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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年03月16日

Pre-match Words ~サガン鳥栖・早坂良太編~(2016年9月16日掲載)

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【Pre-match Words サガン鳥栖・早坂良太編】

(2016年9月16日掲載)

Q:ここからはキャリアのお話を聞かせて下さい。元々サッカーを始められたのは何歳の頃ですか?

A:小学3年の頃に入った寺内スカイSCでのサッカーが、ちゃんと入団して始めたサッカーという感じでしたけど、もうその前から兄を追い掛けてボールを蹴っていたので、幼稚園の頃からやってはいたと思います。

Q:サッカーにはすぐのめり込んだ感じですか?

A:そうですね。もうサッカーばかりしていました。寺内スカイSCの学区はサッカーが凄く盛んで、友達と遊ぶ時も「何する?」という感じではなくて、「サッカーしに行こう」という感じでしたね。チームの練習が始まる前もそうですし、休みの日も関係なくみんな勝手に集まってきて、自然とサッカーが始まるという感じでした。

Q:周囲に恵まれていたんですね。

A:小学校はそうでしたね。だから、僕の代でガンバのジュニアユースに行ったヤツもいましたし、セレッソに行ったヤツもいましたね。ガンバに行ったヤツは奈良育英に行きましたけど、当時は恵まれていたと思います。

Q:寺内スカイSCはどのくらいの強さだったんですか?

A:大阪の知事杯という冬の大会で優勝しました。

Q:それって相当強くないですか?

A:強かったですね。夏はセレッソにボロ負けしましたけど、それまではその地域では負けたことがなかったです。

Q:サラッと言いましたけど、あれだけチームのある大阪で優勝って凄いことじゃないですか?

A:でも、知事杯がどれくらいの大会だったのかがよくわからなかったんですよ。僕たちはセレッソとまたやれると思っていたのに、彼らは大阪セントラルSCというチームに負けてしまったんです。僕らはセントラルに2-0で勝ったんですけど、セレッソとはやれなかったんです。セレッソのイメージはメチャクチャあります。「マジ強いな」みたいな感じでした。

Q:その後は名古屋市立猪高中学校サッカー部ですよね。これは親の転勤ですか?

A:転勤です。名古屋の中学は僕が1年の時の3年は強かったですね。愛知県で2位ぐらいになって東海大会まで行きました。たまたま僕の2個上にある程度できる人たちが集まっていて、僕の1個上の代と僕らの代はそんなに強くなかったです。記録としては1年の時の東海大会がMAXですね。

Q:もしそのまま大阪にいたら、先ほどおっしゃっていたチームメイトみたいに、「ガンバやセレッソに行きたいな」という気持ちもあったんですか?

A:いえ、もう小学6年の2学期が終わったタイミングで引っ越したので、そういう話が出る前に「引っ越すから」みたいな感じになって、全然そういうことは考えていなかったです。「サッカーは続けるんだろうな」みたいな感じでしたけど、みんなが「セレッソ行くんだ」「ガンバ行くんだ」という時にはもう、名古屋の中学へ行くことになっていましたからね。

でも、転校先の小学校にいたのは3学期だけなので、サッカー部の活動も終わっている訳ですよ。ただ、寺内スカイSCはまだ活動していて、最後の"市民スポーツ"という集大成みたいな大会があるんですけど、「その大会に来てくれ」と言われたんです。一応引っ越してからも自分で公園で自主トレとかはやっていたのに、その大会に行ったら全く動けなくて、その時に思ったんですよね。「ああ、自分で動いているつもりだけど、実際は落ちているんだ」と思って、なおかつその時のチームメイトがガンバやセレッソに行くことが決まっていた訳なので、「コレはヤバイな」と思って、それから凄く練習するようになりましたね。

Q:それを小学6年で悟って、実行に移せるのはなかなかですね。

A:それぐらいの衝撃だったんですよ。自分がチームの中ではセンターフォワードをやっていたのに、全然チームメイトに付いていけなくなっていたのが衝撃で、「こんなに落ちるんだ」と思って焦りましたね。そこから中学時代は勝手に王様でやっていた感じです。その頃はメチャクチャ性格悪かったですよ(笑) 僕がもし自分のチームメイトだったら、友達になっていないですね。全部自分の思い通りになると思っていましたし、先生にとっても扱いにくい生徒だったと思います。

Q:その自覚もあるんですね(笑)

A:ありますね。だから、前に中学のチームメイトにあった時に「スマン」って言いましたよ(笑) 「あの時はどうかしてた」みたいな。後輩からも「いや、あの時はヤバかったです。ちょっとミスしたら舌打ちされて、それに怯えてましたよ」みたいな感じで言われたことがあって、あの時は本当に良くなかったです。もう大阪時代と名古屋のギャップがあり過ぎると思っていたんですよね。「こんなんじゃダメだ」とずっと思っていました。

Q:名古屋にもいくつか3種のクラブチームはありますよね?

