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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。
【Pre-match Words アビスパ福岡・神山竜一編】
(2016年8月12日掲載)
Q:ここからはキャリアのお話を聞かせて下さい。名鑑を見ると青英学園SCというクラブ名が一番初めに書いてありますが、そこがサッカーを始めたクラブですか?
A:そうですね。僕が通っていた幼稚園が青英学園という幼稚園で、そのチームへ父に無理やり入れられました(笑) しかも、GKも「大きいから」という理由で若干無理やり始めさせられた感じでした(笑)
Q:じゃあ最初からGKだったんですね。
A:そうです。4歳の時に始めて、もう最初からずっとGKです。その頃からズバ抜けて大きかったんですよ。それで「大きいからオマエがGKな」みたいな感じで、そのクラブでGKになって、まだ自分もそんなにサッカーをやっていなかったので、全く気にせずにやっていました。その学園の男の子はサッカーか空手のどちらかの選択肢があったんですけど、父もサッカーを、しかもGKをやっていたらしいので、そうなりました。でも、最初の頃は泣きながらやっていましたね。当時は「走る」みたいなことが当たり前の時代でしたけど、幼稚園なのに「走り」があるんですよ。本当に体育会系みたいな感じで、「ヤダヤダ」って泣きながら外周を最後尾で走って(笑) それが当たり前でしたね。
Q:4歳でGKをやっている上に、外周を走るとかってサッカーを嫌いになりそうですよね(笑)
A:だから最初は好きじゃなかったですね。途中からは慣れたんだと思うんですけど、自分の中でも泣きながら走っている姿だけは覚えています(笑) そのまま年中、年長と続けて、小学校も青英学園SCがあったので、そのまま入ってやっていましたね。
Q:青英学園SCは結構名前を聞くチームですけど、やっぱり強かったですか?
A:僕たちの頃は大阪の中でもまあまあ強い方でしたね。一応、6年生の時は大阪の全少予選の決勝まで行ったので。その時は確かベスト32から4試合連続でPK戦で勝ち上がったんです。0-0、1-1、1-1、1-1で全部PK戦で、僕も結構止めていました。まあ小学6年で174センチぐらいあったので、飛ばなくても横に倒れたら届くんですよ。『遮断機』って呼ばれながら(笑) PK戦になると滅法強かったんですよね。決勝も加賀田セレソンと対戦して、結局試合中のPKを止めて、延長まで行ったんですけど、最後はそこで決められてしまって負けました。PK戦まで行ったら勝ってましたね(笑) 伝説になっていたかもしれないです。5試合連続PK戦で全国に行ったチームって。
Q:小学6年で174センチのGKなんてなかなかいないと思いますけど、そうすると市選抜や府選抜には入っていたんですよね?
A:それが入っていないんですよ。小学校はまったく入っていなくて、中学校の時に1回地区のトレセンを受けに行って落ちました(笑) その時に「ガンバ堺の選手で落ちたヤツ、あんまりいないぞ」みたいに言われて。「マジっすか?落ちちゃいましたよ」みたいな(笑) GKだけで集まって、何人かが選抜されるという感じでしたけど、あっさり1次で落ちました。小学校の頃も何人かチームメイトは堺市選抜に入っていましたけど、僕は一切でした。まあ、実際にただ大きいだけで上手くなかったですし、ゴールキックも自分で蹴れなくてセンターバックに蹴ってもらっていたので(笑)
Q:ああ、そういうGKいますね(笑)
A:ゴールキックをトーキックで蹴ったりしていたんですよ(笑) そういう部分で能力的には全然足りなかったですね。自分の中でも大したことないということもわかっていましたし、筋肉も付いていなかったですし。
Q:ヒョロヒョロ系ですか?
A:いえ、逆です(笑) ちょっとポッチャリした感じで、体をうまく使えていない感じでしたね。
Q:そんな神山少年がガンバ堺ジュニアユースに行く訳じゃないですか。当然中学の部活や他のクラブチームという選択肢もあったと思うんですけど、何でガンバ堺だったんですか?
