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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年03月13日

Pre-match Words ~ガンバ大阪・阿部浩之編~(2016年8月5日掲載)

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【Pre-match Words ガンバ大阪・阿部浩之編】

(2016年8月5日掲載)

Q:ここからはキャリアのお話を伺いたいと思います。名鑑を拝見すると最初のクラブ名はエントラーダSCとなっていますが、サッカーを始められたのは何歳の時ですか?

A:ボールを蹴り始めたのは4歳か5歳くらいじゃないですかね。4つ上の兄がいて、その兄がサッカーをしていたので一緒にするようになったというのがキッカケかなと。たぶん幼稚園の先生とボールを蹴ったり、兄と蹴ったりしていたんだと思います。

Q:お兄さんがエントラーダSCに入っていたということですか?

A:いえ、兄は違うチームなんですよ(笑) 上牧小学校のクラブチームで、僕とは学年もほぼ入れ替わりなんです。僕と小学校が一緒でエントラーダSCに入っていた友達が誘ってくれて、それで入ったという感じですね。

Q:エントラーダSCはどういう雰囲気のチームだったんですか?

A:幼稚園の先生が指導しているチームだったので、メチャクチャ楽しくやらせてもらえましたし、その中で厳しさもありました。監督の方は亡くなられてしまったんですけど、怖かった印象とサッカーを色々と教えてくれた印象があったので、凄く良い先生でした。

Q:そうするとサッカーを始めるには凄く良い環境だったんですね。

A:そうですね。本当に楽しかったですね。地味に強かったですし。

Q:「地味に」なんですか?(笑)

A:その地域では一番強かったんです。そんなことも知らずに、たまたま入ったチームがそうやったので、「良いチームに入れたな」と思いますね。

Q:結構周囲の選手のレベルも高かった感じですか?

A:そうですね。僕たちが小学校6年の時は全少予選の県大会で準優勝しましたし、バーモントカップでは全国で3位だったので。

Q:メチャクチャ強いじゃないですか(笑)

A:高田FCという、僕が中学から行くチームの小学生チームに勝って、全国に行きました。だから、地味に強かったんですよ(笑)

Q:バーモントカップに出ている選手ってこのインタビューシリーズでも凄く多くて、鹿島の土居聖真選手や湘南の神谷優太選手も出ていると話していましたが、阿部選手が出場した時に一緒に出ていた選手で、今でもJリーグで活躍している選手って覚えていますか?

A:前にパンフレットを見たら、サンフレッチェにいた僕と同い年の横竹(翔・高知ユナイテッドSC)とか、今は千葉にいる比嘉(祐介)は沖縄の代表で出ていましたし、あとは誰がいたやろ... ああ、中村太亮(磐田)、吉野峻光(甲府)とか、僕らの代はそれぐらいですかね。

Q:その中で3位って凄いですよね。

A:奇跡ですね(笑) でも、クジ運も良かったんですよ。確かサンフレッチェとヴェルディが潰し合いをしてくれたり、サンガとヴェルディも予選の初めの方でやったりとか、そういうのもありましたね。

Q:全少の予選は高田FCに負けたんですか?

A:いえ、東登美ケ丘FCというチームで、今はセントラルFC奈良かな?確かどこかと合併して、はっきりとはわからないですけど、そのチームに負けました。

Q:中学時代は高田FCに行かれた訳ですけど、たぶんそんなに家から近くないですよね?

A:自転車で通っていたんですけど、30分くらいですかね。

Q:もちろん中学の部活というのも選択肢の1つにはあるでしょうし、他にもクラブがあったんじゃないかなと思いますが、高田FCに行くことを決めたのはどういう理由からですか?

A:やっぱり全国大会に出たかったということと、自分も上手くなりたいと思いましたし、その中で中学生やったから県外に出るという選択肢はあまりなくて、奈良県で一番強いチームと言ったらダントツで高田やったんで、逆に高田に行くこと以外は考えなかったですね。選手も色々な所から来ていることもあって、練習も夜やったので、全然通うのも苦にはならなかったです。

Q:前田俊介選手(鳥取)は入れ違いですよね?