A3学期に名古屋へ行ったので、そういうことは全然わからなかったです。一応トレセンとかには入っていたので、名古屋FCの選手と一緒にやった時は「相当上手いな」と思いましたけど、また自分の中学に戻って意識を高く持ってやらないといけなかったので、だいぶ感じの悪いヤツでしたね(笑)

Q:トレセンは市のトレセンですか?

A:市のトレセンですね。県トレセンは選抜に行って落ちるという感じでした。

Q:愛知県内には中京大中京を筆頭に強い高校は何校かあったと思いますし、それこそグランパスのユースもあったと思いますけど、どうして愛知高校を選んだんですか

A:家から近かったからですね。他にも家から通えて学力的に行ける所となると、県立の名東高校という所があるんですけど、そこはギリギリか受からないぐらいだと言われたので、「リスクあるな」と思っていた頃に愛知高校の話が出てきて、元々古豪でしたしね。グランパスや中京大中京は考えなかったです。

Q:愛知高校も進学校ですよね?

A:今は凄いみたいですね。僕が教育実習で行った時に「偏差値が凄く上がっている」という話を聞きました。一応"Ⅰ類""Ⅱ類""Ⅲ類"と分かれていて、"Ⅲ類"は中学からエスカレーターで、"Ⅱ類"も頭の良い感じで、"Ⅰ類"はスポーツをやっている人が多くて、僕らの時はハンドボールをやっているヤツとか野球をやっているヤツらがいましたし、ある程度は入るのにも平均的な学力は要りますけど、そこまでではなかったですよ。だから、今は逆に学力が上がり過ぎて、サッカーでは生徒を集められないみたいです。

Q:そうすると家から近いというのが結構決め手だったんですね。

A:そうですね。そんなに色々考えていなかったです。「サッカーやれればいいや」みたいな感じでしたよ。

Q:選手権への憧れはあったんですか?

A:いえ、なかったと思います。とりあえずひねくれていたので(笑)、「サッカーが上手くなればいいや」みたいな感じでした。もちろん選手権は目指していましたけど、「全国に出たいな」とは思っていましたね。でも、当時は努力の方向性がちょっと間違っていたというか、「サッカーは1人でやるものだ」と、「自分がうまくなれればいいや」と思っていて、チームメイトとか関係なく練習していたので、それで3年間で1度も全国に行けなかった時に「もうサッカーは止めよう」と思ったんです。「こんなに一生懸命やったのに勝てないのなら、もう止めよう」と思いました。

Q:1年生の時はゲームに出ていたんですか?

A:インターハイの頃は出ていなかったですけど、選手権は出ていますね。

Q:調べたら中京大中京にPK戦で勝って、名東に負けていたみたいです。

A:そうでしたっけ?(笑)

Q:あまり当時の結果とかは覚えていない感じですか?

A:「あまり」というか、僕は基本的に今もそうなんですけど全然覚えていないです。あの時のあのプレーとか、あの場所とか言われても全然覚えていないんですよ。

Q:お聞きしたかったFC東京戦のアシストが、セカンドステージで良かったです(笑)

A:そうですね(笑) 「あそこのスタジアムがどうだよね」とか言われても全然わからないです。よっぽど印象深くないと覚えていないです。

Q:それでは逆に高校時代で印象に残っていることはありますか?

A:何ですかね... サッカーですよね?

