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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年03月16日

Pre-match Words ~柏レイソル・栗澤僚一編~(2016年9月23日掲載)

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【Pre-match Words 柏レイソル・栗澤僚一編】

(2016年9月23日掲載)

Q:ここからはキャリアのお話を聞かせて下さい。まず、Wikipediaには「6歳からサッカーを始められた」という記述がありますが、小学1年からサッカーを始められたんですね。

A:たぶんそうですね。幼稚園でもやっていたと思うんですけど、チームに入ってとかではなくて、幼稚園で遊びでやっていただけなので、小学校1年生で柏イーグルスに入ったのが6歳ということだと思うんですよね。2つ上に兄がいて、兄も既にサッカーをしていたので、「僕もやりたい」ということで始めました。幼稚園の時にイーグルスの人が、スクールみたいな感じで教えに来るようなことがあったんですよ。それで、その人の影響でイーグルスに入ったんだと思います。住んでいたのは松戸だったんですけど、わざわざ北柏まで通っていましたからね。

Q:普通に考えれば小学生にとって、松戸から北柏はちょっと遠いですよね。

A:そうですね。北柏からバスが送迎してくれていたんですけど、やっぱりちょっと遠かったので(笑)、小学4年の時に地元の新松戸SCというチームに移ったんです。それが僕にとっては良かったと思うんですよね。新松戸SCのチームメイトもみんな上手かったですし、松戸選抜にはヴェルディにスカウトされるような人がいたりとか、レベルが高かったんですよ。

それで松戸選抜に行った時に、元々いた選手がレギュラーで、自分はレギュラーになれなくて、その選手から「ポジションを奪おう」という所から自分の本当のサッカーがスタートしたと僕は思っていて、それまではちょっと遊び感覚でサッカーをやっていた所があった中で、「コイツに負けられない」とか「コイツからポジションを奪ってやろう」なんて思ったのは初めてだったと思うんですよね。サブから這い上がって行くというような、そういう気持ちがあの時点で経験できたのは良かったですね。

Q:当時の松戸選抜にはのちのちJリーガーになるような選手はいたんですか?

A:僕らの代にはいないですね。みんな結構良い所までは行ったんですけど。その下の代には結構いるんですよ。原一樹(北九州)とか大久保裕樹(千葉)とか、市船(市立船橋)には松戸出身が多かったですね。

Q:そう考えると松戸自体が千葉の中でもサッカーが盛んな地域という感じなんですね。

A:そうですね。今でもそうだと思いますけど、中学の時の松戸選抜はレイソルのジュニアユースに普通に勝ってましたからね。まだ高体連がちょっと強い頃で、市船に行った選手もいますし、僕みたいに習志野に行った選手もいますし、割と良い所に行ってサッカーをやっていた選手がたくさんいたので、レベルは低くなかったと思います。

Q:そうすると小学校の頃は県選抜には入っていなかったんですか?

A:何回かは行ったと思うんですけど、県選抜というかトレセンみたいな感じで、自分の中では「サッカーをやった」という感じがあまりなかったんですよね。「真剣になってやるという感じではないな」と感じていて、自分の中では松戸でやっていた時期というのが大きく残っていますね。

Q:栗澤選手の代の千葉県は結構Jリーガーを輩出していると思いますが、小学校の頃のスーパースターは誰だったんですか?

A:永井俊太(現・柏U-18監督)は有名でしたよ。あとは誰だろうなあ... 中学校の頃はジェフも結構強かったですよね。阿部(勇樹・浦和)さんが1個上にいて。だから、高校の頃も国体は強かったですよ。でも、全国で2連覇ぐらいしていたのに、僕らの代は全国に出られなくて(笑)

Q:メンツは結構いたはずですよね。

A:市船がオランダ遠征から帰ってきたばかりで、周りとのコンビネーションが合わなかったんだったと思います。市船以外組はこっちで練習をやっていて、市船組が帰ってきて一緒にやったんですけどダメでした。中澤聡太(C大阪)もいましたけど、その時のチームは市船メインでしたよね。

Q:中学時代は新松戸北中学校サッカー部ですよね。当時の千葉にもクラブチームはいくつかあったと思いますけど、普通にサッカー部に入った感じですか?

