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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年03月13日

Pre-match Words ~サンフレッチェ広島・森﨑和幸編~(2016年7月22日掲載)

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【Pre-match Words サンフレッチェ広島・森﨑和幸編】

(2016年7月22日掲載)

Q:もうセカンドステージも4試合を消化していますが、今シーズンのここまでのチームのパフォーマンスをどう捉えてらっしゃいますか?

A:シーズン序盤はACLと並行して戦っていましたけど、ACLも予選敗退という形で自分たちの目標を達成できなかったですし、Jリーグの方もなかなか波に乗り切れていないというか、そういった感じで満足できてはいないですね。

Q:ご自身としても開幕戦以降は少しケガで離脱されていましたが、その時期はいかがでしたか?

A:森保さんが監督になってから、Jリーグで全試合出たことがなかったので、「今年こそは」と思いながらシーズンに入ったんですけど、いきなりケガをしてしまいました。ただ、そこは「現実を受け止めるしかないな」と思っていたので、「なるべく早く復帰しよう」と思って、しっかりリハビリに励んでいました。

Q:先ほどおっしゃったようにかなりケガ人が出ている状況で、森﨑選手が復帰してからもボランチのパートナーが青山(敏弘)選手、宮原(和也)選手、丸谷(拓也)選手と3試合続けて変わっていましたが、パートナーが変わっていく状況に関して、ご自身の中でのやりやすさややりにくさはどういった感じなのでしょうか?

A:もちろんアオ(青山敏弘)とはずっとここ何年もやっていますし、お互いに何も言わなくても阿吽の呼吸みたいな関係性は作れているので、やりやすさはあるんですけど、ただ、他の選手と組んでも僕の役割というのは、他の選手の良さを出すのが1つの仕事だと思っているので、特にマイナスに考えることはなく、どの選手と組んでもその選手の良さを出せてあげたら良いかなと思ってやっていました。

Q:パートナーが変わる中で、自分自身のプレーも変えている所はありますか?

A:若干はありますね。やっぱりアオと組んでいる時は、だいたい攻撃の所はアオに任せるということが多いんですけど、他の選手と組んだ時は、自分もいつもよりは「攻撃の起点になるパスを出そうかな」という風には思いながらやっていますね。

Q:ご自身のことで言うと「満足は行っていない」とおっしゃっていましたが、ここまでのご自身のパフォーマンスに関しては、率直にどのように捉えてらっしゃいますか?

A:率直にダメですね(笑) あまり自分の仕事ができていないというか、今までもそうだったんですけど、1年間の中で調子の良い時期というのは本当に短くて、あとは調子が普通だったりとか、むしろ悪かったりしている中で、最低限の仕事はしていかないとチームのためにもならないですし、自分自身も試合に出られなくなるので、そういった想いで今までやってきましたけど、今シーズンに関しては「最低限のプレーもできていないな」という風に自分自身で思っているので、何とかまずは最低限の所に持って行って、それからプラスアルファして、さらに良いパフォーマンスが出せるように残りのシーズンをやっていきたいなと思います。

Q:なかなか自分が設定した最低限の所に行っていないというのは、自分の中でそこに行っていない感覚や理由は何となくは掴めているんですか?

A:そこは掴めている部分と掴めていない部分がありますけど、そういった自分の中での悩みだったり、そういうことがあった時には特に監督に相談したりとかして、自分の中で整理しながらプレーするようにはしていますし、監督も良いアドバイスをしてくれるので、そこは凄く助かっています。

Q:森保監督は現役時代から長い時間を共に過ごされていると思いますが、森﨑選手から見て森保監督ってどういう監督ですか?

A:変わらないですよね、まったく。僕が一番凄いなと思うのは、勝っても負けても次の週の練習で雰囲気が変わるということはまずないので、メンタルのコントロールなのかはわからないですけど、そういった所は僕も「早く身に付けたいな」という風に見ていて凄く思います。

Q:当然みんなプロの選手であれば試合に出たい中で、森保監督は試合に出ていない選手のモチベーションのコントロールも凄いとお聞きすることもあるのですが、そういう部分は森﨑選手も感じますか?

A:監督の立場にならないと僕もわからないですけど、見させてもらっている限りでは、試合に出ていない選手が練習でモチベーションを落としている所は見たことがないですし、練習でパフォーマンスが良ければ、そういう選手は試合でも使っているので、そういった所でマネジメントというか、ちゃんと選手を横一線で見ているというか、ベテランも若手も関係なくちゃんと客観的に見て、試合で使っているのかなという風には感じますね。

Q:たまにシビアな一面が顔を覗かせる時もあって、そういう時に「勝負師だなあ」と思う所もありますが、そういう部分を感じる時もありますか?

