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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年03月12日

Pre-match Words ~鹿島アントラーズ・山本脩斗編~(2016年7月12日掲載)

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【Pre-match Words 鹿島アントラーズ・山本脩斗編】

(2016年7月12日掲載)

Q:ここからはキャリアの話を聞かせて下さい。まずはサッカーを始めた所から伺いたいんですけど、名鑑には上田サッカースポーツ少年団が最初のクラブとして記載されていますが、そこがサッカーを始めたクラブですか。

A:本格的に練習を習ってというのはそこが初めてです。それまでも小学3年か4年くらいからやりたい気持ちはあったんですけど、父親が「色々なスポーツをやれ」ということで、平日だったり朝早くから練習してとかが父親は嫌だったみたいで、反対されていたんです。それでもやりたくて、小学5年の夏に一番近いチームは朝練があったんですけど、上田サッカースポーツ少年団というバスで20分くらいの、歩いたら行けないような所で練習をやっているチームで、何人も地元の仲の良い友達が行っていたチームに行きたいなということで、そこは練習が土日だけだったんですよ。父親も「それならいいか」ということで許してくれて、夏からやっと入れたんです。

Q:Wikipediaで拝見したんですけど、お父さんはスキーの選手だったんですね。スキーをやらせたかったということでしょうか?

A:本当の所はやらせたかったんでしょうけど、時代の流れもありますし、場所も僕が住んでいたのは盛岡市で、父親はそこから1時間ぐらい掛かる安比高原のさらに奥の田山という所で育っていて、もう目の前にスキー場があるような所だったので、スキーをやっていたんだと思うんですよね。

僕も普通にスキーをやるのは好きでしたし、冬場はやっていましたけど、ガチでやろうという気は全然なくて、やっぱり小学2年くらいの頃にJリーグが始まって、それこそ"キングカズ"さんたちがテレビに大々的に出てという時代だったので、流れ的にサッカーですよね。小学校の頃から昼休みとかはサッカーをしていたんですけど、本格的に始めたのはその時です。ただ、サッカーを習い始める前から、地元の友達とは土日に遊びで小学校の校庭に行ってボールを蹴ったりしていましたし、サッカーは好きだったので、土日に試合ができることも嬉しかったですね。

Q:上田SSSはどのくらいの強さだったんですか?

A:市でベスト8ぐらいですね。優勝をしたこととかは全然なかったです。何回か勝って負けるというか。でも、サッカーの楽しさを教えてくれるようなチームで、監督もそういう方でした。だから、「ああ、サッカーって楽しいなあ。もっとやりたいなあ」と思っていましたね。

Q:サッカーを始めるクラブとしては理想的ですね。

A:理想的ですよ。それもそれでありなんでしょうけど、他のチームで監督が厳しいチームも見ていましたし、試合も色々な選手を交替して出してくれるような監督だったので、本当にサッカーの楽しさを教えてもらいました。基本的に僕はキャリアを通して、自分に合った監督に恵まれたのかなと思いますね。小学校の時もそういう監督さんでしたし、中学校の時も割と和やかな雰囲気を創って下さる監督さんで、みんなで楽しくワイワイという感じでしたね。土日や休みの日も集まって、みんなでサッカーをやってというチームでした。

Q:でも、北松園中は結構サッカーが強い学校でしたよね?

A:北松園中は僕らが入った年で、できて3年目の学校だったんです。本当に家から歩いて5分ぐらいの所に中学校ができて、入った時に2個上の先輩が県大会にソッコーで行って、僕たちの代で県で優勝して、東北大会も優勝して、全中も出てみたいな(笑) 初めて全国というものを味わったのが中学でしたね。本当に恵まれていたと思います。

Q:創立5年目で全国って凄いことですよね。

A:どうなんですかね。僕らは自然に何も考えていなかったですけどね。しかもメンバーも同じ学年に10人とかで、部員全員で30人くらいでしたし、普通の中学校の部活で県大会に行ってという感じだったので、他の学校からしたら「どこの学校だよ?」みたいな感じだったんでしょうね(笑)

Q:当時もヴェルディ花巻やいくつかのクラブチームが中学年代にもあったと思いますが、そういう選択肢はまったくなかったんですか?

