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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年03月15日

Pre-match Words ~川崎フロンターレ・谷口彰悟編~(2016年9月9日掲載)

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【Pre-match Words 川崎フロンターレ・谷口彰悟編】

(2016年9月9日掲載)

Q:ここからはキャリアのお話を聞かせて下さい。サッカーを始められたのは幼稚園の時ということですが、何歳の時になりますか?

A:幼稚園の年中なので4歳か5歳ぐらいですね。入った幼稚園に大きなグラウンドがあって、サッカーコートもあって、その幼稚園は"体育幼稚園"だったんですけど、たぶん体育の先生が相当サッカーが好きで、サッカーのグラウンドを作ったんだと思うんです。それでチームを作って大会に出たりとか、そういう感じだったのでキッカケは幼稚園でした。

Q:"体育幼稚園"って凄いですね。何ていう名前の幼稚園ですか?

A:第2さくら体育幼稚園です(笑)

Q:思いっきり"体育"って入っているんですね(笑)

A:そうなんですよ。だから、よく体を動かしていましたね。トランポリンをやったり、跳び箱をやったりしていました。

Q:さすがにその年齢だと、入園は自分の意志ではないですよね?

A:そうですね。そのあたりの話は親ともしていないですけど、僕には姉と兄がいて、2人ともその幼稚園だったので、僕も自然と入りました。

Q:幼稚園の大会って試合になるんですか?

A:最初はならないですよね(笑) もうボールにみんな集まって"団子状態"になるっていう感じでした。

Q:そんな中でもかなり強いチームだったんですよね?

A:強かったですね。だいたい出る大会、出る大会で優勝していました。

Q:ポジションとかってあるんですか?

A:いえ、特に決めてはなかったと思います。人数も56人でフットサルコートみたいな広さのコートだったんですけど、だいたいフォワードというか、点取り屋という感じでやっていました。幼稚園の頃は点を取っていましたね(笑)

Q:"体育幼稚園"への入園を考えるぐらいの保護者の皆さんですから、やっぱり熱心な方が多かった感じですよね?

A:そうですね。今から考えるとそういう親御さんが多かったんだと思います。中には親御さんに怒られているチームメイトもいましたけど(笑)、ウチはまったくそういうのはなくて、特に勝っても負けても何も言われずにサッカーをしていました。

Q:"体育幼稚園"だとサッカー以外にも、他に熱心に勧められるスポーツもあったんですか?

A:いえ、だいたいの男の子はサッカーです。もうみんな"やらされている"ぐらいの勢いでサッカーをしていました(笑)

Q:ピックアッププレーヤーを拝見して、僕も『熊本ユナイテッドSC』というチームは知っていたんですけど、谷口選手たちが創設メンバーなんですよね。改めてチームができた経緯を教えていただけますか?

A:その幼稚園でサッカーを始めて、年長さんを経て、小学生になってみんなバラバラの学校に行くことになった時に、1年生から3年生までは部活のない小学校が多かったこともあって、幼稚園の体育の先生が「この幼稚園を母体としたチームを作ろう」と動いて下さったんです。それで第2さくら体育幼稚園でサッカーチームを作って、学校が終わったら幼稚園のグラウンドへ練習に行くような形でサッカーをやっていました。

そこでも出る大会、出る大会で優勝していて結構強かったので、小学4年生になるタイミングで部活にも入れるという時期に、「バラバラになってしまうのはもったいないんじゃないか」という話が保護者の方々の間で出始めて、「クラブチームを作ろう」という話になったらしく、幼稚園から一緒にやっていた大半のメンバーがそのまま『熊本ユナイテッドSC』というチームとして、サッカーを一緒に続けることになったという感じです。

Q:それってなかなかないことですよね(笑)

A:珍しいと思います(笑)

Q:やっぱりご自身も「このメンバーと一緒にやりたい」という気持ちは強かったんですか?

A:強かったですね。勝つことの喜びを知ることが嬉しかったですし、やっていて楽しかったメンバーなので、「そういうメンバーと一緒にやれるのは嬉しいな」という気持ちは当時ありましたね。

Q:小学4年で熊本ユナイテッドSCが立ち上がるまでに、幼稚園からメンバーの入れ替わりはあったんですか?

