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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年03月01日

Pre-match Words ~横浜F・マリノス・三門雄大編~(2015年7月24日掲載)

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【Pre-match Words 横浜F・マリノス・三門雄大編】

(2015年7月24日掲載)

Q、ご自身もキャリアの中で初めての外国人監督だと思いますが、(エリク・)モンバエルツ監督はどういう監督ですか?

A、最初は結構怒っていることや嬉しいことを表現する監督だなという印象で、ちょっとしたパスのミスとかも「オオー」とかリアクションを取ったりするので、こっちも「ん?こういうのはちょっと怒られるのかな?」と思っていたんですけど、そういうことじゃなくて、ただ注意をしているだけで怒っている訳ではないというか、最初は「怒られるのかな」と思って萎縮している選手も若い選手にはいたと思うんですけど、監督の中ではただみんなを和ませようとしてやっていることが最近になってわかってきた感じですね。

僕の中で外国人監督というのはちょっとシビアなイメージだったんですけど、外国人監督にしては凄く優しい監督なのかなとは思いますし、サッカー以外の所でも話をいっぱいしてくれたりとか、ゲーム前も通訳の(松原)英輝さんに色々聞いて、日本語で指示を出してくれたりとか、日本に馴染もうという気持ちと日本の選手を理解しようという気持ちが凄く伝わってきて。もちろん自分は初めての外国人監督なので、誰かと比べるということではできないですけど、非常に良い監督に巡り合えているのではないかなと思います。

Q、通訳が入るとノリが一瞬わからないこともありそうですよね?

A、ありますね。「コレ、笑って良い所なのかな?」「コレは真剣に言っているのかな?」というのがちょっとわからなくて、最初の時とかは特に「コレ、笑って良い所なのかな?」と思いながら笑っていましたけど、最近は特にベンチに比嘉(祐介)が入っていたりすると、監督が日本語で伝えた時に一瞬「シーン」となったりしても、比嘉が上手く盛り上げてくれたりとかして、試合前とかも非常に良い雰囲気でアップにも臨めたりとか、試合に臨めたりしています。だんだん監督が何を伝えたくて、どういう人柄でというのはみんなわかってきたと思うので、練習や試合前にも非常に有意義な時間を過ごせているかなと思います。

Q、前節のG大阪戦(2015年J1 2nd-第3節 △2-2)の中村(俊輔)選手が決めたFKは、たぶん三門選手がスタジアムの最も良い位置で見ることができたんじゃないかなと思いますが、あれは実際にご覧になっていかがでしたか?

A、僕は結構FKを誰かが蹴る時に「壁に入ってGKが見えないようにしますか?」という確認をしに行くんですけど、行こうと思ったらシュンさんが凄く集中していたし、ちょっと声を掛けづらい雰囲気だったので、「このままここに立って見てようかな」と思って(笑) ちょっとそのゲームは自分がFKだったりCKだったりというのは後ろに残ることが多かったので、もう自分の中でも時間帯的には最後のプレーになるか、あとワンプレー残っているかという感じだったので、祈るような気持ちで、「シュンさん、お願いします」というような気持ちで後ろから見ていたんですけどね(笑)

もう蹴った瞬間に「あ、コレは入ったな」と思いましたし、相手の東口(順昭)選手も同じチームでやっていたので、彼の凄いスキルとかも知っていますけど、あそこのコースにあのスピードで蹴られたら仕方ないのかなというのは終わった後に少し話もしました。「アレはちょっとムリだな」とか言っていて(笑) でも、去年自分が出ているゲームでもああいうFKというのは見ることがなかったので、あんな間近であんな良い角度で、「あれがスーパースターなんだな」というイメージで見させてもらっていましたけどね(笑)

Q、やっぱり同じプロでも「スゲーな」と思うようなプレーだったんですね。

A、そうですね。もちろん練習で蹴っているのを見ることはありますけど、あの場面で、夏場で疲れていてあの時間帯で、それをあの集中力とあのキックのスピードと正確性というのは、本当にシュンさんの練習の賜物だと思いますし、もう本当に良いモノを後ろから見させてもらったなという感じですね(笑)

Q、三門選手と言えば、絶対に外せない話題として新潟戦があると思います。去年は2試合とも出場機会がなかった中で、今回(2015年J1 1st-第11節 〇1-0)はスタメンで出てああいう結果を残せたと思いますが、あのゲームに関してはいかがでしたか?