A:小学校の時のチームメイトの何人かが行くと言っていたので、それで一緒にという感じでした。セレクションとかもないので。
Q:セレクションないんですか?
A:ないんですよ。本当に『来る者拒まず』という感じで、ガンバ大阪の方はもちろんセレクションがあるんですけど、堺の方はないので最初は1年生がメッチャいるんですよ。3,40人ぐらいいて、白いTシャツに名前書いて、みたいな。
Q:中学の部活みたいですね(笑)
A:本当にそんな感じなんですよ。芝生でも人工芝でもない、団地の一角のちょっと広めの公園みたいな所にある、普通の土のグラウンドで練習していましたね。
Q:ガンバ堺ってそんな感じなんですか?
A:そうなんですよ。だから、ハングリー精神は凄いですし(笑)、余計「"大阪"(ガンバ大阪ジュニアユース)には負けたくない」という気持ちはハンパなかったです。
Q:じゃあ"大阪"との交流はないんですか?
A:まったくないです。府の大会で対戦するくらいでした。
Q:エンブレムは一緒ですよね?
A:一緒です。でも、対戦するとしたらウチがアウェイのユニフォームを着るような感じでした。
Q:実際に"大阪"と試合をする機会は結構あったんですか?
A:ありました。府の準決勝や決勝でも対戦しましたし、クラブチームのリーグ戦もあったので、しょっちゅう当たったりはしていました。
Q:堺が勝つこともあったんですか?
A:勝ったこともありますし、負けたこともありました。1年生の時は自分たちが大阪府で優勝したんですよ。そのまま関西大会も行って、全国にも行ったんです。それで2年生の時にナイキカップみたいな感じの、ゴールデンウィークにやっている大会でJヴィレッジに行きました。決勝まで行ったんですけどね。
Q:じゃあ全国準優勝ということですか?
A:そうです。エスパルスに負けました。杉山浩太やキク(菊地直哉・札幌)がいて。
Q:全国準優勝とかエリートじゃないですか(笑)
A:エリートという訳ではないですけどね(笑)
Q:その1年の時は"大阪"に勝って、全国に行った訳ですよね?
A:そうです。1年の時はたぶん僕らの方が強かったですけど、3年の時は府の準決勝か決勝で普通に負けました。向こうの方がシンプルに強かったです(笑)
Q:中学2年で出場した全国大会は、1つの大きな経験ですよね?
A:そうですね。ああいうJヴィレッジのような凄い舞台でできたというのは、自分にとって良い経験になりましたし、ガンバ堺でも1年生の途中からずっと試合に出させてもらっていて、そういう部分で「環境に恵まれているな」というのはいつも思ってきましたね。
Q:ガンバ堺の1個下には丹羽選手(丹羽大輝・G大阪)がいたんですよね。彼は昔からの知り合いという感じですか?
A:大輝は中学校の時はほぼほぼ喋っていないです。僕たちの代の試合にほとんど絡んでいなかったので。僕の中で大輝は『走れる』というイメージなんですよ。ガンバ堺はグラウンドの外周を確か3周くらい走るんですけど、「大輝がレコード出した」みたいな(笑) 「アイツの走り、ヤバイな」ぐらいしか聞いていなかったので、逆に存在を知ってはいましたけど、そんなに話したりはしなかったですね。
Q:プレー的な印象はないんですね。
A:そうですね。『走れる』というイメージしかないです。「センターバックなのに凄く走れる」みたいな感じですね。
Q:当時のガンバ堺で他にJリーガーになっている選手ってあまりいないですよね。
A:僕、大輝、そのもう少し下に岡本英也(山口)。他はいないですねえ。
Q:平島崇さんもそうですか?
