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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年03月12日

Pre-match Words ~浦和レッズ・武藤雄樹編~(2016年7月16日掲載)

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【Pre-match Words 浦和レッズ・武藤雄樹編】

(2016年7月16日掲載)

Q:ご自身のここまでのパフォーマンスについてはいかがですか?

A:今はなかなか点が取れずにいるので、悔しい想いでいっぱいですけど、点が取れなくてもやるべきことはいっぱいありますし、しっかり守備をすることだったり、ボールを引き出して攻撃のリズムを創るというのも自分の求められているプレーではあると思うので、そういう部分を出しながらセカンドステージはこれからゴールを重ねられればいいなと思っています。

Q:おっしゃったように、なかなかゴールが出ない時期が続いていると思いますが、ゴールが出ていた時期と自分の中で何か違いを感じるような部分はありますか?

A:ここ何試合かはそうでもないんですけど、もう少し前はやっぱりゴールが欲しいあまりに、少し焦りがあったかなというのは、試合を振り返った時に思ったりもしましたね。少しメンタルの部分でうまく行かないと、プレーの精度やポジショニングもうまく行っていないシーンが多かったかなと思うので、点が取れないから逆に「もっともっと」となってしまって、前にしか行かないみたいな。

たぶん良い時というのは、去年を思い出すと逆に凄く守備を頑張っていたりとか、そういう部分で最終的にゴールの所へ辿り着いているイメージがあったので、ここ何試合かはそういう部分を少し思い出そうという、自分の中での意識の変化もあって、しっかり守備をすることであったり、ボールを引き出すことであったり、「求められていることをまずはしっかりやろう」と今は思っています。プレーの内容自体は上がってきているかなとは思うので、あとは最後の精度の部分、集中力の部分でゴールを決めたいなと思っています。

Q:少しゴールが近付きつつある感覚はありますか?

A:そうですね。今は10試合か11試合ぐらい点が取れていないんですけど、最初の5試合くらいは「取りたい、取りたい」と凄く思い過ぎていて、あまりチャンスにも絡めていないような試合が凄く多かったというイメージはありました。ただ、最近もなかなか決められてはいない中で、シュートに絡むシーンというのはたくさん増えてきましたし、あと一歩の所まで来ていると思うので、そこが難しい所ですけど、「1点入ればまたもう1回リズムに乗れる」という自分の中での良いイメージは持っています。

Q:直近のリーグ戦の仙台戦(2016年J1 2nd-第3節 〇1-0)は武藤選手にとっても思い入れのある一戦だったと思いますが、あのゲームはいかがでしたか?

A:やっぱり僕は仙台が凄く好きなチームですし、思い入れがあるチームなので、「絶対に負けたくない」「良いプレーをしたい」という強い気持ちで臨みました。ただ、もう浦和に来てから3回やっているので(笑)、そこまで緊張し過ぎるこということはありませんでした。それでも浦和のサポーターにもそうですし、仙台のサポーターにも「良いプレーは見せたいな」という想いで頑張ろうという気持ちは持っていました。

Q:チームとしてはああいう勝ち方をすると乗るんじゃないかなと思いますが?

A:そうですね。やっぱり強いチームは、ああやって厳しい試合を最後にモノにするというゲームが年間できっと多くなってくると思いますし、なかなか決定的なチャンスが創れない中で、最後のああいう時間帯でゴールを決めて勝てるというのは、かなり勢いが付く勝利だったかなと思います。

Q:それもあってなのか、今日の練習を見ていてもみんな凄く楽しそうでしたが、そういう雰囲気は実際に感じる部分もありますか?