A:ほぼ同じメンバーですね。大体そのままみんな上がってきました。

Q:坂田良太(大津高→鹿屋体育大→栃木)は経歴に熊本ユナイテッドSCジュニアとありますが、彼は幼稚園時代からのチームメイトですか?

A:良太は幼稚園は別だったんですけど、小学校に入ってから幼稚園が作ったチームにいて、そのまま熊本ユナイテッドSCに上がったという感じですね。

Q:それも凄い縁ですね(笑)

A:そうですね。なかなか幼稚園から高校まで一緒というのはないかもしれないですね(笑)

Q:松本大輝(大津高→法政大→甲府→長崎)は途中でチームを移ってきたんですよね?

A:小学校4年か5年だったと思うんですけど、ユナイテッドSCには『シャルムFC』というライバルチームみたいなチームがあったんです。その『シャルムFC』に大輝はいて、大輝も上手かったので対戦するのも嫌だったんですよ。そうしたらある日、急にウチらのグラウンドで大輝が練習していて、「え?何でいるの?」みたいな感じになったら、「こっちに移るわ」みたいな話になって(笑) ウチらにとっても大輝が入ってきたのは大きかったですね。

Q:禁断の移籍なんじゃないですか?(笑)

A:確かにそれくらいの衝撃が走っていましたね(笑)

Q:熊本ユナイテッドSCの立ち上げ当初はなかなか勝てなかったそうですね。

A:そうですね。11人制の試合もやっていなかったですし、いきなり小学校6年生が主体のチームと試合をする訳なので、最初の試合はボロ負けしました。10点以上取られて、こっちは1点も取れなかったと思います。それがスタートでしたね。

Q:泣きました?

A:確か泣いたと思います(笑)

Q:でも、その後は県大会で優勝するくらいの強さになるんですよね?

A:そうですね。やっぱり学年が上がるにつれて、自分たちの力は上がって行きましたし、6年生になった時には県大会で優勝するくらいにはなれたので、小学生の頃から県内でも上位のチームでやれていたのはありがたかったと思います。

Q:全少には出ているんですか?

A:出ていないです。先に繋がる大会で負けた記憶があるので、確か出られなかったと思います。

Q:大津の同級生は7人がプロになっているじゃないですか。それにルーテル学院に行くことになる山本大貴(松本)もいたと思いますけど、小学校の時に熊本で一番のスーパースターだったのは誰だったんですか?

A:誰だろうなあ... ズバ抜けていたのはプロになっていない選手です(笑) 小学校の時に凄かったヤツは小学校の先生になりました。

Q:大津のチームメイトですか?

A:大津です。大塚祐輝というヤツで、高校3年のインターハイでは一緒にボランチでコンビを組んで試合に出ていました。

Q:中学時代の熊本ユナイテッドSCでは全国大会に出ていますか?

A:出ていないですね。九州大会止まりだったと思います。九州で2位とかが最高だったと思いますね。

Q:九州2位でも十分凄いですけどね(笑)

A:まあまあ凄いとは思うんですけど(笑)、全国には行けなかったですね。

Q:中学時代も熊本ユナイテッドSCで自分がどんどん成長している手応えはあったんですか?

A:ありましたね。小学生からずっとやってきて、中学校の時はスランプとまでは言わないですけど、周りの選手が身長が大きくなったり、スピードが速くなったりする中で、僕は小さくて遅かったりしていたので、そこで凄く悩んだりしました。でも、その時も自分なりに考えて自主練も相当やりましたし、そういう経験は今から考えると凄く良かったと思っています。

Q:それにしても、幼稚園から中学生までずっと一緒にサッカーをやってきた仲間がいるって、凄く大きな"財産"ですよね?

A:そこまでずっと同じことをやってきた仲間ってそんなにいないでしょうし、やっぱりそれだけ思い入れもあったので、やっていて凄く楽しかったですね。

Q:今でも結構当時のチームメイトとは仲が良いですか?