A:そうですね。あの人は3つ上でちょうど入れ替わりなので、接点はなかったんですけど、監督からは前田さんの話はメッチャ聞きましたし、僕が高田に入った時は前田さんもまだ高校生やから、サンフレッチェユースの試合とかを見て「ああ、メッチャ凄い人なんやな」とは思いました。今は面識があって、凄く面白い人なんですけどね(笑)

Q:今は面識があるんですね。後輩ということでかわいがってもらっている感じですか?

A:そうですね。1回高田の初蹴りで会ったぐらいなんですけど、お会いしたら喋ったりする感じですね。

Q:高田FC時代の戦績はいかがでしたか?

A3年の時は高円宮杯は出たんですけど、夏のクラブユース(選手権)には出ていないんですよ。僕は2年までトップチームに絡んでいなかったので。学年の中でも4番手、5番手ぐらいだったんじゃないですかね。同学年には1年や2年の頃からトップチームに絡んでいる選手もいましたし、自分たちが3年になって、やっとトップチームの試合に出られるようになったという感じでした。

Q:それだけ周囲のレベルが高かったということですか?それとも阿部選手ご自身のレベルが足りなかったという感じですか?

A:どっちもですね。自分も全然良くなかったですし。夏は僕らの代で、7年連続ぐらいで全国大会に出ていた記録を止めたんですよ。関西で3勝くらいせなあかんので、結構全国に出るのは難しいんですけど、それを止めちゃったので"谷間の世代"と言われてましたね(笑)

Q:2年生までほどんどトップチームの試合に絡めなくて、しかも家からもそんなに近くない訳じゃないですか。サッカーが嫌になったりはしなかったんですか?

A1年生だけとか、2年生だけとかの、自分たちの代での試合には出ていたので、自分が上手くないというのもわかっていましたし、諦めていた訳ではなかったですけど、「トップチームに出れへんのはしゃあないから、自分が上になった時に出られればいいか」と思っていましたし、たぶん中学の時はそこまでの野心はなかったですね。

Q:当時のポジションはどこだったんですか?

A:ボランチをやっていたと思います。キックは元から左右両方得意でしたけど、足が遅かったので、"散らす系"の選手で出ていましたね。

Q:中学3年の高円宮杯はどれくらいまで行ったんですか?

A:予選リーグで負けました。アビスパとやって、鈴木惇がいたのは覚えています。

Q:高田FCと言えば技術を大事にするクラブとして全国的にも有名ですけど、やっぱり高田FCでの3年間はそういう部分で大きな3年間でしたか?

A:最低限の技術は教えてもらいましたし、僕はあまりドリブルが得意ではないんですけど、危ない状況やったらパパッと相手を外せる技術は付いているかなと思いますし、基礎は教えてもらったと思います。

Q:今はディアブロッサという名前に変わっていますけど、アレは先輩としてどうなんですか?(笑)

A:どうなんですかね(笑) なんか人数が多過ぎて、僕らのちょっと下の代くらいから2チームに分けたんですよ。それで名前を変えなあかんみたいになって、そうなったと聞きました。僕らの時はユースもなかったので、高田FCという名前でしたし。今は女子チームもあるらしいですから。もちろん高田の名前が広まることは良いことだと思いますけどね。

Q:当然奈良県内の高校だったら、奈良育英が絶対的な存在としてある訳じゃないですか。特に当時は確実に全国へ出られる環境だったと思うんですね。それに大阪でも強い高校はいくらでもあったと思うんですけど、なぜ大阪桐蔭を選ばれたんですか?

