園で関東大会があるんですか?(笑)

A:あるんですよ。埼玉は結構サッカーに対して熱心じゃないですか。そういう土地柄というのもあったと思います。小学校は下落合小学校という所で、そのチームには武南の大山(照人)監督の息子さんがいました。でも、下落合小学校のチームは何かの記録を見たら第1回の全少で優勝しているんですよ。

Q:前橋ジュニアでの小学生時代はいかがでしたか?

A:抜群に結果を残していましたね。前橋ジュニア自体が強かったので、どの大会でも前橋ジュニアとFC邑楽で決勝をするような感じでした。もしかしたら僕のアマチュア時代の経歴は、小学校の頃が一番華やかだったかもしれないです。4年生からレギュラーでしたし、関東選抜にも入っていましたし。

Q:全少は出ているんですか?

A:いえ、5年生の時も6年生の時もFC邑楽に負けました。実はその頃に前橋ジュニアにジュニアユースができて、僕の3つ上の代がそのジュニアユースに入ったので、青木剛さん(鹿島)とか田村雄三さん(現・いわきFC強化スカウト本部)とかと絡んでくるんです。あとは細貝萌(ブルサスポル・トルコ)もジュニアユースからですね。だから生粋のジュニア、ジュニアユース育ちはあまりいなかったんですよ。

Q:通われていた南橘中も結構強いチームだったと思いますけど、前橋ジュニアのジュニアユースには普通に上がったという感じですか?

A:そうですね。ある程度小学校のチームで中心だった選手は、そのままジュニアユースに上がる感じでした。

Q:チームメイトに清水慶記選手(群馬)がいたんですよね?

A:そうです。彼は小学校も同じで、実は彼が小学校のクラスメートだった時に、「センスあるからサッカーやろうよ」って前橋ジュニアに連れて行ったのが僕なんです。その話はいつもするんですけどね。運動能力が高かったからだと思うんですけど、仲が良かったのもあって誘いました。

Q:じゃあ彼をJリーガーの道に進ませたのは中町選手ということですね(笑)

A:当然彼の努力があってのことですけど、きっかけは僕ですね(笑) でも、彼は小学校の頃も正ゴールキーパーだった訳ではなかったですし、中学の時もそんな感じで、高校では選手権に出ていましたが、その後は色々な立場だった中で最終的にJリーガーになれたのは彼が持っていたということだと思います。

Q:ちょっと腐れ縁みたいな感じですか?

A:彼の実家の電話番号も言えますよ(笑) 結構遊んでいましたからね。そんなに今でもしょっちゅう会う訳ではないですけど、仲は良いですね。

Q:ちなみに小学校の頃の関東選抜はセレクションがあったんですか?

A:ありました。県で2人ずつみたいな感じでしたけど、水曜日に試合をした鳥栖の谷口(博之)は神奈川から来ていましたね。他にも選ばれてはいないですけど、セレクションにいたのはカレン・ロバートとか。あと、玉乃淳さんとか菅野さん(孝憲・京都)とかは年齢が1つ上ですけど、一緒にやっている感じですね。

Q:今回の解説は玉乃淳さんです(笑)

A:本当ですか!結構勝負しましたね(笑)

Q:玉乃くんと一緒にやっていて、しかも覚えているんですね。

A:覚えています。もうかなり有名でしたよ。これは余談ですけど、小学6年生の時に関東選抜に行く時は、遠征用のかなり大きいボストンバッグを、1泊とか2泊の合宿でも持って行く訳じゃないですか。群馬から頑張って。でも、玉乃さんはメチャクチャ小さいブリーフケースみたいなので来ていて(笑) 群馬から来た僕にしてみれば「なんてツワモノなんだ」と(笑) 玉乃さんも「いや、別に洗濯すればいいでしょ」みたいなことを言っていて、もうプロみたいな感じだったんですよ。アレはカルチャーショックでしたね。こっちは予備も含めて何個も何個も荷物を持って行っているのに。都会の人と田舎者の違いというか、あのブリーフケースは信じられなかったですね。いまだに覚えてますよ(笑)

Q:素晴らしい余談です(笑) 中学の時はキャプテンもやっていたんですよね。

A:中学3年生の時はやっていました。でも、中学校時代はちょっと萎みましたね。中学2年生の時は1個上の代の試合に出ていなかったので。体と心のバランスが成長期で難しかったのもあったかもしれないですけど、単純に良くなかったんでしょうね。全然使ってもらえませんでした。

Q:それでも小学校時代に関東選抜に選ばれていて、中学時代に前橋ジュニアのキャプテンをされている選手が高崎高校(以下、高高)に行くという選択肢は本来考えにくいと思うんですけど、どうしてそういう選択肢になったんですか?

