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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年03月15日

Pre-match Words ~ベガルタ仙台・関憲太郎編~(2016年8月26日掲載)

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【Pre-match Words ベガルタ仙台・関憲太郎編】

(2016年8月26日掲載)

Q:ここからはキャリアのお話を聞かせて下さい。名鑑を拝見すると、最初のクラブ名は神流サッカークラブになっていますが、サッカーを始めたのはいつ頃ですか?

A:小学3年だと思います。部活は小学4年からで、3年の頃は放課後に毎日サッカーをしていたという感じです。部活は4年からだったんですけど、なんか放課後の頃からキーパーをやっていましたね。

Q:最初からキーパーだったんですね。

A:やっていましたね。入部した時もすぐに「キーパーやりたい」と言って、親に「キーパーグローブ欲しい」って言ったら、「えっ?キーパーやるの?」と驚かれました(笑) 自分の父は柔道をやっていたんですけど、その時に自分も習い事で柔道をやっていて、たぶん父は自分がやっていたから僕にも柔道をやって欲しかったんだと思いますけど、「サッカーをやりたい」と言ったら応援してくれましたね。

Q:小学3年の放課後以前は、あまりサッカーに興味がなかったという感じですか?

A:どうだったんですかね。一番仲の良かった親友の子がサッカーをしていたので、それにつられて始めたという感じですかね。

Q:ご家族が驚かれたのも少しわかるというか、小さい頃ってみんなキーパーをやりたがらないじゃないですか。そうすると自分から「キーパーって面白そうだな」と思った感じですか?

A:そうだと思います。本当にみんなキーパーってやりたがらないじゃないですか。「じゃあオレがやる」みたいな感じで、最初はルールも全然知らなかったんですよね。どこまでキャッチしていいのかとか。それで結構な範囲でハンドしていたら、ずっとサッカーチームに入っていたその親友の子に「ここから先はキャッチしちゃダメだよ」みたいな感じで教わったのは、なんか覚えているんですよね(笑)

Q:ペナルティエリアの概念もないのに(笑)、キーパーをやりたいって思ったというのは結構不思議ですね。

A:不思議ですよね。「何でだろうなあ」という感じはありますよね。

Q:今でも「何でだろうなあ」という所からキーパー人生が始まったという感じなんですね。

A:そうですね。でも、柔道もやっていたので、受け身とセービングというのが結構結び付いて、あまり痛くなかったですし、柔道をやらせてくれていた両親には感謝していますけどね(笑)

Q:サッカーを始めてからも柔道は並行してやっていたんですか?

A:小学6年までやっていました。中学に入るにつれて部活も厳しくなってくるじゃないですか。そこで「サッカーをやりたい」と思って決断しました。父がサッカーを応援してくれたのは嬉しかったですね。

Q:神流サッカークラブはどれくらいの強さだったんですか?

A6年の時のミルクカップは県で3位だったと思います。

Q:ホントですか?敷島でやりました?

A:敷島でやりました。テレビに映りましたよ。

Q:僕、その試合の直後に敷島で選手権予選の決勝やってますよ!

A:やってましたね(笑)

Q:マジですか!同じ日に敷島のピッチに立ってたんですね(笑)

A:面白いですね、そういうの(笑)

Q:でも、県で3位って相当強いじゃないですか。

A:なんか勝っていったんですよね。そんなに強いチームじゃなかったんですけど、みんな頑張る選手が多くて恵まれていました。僕は藤岡北中学校のサッカー部に入ったんですけど、その親友の子は高崎ジュニアに入ったんですね。それでナショナルトレセンにも入って、一緒に前橋育英にも入ったんですけど、その子がチームでずば抜けていて、試合でも相当活躍していたので、それで勝っていたというのもあったと思います。

Q:小学校時代の関選手は選抜に入っていたんですか?

A:一応県選抜には入っていたと思います。

Q:当時はクラブチームもいくつかあったと思いますし、それこそ親友も高崎ジュニアに入った訳じゃないですか。関選手はクラブチームに行こうとかは思わずに、普通に藤岡北中のサッカー部に入った感じですか?

A:普通に入りましたね。しかも、結局中学3年の時に全国大会に出ているんですよ。関東大会も勝ち上がって、全国大会に出場したので、そこも恵まれていたんですよね。

Q:神流サッカークラブのチームメイトも、ほぼほぼ藤岡北中に行く訳ですよね。その中で「コイツらと一緒なら強くなるだろう」というのがあったんですか?