A:ありますね(笑) そこが素晴らしさというか、監督にはそういう部分も必要だと思うんですけど、やっぱりなかなかできないことでもあると思います。ただ、そこに関してはシビアな所ももちろんありますし、そこは選手がわかっているので、常にみんながトレーニングから高い意識を持って、試合に出ている選手も危機感を持ちながらやれているのが、今まで結果を出してきた要因かなと思いますね。

Q:ここからはキャリアのお話を聞かせて下さい。小学校2年生の時に矢野FCに入ったとWikipediaに書いてありましたが、矢野FCがサッカーを始めた場所という感じですか?

A:そうですね。

Q:元々どういうキッカケでサッカーを始められたんですか?

A:はっきりは覚えていないですけど、僕も弟も幼稚園の頃から飛び抜けて背も高かったですし、足も速かったんです。それで矢野小学校に入学した時に、小学校って1年生と6年生に接点があるじゃないですか。6年生が世話役みたいな。それでサッカーをしていた6年生の人たちと仲良くなって、運動会でもダントツに足が速かったので、そういうのをたぶん6年生が見てくれていて、サッカーに誘われたという記憶が残っています。だから、先輩に誘われたのがキッカケだったと思いますね。

Q:元々サッカー自体には興味があったんですか?

A:いえ、そこまででは(笑) どちらかと言うと父親は野球世代でしたし、野球が好きだったので、よくキャッチボールをやったりしていました。野球をやっていた印象は残っていますし、矢野FCに入った最初の練習の時も野球のスパイクを履いていたことは覚えています(笑)

Q:お父さんはもしかしたら野球をやって欲しかったのかもしれないですね。

A:そうですね。僕の弟は"コウジ"って言うんですけど、その名前の"コウジ"は山本浩二さんから取ったらしいので、最初は野球選手になって欲しいという想いはあったかもしれないですね。

Q:矢野FCに入ってからは、すぐサッカーにのめり込んでいった感じですか?

A:そうですね。最初からサッカーが難しいという感覚はなくて、楽しくてしょうがない感じでしたし、言ったら小学校の時が一番楽しかったかもしれないですね。何もかもがうまく行っていましたし、自分の思うように行っていましたし、プロの選手はみんなそうだとは思うんですけど、点もたくさん取れて、矢野FCも強かったので、とにかく楽しくてしょうがなかったですね。

Q:ポジションはどこだったんですか?

A:僕はずっと中盤です。センターハーフです。

Q:4-3-3の中盤の真ん中ですね。ウチらの時代は4-3-3しかなかったですよね(笑)

A:そうですね(笑) ウイングがいてみたいな。僕がセンターハーフで、弟がセンターフォワードでした。

Q:小学5年の全少の県予選は準決勝でPK負けだったんですね。それは悔しい思い出ですか?

A:そうですね。僕が一番最初に出たのは3年生の時だったんですよ。

Q:全国大会にですか?

A:そうです。3年生の時だったので、何が何だか良くわからなかったですし、全国大会自体がよくわかっていなかったんですよね。それで5年生の時には、もう全国大会に繋がる試合だということはわかってプレーしていたので、準決勝まで行って全国も見えていましたし、PK負けは悔しかったですね。

Q:ちなみに小学3年の時はメンバーに入っていたんですか?

A:矢野FC自体が本来は低学年のチームと高学年のチームに分かれているんです。だいたい4年生から高学年のチームに入って練習するんですけど、僕らは2年生から入らせてもらって、3年生の時は途中から試合に出たりという感じでしたね。レギュラーではなかったです。

Q:でも、3年生が6年生中心のチームで試合に出てたんですよね。それって凄くないですか(笑)

A:出してもらっていましたね(笑)

Q:それじゃあ全国大会もプレーはしたんですか?

A:プレーしたんですけど、確か1試合だけだったと思います。ただ、僕と浩司が出た試合は僕らが何もできなくて、それまでは勝っていたんですけど、点も取られて同点に追い付かれたか、負けたんだと思うんですよね。ちょっと苦い思い出ではあります。

Q:でも、小学3年で小学6年のチームに入って、しかも全国大会でプレーできるって凄い経験ですよね。

A:当時の監督だった山出(久男)さんが僕らの恩師で、基礎を作って下さった方で、今はサンフレッチェのフロント(※管理強化本部アカデミー部長)にいらっしゃいますけど、成長させてもらいましたね。

Q:小学6年の時はおそらくはっきりと全国を目指されて、実際に全国に出たと思いますが、その時の全国大会のことは覚えてらっしゃいますか?

A:覚えています。ベスト16まで行きました。グループリーグを抜けて、1回戦で負けました。相手は四日市のチームだったと思います。

Q:全国で対戦した相手に後々のJリーガーがいたかどうかは覚えてらっしゃいますか?