A:仲は良いですね。オフの時には熊本に帰って、みんなで会ったりはしています。

Q:そこから大津高校に進まれる訳じゃないですか。県内には新興勢力としてルーテル学院もあって、それこそ県外にもJリーグの下部組織を含めて色々なチームがあったと思いますが、最終的に大津へ行こうと決めたのはどういう理由からですか?

A:もう大津しか選択肢がなかったというか(笑)、そこしか考えていなかったですね。ただ、「オレは大津に行く」と言ったことはたぶん1回もなくて、何となく「オレは大津に行くんだろうな」という風に思っていた中で、ウチは「ちゃんと勉強しなさい」という感じの親で、塾に通った時期もありましたし、兄は県内でも12を争うような進学校に入っていましたし、自分も勉強を凄くさせられていたんです(笑) でも、「サッカーしたいな」という気持ちが強くて、親も何となくわかってくれてはいたみたいで、「アンタ、大津に行くんでしょ?」みたいな感じで言われて、「うん」みたいな(笑) 自然と決断した感じですね。

Q:その「大津に行く」というのは、どのくらいからイメージしていたんですか?

A:僕の場合は、周りが進学のことを話し出すぐらいの頃から、「ああ、そういえばそうだな。先のことを決めなければいけないのかな」と考え出したタイプですね。

Q:じゃあ中学3年ぐらいということですね。それって結構遅くないですか?

A:たぶん遅い方ですよね。まあ、何も考えていなかったので(笑) ただ好きでサッカーをやっていた感じですね。

Q:そうすると中学時代はそこまでプロを意識していた訳ではなかったということですね。

A:全然していなかったですね。なれると思っていなかったです。ただ、「高校サッカーで一番強い所でやりたい」「全国大会に出たい」という想いはあったので、それを考えた時に「大津だな」というのがありました。

Q:実際に入ってみた大津高校はいかがでしたか?

A:やっぱり"部活"というもの自体が初めてだったので、まず最初はそこに慣れなかったというか、もちろん上下関係もありましたし、1年生はサッカーだけではなくて、掃除だったりグラウンド整備だったり、そういうこともやっていかないといけないですし、そこで技術もそうですけど、人としての部分を学べたことであの時期は成長できましたね。

Q:ちょっとカルチャーショックみたいな感じでしたか?

A:そうですね。とにかくクラブチームでやっていると上下関係は全然なかったので、まずは上下関係の厳しさに衝撃を受けて、「コレはヤバいな...」と思いました(笑)

Q:話せる範囲で結構ですけど、「これはインパクトを受けたな」みたいなことってどういうことがありましたか?

A:そうですねえ... 何が話せますかね(笑) 本当に厳しかったので。朝練は毎日でしたし、僕は電車通学だったんですけど、毎日始発の電車に乗っていて、2年生も3年生も始発で来るので、朝から電車の中で挨拶しながら前の方に乗って、電車を降りたら学校まで300メートルか400メートルくらいあるんですけど、そこを早歩きで行かないといけないんですよ(笑)

Q:早歩き!(笑)

A:走っちゃダメなんですよ。走っちゃダメなんですけど、2年生より早く着かないといけないですし、しかも1年生はゴミ拾いしながら行かないといけなかったので、早歩きしながらゴミを見つけてサッと拾って、また早歩きしてみたいな(笑) また2年生とかに凄く歩くのが速い人とかいるんですよ。

Q:絶対ワザと速く歩いてますよね(笑)

A:その人より速く着くのに必死だったりしましたね(笑)

Q:割と名門校でも上下関係がフランクになってきている所もあると思いますけど、そうすると大津は結構しっかりした上下関係があったんですね。

A:しっかりしていましたね。挨拶だったりとか、気を遣う所というのは厳しかったと思います。

Q:1年生の頃はトップチームの試合に出ていたんですか?