A:まだサッカーを始めて1年半でしたし、選抜も小学6年の時に何十人も集まるような市選抜の選考会みたいな所には行きましたけど、県選抜なんていうレベルではなかったので、普通に地元の中学校に通ったという感じでした。でも、小学校から県選抜や東北選抜に行くような、今でも凄く仲の良い同期もいたので、「一緒にやりたいな」という感じで、身近に良い目標があったので良かったです。しかも1個上の先輩にも有名な選手がいたので、普通に「北中に行こう」と思っていましたね。

Q:そう考えると周りのレベルも高かったということですよね。

A:そうなんですよ。それで中学校の同期の中から5人くらいは、一緒に盛商(盛岡商業)に上がってという感じでした。

Q:全中はどのくらいまで勝ち上がったんですか?

A1PK戦で勝って、その次に負けちゃったのでベスト16くらいですかね。

Q:ちなみにどこと対戦したか覚えていますか?

A:西脇中?

Q:和歌山の中学校ですね。

A:結構そこから青森山田に行っているんですよね。そことやって、次にどこかに負けたんですよね。

Q:「どこかに負けた」ということは、あまり対戦相手とかは気にしていなかったんですね(笑)

A:全然気にしていなかったですね。中学校の頃でしたし、どこが強いとかも知らなかったですし。全国大会に行くと、最初にみんな集まるタイミングがあるじゃないですか。開会式みたいな。そこで「ここが強いぞ」みたいに聞いて、「ああ、確かになんか雰囲気あるぞ!」みたいな(笑)、そういう感じですよ。だから、兵藤(慎剛・横浜FM/早稲田大時代の同級生)も海星中かなんかで出ていたみたいですけど、その学校も有名なんですよね?そういう感じで見ていました。あとは、「アイツ、ナショトレ(ナショナルトレセン)行ってるよ」みたいな話を聞くと「ああ、雰囲気あるな」みたいな。そんな感じです(笑)

Q:全国に初めて出たという経験は、上を目指していく中でも大きな経験ですよね?

A:良かったですよね。嬉しかったですし、全国にも出られると思っていなかったので。中学3年の時に「高校はどこに行くか」というので迷っていて、中学2年までは県選抜にも入っていなかったので、最初は盛商ではない学校に行こうと思っていたんですよ。ただ、中学3年の夏ぐらいに県トレセンに呼ばれて、そこでサッカーを改めて意識して、「盛商に行こう」という意識が芽生えましたね。

Q:全中に出ているぐらいですから、北松園中のメンバーの進路も注目されていたんじゃないかなと思いますが、やっぱりチームメイトの複数人が盛商に行くというのも、進路決定には大きな影響があった訳ですよね?

A:そうですね。盛商に行っていなかったらどうなっていたかはわからないですけど、やっぱりずっと一緒にやってきた友達と行けるというのは嬉しかったですし、「盛商に行って頑張ろう」という感じでしたね。

Q:当然県内では「盛商に行く」というのは1つのステータスですよね?

A:少なくとも当時はそうでした。あとは、齋藤(重信)先生が大船渡高校から盛商に戻ってくるというのも聞いていたので、それも大きかったです。やっぱり齋藤先生は(小笠原)満男さんを育てた人というイメージがあったので、「凄い人」という感じもありましたし、盛商に戻ってくると聞いたら、「もう盛商しかないな」というのが自分の中にあったので決めましたね。

Q:小笠原選手もかなり憧れの存在だったんですよね?

A:自分が中学3年ということは、満男さんが21歳くらいですよね。もうプロに入ってバリバリやっている頃だったので、テレビでよく見ていましたし、優勝とかもしていたので、そんなに詳しくはなかったですけど、「凄いな」と思っていました。むしろ盛商に入ってからの方が、齋藤先生も満男さんの話をしますし、影響は大きかったですね。盛商は選手権に行く前の事前合宿とかで、鹿嶋にあった民宿みたいなホテルに泊まっていたんですけど、そこに満男さんが来てくれたんです。満男さん、モトさん(本山雅志)、金古(聖司)さんのサインを書いてもらったポロシャツが、今も実家のどこかにあるはずです(笑)

Q:それって高校生にとっては最高の経験ですよね。

A:メッチャ嬉しいですね。みんな並んで書いてもらって。あとは個別に、齋藤先生が満男さんから何足かもらったサイン入りのスパイクをこっそりもらったりとか(笑) 「オマエにやるよ」「あざす!」って言って(笑) それは家に今でも飾ってありますけど、そういうものをもらったりしましたね。

Q:そういう人と今は職場が一緒って凄いことですよね。

A:そうですよね。自分としては不思議な感じです。まさか一緒にやるとは思っていなかったので、意識はしていましたけど「凄いな」という人でしかなかったですからね。

Q:盛商での3年間を今から振り返ると、どういう時期だったという印象ですか?

