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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年03月10日

Pre-match Words ~アルビレックス新潟・小塚和季編~(2016年6月10日掲載)

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【Pre-match Words アルビレックス新潟・小塚和季編】

(2016年6月10日掲載)

Q:今シーズンのここまでのチームパフォーマンスはどのように捉えてらっしゃいますか?

A:練習でやっていることを試合でも出せている部分は多いと思います。ただ、それがなかなかゴールに結び付いていなくてこういう順位にいるというのはチームの中で話していて、本当にやっていることは間違っていないと思うので、これを続けていくしかないなという感じです。

Q:小塚選手も山口から帰ってきて、かなり期するものがあるシーズンだと思いますが、新潟に戻ってきてのここまでというのはどういう想いでプレーしていますか?

A:やっぱり新潟のベースという部分はあるので、それにプラスして自分の良さであるゴールを決めたり、ラストパスを出してチームに貢献していくということは、帰ってきた時に思っていたことなんですけど、こうやってシーズンを通した中では、イマイチパッとしたプレーがまだできていないですし、そういう所は時間がないと思っていて、どんどん試合に出るために練習からそういうプレーを増やしていかないと、「今シーズン中に活躍できないな」というのが自分の中に今はあるので、もっと気合いを入れてやらないといけないなと思います。

Q:自分の中でイメージしている『パッとしたプレー』や『そういうプレー』はどういうプレーですか?

A:パスの時に人が思っていないようなプレーをしたりとか、そういう所が自分の持ち味だと思っているので、そういう所をもっとやっていかないといけないと思います。

Q:そういうプレーが出てきそうな手応えは、何となく掴んでいる感じですか?

A:そうですね。カテゴリーは上がりましたけど、「やれなくはないな」という感触は掴めています。

Q:自分の思い描いていたJ1と実際にピッチに立ったJ1にギャップはありましたか?

A:いや、そんなには感じなかったです。J3にいた時からイメージをしっかり持ってやれていたので、J1でプレーする時もイメージがありましたし、そんなに「凄いな」という風には思わなかったですね。

Q:開幕戦(〇2-1 湘南)に出場してから、リーグ戦では出場機会のない時期が続きましたが、そういう時期はどういうことを考えながらトレーニングをしていましたか?

A:何かが足りないということで先発から外されていたと思うので、スタッフに相談したり、改善する所を聞いたりして、そこを練習でも意識してやっていました。

Q:そういう時もモチベーションは落とさずにやれていた感じですか?

A:そうですね。本当にスタッフとも色々な話ができますし、選手同士も色々な話をしているので、モチベーションが下がることなく、常に良い状態を保ちながら練習はできていました。

Q:その後に五輪代表の招集を挟んで、今度は前回よりもっと出られない時期が長く続いたと思いますが、その時期はどういうことを考えていましたか?

A:試合に出られないのは本当に悔しかったです。ただ、それを練習に出してはいけないと思いながらも、少し出てしまっていた部分はあったと思うので、そういう所は「まだまだだな」とは思うんですけど、「そこでひたむきにやらないといけない」と思いながらやっていました。

Q:五輪代表の招集も受けて、ある程度刺激も受けて帰ってきた中で、それをなかなか実戦で披露する場がない時期が続いたと思いますが、そういうもどかしさはありましたか?

A:ありましたね。試合に出ないとサッカー選手としては面白くないので。ただ、試合に出るためには何かが足りなかったと思うので、そこは練習にぶつけていました。

Q:ミックスゾーンでお話を伺った時に、「吉田(達磨)監督から『普通になっちゃった』と言われました」という話をしていたのが凄く印象的だったんですけど、それは結構自分の中でも響きましたか?

A:本当に響きましたね。「周りと同じようなプレーになった」という風に僕は捉えていたんですけど、自分の良さというのは人が思っているのと違うことをする所だと思いますし、プレーを淡々とやっていたりとか、そういう風になると自分らしくないと思うので、それは凄く響きましたね。

Q:それは少しずつ試合に出られない時期で、トレーニングの中から取り戻していくようなアクションのようなものは起こしていったんですか?