A:そんなに出ていなかったです。ただ、練習はAチームの方でやらせてもらったりはしていました。練習に付いていくのが精一杯でしたね。「大きい人がいるなあ」とか「速い人がいるなあ」とか、そういう世界だったので、毎日毎日練習している中で自分もまだ小さかったり細かったりしていたこともあって、「こういう中でやれるのかな?」という不安はありました。でも、やっていてキツかったですし、シンドかったですけど、それでも楽しかったので、衝撃を受けても「またそれを乗り越えてやろう」と思いながらやっていた時期でしたね。

Q:先ほど中学時代はあまり大きくなかったとおっしゃっていましたし、今もそういうようなお話が出ましたけど、僕が谷口選手を初めて見た高校2年の頃は今ぐらいのサイズがあったように記憶しています。高校1年ぐらいで一気に大きくなった感じですか?

A:そうですね。中学3年と高校1年で少しずつ大きくなってきて、高校2年の頃はもう180センチぐらいはありましたね。

Q:高校でそれだけサイズが変わると、自分の中での違和感みたいなものも結構あったんじゃないですか?

A:もちろんありましたね。自分の思った通りに体が動かせないという時期はありました。でも、それも自分の中でわかっていましたし、「どうにかしたいな」という想いがあったので、まずは「ちょっと足腰を鍛えないとな」という所で、朝練では毎日タイヤ引きとダッシュをやっていましたね。

Q:タイヤ引きのお話はピックアッププレーヤーでも拝見しましたが、結構古典的な練習というか、いわゆる体を鍛えるトレーニングみたいな感じだと思うんですけど、ご自身で「やろう」と考えてやってらっしゃったんですか?

A:いえ、大津高校にはタイヤがあるんですよ。でっかいタイヤが(笑) 1年生の最初の頃はそんなに意識していなかったんですけど、タイヤ引きでダッシュしている選手も結構いて、自分も体が大きくなってきた時に足腰を鍛えたいと思って、「やってみよう」と始めて、3年間やり続けました。本当に古臭い練習ですけど、続けていると地味に効いてきますし、「やり続けて良かったな」と思いますね。

Q:3年間でそのタイヤにメッチャ愛着が湧くんじゃないですか?

A:それが「おっ、新しいタイヤ来てる!」みたいなこともあるんですよ(笑) 「コレ、ちょっと重そうでいいじゃん」みたいな感じで選んだりしていましたね。

Q:タイヤソムリエみたいな感じですね(笑)

A:本当にそんな感じです。「コレ、いいタイヤだな」みたいな(笑)

Q:結構頻繁にタイヤは変わるんですか?

A:いえ、そこまでではないですけど、物足りなくなってきたヤツとかはタイヤ2個付けで引っ張ったりとか、そういうのもやっていましたね。チューブを腰に巻いて、タイヤに穴をあけて紐で繋いでという感じでした。それを(車屋)紳太郎とやっていました(笑)

Q:競争とかしたりするんですか?

A:いえ、みんな淡々とやっている感じでした。

Q:でも、そのタイヤ引きは今にも結構生きているんですよね?

A:生きていますね。それが正解だったかどうかはわからないですけど、やっぱりあそこで自分で考えてやり出したことを、継続してずっとやれていましたし、そのおかげか無理の利く体になっているという自信もありますし、『継続は力なり』ということを肌で感じられたということは良かったですね。

Q:高校2年の時は夏も冬も全国に出ていると思いますが、その1年間はざっくり振り返るとどういう1年間でしたか?

A:高校2年は凄く充実していました。1年の途中から「もっとやらないとダメだ」という想いがあって、選手権が終わって新チームになった時に「ここから試合に出てやる」という想いも強かったですし、そのタイミングから試合に出させてもらっていたので、試合に出られる喜びというのも、またそこで感じることができました。それに試合数をこなしていく中で自分の成長も実感できていたので、本当に充実した1年でしたね。

Q:高校2年のインターハイはご自身にとっても初めての全国大会だと思いますが、やっぱり印象深いですか?

A:印象深いですね。インターハイと言えば高校生にとっては1つの大きな大会ですし、個人的にも初めて出た全国大会という舞台でベスト4まで行けましたし、凄くやっていて楽しかったですね。

Q:全国でベスト4って凄いことですけど、その大会は自分自身の今後に手応えを掴めた大会でもありましたか?

A:そうですね。やってきたことが形になってやれたというか、「自分も通用するんだな」ということを全国の選手たちと戦う中で感じることのできた大会でした。

Q:最後は市立船橋にPK戦で負けた訳ですが、それって相当悔しい負け方ですよね?