A:いえ、全然ないですね。だから、まさか関東大会も出られるとは思わなかったですし、全国大会なんてもっと出られるとは思わなかったですからね。確か藤岡で全国大会に出たのが相当久しぶりだったか、初めてだみたいに聞いていて、それぐらい珍しいことだったみたいです。中学も頑張ってハードワークできる選手が多くて、それで勝っていったという感じですね。

Q:中学生で全国大会に出られるって素晴らしい経験ですよね。

A:そうですね。1回戦で負けてしまったんですけど、よく頑張りましたね(笑)

Q:県で優勝して、さらに関東大会がある訳ですからね。

A:関東を勝ち上がらないとですからね。それって凄いですよね(笑)

Q:凄いと思いますよ(笑) 別に藤岡北中ってそんなに強い学校じゃなかったですよね。僕らの頃は東中が強かったんですよ。

A:岩丸(史也)さんは東中でしたっけ?

Q:確か西中じゃないですか?

A:ああ、西中ですね。僕はマルさん(岩丸史也)が前橋育英だったので、あの人に憧れて前橋育英に行きたいと思ったんです。それで縁あって、横浜FCで一緒にプレーすることになって、それは嬉しかったですね。あの人の身体能力はハンパなかったです。何気に藤岡はGKを出しているんですよ。

Q:そうですよね。GK王国ですよ(笑) 岩丸がいて、関選手がいて、他に誰かいましたっけ?

A:東中に常澤(聡・岐阜)っていう僕と同い年のヤツがいて、前橋育英でも一緒にやっています。

Q:常澤も藤岡なんですね!なにか藤岡にはGKを輩出する土壌があるんですか?(笑)

A:いや、特にはないと思うんですけどね(笑)

Q:中学の時に全国大会に出られたというのは良い思い出ですか?

A:良い思い出ですね。もう当時の同級生は誰もサッカーをやっていないですし、「高校で強いチームに行ってサッカーを頑張ろう」という人もいなかったので、よく勝ち抜いたなと(笑) 結構1年の頃はヤンチャしていたヤツも、3年の時にはマジメになって、サッカーも頑張るようになってという感じだったので、全国なんか出られるとは思ってなかったです。自分は「育英に入ってやろう」という想いはありましたけど、「チームを全国に連れて行ってやろう」みたいな感じではなかったですしね。

Q:全国大会はどこでやったんですか?

A:鹿児島です。でも、その時は「鹿児島なんてもう一生来ないだろうなあ」と思っていたんですよね。なかなか九州なんて行けるものじゃないですから。そうしたら、その2年後には国見ですからね(笑) 九州大会とかでガンガン鹿児島とか行くことになって、「ああ、こういうことってあるんだなあ」っていう感じでしたよね。

Q:国見の話をお聞きする前に(笑)、そうすると前橋育英には中学時代から行きたいと思ってらっしゃったんですね。

A:思っていました。GKコーチにブラジル人の方がいて、その人のクリニックが週2くらいであったんですけど、それに小学5年くらいから通っていて、そのブラジル人の方に教わりたかったので、結構早い段階から育英1本に絞っていた感じでしたね。懐かしいなあ。

Q:実際に入学してみた育英のサッカー部はいかがでしたか?

A:レベルが高かったですね。同級生にキーパーが7人いて、結構なレベルだったんですよ。みんな上背もありますし、「7人!マジか!」とか思って(笑)

Q:それで先輩もいる訳ですからね。

A:そうです。だから、キーパーだけで11人くらいいたんですかね。しかもGKコーチの方も凄く厳しい方でした。

Q:例のブラジル人の方ですか?

A:いえ、そのブラジル人の方はもうGKコーチじゃなくて、ヘッドコーチみたいな立場になっていて、日本人のGKコーチの方がいたんですけど、まあ地獄でした(笑)

Q:単純にキーパーのトレーニングがキツかったんですか?

A:はい。とにかくキツかったですね。やっぱり高校時代のコーチって威圧感もあるじゃないですか。そういうメンタル的な部分ですかね。アレは追い込まれますね。クタクタになって家に帰っていました。

Q:確か関選手の2つ上の代は相当プロに行った代だと思いますけど、キーパーはそんなに大きくなかったですよね?

A:そうですね。宮川(純一)さんは僕の1個上で、前橋ジュニアから育英に来た人で、あの人も身体能力は凄かったですね。

Q:11人くらいキーパーがいて、1年の頃の関選手の序列は何番目くらいだったんですか?