A:逆に意識し過ぎてちょっとボールが足に着かない所もあったんですけど、そこは乗り越えて何とかいつものプレーに戻っていったと思います。

Q:そんな中でナビスコカップの柏戦(〇2-1)は33日ぶりの公式戦だったと思います。あのゲームというのは今から振り返っても大事なゲームでしたか?

A:本当に久しぶりのスタメンということで、「何かしないといけない」というのはずっと思っていて、その中で落ち着いてボールを受けて捌くことはできていましたし、最後にああいう形で点が取れたのも、本当に今までのものが全部ぶつけられたという感覚がありました。

Q:新潟の選手としてはあれが初ゴールだったと思いますが、率直にいかがでしたか?

A:そうですね。あまりそういう風に考えたことはなかったですけど、初ゴールをああいうボレーシュートで決められて良かったなと思います。

Q:あれは会心のゴールですよね?

A:自分でもアレはビックリしました(笑)

Q:一連も迷いがなかったというか、思い切り振り抜けたゴールだったと思いますが、逆にあまり色々考えずにやれたプレーだったんじゃないですか?

A:試合に入る前から本当にゴールは意識していたので、あそこで落としをもらった時もダイレクトで打てたのだと思いますし、ゴールの意識があったからこそ、ああいうゴールが生まれたのかなと思います。

Q:メッチャ嬉しかったですよね?

A:嬉しかったですね。もう「ベンチに飛び込みに行こう」というのは決めていたので、真っ先に行きました。

Q:チームはなかなか結果の出ない時期が続いていますが、この状況を打破するために「こういうことが必要だな」ということを、小塚選手自身が感じてらっしゃることはありますか?

A:やっぱり試合で点を取るためには練習からゴールを意識しなくてはいけないので、そういう面では今の練習の中でチーム全体としてもゴールが少ないですし、そういう所を練習からゴールにこだわってやらないと、試合でも点が取れないなというのは思っています。

Q:今日(※6月7日)は練習後に30分近く吉田監督がみんなの前で話していて、「凄く熱のある監督」だなという印象があるんですけど、小塚選手から見た吉田監督というのはどういう監督ですか?

A:自分を凄く出せるというか、「引き出し方が上手い監督だな」と。「それぞれの選手の良さを出すのが本当に上手い監督だな」と思いました。

Q:練習の中で「なるほどな」とか「こういう練習もあるんだな」のような、気付きのようなものは結構ありますか?

A:そうですね。やっぱり試合をイメージした中での練習がほとんどで、その状況が試合に出てきた時には頭の中に入っているので、良いパスが出せるというか、動きも合っているなと思います。

Q:監督の志向しているサッカーはかなりハッキリしていると思いますが、こういうサッカーだから小塚選手のスタイルが生きる部分もあるのではないですか?

A:本当に今、ボールを保持するサッカーに変わりつつあると思うので、その中で自分はミスをしてはいけない選手だと思うんですけど、練習でもまだ凄くミスが多いですし、そういう所は減らしていかないと、試合に出た時にもミスをしてしまいますし、それでは自分が出ている意味がないというか、ゲームを落ち着かせられないと思うので、そこは練習から意識してやらないといけないと思います。

Q:山口でやっていたサッカーが、このチームでこのスタイルをやる上で生きているのかなと思いますが、そういう部分は結構ありますか?

A:そうですね。山口も本当に攻撃的なスタイルだったので、山口で得たものを新潟でも出せていると思います。

Q:なかなか一言で言うのは難しいと思いますが、山口での1年半でのプレーで得たものは、どういうものが一番大きかったですか?

A:やっぱりゴールに直結するパスだったり、自分でもゴールを取ることだったり、そういうゴールを意識したプレーが山口に行ってできるようになったというか、思い出したというか、そういう感じだと思います。

Q:かなり実戦経験も積めた中で、試合に出る喜びや試合に出ることで得られるものも取り戻せていった感じですか?