A:悔しかったですね。勝てば決勝でしたし、優勝できるだけの力はあると思っていたので悔しかったです。

Q:市立船橋には中村充孝(鹿島)がいたんですよね?

A:そうです。10番を付けていて、相当上手かったです。

Q:当時の高体連で中村充孝は相当トップクラスのタレントだったと思いますが、彼も含めて「ああ、全国にはこんな上手いヤツがいるんだな」というようなことは、インターハイを通して感じましたか?

A:感じましたね。「ああ、上手い人っているんだな」と。中村さんもそうですし、大迫(勇也・ケルン/GER)君も凄かったですし、あとは流経(流通経済大柏)の田口泰士さんとか、そのあたりの選手は本当に上手いなと思いましたし、「やっぱり上には上がいるんだな」というのは感じました。

Q:選手権も全国でベスト8まで勝ち上がる訳ですけど、結果的には3年間で唯一全国に出場した選手権だと思いますが、どういう大会だったと捉えてらっしゃいますか?

A:アレは相当悔しかったですね(笑) 選手権と言えばもちろん高校生にとって憧れの大会ですし、まずそこに出られるというのは凄く嬉しかったですし、まして試合にも出られていたので、1回戦、2回戦、3回戦と突破できて、「上に行けるな」という想いも強かった中で準々決勝で負けてしまって、相当悔しかったですね。

Q:2回戦で立正大淞南、3回戦で藤枝東を倒していて、その2チームに比べると準々決勝で当たった鹿島学園は、そこまで全国での実績があったチームではなかったですからね。

A:そういう部分も含めて、「ここで負けてしまうのか」という悔しさが凄くありました。大津は全国の常連というイメージがありますけど、なかなか全国で結果を残せていなかったですし、「その壁を超えていくのはオレたちだ」という想いもみんなが持っていましたし、そういう想いが強かった分、余計に悔しかったですね。

Q:谷口選手の代も7人がJリーガーになっていますけど、1つ上の代にもかなりタレントがいて、おそらくチームとしてもかなり手応えを持っていたチームだったんですよね?

A:当時の3年生は本当に上手い人や強い人が多くて、チームになっていたので「コレは行けるな」という想いはありました。鹿島学園は準決勝で広島皆実に負けたんですけど、皆実とは選手権の前に対戦していて勝っていたんですよ。しかも皆実と決勝をやった鹿児島城西と試合をした時もウチは勝っていたので、「コレ、優勝できたじゃないかよ」というのもありましたね(笑)

Q:3年生になって臨んだインターハイもベスト4まで勝ち上がったと思いますが、ご自身も最高学年でキャプテンにもなっていて、期する想いも当然あったと思うんですけど、あのベスト4という成績はどういう風に感じていましたか?

A:僕は3年の初めにケガをしてしまって、4カ月ぐらいサッカーができなかったんですよ。3月ぐらいにケガをしたので、インターハイの県予選では出ていないんです。その中でチームメイトが勝ってくれて、全国への切符を手にして、インターハイ前ぐらいに復帰することができたんです。だから、あの全国大会は満身創痍というか、久々にサッカーをやり始めてすぐだったこともあって、思い通りに体が動かない自分もいましたし、そういった中でも勝ち進んで行けたという所でのベスト4だったので、個人的には満足こそしていないものの、あそこまで戦ってくれた仲間に感謝していましたね。「またここを超えられなかった」という力のなさに落ち込みはしましたけど、2年連続でベスト4まで行けたという所は自分たちの力を実感できたので、「それだけの力は身に付いているんだな」という部分を冬に生かさなくてはという想いはありました。

Q:全国に4000校ぐらいある中で、2年連続で全国ベスト4って普通に考えればとんでもないことだと思いますけど、自分たちでも「凄いことをやったな」という感じはあったんですか?

A:多少はありましたね。2年連続で上の方まで行くというのはなかなかできないことですから。ただ、佐賀東も2年連続でベスト4だったんですよ。それは「何だよ、アイツら」と思いましたね(笑) 「何だよ、佐賀東もかよ」という想いがあったのは覚えています(笑)

Q:準決勝は前橋育英に負けたんですよね。育英は強かったですか?