A:ああ、ヒラちゃん!でも、ヒラちゃんは途中でガンバ堺を辞めているんですよ。
Q:ヒラちゃんって呼んでるんですね。向こうの方が年上ですよね?(笑)
A:3つ上かな。もう普通にタメ口です(笑) 結構仲良いんですよ。福岡の時も結構良くしてもらっていましたしね。
Q:当時はガンバ堺からガンバのユースへ上がるという道はあったんですか?
A:僕自身はそんなに知らなかったですけど、一応「ユースに上がれるかも」みたいな感じだったらしいです。でも、ユースにはキム(木村敦志)が上がることになっていたので、「たぶん行っても試合に出られないぞ」と言われていて、ガンバ堺の東野(正夫)監督に「1回高校に行ってみたらどうだ?」と言われて、それで立正大淞南に行くことになったんです。立正大淞南の南(健司)先生もガンバ堺の試合を見てくれていて、1回練習に参加して決めました。
Q:中学の時は地区選抜に落ちたんでしたっけ?
A:そうですね。泉北地区です。
Q:泉北地区には他に強いチームもあった訳ですよね?
A:全然ないです。ガンバ堺以外はまったくです。だから、よっぽど自分がダメだったのか、選ぶ側に見る目がなかったのか(笑)
Q:見る目がなかったんでしょうね(笑)
A:ですよね(笑) でも、結果的にその選抜に行かなかったから、逆に今があるという気もします。調子に乗らずに済みましたし、まだまだだなというのを知ることができましたから。
Q:選抜に落ちた悔しさはあったんですか?
A:いえ、当時はまったく気にしていなかったですね。落ちても「良かった。行かなくて済むんだ」ぐらいの感じでした。そういう部分での欲はなかったですし、一応プロになりたいとは思っていましたけど、そこまでではなかったですね。
Q:ユースに上がった木村選手は結構有名だったと思いますけど、当然存在は知っていた訳ですよね?
A:そうですね。中学校の時は凄くて、「なかなかゴールに入らない」というイメージがあったので、自分たちの代の大阪の中では一番でしたね。
Q:ライバル視はしていたんですか?
A:いえ、全然していないです(笑)
Q:そうするとガンバユースに上がりたいという気持ちはほとんどなかったんですね。
A:なかったですね。勉強もあまり好きではなかったので、進路も結構絞られていて、「どうしよう...」みたいな時に、立正大淞南から話を戴いたので、「じゃあ是非!」みたいな感じでした(笑)
Q:当時の大阪だと高校はどこが強かったですか?
A:金光大阪が強かったですね。あとはどこですかね?
Q:近大付属とか?
A:そうですね。関大一とか。僕が中学3年の時に選手権に出ていた気がします。結構全国にどこが出るかはバラバラでしたね。
Q:おっしゃったように大阪ってどこが全国に出るかわからないじゃないですか。だから、僕はてっきり確実に選手権に出るために、強くなり始めていた当時の淞南学園に行ったのかなと思っていたんですけど。
A:それも多少ありましたけど、僕が中学3年の時が選手権で全国2回目の出場だったんです。なので、そこまでメチャクチャ強いというイメージはなかったですね。選手権に確実に出られるというイメージもなかったと思います。
Q:そうすると「高校行けるならラッキー」みたいな感じですか?
A:そうですね。「高校行かせてくれるんだ。ありがとうございます」みたいな(笑) なおかつサッカーもやらせてもらえて、ありがたい話だなと思いましたね。
Q:でも、親元を離れたのも初めてでしょうし、島根って神山少年にとっても結構未知の世界だったんじゃないですか?
A:学校から寮までの距離が結構あるんですよ。20分くらい掛かるんです。寮に入る前に学校は近いものだと思うじゃないですか。敷地内とか。「いや、意外と距離あるな」と。その上に通り道は左右全部田んぼで(笑) しかも、校門の前の坂が凄く急なんですよ。100メートルくらいの急な坂があって、そこがなかなかキツかったですね。懐かしいです(笑)
Q:15歳で親元を離れて島根まで行かれた訳ですけど、最初は「やっぱり来るんじゃなかったな」とか思いました?