A:そうですね。試合に出ることによって1週間のルーティンもありますし、そういうものはやっぱり試合に出ないとわからないので、そういう部分も含めて山口では本当に良い経験ができました。

Q:かなり今の自分のプレーにも、あの1年半が影響している部分は大きいですか?

A:そうですね。試合に多く出ていたということもあって、プレッシャーをあまり感じないというか、うまくプレッシャーをかわせるようになったなとは思います。

Q:今回はホームゲームで会場がビッグスワンです。小塚選手も小さい頃からずっと見てきた舞台だと思いますが、改めてビッグスワンというのはいかがですか?

A:やっぱり雰囲気は最高だなと思いますね。その中でも、いざ自分がやる立場になっているので、本当に勝利をサポーターの皆さんに届けなくてはいけないなと思います。

Q:あの声援って見ていても凄いなと思うんですけど、プレーしていても相当選手にとっても力になる感じですか?

A:本当にプレーしていてもハッキリ伝わってくるので、やらなきゃという風には思います。

Q:あのピッチに立てている自分は、小学生や中学生の頃から想像できていたんですか?

A:いえ、想像できないですよね。たぶん普通は。想像できなかったと思います。

Q:実際に立って、子供たちも見ているようなピッチでプレーできるって幸せなことですよね。

A:そうですね。本当に「見ている人を楽しませたい」というのは自分の中であるので、そういう部分をプレーで出していきたいなと思っています。

Q:ここからはキャリアのお話を聞かせて下さい。名鑑などを見るとキャリアのスタートは見附FCになっていますが、サッカーを始めたのは何歳の頃ですか?

A:小学1年だと思います。ただ、父親が少年団のコーチをしていて、そのチームに幼稚園の頃から行っていた記憶はちょっとあるんですけど、本格的にチームに入ったのは小学1年です。

Q:そうするとお父さんの影響もあって、小さい頃からボールを蹴っていた感じですか?

A:蹴っていました。父親も見附の社会人チームでサッカーをしていたので、そういうこともあって小さい頃からグラウンドに行って、ボールは蹴っていたみたいです。そんなに覚えていないですけど(笑) テレビでもいつもJリーグが映っていましたし、本当にサッカーばかりを見て育っていたと思います。

Q:見附FCというのはどういうチームだったんですか?

A:見附市には小学校が何校かあって、そこでサッカーをやりたい子たちが集まるという感じです。なので、僕らの時は見附市以外からはあまり来ていなかったと思います。

Q:実力的にはどれくらいだったんですか?

A:なかなか県大会に出られるような感じではなかったと思います。

Q:でも、見附市内にはチームは1つですよね。どういう大会に出ていたんですか?

A:中越地区の大会に出ていて、そこで勝てないと県大会に行けないという感じでしたね。ただ、自分が小学4年の時にTeNYカップというのがあって、その大会で県で2位になったんですよ。その時にテレビの解説をしていたのが、今の強化部長の神田(勝夫)さんだったという(笑) 決勝もビッグスワンで、その記憶はありますね。「メッチャ自分たち勝ってるじゃん」みたいな(笑)

Q:それってなかなか凄い成績ですよね。

A:自分たちでもビックリしました(笑)

Q:個人としては県選抜に入っていたんですか?

A:入っていました。僕と今は清水に行っている川口尚紀は、小学5年の時に1つ上の代の県選抜に入っていたんです。川口は有名でしたよ。僕も「川口には負けたくない」と思っていました。

Q:そうすると県内の同じ学年では「小塚と川口と言えば知らない者はいない」みたいな感じですか?

A:そんな感じではなかったと思いますけど(笑)、僕は川口のことをメッチャ知ってました。当時は坊主でしたし、背も大きくて「何だ、コイツは?」と思っていたんですけど、向こうは知らなかったみたいです(笑) 僕は小学4年ぐらいの頃から川口を知っていたのに、向こうはその県選抜でやっと僕のことを知ったらしいです。

Q:そこから中学は長岡ジュニアユース(以下、JY)に行く訳じゃないですか。当然アルビレックスのジュニアユースもありますし、通っている中学のサッカー部という選択肢もあったと思いますが、どうしてJYだったんですか?