A:僕は小学校の時にレイソルのジュニアユースに落ちたんですよ。

Q:そうだ!(鈴木)潤さんのインタビュー記事で見てました(笑)

A:でも、当時の松戸選抜の監督が「中学校のサッカー部でも成長できる」みたいなことを言っていた覚えがあるんですよね。今でも覚えているんですけど、みんな呼ばれて「別にオマエら次第で成長できるだろう」みたいに言われた記憶があるんです。だから、中学がバラバラになっても選抜で集まったりとか対戦したりとかして、そこで「仲間と対戦できる」という喜びもありましたね。まあ自分が落ちちゃっただけなんですけど(笑)

Q:レイソルのジュニアユースは自分で受けようと思って受けたんですか?

A:いやあ、そんな感じではなかったと思うんですよね。親同士の話し合いとかで受けたんですけど、お金だけ取られたのかもしれないです(笑) 結構受けに来ている人がいましたからね。1次、2次とかあって。

大重広報:今も4次までありますからね。

Q:当時より今の方がさらに入るのも難しいかもしれないですね。

A:人数は今よりももっといたんじゃないですかね。今はもうそんなに受けないですよね。仕組みもみんなわかっているでしょうし。当時はそこまでレイソルのジュニアユースも有名ではなかったですから。でも、その中学校時代はキャプテンをやらせてもらっていたので、自分が練習メニューを考えたりもしていました。そういう中での"なにくそ精神"が今の自分を創っているというか、決してエリート街道を歩んできた訳ではないので、高校も全国大会とかも出ていないですし、当時は嫌でしたけど、そういう経験も今から考えると凄く良い経験だったのかなと思いますね。中学校も頑張っていたからこそ、習志野高校への推薦ももらえましたしね。実際は「市船に行ったらどうだったかな」とか思ったこともありますけど、たぶん「走りたくない」みたいな感じで習志野に行ったと思うんですよね。

Q:たぶん当時の本田(裕一郎)先生と布(啓一郎)先生は対照的ですよね。

A:本田先生がテクニックを重視するというのはわかっていたので、それで行ったんですけど、行ったら行ったで中学の時よりレベルが一気に上がるというか、2学年上の人たちにはプロに行く人たちもいましたし、玉田(圭司・C大阪)くんなんてスーパースターでしたし、やっぱりそこで挫折とは言わないですけど、さらに高い壁を見せ付けられましたよね。

Q:習志野と市船のお話が出ましたけど、高校に進学する時にはいくつも選択肢があったんですね?

A:そうですね。千葉県でもその時は専修大松戸とか、市船とか習志野には声を掛けていただきました。たぶん「松戸の中で何人か良い選手がいたら」という感じで、市船にも3人ぐらい行きましたし、習志野には2人で行きました。

Q:それだけ松戸選抜のステータスがあったということですよね。

A:たぶんそうですね。でも、どこが良いかは行ってみないとわからないですよね。実際僕は習志野を選んで正解でしたから。

Q:先ほどもちょっとおっしゃいましたけど、実際に入学した習志野はどうだったんですか?「コレはちょっとヤバいな。レベル高過ぎだな」という感じでしたか?