A:最初は練習もキツいですし、確かに親元を離れたこともあって、精神的にも「キツいなあ」とは思いましたけど、どんどん慣れていく内にそうでもなくなりました。しかも、最初の頃から試合に出るか出ないかは別にしても、Aチームに連れて行ってもらっていたので、先輩とも仲良くなれましたし、早めにAチームに入れたことで馴染めた部分はありましたね。
Q:チームメイトはほとんど大阪の子たちですか?
A:そうです。先輩もそうですし、関西の人が多かったです。1年生は最初に40人ぐらいいて、30人ぐらいが関西の人でした。だから、みんな関西弁なんですよ。結局寮でも関西弁が飛び交っていて(笑)、違和感はなかったですね。逆に島根の子はみんな地元から通っていたので、そのあたりに関しては「島根に来た」という感じはなかったです。でも、最後は20数人ぐらいに減ってしまったんですよね。練習がキツいのもありましたし、地元に帰りたくなったりとか。今はそんなこともないと思うんですけどね。
Q:南監督は初めて会った時からインパクトのある方という感じでしたか?
A:怖かったです。卒業してからはそんなこともないですけど(笑)、在学中は常に怖かったですね。練習中に怖いのは当たり前じゃないですか。でも、学校にいる時も南先生が見えた時には、サッカー部だけピシッと背筋が伸びるというか、通った瞬間だけ「ヤベっ、来た!」みたいな(笑) サッカー部だけヒリつくんですよ。僕も何回かはありましたけど、そんなに怒られなかったですね。まだ南先生も30代前半ぐらいだったと思うので、刺々しさはあったと思います。
Q:でも、サッカーに懸ける情熱は凄い方ですよね。
A:高校サッカーに関しては本当にヤバいです(笑) 高校サッカーは常に見ていますよ。昔の高校サッカーの話をしても全部覚えていますからね。凄いですよ、アレは。サッカーのことに関しては本当に勉強されていたと思います。「南先生に付いて行けば間違いないな」と思っていましたね。
Q:実際に1年生の時には選手権で全国に出る訳ですけど、かなりインパクトがあったじゃないですか。ちょっと振り返ってもらって良いですか?(笑)
(※国立競技場の開幕戦で前回大会優勝の市立船橋と対戦した淞南学園(現・立正大淞南)は、終了間際でもない試合中のコーナーキック時に、GKの神山選手を相手ゴール前まで上がらせる"奇策"を敢行。当時はかなり話題となった)
A:市立船橋との対戦が決まった時に南先生が思い付いたんだと思うんです。「コーナーキックがあったら全部上がれ」って言われていたんですよ。だから、前半1分だろうと全然関係なく、僕が上がって行ってニアに突っ込むという役だったんです(笑) 選手権出場が決まったのが11月半ばぐらいで、相手が決まったのが11月末ぐらいだったと思うんですけど、その1ヶ月ぐらいずっと練習していましたね。
Q:ああ、練習もやっていたんですね(笑)
A:やっていました。行って、帰るみたいな。僕はニアに走って、そのまま帰るっていう練習を繰り返しやっていました(笑)
Q:究極の"捨て石"ですよね(笑)
A:思い付きは凄かったと思います。誰も思い付かないような"奇策"ですよね。GKが上がって行って、ニアに突っ込むなんて。あれは凄かったですよ。まあ普通にやっても勝てないという気持ちが南先生にもあったと思いますし、僕たちもやるからには勝ちたいという気持ちもありましけど、その前の年の選手権を見て「イチフナは強い」というイメージもあった中で、その優勝メンバーが何人も残っている状態だったので、何かしらしないと勝てないですし、それで点が取れたら「ラッキー」ぐらいの感じだったと思いますけどね。
Q:何かしらしないと勝てないにしても、「それか!」という感じはありますよね(笑)
A:たぶんセットプレーでしか点が取れないんじゃないかというのはあったと思います。普通にやっても崩せないでしょうし、それしかなかったのかなと。南先生的にもたぶん「負けるにしても何かインパクトを残してやろう」というのはあったと思います。でも、そのおかげで僕も、その時の選手権で目を付けてもらって、代表に1回呼ばれたりしたので、アレはあながち間違いじゃなかったかなとは思いますね(笑) 僕にとってはありがたい話でした。
Q:実際に何回コーナーキックのチャンスがあったんでしたっけ?