A:アルビのジュニアユースというのは、正直自分の選択肢の中にはなかったです。あること自体も知らなかったような気もしますね。それで、中学に上がる時にそのまま見附FCのジュニアユースに上がるか、JYに入るかとなった時に、JYの監督の西田(勝彦)さんが声を掛けてくれたというのが大きかったです。

Q:JY自体は凄くテクニックを大事にするというスタイルがハッキリしたチームだと思いますが、それも決め手の1つになった感じでしょうか?

A:いえ、まったくなかったですね。JYのスタイルも知らなかったので。ただ、小学生のチームのJYを知っていて、「スゲーチャラチャラしたチームだな」と(笑) 当時は『ATHLETA』というメーカーも知らなかったので、それも含めて「何だ、このチームは?」という感じだったんですけど(笑)、それまでにどこかのチームから声を掛けてもらえたことがなかったので、それが嬉しかったということも決め手の1つになった気がします。

Q:でも、そこでJYに入ったことは人生の大きな分岐点ですよね?

A:そうですね。そのまま見附FCのジュニアユースに上がった選手たちもいましたし、中学校も一緒の人もいましたし、そういう中で「自分だけJYに行くというのもどうなのかな?」とは思いましたけど、県選抜で一緒にやっていた選手も「JYに行く」という選手が多かったので、「じゃあみんなでやろうか」というのもありましたね。だいたい新潟の上手い選手たちはアルビのジュニアユースに行って、中越地区の上手い選手たちはJYか川口のいた長岡ビルボードに行くという感じでした。

Q:川口選手とはそこからJYの選手とビルボードの選手として、長岡市内のライバルになる訳ですね。

A:そうですね。でも、実は最初は川口が僕をJYに誘っていたんですよ。それで僕が入ったら、アイツは裏切ってビルボードに行っていました(笑) まあ、裏切ったというのは冗談で、川口の小学校時代のチームの先輩たちはビルボードに多く行っていたんです。それもあって向こうに行ったと思うんですけど、僕は見附FC1つ上の先輩がJYに行っていたのを知っていたので、JYに決めた所もあります。これを言うと川口に怒られるかもしれないですけど(笑)

Q:スタイル的にも結果的にもJYでの3年間はかなり楽しかったんじゃないかなと思いますが、どんな3年間でしたか?

A1年生から大会にも出させてもらっていましたけど、1回後半で途中出場して、10分ぐらいでまた替えられたことがあったんですよ。それが悔しくて、「絶対にまたこんな想いをしたくない」と思って、それを糧に頑張りました。

Q:そこからどういう風に意識が変わったんですか?

A:「もう交替で入りたくない」と思いました(笑)

Q:そっちですか?(笑)

A:最初から出たいと思うようになりました。それもその試合は1年生の最後の大会だったので、余計にそう思いましたね。

Q:フットサルで全国優勝したのもJYの時ですよね?

A:そうですね。2年生の時です。全日本フットサル選手権で、今は岐阜にいる風間宏矢さんとか、仙台にいる藤村慶太さんも出ていて、決勝の相手はその藤村さんのいるヴェローチェ盛岡というチームだったんですよ。藤村さんは10番を付けていて、僕らが勝った決勝の試合後に先輩たちが「高校どこ行くの?」とか聞いていて、「盛商(盛岡商業)だよ」「ああ、盛商行くんだ」みたいに話していたのを凄く覚えていて、大人になっていくと『ゲキサカ』を見るじゃないですか。それで見ていたら、「あれ、この人どこかで見たことある!」と思って、「もしかしたらあの時に戦った人だ」と。そうしたら盛商からプロになっていて、という感じですよね。僕は藤村さんを知っていたんです(笑)

Q:JYではどういう所が一番伸びたと思ってらっしゃいますか?