A:ヤバかったですけど、同年代の中では凄いヤツもいた中で全然やって行けるという感じはありました。ただ、その上を目指すということになれば、「このレベルまでやらなきゃいけないんだ」という先輩たちがいたので、それは衝撃的ではありましたよね。目の前で見たことがないレベルというか。そういう中でもがき苦しんだことで「自分も成長できる」と思っていたので、「ここでの3年間は凄い大事だな」と思っていました。

Q:玉田、吉野智行(現・鳥取強化部)、関倫孝(水戸、札幌ほか)、菅野拓真(甲府、湘南ほか)が2個上ですよね。

A:藤島くん(藤島崇之・昌平高校監督)もいましたね。

Q:藤島監督には番組で一度密着したんですよ。

A:村松くん(村松明人・昌平高校コーチ=藤島監督の習志野時代の同級生)もやっています?

Q:コーチでやっています。関さんもコーチですね。今年はインターハイ全国ベスト4ですから。

A:藤島くんは唯一本田先生に意見をできていた人ですからね。確か何かあった時に「みんな必要な選手だから、試合に出してやってくれ」みたいに、頭を下げに行ったんだと思うんですよね。

Q:男気があるんですね。

A:そうなんですよ。凄いんですよ。なかなか高校生が監督に意見なんてできないじゃないですか。でも、何か言われて自分の意見を言えるというのは凄いなあと。やっぱりそういう人が良い監督になるんですね(笑) 相当自分を持っているというか、ボランチをやっていたので頭も良いと思いますし、上手かったですし、その思い出は強烈ですね。

Q:1年生の時は選手権で全国に出ましたけど、試合にも出ているじゃないですか。それって結構凄くないですか?

A:なぜかメンバーに入れてもらえたんです(笑) たぶん練習試合とかの調子が良かったんだと思うんですよ。凄く良い経験をさせてもらえました。ただ、1回戦負けという...

Q:「うわ~、選手権だよ!」という感じでしたか?

A:そうですね。全然ゲームに入れていなかったですよね。だって、トップチームの試合になんて出ていなかったですから。

Q:千葉県予選も出ていなかったんですよね?

A:出ていないんですよ。遠征にも帯同していなかったですし、システムの形とかもよくわかっていないですよね。「全部個人技だろ」みたいな(笑) だから、試合に出たことは覚えているんですけど、何をやったかまではいっぱいいっぱいで全然覚えていないんです。

Q:良い思い出という感じでもないんですね?

A:はい。ただ単に「出たな」いう感じです(笑) でも、あの雰囲気というのは覚えていますし、あそこで試合に出られたというのは2年生や3年生になった時に、自分の中で自信になっていたと思うんですよね。それは大きかったです。

Q:レギュラーになったのは2年生からですか?

A:そうですね。左サイドハーフだったと思います。その時も本間(勲・栃木)くんがいたり、町田(忠道・柏、京都ほか)くんがいたり、そういう先輩がいたのでレベルは高かったですけど、やっぱり勝てるチームではなかったですよね。選手個人としては良いかもしれないですけど、今から考えるとチームとしての勝負弱さはありましたよね。強いのは市船みたいな。ああいう強さはなかったですよね。

Q:2年生の時の選手権予選はPK負けですよね。

A:市立松戸に負けました。シミケンさん(清水健太・讃岐)がいて。

Q:やっぱりそうですよね!

A:たぶん西野(朗・元柏監督)さんは町田くんを見に来ていて、そこで「あのキーパーいいじゃん。誰なんだ?」ってなったらしくて。「オレらのおかげか」みたいな感じですよ(笑) それでシミケンさんがプロになったって聞きました。

Q:じゃあPK戦でも何本か止めたんですね。

APK戦に行くまでにウチにはチャンスがありましたし、それも何本も止めていますしね。実はその年はインターハイ予選で早めに市船と当たったんですよ。ベスト8ぐらいで。その冬に全国優勝する市船だったので、羽田(憲司・鹿島コーチ)さんとか原竜太さん(名古屋、湘南ほか)とか、藤沼(清登)さんとかいたチームで、その市船ともPK戦まで行ったんですけど、その時にスペインからコーチが来たんですよ。幸谷(秀巳・元アルテ高崎監督)さんって人が。

Q:おお、幸谷さん!一緒に『Foot!』って番組やってましたよ(笑)

A:幸谷さんが来たんです。それで良くなったんですよ。

Q:ホントですか?(笑)

A:スペイン式なのかわからないですけど、「奪ったらすぐサイドチェンジだ」とか、「クロスは速いボールを上げろ」とか徹底してやっていたら、そのインターハイ予選で市船とPK戦まで行ったんですよ。理論派というか、自分の中でのサッカー観がしっかりしている方だったのでうまくハマったんです。

Q:練習も幸谷さんが見ていたんですか?