A、本当に気合が入り過ぎて、「空回りするんじゃないかな」と思うくらい自分の中では気合が入っていましたし、「このゲームで空回りしちゃったらしょうがないな」くらいの気持ちでピッチに立ったんですけど、前半からガンガン前に行って、できるだけ相手のレオ・シルバ選手と小林(裕紀)選手を疲れさせたりとか、「『コイツやっぱりイヤだな』と思われるようなプレーをずっとしてやろう」と思っていました。前半はなかなかそういうプレーをしていてもボールが出て来なかったりとか、そういうのはあったんですけど、それがちょっと伏線になって後半はあのような感じで点が取れたと思いますし、やっぱり古巣相手にゴールを決めるというのは嬉しかったですけど、複雑な気持ちもアリという感じで、ゴールを決めた後は喜んでいいのかというのは少しありました。

でも、やっぱりああいうプレーを自分が見せられたことによって、新潟の元チームメイトだったりとか、監督をはじめとしたスタッフの方だったり、サポーターにも元気な姿というのを見てもらえたと思いますし、「やっぱり三門ってこういう特徴のある選手だったな」という風に、サポーターの皆さんに思い出してもらえたら嬉しいなと思いました。また、マリノスのサポーターの皆さんに応援してもらっている中で、1シーズン前はなかなか自分らしい良いプレーというのを見せることができなかったので、そういう意味ではあのゲームで移籍後初ゴールが生まれたというのは、運命的なものもちょっと感じるかなと思っています。

Q、僕は映像で見たんですけど、ゴールを決めた後に周囲を制して、ほとんどガッツポーズをしなかったシーンが印象的でした。海外だと古巣相手に点を決めてもゴールセレブレーションをしない選手がいますが、日本ではあまりないなと思っていたので。ご本人としてはアレはどういう感じだったんですか?

A、もちろん嬉しかったですけど、ちょっと複雑な気持ちも決めた瞬間はありました。試合が終わった後に「ゴール裏に来て下さいよ」とかもサポーターの方に言われましたし、そういう気持ちもなくはなかったんですけど、ずっとプロ入りして新潟でお世話になって、僕が移籍をすることに対して全ての方が良いと思っていた訳ではないと思いますし、凄く応援してくれているからこそ「何で行っちゃうんだよ」と思っていた方もたくさんいると思うので、できるだけそういう人たちに対するリスペクトという気持ちも込めて、あまり喜ばない方の選択をさせてもらいました。

その中で自分の一番良い所というのが、あのプレーの中には凝縮されていたと思うので、それを見て新潟のサポーターの皆さんが僕のプレーというのを思い出してくれたりとか、「アイツはやっぱりマリノスに行っても"らしさ"を出しているな」と感じてくれることというのが一番僕の中では嬉しいことなので、できる限り多くのサポーターの皆さんもそういう風に思ってくれたら嬉しいなと。また逆にこっちから新潟に行ったアウェイのゲームで自分の姿を見せられていないので、是非後半戦はスタジアムでそのプレーというのをまた見せられるような形にしたいなとは思います。

Q、ここからはキャリアのお話を聞かせて下さい。埼玉県富士見市のご出身で、富士見プリメイロでプレーされていたということで、埼玉県内にも強い高校はあったと思いますが、なぜ流通経済大柏へ進学されたんですか?

A、なんか県外ってカッコいいなと思って(笑) 千葉だけじゃなくて群馬だったりとか、どこでも良かったんですけど、ちょっと寮に入ったりして「違う所でやってるよ」というのがカッコいいと中学校の時からずっと思っていたんですよ。それで「全国優勝したい」「選手権に出たい」と考えた時に、最初は前橋育英に行きたかったんですけど、前橋育英のセレクションを受ける前日に練習試合でモモカンが入っちゃって、そのセレクションに行けなかったんです。それで「ああ、これは埼玉の高校かなあ」と思っていた中で、たまたま流経柏へ本田(裕一郎)先生が来る年に練習試合をプリメイロとして、その時に78人ピックアップされて「とりあえずセレクションに来てくれないかな」という形で、その中の1人に入っていて、セレクションに行ってやらせてもらった時に、ほぼその全員が「流経柏に来てくれ」と言われたんです。