A:(奈良)育英からはめっちゃ熱心に誘ってもらったんですけど、サッカーのスタイル自体が合わないかなと思ったんです。結構縦に速くて、フィジカル勝負みたいなスタイルで、高田でやっていた分、余計にそう思ったのかもしれないですけど、ちょっと難しいかなと。あとは一条高校という所も強いんですけど、公立だったので奈良市内に住んでいる人の方が行きやすいというのもありました。

それで色々考えている時に、桐蔭の永野(悦次郎)先生という方が毎晩のように電話してきてくれて、めっちゃ熱いんですよ(笑) 凄く良い人で、僕も中学の時はそこまでレベルの高い選手ではなかったのに、凄く自分を必要としてくれたので、1年生から試合に出られるということもあって、「行こうかな」と思いました。やっぱり1年生から出られるということは大きかったですね。

Q:サッカー部の1期生だったんですよね?

A:そうです。周りも全員1年生です。25人ぐらいですかね。だから、それだけの競争で試合に出られるということで、3年間にあった公式戦はほぼ全部出ていましたし、その経験値は相当大きかったですね。1年生と3年生だと体格も全然違うじゃないですか。その中でフィジカルで負けても違う所で勝つような部分を身に付けられましたし、二川(孝広・東京V)さんのユースの同級生で、トップに上がってサテライトとかでも試合に出ていたような人がコーチだったんですよ。中垣(典明)さんと言って、"ツネさん2世"みたいに言われていた人で、めっちゃクレバーな選手だったらしいんですけど、そのコーチも当時は若かったので、一緒に練習をやってくれて、そういうこともあって良い環境やったと思いますけどね。練習場も人工芝やったし。中垣さんは今でも常にベンチに入っていますけどね。

Q:1年生からすぐに試合も出られる環境で、そうすると大阪桐蔭に入った後悔とかはまったくなかった感じですね。

A:まったくなかったですね。1年からバリバリ出られましたし、選手権予選ではベスト16まで行って、2年の選手権予選は準優勝で、3年の時はすぐ負けちゃったんですけど、新人戦とかも優勝していますし、インターハイ予選も優勝していますし、順調やったと思いますけどね。高円宮杯もサンガとか神戸を倒して行っていますし、全然後悔はなかったですね。

Q:それって1年生の時に集まってきたメンバーを見て、「ああ、このレベルだったら上を狙えるな」という手応えが早い段階からあったんですか?

A:そうですね。ガンバ堺とかサンガとかからも来ていましたし、京都の宇治FCとか結構強い所からみんな集まってきていたので、「これやったらイケるんちゃうかな」と思いましたし、下の学年の方がJの下部組織出身の選手が入ってきてくれて、よりレベルも高くなりましたし、やっぱり永野監督のおかげかなと思います。

Q:一度インターハイの全国大会で永野監督にお話を伺いましたけど、熱さの"圧"が凄かったのを覚えています(笑)

A:熱いんですよ(笑) 桐蔭はインターハイは強いんですけど、選手権の成績はあまり良くないんですよね。

Q:でも、創部2年で選手権予選の決勝まで行くなんて、ちょっとドラマの世界の話みたいな感じですけどね。

A:しかも1回戦からやったんですよ。インターハイの結果が全然良くなくて、シードがなかったので、1回戦から決勝に行くまで9回勝ちましたからね(笑) 9回勝ってやっと決勝ですよ。「どんだけチームあるんや」と思いました(笑) しかも当時の僕らは練習を芝の良い環境でやらせてもらっていたんですけど、今と違って準決勝までは土のグラウンドだったんですよ。

"マウンド"のある高校の校庭でやったり、メチャクチャ狭いグラウンドでやったり、今やったら(J-GREEN)堺で一気にやるので、それだったら実力もある程度出せると思いますけど、逆に難しい環境でやらせてもらったのも、今から考えれば良かったと思います。土でやるのは相当難しいですからね。でも、強いチームはそれでも勝ちますよ(笑) だから、力がなかったということだと思います。

Q:高校3年の時はインターハイで全国に出る訳じゃないですか。創部3年で全国に辿り着いて、青森山田に負けたんだと思いますけど、それって良い思い出ですか?