A:神奈川にGPっていうチームがあって、凄く強いチームだったんですけど、たぶん茂庭(照幸・C大阪)がいたと思うんですよね。

Q:ああ、茂庭選手はゴールプランターズですね。

A:その時はモニのことは知らなかったですけど、GPとは何回か対戦していつも負けていたので、その時にたぶんモニと対戦していたはずですよね。

Q:小学生の頃に全国大会へ出られたというのは、今から振り返っても良い思い出ですか?

A:良い思い出ですね。やっぱり地元で一緒にやっていたサッカー友達と話す時は、今でもその話が出たりするので、良い思い出にはなりましたし、周りに恵まれていたなと思います。みんな上手かったですし、とにかく小学校の頃は楽しかった思い出しかないですね。一番楽しかった時期と言っても、言い過ぎではないと思います。

Q:たぶん矢野FCのメンバーがそのまま行ったであろう、矢野中学校サッカー部も強かったんですよね?

A:強かったんですけど、中学に上がるとみんな思春期で、しかも部活動になるので、監督もすぐには練習に出てこないですし、ちょっとサボるヤツもチラホラ出てくる頃で(笑) 小学校の頃は広島県内で敵なしというか、県内で最後の方に1回だけ負けたのは覚えているんですけど、西日本の大会でも優勝できたぐらいだったので、本当に敵なしの状態で中学に上がったのに、練習をまともにやっていないヤツもいたので、僕らの代になった最初の新人戦で負けて、そこが僕自身はみんなの意識を変えないといけないなと思い始めた時期でしたね。一応キャプテンをしていたので。それが中学2年の秋ぐらいだったと思います。

Q:それでも中学3年の時は全中に出場されたんですよね?

A:出場しましたね。でも、僕が覚えているのは本当に気持ちの乗らない選手も出てきて、ウチの弟もちょっとそっち側だったんですけど(笑)、僕は小学校の時にずっと県内で負けていなかったこともあって、「負けたくない」という気持ちが強かったので、とにかく練習中も「やろう、やろう」と言っていたんですけど、なかなかうまく行かなかったんですよね。でも、試合になったら当然負けたくないので、味方に対して色々言っていて、特に弟に対しては凄く言っていたので、後々弟に聞いたら「みんなオマエの文句言ってたよ」って(笑) それぐらい凄く必死でしたね。

Q:そういう経験が今に生きている部分もかなりあるんじゃないですか?

A:今がまたそういう時期かもしれないですね。小学校や中学校の頃は勝ち慣れていたというか、勝つことの方が多かったので、勝って当たり前という意識でやっていた中で、ユースに入って勝ったり負けたりということを繰り返していたんですけど、そこからプロに上がって、全然勝てなくてJ2にも落ちましたし、小学校や中学校の頃の勝ち慣れていた時の感覚は忘れていましたね。特にプロになってからは、"勝者のメンタリティ"みたいなものが少しずつ失われていたのかなと思います。

Q:逆にそれぐらい小学校と中学校の頃は"勝者のメンタリティ"を持った中でプレーされていたんですね。

A:やっぱり勝たないとそういうのは付かないですし、「優勝しないと本当の意味で付かないな」というのは感じました。そこは小中の経験というよりは、プロになってJ1で初優勝した時に思いました。そこから意識が全然変わりましたから。「2位でも全然ダメだな」と思いましたし、「1位と2位は全然違うんだな」ということも感じました。J1で初優勝するまでは、天皇杯にナビスコカップとカップ戦でも準優勝ばかりで、そうなるとやっぱり"勝者のメンタリティ"は付いてこないなと思いましたね。

Q:これだけはどうしても聞きたいということが1つあって、森﨑選手が中学から高校に進学した当時は、サンフレッチェユースから正式にトップに上がったのは高田純選手だけで、試合に出ていたのは安武亨選手しかいない状況で、彼らもトップで活躍するまでには至っていなかったと思うんですね。さらに今以上に高校選手権も華やかで、広島にも沼田とか広島皆実とか国泰寺とか強い高校がたくさんある中で、なぜサンフレッチェユースを選択したんですか?

A:正直に言うと、最初はユースに行こうとは考えていなかったです。やっぱり当時は「選手権に出たい!」という時代じゃないですか。だから、高校選手権に出られそうな、県内で一番強い高校に行きたいなと思っていました。ただ、県のトレセンにも行っていた中で、同じトレセンのメンバーで広島県出身のヤツがいて、当然プロを目指してやっていたその選手から「プロになりたいんだったら、これからはサンフレッチェユースに行った方が良いよ」という情報を聞いたんです。

トレセンのみんなの中でも進路の話になるじゃないですか。その中で、その選手が「プロになりたいからユースに行く」みたいなことを言っていて、その選手は中学時代にクラブチームに入っていたんですけど、そのクラブの監督とも僕は面識があったので、その人からも「プロになりたいんだったら、これからは絶対ユースが良くなるから」という話も聞いたんですよ。そうやって色々と話を聞いていく中で、僕も弟もやっぱりプロになりたかったので、色々な情報を総合して「ユースに行った方が良いんじゃないか」という結論に達したんです。

それで中学3年の夏ぐらいに一度練習参加させてもらって、「メッチャレベルが高いな」というのを肌で凄く感じたので、そこから気持ちが変わりました。「選手権に出たい!」という想いから、「華やかな世界ではなくても、プロになる一番の近道はユースだ」ということを信じて、ユースに入ることを決断しました。

Q:例えばユースの時に選手権をテレビで見て、「華やかでいいなあ」なんて思ったりしましたか?