Q:別にサッカーじゃなくても良いですよ(笑)

A:サッカーですけど、何かの大会から自分の学校に帰ってきて、それが夕方くらいで「ちょっと練習しよう」と思ってグラウンドで練習していたら、隣のマンションに住んでいる人が「うるせ~!」みたいに叫んでいて、友達と「うるせえのはオマエだろうが」みたいな感じで言ったら、その人が殴り込んできたというのは鮮明に覚えています(笑) 「ヤベー、来た!」みたいな。それは覚えていますねえ(笑) その後は「そっちの方にシュートを蹴るのは止めよう」と先生からも言われて、「あんなんで怒る人がいるんだな」と思ったのは覚えています。

Q:その想い出が真っ先に出てくるということは、あまり結果にこだわっていない3年間だったんでしょうね(笑)

A:一応こだわっていましたけど、本当に結果が出なかったので。もう3年の選手権が終わった時に、僕らの代は結構良い選手が揃っていたので「これで全国に出られないならもういいや」と思いました。

Q:3年生の選手権予選はどのあたりで負けたんですか?

A:ベスト8ぐらいだったと思います。ベスト4には行っていないですね。

Q:負けた時は泣きましたか?

A:泣きましたね。泣きました。「こんなに一生懸命やってきたのに何なんだろう」と思って凄く泣きました。

Q:それは悔しさからですか?

A:悔しかったです。でも、今から考えれば自分が全然弱かったですし、やっぱりチームスポーツを勝手に1人でやっていたら、それは勝てないだろうなと思いますけどね。当時は常にイライラしていたみたいです。前に弟にも「あの頃は凄く怖かったよ」みたいに言われたことがあるんですけど、自覚はありましたからね。凄くイライラしていました。何かに(笑) 社会にイライラしていたんだと思います。だから、物事も斜めに捉えてしまうというか、ひねくれていましたし、超クセのあるヤツでしたね。先生からしても「面倒くさいヤツだな」みたいな。

Q:それを今ちゃんと振り返ることができる人生で良かったですね(笑)

A:間違いないです(笑) 振り返れていなかったら、本当にしょうもない人間になっていたんじゃないですかね。

Q:そこから静岡大学に進学する訳じゃないですか。例えば愛知にも中京大学や愛知学院大学といった強い私学があったと思いますし、東海地区には他にもサッカーの強い大学がありますけど、何で国立の静岡大学という選択肢になったんですか?

A:もうサッカーをやらないということになって、「じゃあ何を勉強しよう」ということになるじゃないですか。まあサッカーしかしてきていないので、サッカーをやらないということになったら、「サッカーだけを勉強していてもダメだな」と思って、サッカーというジャンルから少し視野を広げたら、スポーツは全部好きだったので「スポーツだな」と。「じゃあスポーツが学べて、教員免許を取れる所ってどこだろう?」と思った時に、愛知学院大にも健康スポーツ学科か何かがあって、中京大も受けようと思いましたけど、スポーツが学べるとなると国立なら筑波大、私立なら順天堂大とか、そのあたりをまずは調べたんです。

自分の学力と選手権が終わってからの数カ月で「自分がセンター試験でどれくらいの点数を取れるかな」というのを考えて、国立だったら「筑波はちょっと厳しいな」となった時に、大阪教育大と静岡大(以下、静大)のどっちかだなと。それで愛知から近いとなると静大じゃないですか。一応センター試験を受けてからではあったものの絞り込んで、たまたまセンター試験も点数が取れて、静大の場合は二次試験に実技が入ってくるので、「これはちょっと差を付けられるぞ」と思って、たまたまそれがうまく行って受かったので「ラッキー」という感じでしたね。

Q:とは言っても、国立でセンター試験を受けてという流れの中で合格するには、当然一定以上の勉強が必要な訳じゃないですか。それは高校時代を通じてちゃんと勉強していたんですか?

A:いえ、やっていなかったですね。もう要領良くやってという感じでした。興味のあった科学とか物理とかはちょっとやりましたけど。

Q:ああ、理系ですか?

A:いえ、理系ではないですけど「物事が何でそうなっているんだろう?」という中で、自分が興味があることだと結構好きなんです。文系に行ったら本当に勉強しなくなると思っていたので、一応理系には入っていましたけど、選手権が終わってからは鬼のように勉強しましたね。あれがあと1ヶ月続いていたら廃人になっていたと思います。

Q:ちょうどギリギリ耐えられる期間という感じだったんですね。

A:そうです。センター試験にピークを持って行ったという感じです。もうちょっと時期が伸びていたら、学力も落ちてくるぐらいだったと思うので、そこもラッキーだったかなと思います。あのぐらいの期間が精神的にギリギリだったのかなと思いますね。それぐらい追い込んではいました。

Q:先ほどから何回か「サッカーを止めようと思っていた」っておっしゃったじゃないですか。でも、「静大に受かりました。4年生の時はインカレに出ています」ですよね。何でサッカーを続けたんですか?