A:良い思い出ですけど、当時の青森山田と言ったらもう全国トップレベルじゃないですか。スコア以上に差を感じましたし、「もっとやらなアカンな」という想いが出てきて、逆に次のステップに行くためには良かったと思います。「俺ら結構イケるんちゃう」と思っていたぐらいやから、それで簡単に負けたことで悔しい想いができたことは良かったですね。

Q:そうすると、ご自身としてもその全国を経験したことで、より上を目指したいという気持ちが出てきたという感じですか?

A:もうその頃にはそういう気持ちはありましたけど、余計強くなったのは間違いないです。高校に入ってちょっとした頃ですね。「プロに行きたい」と思い出したのは。中学まではそんなことを考えられなかったので。まあ良い思い出と言えば、良い思い出ですけどね。

Q:どこのインターハイだったんですか?

A:佐賀です。鳥栖のスタジアムでやったんですよ。

Q:夏の全国大会って遠い所に行くと、修学旅行感もあって楽しいですよね(笑)

A:そうですね。鳥栖のスタジアムは良かったと思いますし、そこでやれたのは良い思い出ですね。

Q:高円宮杯に出場したというのも凄いですよね。

A:プリンスリーグは僕らの年から参入したので2部だったんですけど、2部の2位で4チームの決勝リーグに行ったんです。そこで上位2チームが全国に行けるんですけど、2部の1位だった野洲とウチと、1部の3位と4位だったサンガと神戸のリーグ戦でした。1部の1位と2位はガンバとセレッソで、その2つは本大会行きが決まっていて、その4つで総当たりだったので「結構難しいな」と思っていましたけど、結果は1位でしたからね。神戸とサンガに連勝して、確か勝ち抜けが決まってから野洲だったと思います。でも、野洲には3年間で勝ったことがなかったですね。何か相性が悪かったです。

Q:そうなんですね。阿部選手が1年の時が、野洲が全国優勝した年ですよね。

A:そうです。そうです。楠神順平選手(ウエスタン・シドニー・ワンダラーズ/オーストラリア)とか、乾(貴士・エイバル/スペイン)選手とか雄大くん(田中雄大・神戸)とか、最強の世代ですね。だって、決勝のメンバーの中から確か7人ぐらいプロに行ったんですよね。

Q:あのスタイルのチームからそれだけプロの選手が出るというのも凄いことですよね。

A:そうですね。やっぱり優勝するということがどれだけ大事かというのは感じます。優勝していなかったら、そこまでプロになっていたかどうかはわからない所ですよね。

Q:そうすると当然3年の時の選手権予選は大阪桐蔭が大本命だった訳ですよね。どこで負けたんですか?

A:ベスト16ですかね。初戦はほとんど負け掛けていた所からギリギリで勝って、「このままじゃヤバいぞ」という雰囲気になっていたんですけど、やっぱり浮わついていた感じがあって、そのまま次の試合でコロッと負けました。その前にテレビの特集があったんです。ウチらに"付きっ切り"みたいな感じで。

Q:キャッチーですからね。創部3年目で全国を狙うみたいな。

A:そうですね。インターハイも高円宮杯も出ているし、「選手権も絶対出るやろ」みたいな。そういうのもあってみんな浮かれまくって、チヤホヤされまくって(笑)、勘違いして負けたという感じでした。でも、良い思い出ですよ。もちろん選手権は出たかったですけど、キャリアアップのためには良かったと思いますけどね。あそこで勝っていたら余計調子に乗っていたかもしれないですし。

Q:負けた時は泣きました?

A:泣きましたね。たぶん(笑) さすがに「そこでは負けへんやろ」と思っていましたし、若かったなと思います(笑)

Q:それこそ当時の大阪桐蔭はテレビにも取り上げられるくらいドラマ性もあって、話題性もあるチームだった訳ですよね。そこで過ごした3年間はどういう時期でしたか?