A:やっぱりサッカーの部分もそうですし、人としてどうあるべきかという基礎的な部分を叩き込まれた時期ですね(笑) それは齋藤先生もそうですし、コーチ陣の方々もそうです。挨拶だったり、「食事を残すな」とかもそうですし、やっぱりメンタルの部分ですね。あとはサッカーの時に『負けない気持ち』が培われたり、理不尽な走りもそうですけど(笑)、そういうのって大事じゃないですか。そういう所を自然と叩き込まれましたね。「コレ」という訳ではないんですけど、3年間やることによって、やった後に「大事だったな」というのは凄く感じましたね。中学校までは走り込みをしたこともなかったですし、そこまで理不尽なこともなかったですからね。

Q:そうすると中学時代と高校時代ではかなりギャップがあったんじゃないですか?

A:ありましたよ。でも、「やっぱり上を目指していく上では必要なことなのかな」という部分は自然と感じ取っていたので、それはやらなきゃなというのが自分の中にありましたし、盛商の近くに"くまさん"という食堂があるんですけど、そこは食事の出てくる量がメチャクチャ多いんですよ。そこでインターハイの予選とかで合宿所に泊まっていると、朝、昼、夜とそこに行くんです。

僕はそんなに食べられる方ではないので「キツいなあ」とか思うんですけど、普通に盛ってもキツいのに、「これを帝京とかのヤツらは2杯、3杯食うんだぞ。絶対残すなよ」みたいな(笑) それを必死で食べたりとか、凄く良い思い出というか、良い経験をさせてもらったなと。普通に生活していたら、そんなことは絶対にないですからね。そういう部分は今になって凄く大事だったなと思います。当時は正直文句ばっかり言っていましたけど、今なら感じますね。凄く大事な3年間だったと思います。

Q:サッカー的にはいかがでしたか?2年と3年の時には選手権で全国も経験していると思いますが。

A:中学校の時までは一応「サッカー選手になりたい」という気持ちはありましたけど、ポワーンとしたイメージだったんですよ。それで高校に入って、1年生の時から試合に出させてもらって、2年生の冬に選手権に行って、3年生の時はインターハイも選手権も全国に出たんですけど、なかなかそこまで行っても12試合しか勝つことはできなかった中で、そういう所に行って、今でもプロでバリバリやっているような選手たちと一緒にやることで、刺激というのは凄くありましたね。「上には上がいるな」とか「スゲー上手いな」とか「強いな」ということを肌で感じられたので、やっぱりあの3年間は大きかったと思います。あとはナショナルトレセンも1回行けたので、その時はさらに「上手えな~!」みたいな(笑) その時は「みんな上手っ!」と思ったので、「自分はまだまだだな」というのは凄く感じました。

Q:ナショナルトレセンに初めて呼ばれた時に、一番衝撃を受けた選手は誰でしたか?

A:その時は家長(昭博・大宮)がメチャクチャ上手かったんですよ。でも、僕が2年生の時の国体でも大阪府選抜で出ていて、とにかくメチャクチャ上手くて「コイツ、ヤバいよ」みたいに言われていたんですけど、実際に一緒にやったら凄かったですね。今よりもキレキレ系のドリブラーだったじゃないですか。「いやあ、マジ上手えなあ」と思って(笑) あとは船谷圭祐(水戸)ですね。ジュビロで一緒だったんですけど、彼はジュビロのウェアかなんかを着ていて「メッチャ上手え!」と思いました。レフティでセンス抜群で「何じゃコレ」とか思ったことは覚えています。他にも上手い人はいましたけど、もういっぱいいたので覚えてないです(笑)

Q:そうするとナショナルトレセンはかなりの衝撃体験という感じですか?