A:もう止めていたんですよ。大学生ってコンパとかメッチャあるじゃないですか。「うわ~、大学生楽し~」と思って、毎日遊んでいたんですよ。

Q:"新歓コンパ"ってヤツですよね

A:そうです。そうです。「楽しい!」と思って遊んでいたら、毎晩親から電話が掛かってきていたんです。「今何してるの?」「いや、まあ色々やってるよ」「これから何をしていくんだ?」「まだ決めてないけど...」「そうか...」みたいな電話が毎晩来ていて、一応スポーツ系なので「どこどこ高校から来て、何をやっていました」みたいなことを新歓コンパでも言うじゃないですか。そうしたらサッカー部の人から「おお、だったら練習来いよ」みたいに言われても、「いや、僕そういうのじゃないんですよ」とか言っていて、確かゴールデンウィークぐらいまで何もしないで、ずっと遊んでいたんですよね。

そんな時に静岡の加藤暁秀高校から来ていた(宮澤)慎太郎というヤツがいて、授業でサッカーがあった時にとにかく目立っていたんですよ。僕もある程度目立つので、「おお、上手いじゃん」みたいになって、「サッカー部行かないの?」「やんないっしょ、大学じゃ」「わかる」みたいな話をしていたんですよね(笑)

Q:慎太郎もサッカー部には入っていなかったんですね。

A:そうです。アイツも静岡の選手権予選のベスト4かなんかで負けていて、彼は保健体育の教員を目指していたので「もうやんないよね。サークルでやればいいよね」という感じだったんです。一応サークルも見に行ったんですけど、ちょっと自分としてはぬるかったので、「あまり面白そうじゃないな」と思っていて、それでもサッカー部の先輩からは「一度でいいから練習を見にきてくれ」とずっと言われていて、「さすがにこんなに言われたら見に行かないといけないな」と思って見に行ったら、そのサッカー部がすべてを自分たちでやっていたんですよ。練習もそのための準備も。

ホワイトボードにキャプテンが自ら練習を書いて、「今日はこれをやって、これをやる。こういう目的があるから、集中して行こう」「オッケー!行こう!」みたいな感じで、練習もみんなそれぞれちゃんとやっているんですよね。それほど上手ではない人も国立なので受け入れる訳ですよ。それでもそういう人たちもちゃんと練習をやっていて、僕にはそれが凄く新鮮で、「自分は今までサッカーをやってきたけど、もしかしたらやらされていたのかもな」と思ったんです。「自分ひとりでやっているつもりになっていた自分に酔ってたな」と。

僕が見に行った時に、自分の代は3人ぐらいしか入部していなかったんですよ。本当にガチでやっているので、大学生からしたらちょっと「えっ?」みたいな感じじゃないですか。でも、「ガチでやっているからにはガチでやろうよ」と。「留学するとか教員を真剣に目指すために勉強したいのなら辞めて良い。でも、ここに来ているならちゃんとやれよ」と。

Q:何事もハッキリしていたんですね。

A:だって、4年生が練習中に殴り合いのケンカとかするんですよ。それぐらい熱くて、僕にとってはそれが凄く新鮮で、「ああ、何かいいなあ」と思って、「どうせ遊び歩いているだけだし、やっぱりやろう」と思ったんです。それで入ることにして、また親から電話が来た時に「サッカー部に入ったよ」と言ったら、そこからまったく電話が来なくなりました。だから、親は多分わかっていたんでしょうね。サッカー部に入ったというのを聞いて、親も「『やっぱりコイツにはサッカーしかないな』という風に改めて感じたんだと思うんですよ。

だから、僕は大学が静大ではなかったら、たぶんサッカーもやっていなかったですし、今頃何をやっていたかわからないですね。僕が1年の時の4年生で、タバコを吸いながら練習に来る人がいて、僕からしたら「いや、ふざけんなよ。サッカーしているヤツが」と思っていたその先輩が、一番フィジカルが凄くて、一番みんなを鼓舞する人だったんですよ。そこで「ああ、自分の価値観なんて小さなものだったな」と思いましたね。「タバコを吸っている=走れないし、ちょっとサッカーに対して真摯に向き合っていない」と自分は思っていたんですけど、「そんなの関係ないんだな」と思いましたし、そういうことが他にも色々とあって、人として成長できました。