A:サッカーはメチャクチャ充実していました。公式戦にたくさん出ることができたりとか、良い監督やコーチに色々なことを教えてもらえたりとか、そういうことは良い経験でしたけど、もっとやっていれば高校を出た時にそのままプロに行けたかもしれないとは思います。ただ、よりプロへの意識が芽生えたというか、「プロになりたい」と思うようになりましたし、「このままじゃアカン」という想いもありましたし、そのどちらも感じることができた時期ですかね。

Q:大学は関西学院大学に進まれますが、当時の関学は正直今ほど強くなかったですよね?

A:全然ですよ。僕が入ったのは加茂(周)さんが来るようになって、2年目か3年目ぐらいだったんですよ。加茂さんがいるというのもありましたし、僕は関学に拾ってもらったんですけど、1年の初めから使ってもらいましたし、そういう風に考えると大学の4年間はサッカー面で考えても本当に濃かったですね。より大人のサッカーというのもできましたし、入学した時にプロになることも決めていましたしね。なんかわからないんですけど、自信もあったんですよ。

Q:関学以外の選択肢もあったんですか?

A:あったんですけど、「プロの練習に行く」って言って他の大学は断ったんですよ。

Q:プロの練習はどこに行ったんですか?

A:サンガです。満生(充・藤枝)と一緒に連れて行ってもらって、「このままじゃアカンな」と思うことができたので、大学でレベルアップしたいと思いました。

Q:関学では1年から試合に出ていたんですね。

A:そうですね。梶川(諒太・長崎)と僕はずっと出ていました。加茂さんが気に入ってくれたんですかね。当時はそこまで強くなかったですし、加茂さんが使ってくれたからこそ試合に出られたというか、加茂さんには気に入ってもらえていたのかなと思いますね。

Q:加茂さんって僕らからしたらちょっとレジェンド的な存在ですけど、実際はどういう方なんですか?

A:そのままですよ。レジェンドです(笑) レジェンドですけど、あの人は色々面白いですよ。掴めない人ですけど、勝負事は超強いです。今までやったことのない交替とかをしても、それがドンピシャで当たりますし、そういうのが凄くある人なので、成山さん(成山一郎・現関西学院大監督。阿部選手の在籍時はヘッドコーチ)と最近食事に行った時も「周さんはそういう部分が凄い」とおっしゃっていましたね。

Q:何か加茂さんから言われたことで印象に残っていることはありますか?

A:「オマエは足も遅いし、体も小さいし、能力的には高くない分だけ考えてサッカーしろ」とは言われましたね。

Q:僕は阿部選手が2年の時に出ていたインカレの準々決勝を見ていたんですけど、加茂さんはベンチで90分間微動だにしていなかった印象がありました。

A:いつもですよ。全然動かないです(笑) 何も言わないですし、ハーフタイムに少し何か言うだけで、ゲーム中に喋っているのは見たことがないですね。逆にああいう風にどっしり構えてくれていることも、選手からしたら良いのかなと思いますけどね。

Q:それでも言葉に納得させられるものがあるんですね。

A:そうですね。一言一言が『深い』というか、『しっかり入ってくる』というか、そういう部分はあると思います。

Q:そのインカレの準々決勝の駒澤大学戦は相当面白いゲームでしたけど、印象に残っているのは試合が終わった瞬間に加茂さんが喫煙所に直行していたことでした(笑)

A:ヘビースモーカーですからね(笑) 加茂さんからしたら「もう負けたらしゃあない」って感じなんじゃないですかね。でも、結構そのゲームに負けたことは悔しがっていたというのは後になって聞きましたけどね。

Q:ご本人にとってはあまり良い印象のゲームではなかったみたいですね。

A:結構「面白かった」とは言われますけどね。当時の4年生たちと話していても、その試合が一番印象に残っているみたいです。でも、僕にとっては2年の1年間でも一番嫌なゲームだったかもしれないです。インフルエンザに掛かっていたので、コンディションも良くなかったですし、駒澤が強かったというのもありますけど、自分が全然何もできなかったというのもありますし、そういう所で「もっとレベルアップせなあかんな」とは思いましたね。

Q:相手には金正也選手がいたと思いますが、彼の印象は覚えてらっしゃいますか?