実は島田祐輝(元水戸、VONDS市原)もその1人だったんですけど、「俺は西武台行くわ」となって、彼以外の選手は全員流経柏へ行きました。だから、流経柏がどうしても良かったという訳ではなくて、自分は「県外でやりたいな」と思っていて。実は市船のセレクションも受けたんですけど、自分は1次試験とかで「もう君たちは来なくていいよ」みたいに言われて、僕からすると結構「何だよ」という感じだったので、「じゃあ流経に行って、市船を倒して選手権に出るんだ」という形に切り替えたというのもありましたね。僕らは本田先生が流経柏に来て初めて獲ってもらった選手たちだったので、選手権に出られるかどうかはわからなかったですけど、本田先生のことを調べさせてもらったら人間的にもサッカー選手としても成長させてもらえると思ったので、最終的には「お世話になります」という形で流経柏に行きました。

Q、2個上には習志野から編入してきた先輩たちがいて、1個上にものちのJリーガーがいて、1年生の時から相当レベルの高いチームだったと思いますが、実際に入ってみてどうでしたか?

A、さっき「寮生活がしたかった」という話をしましたけど、実際に寮へ入ったらホームシックに掛かってしまって(笑)、2か月ぐらいで寮を出ちゃったんですけど、「もうサッカー辞める」ってなっちゃったんです。もう寮も嫌でしたし、サッカーで初めてじゃないですけど「どうしたら試合に出られるんだろう?」とか「この上手い選手たちに俺は勝てるのかな?」とか、もうそういうようなメンタルになっちゃって、「もうサッカーもいい。学校も辞めて埼玉のどこかの高校に行く」みたいに言い出して。両親もかなり心配して、監督も「大丈夫か?」みたいに言ってくれて、もちろんチームメイトも心配してくれて。その間は1ヶ月半くらい練習も行かないでサーッと家に帰ったりとか、ちょっと違う部活を見ていたりしていましたね。そこで辞めていればもちろん今の自分はなかったですし、本田先生だったりその時のコーチだったりチームメイトに非常に支えてもらったのは感謝していますけど、そういう所で挫折を味わいながら成長してきたのかなと思いますけどね。

Q、何でその時にまたサッカーをやろうと思ったんですか?

A、そういう時って僕は何か「うまくその場を逃げる」じゃないですけど、昔のコーチとかに会って「昔はこうだったじゃないか。頑張れよ」とか言われても、「はい、頑張ります」みたいなことはそこで言うんですけど、家に帰ったら「やっぱり学校に行きたくないなあ。イヤだなあ」みたいな。でも、だんだんサッカーから離れてみると、みんながボールを蹴っている所が眩しく見えたりとか、みんなが「早く帰って来いよ」とか「別に気にしてねえよ」みたいな感じで、「オマエがいないとつまんねえよ」とか言ってくれることが凄く嬉しくて。

もちろん結構休んでいましたし、先輩たちも「何してんだ、アイツ」みたいな感じもあったので、戻る時には勇気が要ったんですけど、そうやって仲間が声を掛けてくれたことで、重く考えずに軽く考えてポンッと背中を押してくれたというのに助けられましたね。もちろん監督やコーチ、両親やみんなに話を聞いてもらって、ちょっとずつ楽になったというのはありましたけど、何がサッカー部に帰れた一番の理由かなと思うと、やっぱり同い年の仲間たちが「早く帰ってきてくれよ!」みたいに言ってくれたのが非常に大きかったと思いますね。

Q、インターハイには出られても選手権にはなかなか出られなくて、3年の選手権予選も市船にPK戦で負けたと思うんですけど、やっぱり市船というのは高い壁でしたか?

A、市船の選手に言ったら怒られるかもしれないですし、僕は山形の渡辺広大選手と県トレセンで一緒になってから仲良くさせてもらっているんですけど、僕らの代の市船は「史上最弱の市船」って呼ばれていて、僕らも逆に言ったら「本田先生が獲ってきた代だから今年の流経柏は強い」と言われていて、断然流経柏有利という情報が流れていたんです。でも、いざやってみると伝統というか、彼らの「絶対に負けられないんだ」という気持ちの強さが本当に計り知れなくて、インターハイの県決勝も僕らが先制したのに2点取られて逆転負けして、選手権の県決勝の時も自分たちのサッカーが全然できなくて、市船とやるとなぜかうまくいかないことが多かったんです。