A:2回だけです。
Q:国立が沸いたのは覚えていますか?
A:何となくですね。終わった後に映像で見たら、実況の人が2回目の時に「おっと、また神山が上がってきました!」みたいに言っているんですよ。1回目の時は驚きで「アレ?GKが上がってきましたよ!」みたいな感じで、それを聞くと「おお、いいねえ。インパクトは残せてるな」みたいにあの時は思っていました(笑)
Q:良い思い出という感じですか?
A:そうですね。アレはもう自分の中では良い思い出です。あんなヤツ、なかなかいないと思うので(笑) アレで点が取れていれば自分の中でなおさら最高でしたけどね。
Q:山岸さん的な。
A:山岸さんのアレは伝説ですからね。まあGKの中でアレはないですし、しかも突っ込んだのがニアですからね。しかもすらしたヘディングがファーに入るって(笑) アレは凄いです。あんなのはもう出ないですよ。
Q:ちょっと話は逸れますけど、アレってうらやましいですか?
A:うらやましいですよ。僕もやりたいです(笑) 僕の中ではニアですらすのではなくて、GKの前でディフェンスに競り勝って叩きたいです。「シンプルに競り勝って、ヘディングを叩き付けて決めたいな」というイメージがあります。もう後半ロスタイムで負けている状態で上がって行って、「GKの前に蹴ってくれ」とキッカーに言って、ゴールに叩き込むイメージは常に持っています(笑)
Q:このチームで、例えば負けているゲームの終盤に、それが許されそうな雰囲気はあるんですか?
A:どうなんですかね。でも、その時の状況だと思うんですよ。絶対に勝ち点を取らなきゃいけない状況とか、そういう時ならあるかなと。井原さんの方をチラッと見る時もありますよ。「行って良いですか?」みたいな(笑) ちょっと雰囲気を見て、「ああ、でも行けないかな」みたいな。去年とかは何回かそういうことを思いましたね(笑) でも、ウェリとかいたら逆に「俺が行ってもジャマかな」と。「ジャマしちゃ悪いな」とも思いますね(笑)
Q:まだ実行には移していないんですね(笑)
A:移していないですけど、いずれ移したいです(笑) まあそういう状況が生まれないことが一番ですけどね。
Q:ちょっと話を戻します(笑) 実際に2年時も3年時も選手権では全国に出られていると思いますが、今から振り返っても高校での3年間はかなり大きかったなという感じでしょうか?
A:あの高校3年間は大きかったですね。南先生との出会いもそうですし、先輩との出会いもそうですし、あの環境もあって、その中で自分が一番伸びた時期だったと思うんです。だから、あの時期がなかったら今はなかったかなと常々思っています。南先生には感謝しかないです。恩師ですね。
Q:やっぱり島根という土地にも思い入れはありますか?
A:ありますね。卒業して何回か行きましたし、なかなか今は行けていないですけど、また是非行きたいなと思いますね。
Q:立正大淞南が全国大会に出ていると気になるものですか?