A:そうです。アトレティコ(・マドリー)で指導されていたんですよね。

Q:でも、確かに高校生で"スペイン帰りの指導者"とか聞いたら、ちょっと変な説得力はありそうですね(笑)

A:あるんですよ。それでちょっとずつ良い感触は感じていて。でも、そんなに長くはいなかったですけど(笑)、そんな経験もありましたね。3年生の時の選手権予選は闘莉王(名古屋)にFKを決められて。

Q:渋谷幕張との決勝ですよね。

A:決勝です。市船が推薦で全国出場が決まっていた年です。だから、高校時代はそんなに良い所まで行けなかったんですよね。1年の時の選手権が唯一の全国で。それ以外は「うーん...」って感じですかね。

Q:本田先生ですから当然技術を大切にする練習が多かったと思いますけど、習志野での3年間というのはご自身のベースを創る上でも、大切な3年間という感じなんですよね。

A:もちろんそうですね。朝練からボールを使ったドリブルやリフティング系が多かったので、トラップも含めてボールタッチが上手くなるというか、そういう所はだいぶ鍛えられたなという印象はありますよね。"走力"というより、"足下"というのが一番身に付いた時期なのかなと思います。

Q:習志野の中心選手と言えば、当然千葉の中でもかなりのステータスがあったと思うんですけど、大学は流通経済大に行く訳じゃないですか。そのあたりの経緯を教えていただけますか?

A:本田先生が順天堂大なので、僕も順天堂大(以下、順大)を受けたんですけど、セレクションで落ちてしまったんです。ウチらは全国大会での実績がないので推薦枠が取れなくて、そこから急に「勉強しろ」って言われてもという感じで。ちょっとしましたけど(笑)

Q:ちょっとしたんですね(笑)

A:ちょっとしたんですよ(笑) でも、やっぱりちょっとそれは難しくて、そんな時に本田先生が中野監督(中野雄二・流通経済大監督)を紹介して下さったんです。でも、「『行きます』とかそういうことは言わなくていいから、とりあえず見てこい」という感じだったので、見学へ行くことにしたんですけど、まず「どこにある学校なんだろう?」と。「佐貫ってどこ?取手から先も電車が走ってたんだ」みたいな感じだったんですよ(笑)

それで流通経済大に行って、中野監督と話している内に、その場で「もう行きます」という感じになったんですよね。しかも当時、同じ代に順大を落ちたヤツがいたんですよ。中島俊一って帝京から来ていて、今はJFLの流通経済大FCの監督をやっているんですけど、もう1人前橋育英から来ていたヤツも順大を落ちていて、たぶん"落ちた組"で練習を見に行ったんですよ。それで話を聞いている中で、大学は自分次第というか、言ってしまえばもう大人になる時期な訳じゃないですか。だから「ここでやれれば上手くなるし、サボろうと思えばいくらでもサボれる」ということを考えたと思うんですよね。中野さんも「これから強くしていきたい」という想いを持ってらっしゃいましたし、そういう熱意を聞いて「ああ、これは自分次第だな」と思って即決したんだと思うんですよね。「自分がここで努力さえすれば、この監督とだったら絶対にプロを目指せるんじゃないか」と、「流経を強くして行ったら注目されるんじゃないか」と、そういう風に考えて「行きます」と即決しました。

これは一番大きな出会いですね。順大に落ちて、そこでまた新しい方と出会ってという所ですから。でも、即決して帰ってきたら、習志野のコーチの方から電話が掛かってきて、「日大(日本大)に行けるよ」と(笑) 「日大に行けるけどどうする?」と言われたんですけど、「もう返事してきたので断って下さい」と。だから、あの場で返事をしていなかったら、たぶん日大に行っていたと思うんですよ。日大は当時関東2部でしたし、流経は都県リーグでしたから。

Q:それはまさに運命の分かれ道ですね!