でも、それって彼らの「絶対流経には負けないんだ」「俺らが選手権に出て優勝するんだ」という気持ちが、やっぱり僕らより伝統がある分だけ上回っていたのかなと思うので、そこに自分たちが勝てるような気持ちの強さが足りなかったというか、向こうの方が勝っていたかなとは思いますし、最後のPK戦も僕は5番手で蹴りたかったんですけど、その前に終わってしまったんです。まあ自分はPKが苦手だったので、ちょっとだけホッとした部分もあったんですけど(笑)、その時は「俺がヒーローになってやる」と。自分が決めたらよくある高校サッカーのシーンで「応援してくれる席の方に走っていこう」とか考えていたんですけど、2人目と4人目が外して負けてしまって頭が真っ白になりました。でも、最弱とか言われていた中でも、やっぱり市船は強かったと今でも思いますね。

Q、1個下の代が選手権初出場を果たしましたけど、悔しかったですか?

A、そうですねえ。「自分たちが初めて出るんだ」と思っていたので、僕が大学1年の時に選手権を見に行きましたけど、悔しかったというか何だか複雑な気持ちでしたね。応援したいけど「俺らもここに立ちたかったな」というか。でも、今岡山にいる千明(聖典)は高校の頃から非常に仲良くしていたので、彼らが出てくれたというのは良かったなという反面、やっぱり悔しさというのはありましたけどね。

Q、本田先生を抜きに流経は語れないと思いますが、本田先生という人は偉大な方ですね。

A、そうですね。新潟に入って1年目の最後に9試合くらい連続で出た時に、中野先生(中野雄二・流通経済大監督)と本田先生のインタビューを新潟のテレビ局の方が撮ってきてくれたんですけど、本田先生が「三門はね、上手いと思ったことは一度もないんだよ」って(笑) 「でも、上手くはないけど良い選手だと思うよ」と言ってくれて。「精神的にも強いし、俺はミスの少ない選手が良い選手だと思っているから、そういう意味では良い選手だと思うけど、上手いと思ったことは一度もないな」と、やたらそこを強調されていて(笑)

でも、本田先生にそう言ってもらえたことは嬉しくて、結構ずっと「オマエは下手くそだ」みたいに言われていたので、「いつか監督を見返してやるぞ」という気持ちで頑張っていたというのはもちろんありましたけど、キャプテンをやらせてもらって、先ほど話したようにメンタルの弱い自分がずっといたので、メンタルを強くさせてもらったというのは本田先生の指導のおかげだと思っていますし、サッカーだけじゃなくて人間的に成長させてもらえたのが流経柏だったと思うので、今の自分があるのは流経柏のおかげであり、本田先生のおかげだと思います。今でも電話が掛かってくるとビクビクして、「1回時間置いてから掛け直そうかな」とか思うぐらい怖いですけど(笑)、本当に恩師と言える方だと思います。

Q、そんな高校時代を経験していたのに、大学でサッカーをやるつもりはなかったそうですね?

A、やろうと思っていなかったです。PK戦で市船に負けて、燃え尽きた感もあったんですよね。「もう俺頑張ったし、いっぱい走ったし」って(笑) それにプロになれるとはあまり想像できない自分もいて、なりたいけど「この世界にはいっぱい上手い人がいるから厳しいかな」と思っていたので、両親には「新松戸校舎というのができるから、そっちに行ってサッカーはやらないわ」と言ったら、「オマエの好きにしたら」とか言われたので、「おっ、ラッキー」とか思っていて(笑) そうしたら本田先生に「オマエ、プロになりたいのか?」と聞かれて、「いや、ああ、まあ、なりたいはなりたいですけど...」とか言ったら、「じゃあヴィッセルの練習に行かせてやるから、それで落ちたら大学でやれよ」なんて軽く言われちゃって、「いやあ、はい...」みたいな(笑)