A:まずは高高の諸先輩方が積み上げた実績もあります。親とももちろん相談した中で、県外の高校も自分は少し考えてはいましたが、それはまず「ノー」だと。(前橋)育英も考えましたけど、少し推薦の形態が自分たちの思っていたものと合わなかったんです。そんな中でウチは教育熱心な両親で、小学校から塾にも行っていましたし、中学校でも家庭教師も付けてくれていたぐらいだったんですよ。

そういうこともあって、サッカーと両立して勉強するというのがベースにあったので、そこで前高、高高というのがキーワードとして出てきた時に、当時で考えてサッカーが強いのは高高だったんです。僕の中でもスポーツが強いというイメージが高高にありましたし、全国大会に出たことがあるというのも大きかったですね。「サッカーは捨てたくないし、勉強も捨てたくないということで考えたら高崎高校だね」という結論になって、進学を決めました。

Q:周囲には結構驚かれたんじゃないですか?

A:どうなんですかね。前橋ジュニアの監督とも面談がありましたけど、そんなに驚かれなかったですよ。前橋ジュニアの3つ上の先輩が高高に行っていて、その方にもお話を伺ったりはしました。あそこは人生の分岐点でしたね。

Q:今から振り返って高高での3年間はいかがでしたか?

A:まずサッカーは通用する訳ですよね。僕の中には高校サッカーのイメージもあったので、当然重心はサッカーだったんですけど、先輩方の勉強に重きを置いている度合いが尋常じゃなくて(笑)、それこそ最初に遠征に行った時にみんな"ターゲット"(※英単語の参考書)とかを読んでいて、「えっ、信じられないんだけど...」みたいな(笑)

Q:わかります(笑)

A:アレは凄いですよね。中学の時は遠征の移動なんてトランプとかゲームとかやっていたのに、いきなり参考書を読まなくちゃいけないみたいな感じになって。あのギャップは凄かったですね(笑)

Q:サッカー面はどうだったんですか?

A:県でベスト8より上には行けなかったです。高校3年生の夏で基本的にはみんな引退しますけど、僕はプロに行くことが決まっていて、選手権まで残る訳じゃないですか。でも、青山学院大学の試験が選手権予選の日と重なってしまったんです。僕が高校3年の時の選手権予選は決勝リーグというのがあって、そこで勝ったらベスト8から決勝トーナメントという形式だったんですけど、僕にとってはベルマーレでプレーしながら通える大学という選択肢が慶應義塾大学と青学しかなかったですし、青学はスポーツ推薦で1次試験を通ったら、次の試験の日が決まっていたんですよ。

それで1次試験を通ったので、サッカー部の坂田(和文)先生に「自分の人生が懸かっているので、試験に行っても良いですか?」と聞いたら、「オマエが決めろ」と言って下さって。その試験と重なった日の対戦相手が前高で、直前に高高・前高定期戦で試合をした時に、僕も2点ぐらい取って4-1で勝っていたんです。だから「これは大丈夫かな」と思って試験に行ったら、結局チームも負けて、しかも試験にも落ちてしまって。それが僕の高校サッカーの終わりでしたね。

Q:ちょっと遡らせてもらいたいんですけど、ベルマーレからオファーが最初にあったのはいつ頃ですか?

A:高校2年生の終わりに県選抜で国体のプレ大会みたいな大会に出たんですけど、その時に神奈川県選抜と対戦して、相手方にベルマーレの育成の方がいて、そこでちょっと目を付けていただいて、高校3年生の最初には練習参加していました。

Q:その練習参加に躊躇はなかったですか?プロになりたいという気持ちも当時から強かったということでしょうか?