A:そうですね。でも、だいたいそれまでも自分が直感で動いてきた時には「ハズレがない」と思っていたので、そういった自分の閃きや直感は「大事にしていきたいな」というのは、その時から思っていましたね。

Q:ちなみに流経に決める前までの"直観"でいうと、大きなものはどういうものがあったんですか?

A:習志野に決めた時もそうですね。結局は自分で決めたので。あとはサッカーを続けるか、続けないかというのもそうです。順大に落ちた時に「続けるか、続けないか」というのもそうですし、そこで諦めるのが嫌だったから「続ける」と決めて。親とも「どうするのか」という話をしたと思うんですよね。自分に嘘をつきながら続けるのも嫌ですし、そういう気持ちでまた流経で中野さんと出会えたというのは大きなことですよね。

Q:栗澤選手が入学した頃は、まだ"つぼ八"で朝ご飯を食べている頃ですか?

A:"つぼ八"では食べてません(笑) まだ、部員も80人くらいでしたけど、食堂でちゃんと食べてました。食事当番もいましたね。

Q:このインタビューシリーズで大宮の塩田(仁史)選手に流経時代のお話を聞いた時に、当時は中野監督が"つぼ八"の事務所で奥様と一緒に朝ご飯を作ってくれて、みんなで山の上にある学校にあった寮から下りて行って、それを食べてから学校に行っていた、みたいなことをおっしゃっていたんですよね。

A:まだ僕らが入ったような寮ができていなかったんじゃないですか。でも、全寮制になったことでサッカー部を辞めた人も結構いたんですよ。「寮生活はキツイな」みたいな。1年生の時はそういう感じでしたね。それでも阿部吉朗さん(FC東京、湘南ほか)は黙々と練習していましたし、阿部さんがいたというのは一番大きかったんじゃないですか。流経のプロ第1号ですし、「ああいう風にやればプロに行ける」というのを僕らに示した人なので。"阿部ロード"っていうのがあったんですよ。黙々と練習後に走るので(笑)

Q:"阿部ロード"は凄いですね(笑)

A:あそこまで居残り練習をするとか、ああいう風に純粋にサッカーを楽しんで、サッカーを考えてということをしている先輩だったので、本当にああいう人が身近にいてくれて良かったなと思います。だから、しょっちゅうつるんでいましたよ。部屋に行って「どっか行きましょうよ」とか。それで特別指定選手としてFC東京の試合で点を取りましたし、そういうことは自分の中でも凄く励みになりましたよね。

1年生の時は都県リーグを勝ち抜いて関東2部に上がったんですけど、その時の都県リーグには早稲田とか専修もいて、早稲田には千葉のGMの(高橋)悠太くんとか、同い年の植草(裕樹・清水)とかいたんですよね。1年の時は天皇杯にも出ましたし、プロのチームとも練習試合とかやるじゃないですか。そういう所で高校とは違う感覚というか、高校時代には感じられなかったポジティブな要素もあって、体を当てられてもよろけないとか、「あ、プロのスピードに追い付いてきたな」とか、そういう所で感触は得ていきましたよね。

Q:おっしゃったように2年の時に関東2部に上がるんですよね。

A:そうですね。当時の2部には中央大の中村憲剛さん(川崎)がいたんですよ。明治大には戸川健太さん(福島)もいてレベルも高かったので、1部には上がれなかったですけど、3年の時に優勝して上がったんです。だから、今から考えると凄いですよね(笑)

Q:信じられないくらい順調ですよね。

A:初めてお会いしたあの時に、中野さんと「関東1部まで上がって、1部で優勝したい」と話をしていた、その"1部"という土俵までは行ったので、単純にそれはやっぱり嬉しかったですね。でも、本当に遊ばなかったですから。実家に帰るとき以外は龍ケ崎から出ないんじゃないかというぐらい。学校も12年生の時に頑張れば、授業数も少なくなってくるので。

Q:法学部ですよね?