A:そうですね。僕が仙台から浦和に移籍してきてまず思ったのが「凄く楽しそうに練習しているな」というのが第一印象としてあったので(笑)、もちろん今は勝っているからそうですけど、負けている時でもみんな明るくやるというか、そういう人柄の選手がたくさんいるというのもそうですし、そういう風にみんなが明るさの中でまとまっているなという印象はあります。

Q:ああいう感じだとたぶん選手たちもやっていて乗れるというか、サッカーに対してポジティブに取り組めるのかなという印象もあります。

A:そうですね。本当にみんなポジティブにやっていますし、本当に明るいので見ている人からしたらちょっとおちゃらけているように見えるくらいの明るさでやっていますけど(笑)、気持ちの切り替えというか、スイッチを入れる時はみんなしっかり練習に取り組めますし、球際もきっと他のクラブと比べても負けないくらいの激しさを持って練習をやっていると思うので、なかなか「連戦で練習ができない」というくらいの連戦なんですけど、良いゲームをやれている時は本当に良い練習ができているなと凄く思います。

Q:今シーズンで考えると、背番号が変わったことも武藤選手にとっては大きなトピックスだと思いますが、伝統のある浦和の9番を付けているということに関しては、率直にいかがですか?

A:浦和の9番を付けるということは自分自身凄く嬉しかったですし、また責任も凄く感じているので、「絶対に結果を出さないといけないな」と思ってこのシーズンに入りました。そんな中で開幕戦だったり、スタートは点が取れていたので、「9番になったからといってプレーは変わらない」と自分の中で自信は持っていたんですけど、今は点が取れていない中で、そういう意味で言えば周りのサポーターの皆さんからしたら納得してもらえていないと思いますし、9番を付ける以上はもっともっと結果にこだわらなくてはいけないなと思っているので、これから巻き返せればいいかなと思います。

Q:ここからはキャリアのお話を聞かせて下さい。選手名鑑で最初に掲載されているクラブはFCシリウスですが、そこがサッカーを始めたクラブということでしょうか?

A:サッカーを始めたのは小学校1年生の時に立野台FCという、小学校のチームにまず入団したんですけど、小学校3年生の時に隣にあった中原小学校のチームと合併したんですね。中原小学校のサッカー部には僕の代で所属していたのが2人しかいなくて、試合ができないと。まあ試合も何もサッカー自体ができないというか(笑)、他の学年にはいたんですけど、まず僕の代には2人しかいなくて、学校も近いのでその2チームが一緒になってできたのがFCシリウスというチームなんです。なので、キャリアのスタートと言えば立野台FCなんですけど、サッカーがちゃんとできるぐらいになった3年生からはFCシリウスでやっていたという感じですね。

Q:FCシリウスの2つ上に徳島の佐藤晃大選手がいたんですね。

A:そうですね。でも、僕も1つ上の学年の試合や練習には出ていたんですけど、2つ上の学年の試合や練習までは出られなかったので、ほとんど一緒にやった記憶はないんです。ただ、中学校も一緒の学校でしたし、座間高校で活躍していたのも見ていたので、今でもシリウスの初蹴りで正月にお会いする時もあります。

Q:FCシリウスは結構強いチームだったんですよね。

A:僕の代はまあまあ強くて、小学校4年生の時に県で3位になりました。最初は中原小学校の子は2人しかいなかったんですけど、合併してどんどん増えて行って、県で3位になったというのもあってか、6年生になる時は部員が25人いる中で、中原小学校の子も10数人になっていて、「今まで何やってたの?最初から入れよ」と思っていたんですけど(笑)、そのぐらいの規模になって、本当にサッカー好きが集まって切磋琢磨し合いながら、結構それなりに強かったとは思います。

Q:『THE WAY』でも拝見しましたが、武藤少年はルールブックを読み込むほどだったんですよね(笑)

A:あまり自分の中でそのイメージはないですけどね。一緒に頑張っていて凄く仲の良い、高校は桐光学園に行ったくらいにレベルも高くて仲の良い選手がいたんですけど、いつも一緒に家でサッカーのビデオを見たり、ルールブックを見たりしていましたね。やっぱり低学年の子はルールを知らないので、「僕たちだけは絶対にルールを理解している」という自信が凄くあって、隙を突いて決めるみたいなことばっかりやっていました(笑)

Q:バックパスをGKが手で取った間接FKからすぐゴールを決めたこともあったらしいですね。

A:それは今でも小学校の時のスタッフに会うと、「オマエら、あの時凄かったよな」って言われますね。大人がわかっているようなことを、3年生くらいで理解していましたから。あの時代はみんなGKがバックパスを手で取っちゃうみたいな所もあったので、スッとボールを取ってゴールを決めて。そういうことがあの時代には多かったような気がしますね。

Q:小学校時代は選抜には入っていたんですか?