A:やっぱり物凄く刺激になりますよね。帰ってきた時には自信にもなりますし、刺激にもなりました。「もっとやらなくちゃ」とか「頑張ろう」という気になりましたね。普段から行っている人はそこまででもないのかもしれないですけど、初めて行った者からすればなおさらですよね。実は僕より前に中学から一緒にやっていたワタル(川島和)も、2年生の時にナショナルトレセンに行ったんですよ。それで帰ってきたら意識が物凄く変わっているのがわかったんです。レベルも高くなっていましたし。「アイツ、ワンランク上がったな」という感じを僕は凄く受けて、それに対して悔しさもありましたし、「自分も行きたいな」という気持ちもあったので、実際に自分が行ってみて「ああ、これは変わるわ」と実感したのは覚えています。

Q:ナショナルトレセンに選ばれたりすると当然上も見えてくると思いますが、プロを意識し始めたのはその頃ですか?

A:そうですね。「行きたいな」という気持ちはありましたけど、「今のままじゃ無理だな」という気持ちの方があって、選手権も全国に出たものの、2回戦で青森山田に7-1でボコられて。その時はもう10月ぐらいに大学も決まっていたんですけどね。夏ぐらいに進路を考えた時に、プロからのオファーは来なかったですし、自分の中で大学に行こうというのは決めて、「どこにしようかな」という感じでした。なので、プロは大学に行ってからと。そこは切り替えて「大学で頑張ろう」と思って、やるなら上のレベルでやりたいというのもあって早稲田大に決めました。

Q:上を目指して早稲田に入ったものの、最初はリーグが3部相当だったんですよね。

A:はい。入る時に2部に上がるという前提でしたし、入ったのもスポーツ推薦でしたからね。それも本当に縁があって、暁星高校の林(義規)先生がウチの齋藤先生と仲が良くて、夏のインターハイで林先生に見てもらって、スポーツ推薦の枠は3人だったんですけど、それが兵藤と(鈴木)修人で、2人とも国見と市船(市立船橋)で全国優勝とかしている訳じゃないですか。残り1枠に入れてもらったという形だったと思うんですけど、獲ってもらえたんですよね。

3月ぐらいにスポーツ推薦だったので早めに寮に入って、兵藤と修人も同じ日に来ていて、3人でメシ食いに行って。それこそ新宿のトンカツ屋に「とりあえず行くか」って(笑) 修人は船橋でしたけど、僕と兵藤は地方から出てきていたので、「ギラギラした街だな」とか「人凄いな。今日"祭り"か?」みたいな(笑) 本当にそんな感じでしたね。

もう1つ印象的だったのは、その2日後か3日後ぐらいに朝鮮大学という近くの大学と練習試合をするということで、最初はもちろん試合を見ていたんですけど、そこで相手のフォワードがペナの外からとんでもないシュートをバコーンと決めて、「凄い選手がいるな」って話していたら、その人がテセさん(チョン・テセ)だったんです。当時はまだそんなに有名じゃなかったと思うんですけど、のちのち大学1年か2年の時に都選抜というチームでテセさんとか修人とかヤジさん(矢島卓郎・京都)とかと一緒にやりました。それで公式戦が始まって、最初の23試合はメンバーに入っていなかったんですけど、会場が土のグラウンドだったので、そこでメンバー外の1年生は"スーパーグラセン"というのをやるんです。

Q:"スーパーグラセン"?グラウンド整備ですか?

A:そうです。普通のグラウンド整備のスーパーバージョンです(笑) まずホースでグラウンド一面を水で濡らし、トンボに人が乗って下からグワッと削るんですよ。土が硬くなっているので、まずその硬い部分を水と人が乗ったトンボの圧力で真っすぐにして、そこから普通にトンボを掛けてというのを、練習が終わってから34時間ですよ。「ああ、大学になってもこんなことやるんだ」と思いながら(笑)、そういうことも経験しましたね。

Q:そうか!東伏見もまだ土だったんですね。

A:そうなんですよ。2年生から人工芝になったので。

Q:じゃあ"スーパーグラセン"を経験した最後の学年ですね(笑)

A:そうです。最後の学年です(笑) ただ、4試合目くらいからメンバーに入ったので、そこからはやっていないんですけど、3試合目までは貴重な経験をさせてもらいましたね。

Q:湘南のチョウ・キジェ監督にもこのインタビューシリーズでお話を伺った時に、相当先輩に色々かわいがられた話をしてくれたんですけど(笑)、その分「同期の絆は凄く強くなった」とおっしゃっていましたが、やっぱりそういうものですか?