A:一応そうです。僕の代からできたんですよ。だから、ちょっと卒業しやすいんじゃないかということで(笑) 初めて作った学部だから、学校側もちゃんと卒業させたいはずじゃないですか。それで選んだんですけどね(笑) 阿部さんなんて、1回授業に出ていたら「アレ、凄い珍しい人がいる」みたいになったらしいんですけど、結局授業を受けに行ったんじゃなくて、先生に単位のお願いをしに行っただけだったという(笑) そういう学校生活というか、寮生活も面白かったですね。

Q:何か寮生活で「これは覚えているな」みたいなことってありますか?

A:レイソルが大好きで、今もゴール裏で先頭に立って応援している1個上の先輩で、僕の28番のユニフォームを着てくれているサポーターの人がいるんですけど、親の何かの都合だとか言って練習を休んだんです。それで練習が終わって、僕らがレイソルの札幌でのアウェイゲームを見ていたんですよ。13時ぐらいにキックオフされた試合で。そうしたらその人が先頭に立って応援している姿が、テレビに映っていたんですよ(笑) 「ほらな」「アイツ絶対コレだと思ったよ」って。先輩たちも「はい、アイツぶっ飛ばす」みたいな(笑) 電話しても全然出ないですし、「何サボってんだよ、アイツ」って。テレビに映っちゃったんですよね(笑)

Q:ガチのサポーターなんですね(笑) でも、そこまでガチのサポーターの人が体育会でサッカーをやるって珍しくないですか?

A:でも、結構審判を目指す人もいるじゃないですか。

Q:ああ、岡部拓人さんも流経ですよね?

A:岡部さんも1個上で、あの人もサッカー部で練習もやっていたんですけど、練習試合で審判をやっている中で、審判としてどこかの試合に派遣されるような機会ってあるじゃないですか。そういうのもずっとやっていた方で、いつの間にか審判の方に進んでいくような感じで、そのサポーターの人もそっち系だったんですよね。ゴールキーパーだったんですけど、全然才能なかったんで(笑)

Q:それ、言わなくてもいいじゃないですか(笑)

A:まあまあ(笑) 面白いキャラの人だったので。でも、寮生活は本当に面白いんですよ。書けないことばっかだと思いますけど(笑) まだその時は自由な方だったので、最近の話を聞くと逆に「信じられないな」と思いますけどね。やっぱりもう注目されるチームですし、ちゃんと"点呼"とかも取るみたいですし。

Q:この間、日立台で熊本がホームゲームをやった時に、流経の子たちがボランティアで来ていましたけど、本当に振る舞いが素晴らしかったですよ。

A:それは凄いことですよね。でも、もちろん僕も流経に行ったからこそプロになれたというか、その想いは強いので、「人生何があるかわからないな」と思いますよね。同期でも中島は名古屋に行きましたし、杉本(恵太)も名古屋に行って、冨山(達行)も湘南に行きましたからね。だから、高校生も諦めないことが大事だなと思いますよ。大学に行ったら、大学でやったことの強みというのが見つかると思いますし、大学に行って自分を磨くというのはアリだと思います。「大学に行ってもさらにレベルアップできる」と思って欲しいですよね。

Q:チームが上昇気流に乗っているタイミングというのはあったと思うんですけど、それでも都県リーグからスタートした大学生活で、4年間頑張ってJリーガーになるというのは、相当な意志の強さがないとできないことだと思いますけどね。