A:覚えていないです。ヘディングが強いだけです(笑) だって、駒澤には180センチ以上の選手が78人いましたからね。蹴って、蹴ってという。そういうサッカーにあの人は適していると思いますけど(笑) フォワードの三島(康平・松本)選手もヘディングは超強かったですから。そういうサッカーができる走り込みも駒澤はしていますしね。

関学も関西では走り負けたことなんてなかったですけど、延長に入ってウチらは結構足が攣ったりしていたのに、駒澤はピンピンやったから「これは凄いな」と思いました。それでガンバに入ってからジョンくん(金正也)に聞いたら、100メートルダッシュを100本くらいすることもあったらしくて、「それは勝てへんわ」と思いましたよ(笑)

Q:3年と4年の時はインカレに出ていないと思うので、てっきり良い思い出的な感じのゲームだったのかなと思っていましたけど、お話しを伺うと逆に最悪の思い出ぐらいの感じだったんですね。

A:そうですね。あのぐらいのレベルのチームとやることもあまりなかったので、「何もできんかった」というのはより強く覚えていますね。

Q:やっぱり大学の4年間はプロに繋がるという意味でもかなり大きい時期だったんですよね?

A:かなり大きかったですね。大学やったからプロの練習も参加させてもらえましたし、そういうのもあってプロの練習に行って「ここが足りひん」と感じて、大学に戻って練習しての繰り返しやったと思いますし、そういうことで大学のチームの底上げもできましたし、そういうのは良かったかなと思いますね。

Q:去年は関学も四冠を達成しましたけど、その隆盛に繋がる礎を創ったのが、阿部選手たちがいた時代なのかなとも思いますけど、そこに関して思う所はありますか?

A:ぼくらが2年の時に関西で優勝したというのもありますし、それも大きなターニングポイントだったと思います。僕らの代からプロに行く選手がずっと続いているというのも、より「頑張ったらプロに行ける」ということを示せているのかなと思いますし、僕らが築いたと言ったらおかしいですけど、また強い関学が戻ってきたかなというのは思いますね。

Q:これを最後の質問にしたいと思います。中学時代はプロへの意識はそこまでなかった少年が、ドラマチックな高校時代を過ごして、今はガンバでゲームに出続けている訳じゃないですか。あえてざっくりお聞きしたいんですけど、今の自分っていかがですか?

A:いや、全然まだまだでしょ。もっとズバ抜けた選手になりたいですし、ガンバで絶対に替えの利かへんぐらいの選手になりたいので、そういう意味ではまだまだかなとは思いますね。

Q:『イメージしている自分』というものがある感じですか?

A:もちろん代表には入りたいですし、そのためにもまだまだしなくてはいけない課題が自分の中ではありますけど、「徐々にレベルアップできているな」という実感もありますし、そういう所では徐々には来ているなとは思います。

Q:自分のイメージしている所はかなり高い所ですか?

A:やっぱり高く設定しないと、もう上には行けないと思いますし、落ちていく一方やと思うので高めには設定しています。

【プロフィール】

大阪桐蔭高サッカー部1期生として全国を経験し、関西学院大ではリーグ優勝や得点王も獲得。2012年にG大阪へ加入すると、ルーキーイヤーから出場機会を掴み、高いシュート精度で自らの地位を確立。今後のさらなる活躍が期待されている。


※所属チームを含めた情報は、当時のものをそのまま掲載しています。

ご了承ください。

取材、文:土屋雅史

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