みんなバイトも色々やっていましたし、お金のないヤツもいたので、試合に行くのに「みんなで乗り合いで行こう」みたいになって、先輩の車に乗せてもらうことになった時に、「乗せてもらっているんだから車内で寝るな」とか、そういうことも知れて「なるほどなあ」と凄く勉強になりました。たぶん大学生の時期が一番人として成長できたと思います。

Q:慎太郎も一緒に入ったんですか?

A:一緒に入りました。「やっぱりやろうぜ」と。その時はプロになるなんて思っていなかったので、慎太郎と2人で「どうせやるなら履歴書に書けるくらいの"何か"を残そうぜ」と話したのは覚えています。「『インカレに出ました』とか書いてあれば、"箔"が付くでしょ」みたいな。教員採用試験でも「インカレ出ているんですか?」とかなるでしょうし、就職試験で採用する企業の側からも「頑張ったんですね」と認められるはずですし、そういう話になったので、「どうせやるなら」とそこから真剣にやり出しましたね。

Q:土のグラウンドだったんですよね?

A:土のグラウンドでしたね。でも、そんなのは全然関係なかったです。高校も土のグラウンドでしたし、たまに芝生で試合をやると「コレ、やりやすいな!」みたいにメッチャテンションも上がったりして(笑)

Q:色々なことのありがたみがわかりますよね。

A:本当にまったく恵まれた環境ではなかったので、それが当たり前でしたし、その中で「どうやっていこうか」という感じだったので、そういう環境を不満に思ったことはなかったですね。あとは教員を目指している人が半数以上いたので、『人を育てる』という部分はみんな考えていたというか、例えば4年生が練習メニューを自分たちで考えるというのも、たぶんのちのちプラスになるじゃないですか。そういう根本的な土台ですよね。『考えること』だったり『成長できること』というのを、ちゃんとみんなが考えてやっていましたね。「それができないんだったら辞めた方が良いんじゃない?」と。そこはハッキリしていました。

Q:そうするとオンとオフという意味では、普段はしっかり練習するけど、例えばオフの日はみんなでバーベキューするとか、そういう仲の良さみたいなものもあったんですか?

A:学生なので1年と4年の関係性はちょっと違いますけど、でも、みんなで川にバーベキューしに行ったりとか、"新歓"とかも相当なレベルだったので、そこで先輩に怖さを教えられたりとか(笑)、今になってその頃の4年生の先輩にお会いすると楽しいという感じですね。僕も生意気だったので、4年生も扱いにくかったと思いますけど、大人になって改めてお会いすると、やっぱり良い人ばかりですからね。

Q:そういう環境の中で、先ほどおっしゃった履歴書に書ける"インカレ出場"を4年生の時に達成したということは結構凄いことですよね。

A:僕は1年から試合に出させてもらっていましたけど、その時は2部だったんですよね。僕の1つ上の代が結構強くて、僕らの代も良い選手はいたんですけど、1年の時に1部に上がって、2年の時にまた2部に落ちたんですよ。「これはちょっと限界があるな」と思っていた頃に、たまたまエスパルスとかでコーチをされていた方が指導するチームを探していて、「S級ライセンスを持っているんだけど、指導する感覚を鈍らせたくないので指導させて欲しい」と。僕らはお金を出せないので「ボランティアでもいいから」という話が出てきたんです。

そこの矛盾はみんなで考えた所で、今まで自分たちでやってきたという良さも大事ですけど、そういう人が入ってくることによって外から見る力も、インカレに出ることを考えるなら僕は「必要じゃないかな」と思っていたんですよね。その時に「どうする?」とみんなで話し合うことになって、僕は2年生でしたけど「今のままだったら厳しいので、入ってもらった方が良いと思います」みたいな話をして、その時の4年生の方々は凄く議論していましたね。実際に2部に落ちた年でしたし、なかなか勝てない時期でしたし、もちろん僕も「どっちがいいんだろう?」というのはハッキリわからなくて難しかったんですけど、『インカレに出る』ということにフォーカスするなら「仕方ないかな」と思っていましたね。

Q:実際にその人が来た効果はあったんですか?