A:そうですね。でも、周りの人のおかげです。中野さんにも「そんなんじゃプロにいけないぞ」とか色々と厳しく言ってもらえましたし、常に周りの人に恵まれたというか、阿部さんみたいな人やシオさん(塩田仁史)みたいな存在の人もいましたし、やっぱり流経の周りの仲間が諦めさせないでいてくれたというのは大きいかもしれないですね。また仲間と一緒に何かを達成する喜びだとか、そういうことで日々成長していくというか、そういう4年間だったと思いますね。

Q:やっぱり流通経済大学に対する思い入れは相当強いですか?

A:強いですよ。やっぱり今でも湯澤(聖人)みたいなヤツでも、流経出身だと言われたらかわいく見えちゃいますし(笑)

Q:みたいなヤツって(笑)

A:あんなヤツでもね(笑) でも、本当に常に気にはなりますね。調子が悪いと大平さん(大平正軌コーチ)に「練習がダメなんじゃないですか?」とか「厳しくないんじゃないですか?」とか言っちゃいますし(笑) だから、今の流経には大学サッカーを引っ張っていって欲しいというか、常に上位にいて欲しいですし、それでOBたちも頑張れるというか、良い刺激を与え合っていますよね。宇賀神(友弥・浦和)とか武藤(雄樹・浦和)とか頑張っていますし、今はシオさんも試合に出ていますし、そういうのも自分の刺激になりますよね。

この間"流経会"をやったんですよ。宇賀神やシオさんが主催という感じで、(鎌田)次郎も湯澤も行きましたし、江坂(任・大宮)も来ましたし。そういうのも刺激になりましたね。だから、"流経"って名前を聞くと今なら「ああ、サッカーの」となりますけど、当時はそういう感じではなかったので、やっぱり本当に流通経済大学には頑張ってほしいですね。サッカー部は特にですけど。

Q:これを最後の質問にしたいんですけど、夢ってありますか?

A:夢ですか?夢はずっとサッカーに関わっていきたいですね。自分の中では指導者をやりたいと思っているので、選手としてはもちろん「優勝したい」という想いは常にありますけど、指導者として「もっと選手を上手くさせたい」とか「こういうアプローチでもっと上手くなるのかな」というのは、現役として練習をやりながらでも「何かの助けになるのかな」と思っています。

指導者としてさらに頂点を目指したいというか、だからそれが「ずっとサッカーに携わっていきたい」という想いに繋がると思うので、自分もそろそろそういうことを考えないといけない年齢でもありますし、そうなった時に今の内から考えておけばスムーズに移行できると思うので、そういった視点でも練習をやりながら感じた雰囲気を大事にしていきたいなと思っています。

Q:本田先生も中野監督も、それこそプロになってからの監督も含めて、結構インパクトのある監督ばかりに指導されていますよね(笑)

A:ああ(笑) でも、本当に11人違う考えを持っていて、それは「本当に面白いな」と思っていて、色々な監督を照らし合わせて「あの時はこうだったけど、こういう考えもあるんだな」という所で、これが今後の自分に相当生きてくるというか、また色々な人と出会って接していくことは、本当に凄く大事だなと思っています。それをどう生かせるのかはまだわからないですけど、そこに一緒にいて、そこで一緒にやったという時間は絶対にプラスになりますから、そこで感じたことというのは大事にしていきたいですね。

【プロフィール】

流通経済大では県リーグから関東1部までの昇格を経験し、4年時に特別指定選手としてJリーグデビューを果たしたFC東京へ2005年に正式加入。2008年途中からプレーしている柏では、J1を筆頭に数々のタイトル獲得に貢献。現在もチーム最年長として活躍中。


※所属チームを含めた情報は、当時のものをそのまま掲載しています。

ご了承ください。

取材、文:土屋雅史

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