A11人の序列ですか?(笑) 序列...

Q:ゲームに出られそうな雰囲気はあったんですか?

A:いやいや、まったくないです。まったくないです。結局11人いても、トップで出られないヤツらはFC前橋というチームに行ってしまうんです。1年生は7人いる中で1人だけトップチーム登録になったので、まずその子が一番手じゃないですか。

Q:それが常澤選手ですか?

A:いえ、それはまた違う選手です。

Q:プロのキーパーが2人も出た代なのに、まだ違う実力者もいたんですね。

A:いたんですよ。その6人の中では調子の良い悪いで、立場がどんどん変わっていきますからね。ビジョン的に「自分が3年になったら試合に出られるのか?」というのもありましたけど、1年の時は「キツい練習にどう耐えていこうか」しか考えていなかったですね。親と話す機会もなかったですし、あまり記憶がないですから。休みの日に何をしていたかとか。たぶん週1くらいで休みがあったんでしょうけど、全然記憶にないですからね。

Q:先ほどおっしゃったFC前橋というチームは、基本的に下級生中心のチームということですか?

A1年生だけです。トレーニングも1年生だけでした。

Q:そこに行ったら、基本的にトップチームの公式戦には出られない訳ですか?

A:そうです。だから、選手権予選前に登録の都合上でFC前橋から前橋育英に移るとか、そういう選手は1人か2人くらいはいたと思います。

Q:FC前橋はどんなチームと試合をするんですか?

A:それこそ高校3年の浦和レッズユースとか。ムチャクチャにやられましたよ。

Q:ああ、クラブチームと試合するんですね。

A:そうです。覚えているのはレッズですね。相当やられた記憶が残っています。

Q:でも、それは実戦経験を積める良い機会という感じなんですよね?

A:フィールドプレーヤーはそうなんじゃないですか。キーパーはそんなに毎試合出られるような感じではなくて、入れ代わり立ち代わりという感じでしたから。

Q:そんな中でこれはずっとお聞きしたかったことですが、国見に転校した時期はいつだったんですか?

A2年の頭です。

Q:そもそもその転校はどういう経緯だったんですか?

A:僕らの代の国見にキーパーがいなくてというか、いたんですけど辞めてしまったらしくて、小嶺(忠敏)さんの教え子でもある育英の山田耕介監督に「キーパーいないか?」という話があった時に、7人いる訳じゃないですか(笑) それで育英には体育科と普通科があるんですけど、体育科は転校ができなかったので、普通科の中から選んだらしく、一般受験で普通科に入った僕が選ばれて、1年の夏ぐらいですかね。監督室に呼ばれて「ちょっとオマエ、国見の練習に参加してこい」と。「え?」みたいな(笑)

Q:それは凄い話ですね(笑)

A:それで親と練習参加しに行って、3日間か4日間くらいだったと思うんですよね。でも、帰ってきてからそういう話は特になかったんですよ。「オレは何で行ったんだ?」と思って(笑) 普通に育英で過ごしていて、「話が流れたんだな」と思っていたんですけど、2年になるタイミングで国見が春の遠征で群馬に来たんですよ。藤岡カップというフェスティバルで、色々強いチームが集まるんですけど、僕はそのフェスティバルに参加していなかったのに、そこで話がギューンと進み出して、「え?国見に来ないの?」みたいな話になって、「いや、『来ないの?』ってどういうこと?」って(笑) 「この半年間の空白があったんだから、もうちょっと考えさせてくれよ」みたいな。まあそれは冗談ですけど、「国見が長崎に帰るまでに決めてくれ」という流れになったんですよね。

Q:って言っても、それってフェスティバルの頭にそう言われて、「終わりまでに決めろ」って、2,3日ぐらいですよね?

A:それぐらいだったんですかねえ。それで国見のコーチと話をしていたら、「同級生と話をしてみてや」ということで、中村北斗や平山相太から電話で「こっち来てくれよ。一緒にやろうぜ」みたいに言われて。

Q:まあ言わされていたんでしょうね(笑)

A:そうでしょうね(笑) しかも、その決めなきゃいけない日が自分の誕生日とカブったんですよ。

Q:凄いタイミングですね(笑)

A39日の誕生日にカブって、なんか両親も「行ってこい!」みたいな感じだったので、泣きながら「行ってくるわ」と言って、そこで決断して国見へ行くことになったという感じです。