A:神奈川は選抜が東と西で分かれていたんですけど、西の選抜には入っていました。1回だけ東西の選抜を合わせてセレクションをやった時には、行きましたけど入れなかったですね。東にはマリノスやフロンターレやあざみ野FCもあって、東の方がレベルが高かったんです。それで全然入れなかった印象があります。

Q:小学6年の頃に同い年の県内のスーパースターは誰だったんですか?

A:県内のスーパースターですか。齋藤陽介(リガFC/ラトビア)ですかね。彼はもうスーパーでした。僕は県選抜に入れなかったですけど、名前は聞いたことがありました。でも、そういう凄い選手は基本的にマリノスの選手でしたね。今は山形にいる田代(真一)も凄かったイメージがあります。

Q:そのへんの選手たちは当時の武藤選手からすると「スゲーな」って感じですか?

A:「スゲーな」と思っていましたし、むしろ凄過ぎて見えていなかったです(笑) ライバル視するようなことも全然なかったですし。やっぱりマリノスはちょっと別格でしたね。4年生で県3位になった時も、準決勝の相手はマリノスだったんですよ。そこでコロッと負けて、「やっぱりマリノス強えな」みたいな(笑)

Q:中学に上がる時は、当然栗原中学校の部活という選択肢もあったと思いますし、ベルマーレのジュニアユースもある中で、FC湘南ジュニアユースを選択されてますが、それはどういった理由からですか?

A:シリウスの3つ上くらいの先輩でFC湘南に入っている人がいて、その人は結構小学校の練習に来てくれていた人で、「中学どうするの?」みたいな話になった時に、「FC湘南は凄く技術を大事にしているチームで良いと思うし、マリノスとも試合ができるし、そこが良いんじゃない?」と。実は小学校6年生の時に何人かシリウスからマリノスのセレクションを受けに行った人がいるんですよ。でも、なぜかわからないですけど、僕は行っていないんです。

僕はキャプテンもやっていましたし、シリウスの中では上手い方ではあったと思うんですけど、そこに行っていないので、今から思うと「ビビってたんじゃないかな」と思いますね。「部活よりはクラブチームでプレーしたい」と言っていたのに、マリノスを受けていないんですよね(笑) それでFC湘南のセレクションを受けに行って、合格したので入ったという記憶はあります。

Q:FC湘南での3年間というのはいかがでしたか?

A:藤沢周辺では何とかマリノスに対抗していこうというくらいの立ち位置にはいたチームで、凄くドリブルの練習が多くて、本当にチーム戦術というよりは技術を磨いて「個人で何とかしろ」みたいなチームだったので、僕はそれが凄く良かったと思っています。ドリブルの練習と試合ばっかりやっていたなという印象がありますね。でも、3年のクラブユース選手権で関東大会に出ましたよ。敗者復活戦みたいな感じで。

Q:県の9位で出場みたいな感じですよね。

A:そうそう(笑) 何とか関東大会まで行ったんですけど、予選グループの相手がヴェルディ、フロンターレ、FC千葉なのはな。もうボッコボコです(笑) 千葉なのはなにはたぶん山崎亮平(新潟)や米倉(恒貴・G大阪)がいたと思うんですけど、今でも覚えていて0-4で負け、ヴェルディには森本(貴幸・川崎)に45点ぶち込まれて2-7だったかな。それでフロンターレには0-6。もうみんな泣きもしなかったですね。「何だよコレ」とか「俺たち出て良かったのか?」みたいな(笑) 「関東の中で一番弱かったな」って思うくらい完成度の違いがあり過ぎて、まあそんなボッコボコにされた思い出ですね。