A:強かったですけど、負けるゲームではなかったというか、完敗という感じではなかったですし、しかも最後の最後にチャンスがあったんですよ。クロスが来て、僕が外してしまって。その時は「みんなホントゴメン」と思いながら、「ああ、ここまでか」と思ったのも覚えています。

Q:それは高校3年間の中でもかなり鮮明に覚えているシーンですか?

A:覚えています。ちょっとマイナス気味のクロスだったんですけど、何とか体を持って行って当てたら、上にポーンと行ってしまって。それは強く覚えていますね。周囲からは前育とのゲームが"事実上の決勝戦"みたいに言われていたのも聞こえてはいたので、「前育に勝っていたらな」というのはありましたね。

Q:高校3年の選手権は県予選の決勝でルーテルに負けるんですよね。確か何かの名鑑で一番悔しかった試合にそのゲームを挙げられていたのを拝見しましたが、そういうゲームだったんですね。

A:はい。その時の選手権は"スーパーシード"という制度が初めて熊本県で行われたんです。藤嶋栄介(大津高→福岡大→鳥栖→千葉)が1個下の世代別代表の遠征かなにかで1ヶ月ぐらいいなくて、僕らは準決勝と決勝の2試合だけだったんです。当然他のチームは1回戦から勝ち上がってきている中で、自分たちは試合がない中でずっと練習をしていて、いよいよ準決勝の戦う相手が決まったという所で、練習にも凄く熱が入って意識高くやっていたんです。

ただ、いざ準決勝を戦った時に内容もイマイチでしたし、勝ったものの展開は先制されてからの逆転勝ちみたいな感じで、自分の中では正直「これはちょっと危ないな」というのがあったんですよね。スコアは3-1だったと思うんですけど、完璧に圧倒して勝てたという感じではなくギリギリで勝てたという感じで、しっくりこない想いはあって、そのまま決勝に進んだんです。それで決勝でも案の定と言いたくはないですけど、うまく行かずにみんなフワフワした感じで、気が付いたら試合が終わっていたような感じですよね。最後までゲームに入り切れずに2-0での完敗でした。終始やられていたような感覚がありましたね。

その試合は見直せていないんです。見れなかったですし、試合自体のことも思い出せなくて、今でも見たことはないんですけど、あれよあれよという間に点を取られて、タイムアップという試合でした。あれだけ「これが夢であってくれ」と思ったことはないですね。あれ以来、一度もそう思ったこともないですし、あれが最初で最後なのかなと。それぐらい懸けていましたし、「全国でも結果を出せる」という自信もあったんですよ。足元をすくわれた感じがありました。

Q:インターハイの全国ベスト4を選手権に置き換えると、国立競技場でプレーできた訳じゃないですか。そういう巡り合わせのなさを感じる部分もありましたか?

A:それでも「選手権で勝ってこそ」というのはどこかであったので、そこまで巡り合わせというのは感じなかったですね。

Q:平岡(和徳)先生も相当自信を持っていたチームだったでしょうね。

A:たぶんそうだと思います。ただ、もう"スーパーシード"はその年が最初で最後になるんじゃないかなと。ナオミチ(植田直通・鹿島)の時の代もそういう話があったみたいですけど、それでも1回戦からということになったみたいです。

Q:高校生にとって"スーパーシード"はなかなか難しいですよね。

A:やっぱり勝ち上がってきている勢いとか、戦っていく中で積み上げていくものってあるじゃないですか。そういうものを打ち破れなかった所はありましたね。

Q:結果として谷口選手を含めて、大津の同級生は7人がプロになっていると思います。それって凄まじいことだと思いますが、同級生の中ではその事実ってどういう風に捉えてらっしゃるんですか?