A:メチャクチャあります。今でもやっぱり仲が良いですからね。大学の繋がりは凄いです。メッチャまとまりますよ。僕らの学年に理工学部のヤツがいて、1年生の途中で忙し過ぎて「もう辞める」って言い出したんです。でも、34カ月一緒にやってきた仲間がそう言い出した時に、みんなで練習後に「辞めるなよ」って話し合って、引き留めて。それで結局その理工のヤツは4年間やって、今でも一緒に遊んだりする仲なんですけど、やっぱりそういうこともあって絆は相当深まりますよね。

Q:最初は3部から始まった大学生活ですけど、最後はインカレで優勝するまでになる訳じゃないですか。その4年間は早稲田のア式の歴史上でも一番カテゴリーを駆け上がった時期だと思いますが、今から振り返ってみると、その4年間はいかがでしたか?

A:エノキさん(大榎克己監督)と1年から4年まで一緒にやることができて、プロを経験している方でしたし、そういう方と一緒にやれたということは大きかったですね。あとは3個上に植草(裕樹・長崎)さんがいて、2個上にトクさん(徳永悠平・FC東京)、ヤジさん、水戸に行った(高橋)周大さんもいて、1個上に山口(貴弘・大分)さん、松橋(優・甲府)さん、トキさん(時久省吾)がいて、1個下にカズマ(渡邉千真・神戸)もいて、メンツに恵まれていたんですよね。

トクさんなんてFC東京でレギュラーになってしまったような人なので、大学の中では凄くレベルの高い環境の中でやれていたと思います。それは本当に自分にとっても凄く恵まれた環境でしたよね。当時はそれが当たり前の中でやっていたので、もちろん必死にやっていましたし、例えばFC東京との練習試合で見るトクさんには「どっちがプロなの?」みたいなプレーを見せ付けられて、「やっぱり凄いな」と思いましたし、そういう人と普段からやれていたことで、高い意識になっていたのかなと。兵藤も足下やシュートも凄く上手かったですし、パス回しをやっても全然取れなかったりとか、そういう中で自分も「もっともっと足下の技術を向上させなきゃな」と感じていましたね。

エノキさんにも「ミスは誰でもするけど、上手い選手はミスが少ない」ということも常日頃から言われていましたし、今でも凄く印象に残っているのは「いつも同じ気持ちで取り組め」という言葉で、何回も言われた訳ではなかったと思うんですけど、自分の中では凄く印象に残っていて、それは今でも大事なことだと思っていますね。

Q:そういう環境の中で自然と目線が上がって行ったんですね。

A:そうですね。FC東京と練習試合をする機会もありましたし、「こういうレベルでやりたいな」という気持ちがどんどん大きくなっていきました。あとは大学選抜にも2年生の途中で入って、海外遠征に行ったことも「ああ、プロでやりたいな」という気持ちがどんどん強くなったキッカケだと思います。

Q:大学在学中にバレンシアへ行かれていたじゃないですか。あれもなかなか得難い経験ですよね。

A:あれはトクさんがバレンシアに移籍するみたいな報道が当時はあったじゃないですか。そこで早稲田と提携ができて、23年ぐらい「選手を受け入れますよ」みたいな時期があったんです。僕が行った時は修人とカズマと一緒だったんですけど、凄く良い経験でしたね。練習はサテライトの試合に出ていない人たちと一緒とかでしたけど、終わってからはトップチームが練習している所を見たりとか、当時はビジャが一番有名だったんですかね。でも、練習ではビジャが抜けていましたね。メチャクチャ上手くて、あとは通路でシルバと写真を撮ってもらったりとか(笑) でも、練習も「ああ、これがこっちのプロなのか」と思って刺激になりましたし、施設も良かったですよ。大きなプールがクラブハウスにあって、「プロはこういう感じなんだな」というのも肌で感じられた良い経験でした。

Q:良い思い出でもありますか?

A:そうですね。フリータイムもあったので、観光もできましたからね(笑) 試合前のタイミングだったので練習は12時間という感じでしたし、凄く良い思い出ですね。

Q:フリータイムは何をやっていたんですか?