Q:まさにその話をお伺いしたいと思っていて、たぶんフロンターレには永木亮太選手(鹿島)や高山薫選手(湘南)もいたんですよね。

A:いました。いました。

Q:結構その関東大会で対戦した相手にも、プロになった選手が多いんじゃないかなと思ったんです。

A:そうですね。でも、凄いことだと思います。僕が東アジア大会で代表に選ばれた時には米倉もいましたしね。その時にちょっと当時のことを話した記憶はあるんですけど、米倉は僕のことをさっぱり覚えていなかったですよ(笑) 僕はやられた側だから、みんなのことを覚えていましたけど、永木もこの間の国内合宿で一緒になったりしましたし、そう考えると凄いことですよね。

Q:やっぱり88年生まれの選手にとって森本貴幸というのは特別な選手だと思いますが、対戦した時もヤバかったですか?

A:ヤバかったですね。もう強いし速いし、「止められない」という感じだったので、試合中にウチのディフェンスが「もう無理だからマーク変わってくれ」みたいな(笑) それでウチの3バックが3人みんな順番に1人ずつマークに付いたんですけど、ボッコボコです。誰が付いてもボッコボコで(笑) 「もうダメだ~ 凄過ぎる~」って。その後ですよね。Jリーグでデビューしたのは。ありえないですよね。誰もが知っていましたし、僕らの年代ではスーパースターだったと思います。もうちょっとモノが違ったという印象がありますね。

Q:FC湘南での3年間は技術が磨けたという意味でも、凄く大きな3年間だったという感じですよね?

A:そうですね。そういうサッカースタイルの中で個を伸ばしてくれたということもありますし、今はないですけど、当時のFC湘南にはユースもあったんですよ。その時のユースは物凄く人数が少なくて、みんなジュニアユースから高体連に流れて行ったり、他のユースに行ったりしていて、僕は中学2年ぐらいからユースの試合に出させてもらっていたんです。それが凄く良かったかなと思いますし、FC湘南にもなるべく顔を出しに行こうとは思っているんですけど、顔を出した時には結構その話が出ますね。当時の僕は本当に小さくて、160センチもないぐらいだったので、「今思えばよくあんな小さいヤツが高校生と試合していたな」という感じで言われることもあって、そう考えるとあの経験は本当に大きかったですね。

Q:それはクラブチームならではの良さですよね。

A:本当にそうですね。そういう意味では高校生と練習もやれましたし、たくさん試合があったという意味でも良かったかなと思います。

Q:そのお話を伺うと、おそらくFC湘南ユースに上がるという選択肢はなさそうな気もしますし、神奈川にはたくさん強い高校もある中で、ご自宅のエリアだと当然座間高校もあって、それこそマリノスやフロンターレやベルマーレもある訳ですけど、なぜ武相高校だったんですか?

A:まずマリノスとかは「無理だろうな」という感覚が強過ぎて、セレクションを受けにも行かなかったですし、親からも「経済的に私立は厳しい」というようなことを言われていて、公立で強い高校だとそれこそ座間高校とか、弥栄西とか、あのへんなのかなとは思っていたんです。ただ、武相高校のコーチでFC湘南のコーチを兼任している方がいて、「武相に来るか?」という流れの中で"特待生"でという話が来たので、親に相談して「だったら」という感じもありました。

あとは僕が中学3年の時に武相がインターハイで全国に出たんですよ。それまでは正直あまり武相のことを知らなかったんですけど、「アレ、武相強いんじゃない?」という風に思ったのもあります。FC湘南から武相に行っている人も多かったですし、監督も大友(正人)先生という日本代表や読売クラブでプレーされていた方だったので、「武相が良いんじゃないかな」という感じで入りましたね。

Q:吉田明生選手(YS横浜/武藤選手の2年先輩)もFC湘南から武相ですよね?

A:そうです。同じルートで武相に入った方ですね。

Q:この時代は『THE WAY』でもかなり取り上げられていましたが、武相での3年間というのはいかがでしたか?