A:ありました。やっぱりサッカーを知っている方で、自分たちを冷静に見てくれるので。キャプテンの人も試合に出ているので、どれだけ冷静な人でもピッチ上では見えないものってあるじゃないですか。特に相手チームが自分たちより格上になると、どういう戦略を立てて戦うのかは試合中も凄く大事になりますし、インカレに出るためには東海地区で3位以内とかにならないといけないので、そのあたりで必要かなと思ってという感じです。それが結果的に良かったのかどうかは、今でもちょっとわからないですけど、あの当時の僕たちには必要だったと思います。

Q:4年生でインカレに出られたというのは良い思い出ですか?

A:良い思い出ですね。自分たちで目標を決めて、「それができるんだ」ということもわかりましたし、僕にとってはチームで何かを勝ち獲るというのも初めてでしたからね。大学2年の時に大学選抜にも呼んでもらっていたので、一応プロに練習へ行ったりもしていて、高いレベルのサッカーを経験はできていたんですけど、チームとして初めて『全国に行く』というモノを勝ち獲れたので、自分にとっては凄く良かったですね。

Q:そう考えると、大学の4年間は本当に超重要でしたね。

A:間違いないです。バイトも含めて僕にとっては凄く大事でしたね。

Q:バイトは何をやっていたんですか?

A:"アクションサッカー"っていう、コナミスポーツでやれるフットサルみたいなスポーツのレフェリーとか、TSUTAYAとかやってました。

Q:僕もTSUTAYAでバイトしてましたよ(笑)

ATSUTAYA、メッチャ楽じゃないですか?(笑)

Q:僕は本のコーナーだったので、忙しい時は大変でした。時間帯にもよると思いますけどね。

A:僕は20時‐26時ですね。

Q:僕は17時‐25時でした(笑)

A20時‐26時が一番楽でしたね。人が来たとしても捌けるぐらいの感じですし、暇だったら自分の見たい映画コーナーに行ったりしていました(笑) でも、やっぱり色々なお客さんが来ますし、「ああ、僕の常識が通用しないこともたくさんあるんだな」と思うこともあったので(笑)、そういうことも「なるほどなあ」と思って勉強になりました。

Q:やっぱり静岡大学のチームメイトとは今でも仲が良いですか?

A:仲良いですね。仲良いです。今も色々な所で活躍していますし、先生になっている人も多いので、色々な話を聞いたりとか、こっちに遊びに来る時は連絡が来て「ちょっと会おうよ」とか、そういう感じですね。

Q:これを最後の質問にしたいと思っているんですけど、お話をずっと伺ってきた中で早坂選手は相当オンリーワンなキャリアを歩まれてきていると思います。あえてザックリとお聞きしたいんですけど、今の自分っていかがですか?

A:もう常にベストですよ。今の自分にできることをやっていますし、逆に捉え方次第だと思いますしね。よく言われるんですよ。「苦労人ですね」とか。でも、苦労した記憶もないですし、僕にとってはプラスのことしかなかったので、たとえ違うシチュエーションがその時の僕に起きていたとしても、どう捉えるかは僕次第じゃないですか。だから、たぶん違うことが僕に起きた時に、そのことで自分が成長していたら、またそれをプラスに捉えられるんだと思いますね。

Q:そうするとサッカーを止めても、常にベストな人生が待っていそうですね。

A:そう思います。「サッカーをやっていた時の、どの時の自分を超えよう」とか、最近よく考えます。本当は30歳でサッカーを止めようと思っていたので、もう30歳を超えて1年目で、「今はおまけのサッカー人生だ」と勝手に言っていますけど(笑)、それぐらいサッカーは奥が深いということと、どうしても現役は止めなくてはいけないので、そうなったら突き詰める作業をサッカーの現役選手としてはできなくなりますから、それに代わる何かを探すということが、また人生の勝負になるのかなと思っています。

【プロフィール】

愛知高を経て、静岡大では4年時にインカレ出場。JFLHonda FC2シーズンプレーした後、2010年に鳥栖へ加入すると、すぐさま定位置を確保し、2011年にはJ1昇格に大きく貢献。以降も複数の攻撃的なポジションを任され、J1に定着したチームを支えている。


※所属チームを含めた情報は、当時のものをそのまま掲載しています。

ご了承ください。

取材、文:土屋雅史

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