A:フリータイムはそれこそ観光に行ったんですけど、スペイン人の通訳が案内してくれることになって、何時待ち合わせみたいに決めて、その時間に集合場所へ行ったんですよ。そうしたら1時間ぐらい遅刻してきた上に、謝るのかと思ったら「よーし、今から行こうぜ」みたいな感じで、「何それ?」みたいな(笑) でも、「スペイン人はそんな感じだよ。時計なんてあってないようなもんなんだから」とか言われて、「へえ~。文化の違いかな」と思って。良い経験でした。

Q:大学時代はやはり最後のインカレで日本一になったというのは、非常に大きなトピックスだったと思いますが、あの日本一はいかがでしたか?

A:やっぱり前の年の決勝で駒澤に1-6で大敗して、終わった後は勝ったら祝勝会だったんですけど、負けて集まったタイミングでOBの方々に相当厳しいことを言われて、何を言われたかまでは覚えていないですけど、その時の悔しさや「次はやってやる。絶対に負けないぞ」という気持ちになったのは良く覚えています。それで次の年になって、エノキさんも辞めるような話があったんですけど、その準優勝もあったからなのか「もう1年やる」と言ってくれて、一緒にやることが決まって、インカレも順調に勝ち上がっていく中で、でも僕は病気になって(笑)

(※山本選手はインカレ期間中に受けた磐田のメディカルチェックで、『原発性左鎖骨下静脈血栓症』であることが判明し、以降の試合を欠場することになった)

Q:そうでしたね。

A:大学には34人雑用係みたいな感じでチームに帯同する"チーム付き"というのがあって、普段は1年生の試合に出ていないような子がやるんですけど、だいたいインカレの決勝は4年生がやることも多いんですよね。それで僕らの時も同期が何人かやるということになっていて、最初僕にも同期から「"チーム付き"をやらない?」という話が来た時には、「絶対1年生もその場にいたいだろうな」と思って、最初は断ったんです。ああいう病気になって、それだけのためにひょっこり行ってやるのも嫌でしたし、1年生にも申し訳なかったので断ったんですけど、それでも同期が「一緒にやろうよ」と言ってくれて、凄く悩んだ末にやらせてもらったんです。

今になっては誘ってくれたことに凄く感謝していますし、優勝した時も中に入って行けたので、それも本当に嬉しくて、メチャクチャ泣いたのは覚えています。僕は普段からあまり感情を表に出さないんですけど、エノキさんが表彰式が終わった後に「あのヤマシュウが泣いているのを見て、俺も凄く嬉しくなった」みたいなことを言っていて、「あ~、そうなんだ」と思って(笑) みんなで記念写真も撮れましたし、やっぱり最後の最後で優勝できたということは凄く嬉しかったですね。プロになってから経験した優勝とはまた違った、学生スポーツならではの雰囲気もあって、あれは本当に嬉しかったです。

Q:そういう経験を一緒にしているから、一生の仲間という感じなんでしょうね。

A:それはありますね。かけがえのない、これからも一生付き合っていきたいと思えるような仲間ですよね。

Q:これを最後の質問にしたいんですけど、あえてザックリお聞きします。夢ってありますか?

A:夢ですか(笑) それは難しいですねえ。この年になってくると聞かれないですから。若い頃だったらパッと出てくるんですけど。何だろうなあ(2分くらい熟考)。ああ、鹿島でリーグ優勝して、ACLも獲って、クラブワールドカップの決勝でバルセロナのメッシと対戦して勝ちたいですね。

Q:サッカーの夢としては究極に近いですね。

A:そうですね。でも、夢がありますよね。僕は普段そこまでサッカーを見ないですけど、バルセロナの試合とメッシは見ていて「楽しいな」と思うので、そういう舞台で勝ちたいですね。

Q:2人の年齢的にも早く実現させておきたい所ですね(笑)

A:そうですね。まあ夢なんで(笑)

【プロフィール】

盛岡商業高、早稲田大では年代別代表も経験し、大学屈指のアタッカーとして2008年に磐田へ加入。6シーズンを過ごした後、2014年に鹿島へ移籍すると左SBの定位置を獲得。替えの利かない選手として1stステージの優勝にも大きく貢献している。


※所属チームを含めた情報は、当時のものをそのまま掲載しています。

ご了承ください。

取材、文:土屋雅史

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