A:この前もインターハイに出ていたんですけど、結果をケータイでチェックしていましたよ。インターハイに行くちょっと前に福岡へ来ていたので、僕も一応顔を出して挨拶して、生徒たちと喋っていたので、なおさら頑張って欲しかったんですけど、1回戦で負けてしまったので、ちょっと残念な結果でしたね。常にチェックはしています。インターハイや選手権で全国に出たら南先生に電話して、「おめでとうございます」と伝えますしね。
Q:今の立正大淞南は選手権で国立まで行ったり、インターハイでもベスト4に入ったり、あとちょっとで日本一という位置まで来ていると思うんですけど、それって神山選手がいた頃から考えると想像できなかった未来ですか?
A:全然想像できなかったです。僕は3年間の全部の選手権で全国に出て、全部1回戦負けでしたから。ただ、僕の1個下はベスト16まで行ったんです。そこから変わったんですよ。
Q:柳楽智和さんの代ですね。
A:そうです。ナギがいて、僕の代も1個下の選手が5,6人出てましたから。実は僕が2年の時も結構強くて、星稜に2-0で負けたんですけど、南先生も結構懸けていたチームだったと思うんですよね。差はそれほどなかったんですけど、負けてしまって。でも、今は本当に全国でも有名で「凄いな」と思いますね。僕らの頃では考えられないです。選手権に出て、1回戦突破が目標くらいでしたから。今は「1回戦突破は当たり前」「ベスト4が当然」みたいな感じですよね。だから、是非全国優勝して欲しいです。
Q:3年生の時は地球環境高校に...
A:いや、3年生の時のことは語りたくないです(笑) 南先生に"最弱の年"と言われましたし、選手権で負けた後も「涙すら出ない」って言われましたから(笑) それぐらいダメだったんです。僕も選手権の初戦の1週間くらい前に肉離れをしていて、「たぶん出られない」という感じだったんですけど、治療していただいて痛いながらもやれるぐらいまでにはなったので、無理やり出たんですけど全然ダメでした。動けなかったですね。
Q:3-1で負けたんですよね。
A:3-1です。3-0から最後のコーナーキックに僕も上がって行って、僕の後ろのヤツがヘディングで叩いて、そのこぼれを誰かが決めたんです(笑)
Q:選手権に3年分の壮大なフリとオチまであるんですね(笑)
A:そうです(笑) でも、3年の時は勝てる気がしなかったですね。僕はキャプテンで抽選に行ったので、どこもいないクジを引いて、そこに地球環境が入ってきて、「どこのチーム?絶対勝てるだろ」と思っていたのに、蓋を開けてみたら「メッチャ強いな」って(笑) 凄くしっかりしたサッカーをやっていたんですよね。
Q:松本育夫さんが監督でしたよね。
A:そうです。松本育夫さんのサッカーが結構染み込んでいて、パス回しも上手かったですし、強かったです。あの時は悔しさもあまりなかったかもしれないです。単純に戦えていなかったですね。
Q:先ほど少しおっしゃっていた年代別の代表に呼ばれたことも大きな刺激になりましたか?
A:そうですね。その時のGKは徳重(健太・神戸)さんとノブ(加藤順大・大宮)、奈良育英にいた河原(正治)さんの4人でした。上手い選手というか、代表に呼ばれるような選手と一緒にやれたというのは、自分の中で凄く刺激になりましたね。それまでは狭い世界しか知らなかったので、あそこに行った瞬間に「ああ、こんなにサッカーの上手い人たちがいるんだな」と思いましたし、それを高校に帰ってみんなに伝えなくてはいけないですし、そういう部分でアレが自分の中でのターニングポイントだったと思います。
でも、呼ばれた時は修学旅行とちょうどカブっていたんですよ。南先生に呼ばれて、「オマエ、代表に呼ばれてるぞ。修学旅行とカブってるけど、修学旅行は行かないでいいよな?」と強めに言われて、「ああ、ハイ...」って言って(笑) 「代表行きます」って。2年の冬で高校最後の修学旅行だったんですけど、「いや、大丈夫です。全然行かなくても...」って(笑) みんなが修学旅行に行っている間に代表へ行っていましたね。
Q:ちょっと修学旅行に行きたい気持ちもありましたか?(笑)
A:実は当初の修学旅行は海外に行く予定だったんですけど、その時期にニューヨークでテロがあって、行き先が長野になったんですよ。長野でスキーという修学旅行だったんですけど、1年の時にスキー旅行は行っていたので、「まあいいか」という感じで(笑) でも、代表の選手なんて誰も知らなかったので、最初は「慣れるのにどうしよう」と思って、「誰に話し掛けに行こうかな」と。だから、誰と喋ったかも覚えていないですよ(笑)
Q:結構繊細なタイプですか?