Q:それって15歳にとっては、とんでもない決断を迫られていますよね。

A1回エル・ゴラッソで"高校生での移籍をした選手"みたいなリストが出ていて、「オレ、結構レアなんだ」と思いましたね(笑)

Q:転校だけでもレアなのに、しかも転校先でレギュラーになった上に日本一になるなんて、日本中でというか世界中で関選手だけだと思いますよ(笑)

A:面白いですよね。でも、それで日本一になっていなかったら、僕の中では『捨てられた』という感覚な訳ですよ。僕はもう小学5年から前橋育英に行きたくて、実際に入ったのに「オマエは国見に行ってこい」と言われて。「ウソやーん」と思うじゃないですか(笑) その当時、自分がどう考えていたかとか正直覚えていないので、何とも言えないですけどね。

Q:それってたまに聞きますけど、ツラ過ぎて記憶が勝手に抹消してくれているみたいな感じなんですかね?

A:もうパニックですよね。結局まだその当時の前橋育英は、全国でベスト4以上に行けていなかったんですよ。それ以上の成績を残しているのが国見だということは知っていたんですけど、「ええ、そんな所から話が来る?」みたいな。しかも、当時の僕はまだ髪も長かったので、国見は"ボウズ"でしたし、とにかく走るというのも聞いていましたし、全然国見に行くなんてイメージはなかったので、「何でオレなんだろう?」みたいな感じはありましたよね。

Q:もう「これは断れないな」みたいな流れだったんですよね?

A:いえ、全然断れたと思います。

Q:ああ、そうなんですね(笑)

A:全然断れたと思うんですけど、何かそういう流れになりましたよね。

Q:そうすると国見に行くことを決断した、一番の決め手は何だったんですか?

A:うーん、やっぱり決めなきゃいけない日が誕生日だったというタイミングと、両親が「行ってこい」と言ったのとだと思いますけど、まあ家族会議をする訳ですよね。でも、その家族会議の雰囲気がもう祝賀会みたいな、「いってらっしゃい」的な感じで(笑) 「行ってこい!」「頑張ってこい!」みたいな、そんな雰囲気だったので、「じゃあ行くか...」みたいな感じだったと思います。今となっては「行って良かった」と思いますけどね。

Q:そんな経験をした人はそれまでもいなかったでしょうし、これからもいないんじゃないかなと思いますけどね。

A:近場はもしかしたらあるかもしれないですけど、群馬から長崎ですからね。

Q:実際に国見には知り合いもほとんどいなかった訳じゃないですか。最初の頃は「来なきゃ良かったな」とか思ったりしました?

A:いえ、それは思わなかったですけど、国語の授業とか朗読の時とかに、みんなの言葉が訛り過ぎていて良くわからないというのはありましたね(笑) あとはケータイも禁止だったので、機種を変えたばかりのケータイも群馬に置いてきて、それは親が使ってみたいな。ボウズにして行きましたし、編入試験もあったので向こうについて早々に勉強して、「次の日テストだよ」みたいな感じでしたけど、その勉強も全然はかどらなくて(笑) 校長先生だった小嶺先生に入れてもらったという感じですよね。

でも、ホームシックにはならなかったです。親はメッチャ泣いていたらしいですけど、おそらくその頃の僕は反抗期だったんですよね。そういうのもあったかもしれないです。サッカー面では育英の頃は全然試合にも出ていなかったのに、国見は1日に23試合は平気でこなすような週末で、2年間突っ走りましたね。休みもないですから。

Q:三浦淳寛さんから国見のことはよく聞いています(笑) そうすると、国見に入ってすぐにトップチームで試合に出ていたということですか?

A:いえいえ、トップチームには出ていないです。最初はBチームの試合に出ていて、確か行ってすぐにBチームが出ていた福岡の大会で帝京と戦って、向こうはAチームだったと思うんですけど、当時有名だった大沢選手(大沢朋也・讃岐)がいたチームとの試合で活躍したんです。そうしたら、トップチームが京都で遠征を組んでいたので、「オマエ、そっちに行ってこい」と言われたんですけど、1人での移動だったんですよ。「こうやって、こうやって行ってこい。向こうに着いたら誰かいるから」と言われて(笑)

その福岡の大会には前橋商業が来ていて、前橋商業の知っている選手たちに「え?何で憲太郎が国見にいるんだよ?」みたいに言われて、「いや、オレ転校したんだよ」みたいな(笑) そういうのは凄く覚えていますね。それで京都で合流して、そこからトップチームにいられるようになったんだったと思います。