A:単純に「凄いな」とは思いました。でも、そこまでの驚きはなかったというか、結構しっかりサッカーを続けるというヤツが多かったですし、それも選手権で不完全燃焼に終わったことが多少は影響していると思うんですけど、大学に行ってもう1回サッカーを続けるということが、平岡先生たちに対しても何よりの恩返しだと思っていましたし、そういう想いでみんな大学に進学して、しっかりサッカーをやっていたんだと思います。実際に大学の時に対戦することも多かったですし、そういう中で彼らの名前を聞く機会も多かったですし、結果的に7人がプロになったというのは、みんながしっかりやってきたことの結果だと思いますし、そこはそんなに驚きはなかったですね。

Q:特筆すべきは高校からプロに行った選手が1人もいない中で、7人が7人とも大学の4年間を経てプロになっているということで、そこにそれぞれの選手の意識の高さを感じるというか、大学生活には誘惑も多いですし、そこで消えてしまう選手も少なくない中で、そこを潜り抜けて7人がプロになったということが凄く意義のあることのように感じます。

A:みんながみんなそうとは思わないですけど、やっぱり選手権で結果を残せなかった影響だったり、「もっと上手くなってプロになってやる」というようなハングリーさは失われなかったので、それは逆に考えれば良かったのかなと。みんなマジメにサッカーへ取り組んでいましたし、お互いの活躍が刺激になってやっていたので、そうやって切磋琢磨し合える仲間がいたというのは大きいかもしれないですね。

Q:その7人の中でも圍謙太朗(大津高→桃山学院大→FC東京)だけがちょっと特殊だと思うんですけど、彼がプロになったということは同級生の中でも「凄いな」という感じですか?

A:そうですね。彼のプロ入りには相当みんな喜んでいました。高校時代はメンバーにも入れていなかったですし、第3GKでしたけど、常に「上手くなりたい」という気持ちを持っていたり、「大学に行って、プロになる」という強い明確な目標を持っていたので、大学でも凄く努力していたみたいですし、結果的に全日本大学選抜にも入るような所まで来て、やっぱり同期としても凄く誇りに思う人というか、本当に相当気持ちが強くないとそうそうできることではないと思うんですよ。諦めない気持ちの大切さを体現したヤツだと思いますね。

Q:ユニバ代表のGKが藤嶋選手と圍選手ってかなり凄いことですよね(笑)

A:確かに(笑) 高校時代の正GKと第3GKが同じ選抜になるというのは正直驚きましたけど、頼もしい存在でしたね。

Q:しかも松本大輝も選ばれていて、大津の同級生4人でユニバに出た訳ですからね。

A:あの時は楽しかったですよ。久々に同じチームでサッカーができて、貴重な時間でしたね。

Q:これを最後の質問にしたいと思います。あえてざっくりとお聞きしたいんですけど、夢ってありますか?

A:あります。まずプレーヤーとして、代表というものは「目指して行かないといけない場所だな」ということは、また最近になって凄く感じているので、もちろんフロンターレでしっかりプレーすることは間違いないですけど、そういった所で世界の国を相手に戦うということは誰しもができることではないですし、それに選ばれるためにやっていきたいと思います。あとはワールドカップというのも、全サッカー選手の憧れの舞台だと思いますし、その夢の舞台に自分も立ちたいという想いは強くなってきているので、その夢に向かって努力し続けたいなと思います。

Q:「プレーヤーとして」ではない夢もあるんですか?

A:そうですね。僕は指導者という所も凄く興味を持っているので、「将来的に監督をやりたいな」という想いも今の段階で多少あります。今経験できているからこそわかることもあると思いますし、そういったものを自分の中で蓄積していきながら、財産にしながらプレーしていきたいと思っていますね。

Q:平岡先生も風間さんもかなり強烈な指導者ですからね(笑)

A:間違いないです(笑) この2人の下でやれているというのは、かなりの財産だと思っています。学ぶことも多かったので「ああいう風になりたいな」という気持ちはありますね。

【プロフィール】

大津高時代に全国総体で2度のベスト4を経験し、筑波大時代には風間八宏監督の薫陶を受ける。2014年に川崎へ入団すると、ルーキーイヤーから様々なポジションを任され、主力として活躍。昨年はフル代表デビューを果たすなど、将来を嘱望されている。


※所属チームを含めた情報は、当時のものをそのまま掲載しています。

ご了承ください。

取材、文:土屋雅史

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