A:人生プランとしては、大学を出てからプロに行きたいというのはありました。でも、その練習参加でちょっと変わりましたね。目の前にJリーグというものが現れて。「9月までにどうするかを決めて欲しい」とベルマーレから言われていた中で、その前に国体があって、そこで活躍すれば他のチームという選択肢もあったかもしれないですけど、国体で試合に出られなかったので、結果的にベルマーレに一本釣りして戴いたという形ですね。

Q:高高からJリーガーが出るなんて、当時は周囲からも相当な反響があったでしょうね。

A:まあ男だけですからね(笑) そういう意味では実感はなかったですよ(笑) しかも10月ぐらいに「ベルマーレに入ることになりました」みたいになったら、みんなも「スゲー」みたいにメチャクチャ祝福してくれる訳です。その1週間後に慶應のAO入試に合格したんですけど、それが校内で一番最初の合格だったんです。それでみんなに「慶應受かりました」と言ったら、「何だよ、アイツ」みたいな雰囲気になって(笑) サッカーでJリーガーになったことは手放しで喜んでくれたんですけど、僕が慶應に受かったことに関してはまったく反応がなかったですね(笑)

【※高崎高校は男子校】

Q:今から振り返っても高高を選んで良かったと思いますか?

A100パーセント思います。もちろん自分の人生観が形成されたというのもありますけど、サッカー的にも自分のストロングポイントを伸ばせてもらえたというか、自分がチームを背負うぐらいの覚悟を持ってプレーするというのが、後々のサッカー人生に生きてくる部分も多々あって、そういう意味でも非常に良かったですね。

Q:ベルマーレには4年間在籍されていたと思いますが、今から振り返るあの4年間というのはどういう時期だったと捉えてらっしゃいますか?

A:『酸いも甘いも』という時期ですね。まず社会人になったということと、あとは今から思えば良い経験ですけど、当時はやっぱり色々苦しい場面に遭遇していたのかなとも思います。

Q:苦しい場面というのはどういう場面が思い起こされますか?

A:プロになって3年目まではある程度試合に出ていて、ベルマーレでプレーした最後の年は開幕2節目ぐらいからスタメンだったんです。そんな中の本当にワンプレーで、今でも覚えているんですけど、右サイドから上がってきた選手がいて、左サイドに石原直樹選手(現・浦和)がいて、僕はノールックで左に出したんですよ。素直に右に出せばチャンスになったシーンで、それが後半のアディショナルタイムぐらいで。そのワンプレーがあって、次の試合から出番がなくなって、

そこからは大変でしたね。紅白戦も出られずに6人ぐらいでシュート練習をしたりとか。あれは結構堪えましたし、あとはゼロ提示を受けたというのも良く覚えています。若い時ではありましたけど、「あなたの価値はゼロだよ」ということを突き付けられて。今ほど代理人の方もいなかったですし、来年はどうなるかというのが事前にわかるような時期ではなかったので、そういう意味では衝撃的でした。ちょっと『揺らいでしまう』じゃないですけど、そういうことがシーズン中に来てしまうというか、『人から信頼されない』という状況になったので。

Q:サッカーというものを軸に、もちろん自分に自信を持って生きて来られてきていると思いますが、その時期は1つの挫折という捉え方ですか?

A:僕はあまり"挫折"というワードは使わないんですけど、言い方を変えるとそう捉えられると思います。どちらかと言うとプラスになるような考え方をしたいので、あの経験がなかったら本当にのらりくらりとサッカーをやっていたかもしれないですし、自分と向き合う時間が多かったのは大きかったです。「本当に自分はここで終わってしまう人間なのか」とも自問自答しました。

僕は周りを尊重しながらも「自分が一番だ」と思ってプレーしていくタイプなので、要は自分の気持ちが揺らいだら終わりなんですよ。それが揺らいでしまうような状況が自分の前に来た中で、確かにJ2のクラブを契約満了になってしまうような状況でしたけど、「俺はJ1で活躍する選手だ」という想いは揺らがなかったので、その後に大学をチョイスした時もその「J1で活躍する」という想いは消えなかったですね。

Q:実際には他のJリーグのクラブからもオファーがありながら、大学を選んだんですよね?