Q:割と早い段階ですよね。

A:そうですね。春にFBSカップという大会があって、そこには前橋育英が来るんですよ。そこでみんなに久々に会ったんですけど、確かその大会でいきなり前橋育英と戦ったんです。だから、まったく前橋育英のトップチームで試合に出ていなかったような選手が、国見のトップチームで出ていて、前橋育英のトップチームと試合をしたんですよね。その時は負けたかなあ。そこから続けて試合数をこなすようになって、自信も付いて行って、国見というブランドにいるという誇りとかメンタルの成長もそうですし、やっぱりキツい環境でやると変わっていくんだなというのは感じましたね。

Q:でも、転校していきなりレギュラーになって、選手権で準優勝までしてしまう訳じゃないですか。その時は「やっぱり国見に来て良かったな」って思いました?

A:いえ、思わなかったですね。思っていなかったと思います。もうキツ過ぎたので(笑)

Q:前橋育英のGK練習なんて比にならないくらいキツかったんですか?(笑)

A:どっちも... まあ全体的に言ったら国見ですけど(笑)、休みがないというのと、やっぱり思春期で女の子と喋りたいというのもありましたし。

Q:女の子と喋っていると、町の人とかが小嶺先生に"通報"するんですよね(笑)

A:はい... そういう部分は「前橋育英だったらできていたのかなあ」とか思いますし(笑)、高校3年で日本一になった時は「国見に来て良かったな」と思いましたけどね。「もうキツい練習がなくなるんだ」という想いもありました。45年前くらいだと思うんですけど、群馬の同級生の結婚式に行った時に、前橋育英のGKコーチをやっていた方もいて、久々に会って2人で話したんですよ。その方に「これだけは聞きたかったんだよ」と。「オマエ、国見に行って良かった?」って聞かれたんです。「良かったですよ」って言ったら、「これだけは言いたかったんだけど、オマエがいらなかったから出した訳じゃなかったんだよ」と、そんな感じで言われて、「ああ、やっぱりずっと気にしてくれてたんだなあ」と思って、それは嬉しかったですね。

Q:きっとそのコーチの方も、ずっと負い目みたいなものを感じていたんでしょうね。

A:今だから言えますけどね。「いやいや、絶対にいらなかったじゃないですか、オレのことなんて」って(笑) こういう風にプロにまでなれて、国見に行ったことが良い方向に行っているので、そういう冗談も言えますけどね。「絶対捨てましたよね」って(笑)

Q:それでもあえてお聞きしますけど、国見に行って良かったんですよね?

A:はい。もちろんです。こんな経験はなかなかできないですからね。今は厳しい指導に対して色々な見方があると思いますけど、自分は国見を卒業したことで『根性論』の大切さも知っていますし、強くなるためにはそういうことも大事かなと思いますし、厳しいトレーニング自体を疑問視するような流れのあるこの世の中で、そういう経験ができたことは、本当にこれからの人生にも役立つのかなと思います。

Q:これを最後の質問にしたいと思いますが、かなり特殊なキャリアを歩まれてきた訳じゃないですか。先ほども言ったように、こんなキャリアを送る人って関選手までもいなかったでしょうし、これからもいないと思うんですけど、そんな中でプロまで辿り着いて活躍されている今の自分っていかがですか?

A:今の自分... うーん、自分がどうこうというよりも、小学校の頃から周りに恵まれていたなという風には思いますね。国見に行ってもやっぱり平山のようなスーパーな選手もいましたし、その後の明治大にも素晴らしい選手がいて、その中で自分がピックアップされることもあって、そういう環境にいられた自分は「凄くツイているな」というか、振り返ってみると自分が頑張ったというよりも、サッカーをずっとやっている人はみんな頑張っていると思いますし、そういう巡り合わせというのを強く感じますね。

Q:ご自身ではわからないかもしれないですけど、そういう巡り合わせを引き寄せるものが関選手にあったということなんでしょうね。

A:引き寄せるもの... そうですね。そうかもしれないです。

【プロフィール】

前橋育英高から転校した国見高では、インターハイでも選手権でも日本一を経験。明治大でもリーグ優勝とMVPを獲得すると、2008年に仙台へ加入。横浜FCへの期限付き移籍を経て、2013年以降は再び仙台でプレーし、チームを最後尾から支えている。


※所属チームを含めた情報は、当時のものをそのまま掲載しています。

ご了承ください。

取材、文:土屋雅史

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