A:武相の3年間があったから今の僕があると思っているので、本当に大きかった時代ですね。まず3年間が凄く濃かったというか、サッカーに対する向き合い方がハンパなく変わったと思っていますし、大友先生の指導のおかげで成長できたと思います。

Q:サッカーに対する向き合い方は、どういう所が一番変わったんですか?

A:もう生活のすべてをサッカーに捧げるという感じで、先生自体もそういう方だったので、それを僕たちに説いてくれるというか、僕はずっと「プロに行きたい」ということは言っていたので、「プロになるんだったらこれくらいしないといけない」ということで、サッカーのプレーはもちろんなんですけど、例えば「その日1日のサッカーをうまくプレーするために、朝起きたらまずストレッチをする」と言われたこととかを、まあちゃんと聞いて実行していたんですよね。それこそ家の中でのことなので、絶対にバレないんですけど、本当に大友先生を尊敬しているので、言われたことは何でもやるような感じでした。

一度「姿勢が一番大事だ」みたいに言われて、ずっと"姿勢を良くする練習"みたいなのが始まって、サッカーは全然やらないんですよ(笑) 「歩き方を変えろ」「走り方を変えろ」みたいな練習が始まって、それを今度は家に帰るまでの道のりを歩く時に始めるじゃないですか。すべてをサッカーに繋げようと必死だったというのもありますし、「プロになるためにどうしたら良いか」ということをずっと考えていたと思います。中にはちょっと"遠回り的"なこともありましたけど(笑)、色々なことを考えながらずっと練習していた記憶はありますね。

Q:結果ということで考えると、3年生の時が一番良い成績を収めた年で、インターハイで全国にも出てらっしゃいますが、あれがご自身としては初めての全国ですよね?

A:そうですね。僕たちの年代は割と人材が集まったというか、3年前のインターハイで全国に出たのを見て入ってきた代だったので、2年生の時から9人くらいは僕たちの代の選手が試合に出ていたんですよ。それで1つ上の代の選手権予選も8月ぐらいの一次予選で終わってしまったので、すぐに新チームが始まって、そこからずっと自分たちの代でやっていたので、チームとしての完成度もどんどん上がって行きましたし、関東大会に出ることができましたし、インターハイで全国に出る時は結構自分たちに自信があったので、「たぶん神奈川獲れるぞ」というような感覚の中でサッカーをやっていましたね。

Q:桐光学園に延長で勝って、日大藤沢にPK戦で勝ってみたいに、結構強豪校相手の接戦をモノにして全国まで行ったという感じだったんですね。

A:そうですね。桐光に延長で勝って、PK戦もありましたね。でも、武相は『走るサッカー』というか、運動量を本当に大事にしていたので、接戦で勝つという試合が凄く多かったと思います。インターハイの全国も1回戦は星稜で、抽選の結果を見た時は「ふざけんなよ」と思っていたんですけど(笑)、大阪の夏で本当に暑い中をとにかく走り回って、勝った時は優勝したかのような達成感がありましたね。次の日にコロッと負けるんですけど(笑)

Q:國學院久我山に負けるんですよね。

A:はい。でも、良い経験だったと思います。武相でそこまで行けたというのは良かったと思いますね。

Q:星稜にはたぶん鈴木大輔選手(ヒムナスティック・タラゴナ/ESP)がいたんですよね?

A:いました。いました。試合中のプレーを覚えているというか、確か大会の注目選手みたいな形で名前を挙げられていたと思うんですよね。その時から凄かったと思うので、「センターバックに凄い選手がいる」という風に言われていた気もしますし、勝って大騒ぎしたのは覚えていますね。でも、久我山はシードだったんですよ。

Q:ああ、じゃあ武相が1試合やって疲労感がある中で、フレッシュに出てきたんですね。

A:そうですね。元々久我山の先生とウチの先生が凄く仲が良くて、かなり練習試合もしていたので、凄く強いというのも知っていて、独特のパスサッカーをやるチームじゃないですか。だから回されまくって、僕らはヘロヘロでしたよ(笑) 「こっちは2試合目なのに、そっちは1試合目じゃん」みたいな。あの時の久我山は強かったなあ。