A:思いましたよ(笑) 「目立っていていいなあ」というか、やっぱり出ている選手はスター扱いみたいになるじゃないですか。「うらやましいなあ」とは思いましたけど、高校3年の夏にはプロに上がれるという話はもらっていましたし、当時はそこまでユースはまだ脚光を浴びてはいなかったですけど、ユースに入って良かったなと思うのは、プロの練習を間近で見ることができたりとか、僕自身も1年生の頃からトップチームの練習に参加させてもらったりとか、そういうレベルの高い環境でやれていたので、そこは「こっちの方がいいんじゃないか」と信じてやっていました。

Q:ちょっと自分に言い聞かせる感じですか?(笑)

A:そういう感じもあったのかもしれないですね。もちろん選手権の時期になれば「いいなあ」と、「東福岡凄いなあ」と思いながら見ていましたけど(笑)、それでも自分で信じて入った道だったので、その状況で頑張ろうとは思いましたね。

Q:高校1年の時にいきなりJユースカップで決勝まで行っていますけど、それこそ浩司選手も駒野友一選手(福岡)も出ていて、相手の清水にもプロになる選手がたくさんいたと思います。ユースに入って、すぐに全国の決勝まで行けたということは、かなり大きな出来事だったという感じですか?

A:そうですね。決勝に行けたというよりは、サンフレッチェにも石川(裕司)選手だったり、秋元(雅博)選手だったり、凄い選手がいたんですけど、あの時の清水には市川選手(市川大祐・ヴァンラーレ八戸)や平松(康平)選手がいて、「まだこんな凄い選手がいるのか」と思いましたし、そういうことを感じられたことが良かったのかなと思いますね。本当に強かったですし、市川選手は本当に上手かったですからね。そこでも優勝できなかったので、準優勝ばっかりになったのはそこからかもしれないですね(笑) 結局ユースの時はそれが最高成績で、年代別の代表に入って戦ったアジアユースでも準優勝で、プロになってからも準優勝ばっかりで、「僕は優勝できないんだな」と、「自分が悪いのかな」と自分を責めた時期もありました。

Q:でも、今や優勝しまくってますからね。

A:しまくってはないですけど(笑)、そういう経験ができたことで「優勝と準優勝は全然違うな」ということを感じることができました。両方を経験することで、より感じることができたかなと思います。

Q:市川選手は対戦した数か月後には、日本代表に入っちゃってましたからね(笑)

A:そうですね(笑) でも、それくらいちょっとレベルが違っていたというか、僕らにも同じ年代にコマ(駒野友一)がいて、コマも凄かったですけど、そのコマもとにかくボールを取れなかったですし、決勝でも余裕でやっていましたからね。僕も1年だったということもありますけど、いっぱいいっぱいでやっていた中で、ちょっと次元が違ったと思います。でも、まさか日本代表に入るとはって感じですけどね。「ええっ?代表?」みたいな(笑) ある意味で納得した部分はありました。「ああいう選手が代表に入るんだな」と。

Q:これを最後の質問にしたいと思っていて、あえてザックリお聞きしたいんですけど、夢ってありますか?

A:僕の夢は広島にサッカー専用のスタジアムができて、そこで現役中にプレーすることです。それが僕の夢ですね。

Q:それって昔から思っていた夢ですか?

A:昔より今の方がその想いは強いと思います。昔からずっとそういう話はあって、「できるかも」という話があった中で、またそれがなくなって、J1で優勝してまた話が出てきてという感じで、今はまた凄く話し合ってもらえているので、僕ももうそんなに現役は長くないと思いますし、それを今は1つのモチベーションとしてサッカーをやっている所もあるので、それが夢だと思います。

【プロフィール】

矢野FC、矢野中で全国大会を経験し、広島ユースから2000年にトップチームへ昇格。2度のJ2降格と2度のJ1昇格を経て、3度のJ1優勝を獲得した現在はクラブ歴代最多出場記録を更新し続けており、広島のレジェンドとして多くの尊敬を集めている。


※所属チームを含めた情報は、当時のものをそのまま掲載しています。

ご了承ください。

取材、文:土屋雅史

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