A:人見知りなんですよ。慣れたらガツガツ行くんですけど、誰も知らない所に放り込まれたら、スッと引いてあまり喋らず、向こうから来るのを待ってから打ち解けていくみたいな、結構そういう感じですね(笑) 結構ナイーブでへこみやすいです(笑)
Q:当時の立正大淞南からプロになった選手って、岡野(雅行)さん以外にいましたか?
A:岡野さんの後はもう僕です。南先生になってから最初のプロは僕ですね。
Q:アビスパに入る流れというのはどういう感じだったんですか?
A:当時のアビスパのスカウトの方が、たぶん選手権に出たりとか、代表にリストアップされたのを知って、「1回練習に来てくれ」と南先生に伝えて、南先生が僕に伝えて下さったんです。3年生の時に練習生として2回ぐらいここ(雁の巣)に来て、「是非アビスパが獲りたい」と言って下さったので、入ることになったという感じです。何回か中国地区のリーグ戦とかまで、僕の試合を見に来て下さいました。
Q:その2回っていつだか覚えていますか?
A:いやあ、全然覚えてないです。1回は夏なんですよ。夏に1回来て、熱中症で倒れたんです(笑) 雁の巣に来て、練習中に「フラフラするな」と思って、「大丈夫か?」みたいになって、トレーナールームに運び込まれて(笑) そのときは一緒にナギも来ていたんですよ。
Q:高校2年なのにですか?
A:アイツはもう目を付けられていて、たぶん2回ともアイツと一緒に来たんじゃなかったですかね。アイツも2年の時からずっとアビスパが追っていたんだと思います。もう1回は春先だったかなと。少なくとも1回は、その夏の熱中症の時です(笑)
Q:実際にアビスパの練習に参加して、「これはやれそうだな」と思いましたか?
A:いえ、最初に来た時は「これで付いて行けるかな...」と思いました。本当にレベルが高かったですし、高校の時とはシュートスピードが全然違うじゃないですか。僕が入った時はブラジル人のGKコーチ(カーザグランデ)だったので、メッチャ厳しくて「コレは練習付いてけないよ...」と思いつつ、「プロにはなりたいし...」という感じで、高校生ながらやっていましたね。
Q:最初に入団が決まった時は「やった!プロになれた!」という感じですか?
A:そうですね。最初は契約書にサインした時に「ああ、コレでやっとプロになれたんだ」という実感はありましたね。多少嬉しい部分はありましたけど、まだ「プロだぜ」みたいな感じではないですよね。まだ試合に出てもいないですし。だから「プロになれたな」「ちょっとは有名になれたな」という感じでした。「地元のヤツ見てるか?」みたいな(笑) 小学校の時のチームメイトは今でもメッチャ仲が良いですけど、僕がプロになるとは思っていなかったですね。今でも地元に帰ると「オマエがプロとかマジで信じられないな」とか言われますから。小学校の頃はそのくらいの実力でしたからね。
Q:これまでずっとアビスパでプレーされてきたと思いますけど、失礼ながらずっと試合に出続けていた訳ではないと思うんですね。あくまで想像ですが、他のクラブに移籍するタイミングもあったんじゃないかなと思います。やっぱりアビスパに対する想いというのは相当強いですか?