A:いえ、行く所がなかったんです。当時は強がってというか、「俺は慶應に行くから」とカッコつけていた部分はありましたけど、内情はどこにも行く所がなかったんです。ロアッソ熊本に練習参加してもダメで、トライアウトを受けてもどのクラブからも連絡が来ないという状況でした。それで慶應の門を叩いたという感じでした。

Q:オファーがあったらJクラブに行っていた可能性もあった訳ですね?

A:ありましたね。「ちょっと休学しても」ぐらい考えていたと思います。でも、それが結果的に僕のストーリーを作ってくれたことになるんですけど。

Q:4年間大学に在籍していて、そこからさらに2年間を大学のサッカー部で過ごしたと思いますが、元々最初の4年間で卒業はできたんですか?

A:いえ、できなかったです。必修科目が残っていて、トータルで全ての単位を取得するのに2年間は絶対に掛かるということになったので、サッカー部としては3年生の学年に入るということになりました。

Q:入部した時はほぼ全員が年下という状況だったと思いますが、それはどういう感覚でしたか?

A:最初に入る前は「歳の近い4年生の方に入りたいな」という想いはあったんですけど、イ・ウヨン監督の計らいで「2年間やるんだったら、3年生の方が結局最後は同じ学年になるから」ということになったんですよね。年齢で1つ下に当たる4年生の学年には知り合いもいたので、「マチさん、マチさん」という感じでしたけど、2つ下の3年生には知り合いがいなかったので「マチ、マチ」なんですよね。でも、それは入ってみたらあまり気にならなくて、最初は本当に「やらせてもらうわ」と言いながら水汲みとかから始めました。そこは自分も"見せ方"を気にしていて、「Jリーガーが来たぞ」みたいな感じではなく、本当にそこのやり方に合わせるような形でやっていましたし、その時はもうあまりプライドのようなものが邪魔することはなかったですね。

Q:比較的スムーズに入れた感じはあったんですね。

A:みんなも心のどこかで想う所はあったかもしれないですけど、僕のそういう姿勢を認めてくれたのかもしれないですね。本当に新入生と同じようなことをして。それは河井陽介(清水)の代なんですけど、あの代と練習の1時間半前ぐらいからグラウンドに行って、水汲みから何から全部やって。すぐ慶應色に染まりましたけどね。良い組織ですよ(笑)

Q:慶應での2年間は相当大きな経験ですね。

A:相当大きいです。ラインズマンからビデオ撮影から何から何までやりましたから。あとは、プロの選手ってなんだかんだ言ってもライバルじゃないですか。ですけど、大学生は純粋に試合に出ている選手を応援するという"無償"な感じが良かったですね。あとは監督に信頼されてサッカーをするという喜びが欠けていたので、それを取り戻せたのも大きかったです。それこそ組織の厳しさにカルチャーショックを受けるような所もありました。例えば誰かが遅刻をしたら、2時間ぐらいのミーティングを"×3"ぐらいやるんですよ。「失った信頼をどう取り戻すんだ」ということをテーマに。つまり「組織の人間としてあなたはどう振る舞うんですか?」というのを凄く大事にする部活だったので、それは今でも生きていると思います。

Q:本当にオンリーワンな人生を歩んでいますよね。

A:なかなかないですよね。マリノスはみんなエリートなので、契約が終わってチームがないという経験をしているのは僕しかいないんじゃないですか(笑) 契約満了で違うクラブに行く人はいると思いますけど、どこにも行くチームがないという状況を知っているのは僕しかいないと思います。

Q:かなり波乱万丈なサッカーキャリアを歩んできた中で、それでもやっぱりプロになって良かったと思いますか?

A100パーセント思います。サッカーが自分の軸だというのもありますし、サッカーが自分のパーソナリティの大部分を占めているので、もう1回この人生をチョイスできるならチョイスしたいですね。

【プロフィール】

群馬県立高崎高校を経て、2004年に加入した湘南で4シーズンプレーした後、慶應義塾大学ソッカー部に入部。在籍した2年間でユニバーシアード代表も経験し、2010年に福岡でJリーグの舞台に復帰。現在は横浜FMで主力として活躍中。


※所属チームを含めた情報は、当時のものをそのまま掲載しています。

ご了承ください。

取材、文:土屋雅史

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