ただ、後で親か誰かに聞いたんだと思いますけど、本田先生の中では僕と鳥栖にいる池田圭は「アイツらは大学に行ったらプロになれるから」と言ってくれていたみたいです。だから大学に行った方が良いと。何かしら本田先生には見えていたのかもしれないですね。「コイツらは高校ではまだ厳しいけど、大学で4年間やったら絶対に成長してプロに行ける」というような。僕の憶測に過ぎないですけど、そう思ってくれていたのかなと。ただ、自分の中では「いつ本田先生に『サッカー辞めます』って言いに行こうか」と思っていた中でのそれだったので「ズルいなあ」と思いながらも、「そうなったらやるか」という感じで始めたのが大学サッカーでしたね(笑)だから、1年生の時は今の自分では考えられないくらい不真面目でした。練習はやりますけど、どっちかと言ったらボール回しでも股とか狙って「ウーイ!」みたいなことをやりたかっただけで練習していた感じですね。サッカー自体を楽しんでいたというよりは、「相手をちょっと小馬鹿にしたようなプレーをしてやろうかな」みたいな。

Q、らしくないですね。

A、らしくないですよね。でも、2年生の時にある先輩に本当に叱ってもらって、そこから自分の中で気持ちを入れ替えて頑張ったので。

Q、その先輩って誰ですか?

A、今はHonda FCにいる糸数(昌太)さんっていう先輩です。ポジションも一緒だったんですけど、僕が腐っていたんですよね。糸数さんとか阿部嵩さんとか武井さん(択也・仙台)とかいて試合に出られなくて、いつ紅白戦をやってもサブ組で、点を取っても良いプレーをしてもサブ組だったので「何だよ」とか思っていたんです。そんな中である日、154本とかで紅白戦をやる時に、最初僕は右サイドハーフとか右サイドバックとかをやっていたんですけど、ボランチをやっていた糸数先輩が「俺が違う所やるから、オマエが俺の所に入っていいよ」って言ってくれたのに「いいっす、いいっす」って。「もう俺はこのポジションでいいっすよ」とか言って。

それで、紅白戦が始まって7分か8分ぐらい経った時に「オマエ、ちょっと来い!」ってゲームを止めて言われて。でも、糸数さんも1年や2年の時は自分と同じような状況だったみたいですね。「俺もオマエみたいな感じで、内心『ふざけんな』と思いながら適当にやっていた所があった。でも、俺はそれを今一番後悔している。オマエは俺よりも才能があると思っているし、絶対にプロに行けると俺は思っているから、そんなことでこの時間を無駄にするんじゃねえ」って怒ってくれたんですよね。

Q、ありがたいですね。

A、本当にそうです。そこがなければ今の自分は本当にないと思いますし、それが大学時代の一番印象深いエピソードで、そのときは悔し涙もありながらポロポロ泣いて、次の日からは本当に気持ちを入れ替えて一生懸命やりました。だから、今でもたまに糸数さんは「元気してんのか?頑張ってんなあ」みたいな感じで1年に1回くらいは交流させてもらっているんですけど、それが大学時代の一番大きな出来事でしたね。怒ってくれないというか、そのままにしちゃう人ってたくさんいると思うんですけど、そこで自分のためを思って怒ってもらえた、怒ってくれたというのが非常に嬉しくて。その時のことを思い出すと今でも感謝の気持ちでいっぱいですね。

Q、僕もたくさんの指導者の方を取材させていただく中で、本田先生と中野先生はとりわけ人間力が物凄いと思いますが、あの2人に指導してもらった自分は恵まれていたなと思いますか?

A、思いますね。サッカーはもちろん大事だと思いますし、プロになることも大事でしたし、自分の中では夢でしたけど、人生はサッカーだけじゃないですよね。もしかしたらケガをして3年とか、早かったら1年でクビになることもあると思います。そんな中で本田先生と中野先生に出会えて、人間力というか色々な所で成長させてもらったので、自分自身サッカーを辞めてもちゃんと生きていけるというか(笑)、「やっていけるな」という自信があるんです。根拠はないですけどね。スーツを着て仕事をしたこともないですし、常識的なことというのは自分も知らない方かなと思いますけど、生きていく上で大事なことというのはあの2人に教えて頂いた気がしますし、本当にサッカー以外のことで大きく成長させて頂いたと思っているので、本当に恩師だなと感じています。

【プロフィール】

流通経済大時代には大学ナンバーワンボランチと称され、2009年に新潟へ入団。

翌2010年からは不動のレギュラーとしてゲームキャプテンも務める。2014年に横浜FMへ移籍。

今シーズンは複数ポジションをこなすポリバレントさで出場機会を増やしている。


※所属チームを含めた情報は、当時のものをそのまま掲載しています。

ご了承ください。

取材、文:土屋雅史

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