A:そうですね。「外に出たい」と思ったこともあるにはありましたけど、やっぱりアビスパが常に契約してくれるということは、自分にとって凄くありがたいことなんです。僕が現役の内にこのチームが常にJ1で戦えるチームになったらいいなと思いますし、自分も試合に出て、それに貢献できたらいいなという想いもありますけど、やっぱり福岡という街にはソフトバンクという非常に強いチームがあって、「アビスパ福岡と言ったら弱いチーム」というイメージがあるので、それを払拭したいんですよね。だから、まずは残留しなくてはいけないですけど、最終的にはJ1で上位を狙えるチームにしたいというのは自分の中で常にありますね。
Q:例えばアパマンショップがスポンサーに付いたり、例えば井原さんのような方が監督として来たり、外から見るとアビスパのクラブ力も過去2回のJ1の時よりあるのかなという風に見えます。
A:今年残留さえすれば、たぶん今後はもっとチームとしても良くなりますし、アビスパとしてもJ1に残留することでスポンサーも来て下さると思いますし、そう考えると今年の残留というのは今後のアビスパにとって凄く大事になるのかなと思います。
Q:そういうクラブの力や、周囲のサポートも含めて、何となく「今までとは違うな」というのは感じてらっしゃるんですね。
A:そうですね。今年に関して言えば5年前、10年前に比べたら全然違うと思います。やっぱり周りも「J1に残ってくれ」と思ってくれていると思いますし、なおかつ「残らなきゃダメだぞ」という気持ちでサポートしてくれていると思います。
Q:それって凄く嬉しいことですよね。
A:感謝しかないですね。ウチはJ2の長いチームで、僕も在籍14年目ですけど、J1は今年を合わせても3年間しかいなくて、要は11年間をJ2で過ごしている訳じゃないですか。そんなチームに対して今、「もう1回応援しよう」という雰囲気になってくれているというのは、凄く嬉しいですよね。だから、「それに応えないといけない」という想いももちろんあります。
Q:これを最後の質問にしたいと思います。あえてザックリお聞きしますけど、夢ってありますか?
A:夢ですか!夢... 今の僕の夢で言えば、アビスパでJ1で優勝することです。自分の中で。でも、それは目標ですね。ああ、これです。夢は自分はまだ現役ですけど、引退してGKコーチになって、それはJリーグのトップチームとかではなくても、高校生とかを教えて、その子供をプロにしたいということですね。自分が今まで教えてきてもらったこと、吸収したことを高校生とかに教えて、少しでも自分が関わったことのある子をプロにしたいというのは、今の自分の中にありますね。もう年齢的に引退も近いですし、そういうことはよく考えます。
Q:それはずっと考えてきたことでもありますか?
A:ここ数年ですね。30歳を超えたぐらいから、次も考えないといけないですし、やっぱり長くやってきた中で、今まで何人かのGKコーチの方に指導していただいて、色々な方がいましたし、人それぞれで言うこともやることも違うじゃないですか。その中で自分が良いと感じた部分を採り入れて、そういう部分をどんどん今後の子供たちに伝えたいなと思っています。特にGKは日本と海外を比べると、かなりレベルに差があると思うんですよね。「もっとどうにかできないのかな」というのは常に考えています。
Q:コーナーキックの時の上がるタイミングも教えられますからね(笑)
A:それは是非教えたいですね。「このタイミングで上がって行くんだぞ」って(笑) 監督が言わなくても「オマエ、ここで行け!」って開始6分ぐらいのコーナーキックで上がらせたりして(笑) 「ただ、ボールが上がったら全力で帰ってこい。関わらなくていいから」って教えてあげたいです(笑)
【プロフィール】
青英学園SC、G大阪堺JYを経て、立正大淞南高時代には3年連続で高校選手権に出場。2003年に福岡へ加入すると、3度のJ1昇格を経験するなど、14シーズンに渡って福岡一筋でプレーを続けるバンディエラ的存在の守護神。
※所属チームを含めた情報は、当時のものをそのまま掲載しています。
ご了承ください。
取材、文:土屋雅史
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