Q:真夏ですし、場所も大阪とちょっと遠い所ですし、全国大会ですし、凄く高校時代の良い思い出になりそうなシチュエーションですよね。

A:まず全国に出られたということが凄く良い思い出です。もちろん選手権に出たかったというのもありますけど、インターハイもみんなが目指す大会ですからね。ただ、他のチームがバスとかで会場に来る中、僕らは電車だったんですよ。そこには差を感じましたね(笑) みんなバスでサーッと来て「カッコいいなあ」という感じなのに、僕たちは電車に15分くらい乗って移動して、ボールの袋とかもメッチャ持ちながら(笑)、駅から会場まで歩いて行きましたからね。「何でみんなカッコいい感じなのに、俺たちだけこんな感じなんだよ。インターハイの全国大会なのに」みたいな感じでした。そんな思い出もありますね。

Q:選手権予選は準決勝で秦野にPK戦で負けたと思いますが、その時の喪失感は大きかったですか?

A:そうですね。全国に行けると思っていたので、秦野もその時は結構強かったんですけど、何て言うんですかね。「うわ~、終わったよ」みたいな。選手権だけを目指して3年間やってきて、僕も朝は5時半ぐらいに起きて朝練に行って、あんな夜まで練習していたのに、「終わったか...」みたいな(笑) 凄く寂しかったですけど、僕は流大(流通経済大)に行くことも決まっていましたし、まだまだ上を目指すという気持ちがあったので、その負けた悔しさもあって、次の日かその次の日くらいからもう練習に出ていたんです。とにかく悔しかったですけど、「次の目標はプロだ」みたいに思いながら、その負けを糧に練習していたのは覚えています。

Q:武相の同期は今でも仲の良い仲間という感じですか?

A:そうですね。僕は今までプレーしてきたチームの友達とは凄く仲が良いですけど、その中でも武相の時の仲間は特に深い関係にあるというか、会う機会も多いメンバーなので、先生も凄く怖い人ではありましたけど、引退してからは急に優しくなりましたしね(笑) チームメイトのみんなも当時は"武相高校サッカー部"にのめり込んでいた分、みんな「武相大好き」みたいな感じだったので、卒業してからもずっと初蹴りをやっていて、今でも僕の代もほぼほぼ集まって、そこから年上の代や年下の代も呼ぶようになったんですよ。

Q:武藤選手の代がきっかけなんですね。

A:はい。今までそんなのはなかったんですけど、僕らの代から「初蹴りしてみんなを集めよう」と言って始まって、いまだにちゃんと継続してやっていますからね。僕が行くとみんなも「プロで頑張ってるな」と喜んでくれる部分も凄くありますし、そういう意味でも武相高校出身のプロとして頑張りたいなという気持ちは凄く持っていますね。

Q:最後の質問です。こうやってお話を伺っていても、決していわゆるエリート街道を歩まれてきた訳ではないと思いますが、そういうキャリアを重ねてきた中で、浦和で9番を付けて活躍している今の自分っていかがですか?

A:自分の中では確かにエリートではないのに、変に自信を持っている所があったというか、ずっと前向きにやってきたという自負が自分の中にあって、「きっとプロになれる」と、「プロで活躍できる」と思い続けてきたので、諦めなかったからこそ、ここまで来られたと凄く思っています。こうやって今は浦和で9番を付けてサッカーができているのは幸せですし、本当に今まで色々な人との出会いに恵まれて、その中で頑張ってきたからここまで来られたので、凄く幸せなサッカー人生を送っているなと思います。エリートじゃなくても、諦めなければどこまででも行けると僕は思っているので、逆に言えばまだまだ上を目指していきたいですね。

【プロフィール】

武相高を経て、流通経済大時代には大学屈指のストライカーとして活躍。2011年から仙台で4シーズンを過ごした後、2015年に浦和へ移籍すると、リーグ戦13得点をマークして不動の地位を確保。日本代表にも選出されるなど、今後のさらなる飛躍が期待されている。


※所属チームを含めた情報は、当時のものをそのまま掲載しています。

ご了承ください。

取材、文:土屋雅史

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