A:プレッシャーを怖がらないという所はチームの方針でもあると思うんですけど、ボールを怖がらないでどんどん受けに行ったりとか、そういう所はJYに行って身に付いた部分だと思います。「プレッシャーをプレッシャーと感じるな」というのはいつも西田さんから言われていました。それは本当にその通りだなと。プレッシャーをプレッシャーと思ってしまったら、プレーも慌ててしまうでしょうし、そういうことを言われて「常に落ち着いてプレーしよう」というのは思っていました。

Q: JYから帝京長岡に進学するというのは、そもそもかなり有力な進路としてあったと思いますが、普通に進学した感じでしょうか?

A:普通に進みましたね(笑) ただ、その時にはアルビのユースに声を掛けていただいて、ちょっとだけ迷いました。それでも今もそういう選手がいると思いますけど、僕は中学3年の時に帝京長岡の選手としてプリンスリーグにも出させていただいていたんですね。僕が高校3年の時には、当時中学3年だった大桃海斗(早稲田大)も一緒に試合に出ていたりしていて。

Q:そんなシステムがあるんですね。

A:ありました。僕は中学2年から帝京長岡の練習に参加させてもらっていたんです。JYの練習の前に、ちょっと早くグラウンドに行って高校生の紅白戦に出たりとか、もちろん1つ上の中学3年の選手もいましたけど、そういうのはありましたね。

Q:それは相当良い経験ですね。

A:間違いないですね。JYはそういう所があるので、僕は良いと思っています。

Q:そうすると中学生の段階で、高校のこのぐらいのレベルなら自分が通用するなという手応えは掴んでいた感じでしょうか?

A:そうですね。やっぱり体の大きな高校生とプレーするのは、ボールの置き所とかも含めて、またちょっと違う所があるので、そういうのを早くから経験できたことは非常に良かったと思います。

Q:実際に入学した当時の帝京長岡での日々はいかがでしたか?

A:中学2年や中学3年の頃に見ていたのとは全然違う環境でした。色々な面で厳しさがあって、それまでは自由に色々とやってきた部分から、当然先輩と後輩という関係もありますし、その時の3年生にはノリさん(酒井宣福)もいましたし、本当に「高校サッカーだな」という感じでしたね。

Q:僕も『Foot!』のロケで帝京長岡に行かせてもらって、選手権の後だったので1月に行ったんですけど、長岡ってメッチャ雪が降るじゃないですか。それで、選手たちが練習前に1時間半や2時間ぐらい雪掻きする姿が凄く印象的でした。あれってやっている方はどうなんですか?

A:いや、もう本当に、本当にキツかったです。マジでキツいですけど、やらなくては次の日にさらに雪が増えているので、絶対に終わらせなきゃいけないんですよ。今から考えても凄い環境だったなと思いますね(笑) 今は部員も少し増えて、雪掻きできるエリアも少し広がっていると思うんですけど、選手権に負けると高校3年は引退するじゃないですか。そうなると1年の時は僕らの代が13人で、上の代も10数人だったので、フットサルコート1面ぐらいしか雪をどかせなかったりとか(笑) とにかくコートを空けるのに必死でした。

でも、アレって意外と足腰に筋肉が付いたりしていて、春にはみんな一回り... 一回りは言い過ぎですね(笑) でも、それぐらいにはなっていたと思います。雪掻きもまず小さい雪山を登らないと、雪自体を捨てられないんですよ。逆にたくさん積んだら積んだで、その雪山を登れなくなりますし、バランス良く自分の持って行ける量を考えてやらないといけないので、雪を掻くテクニックは帝京長岡の卒業生だったらみんな持っていると思います(笑)

Q:アレは伝統みたいなものですよね。

A:そうですね。ただ、帝京長岡に限らず、たぶん長岡市内でも県内でもみんな雪掻きはしていると思います。

Q:今から考えれば、帝京長岡での雪掻きというのは良い想い出ですか?

A:良い想い出ですよね、アレは(笑) 良い想い出としか言いようがないです(笑)

Q:監督の谷口(哲朗)先生は「『サッカーをやるために雪掻きをするんだから、それは自分たちのためにやらないといけないことでしょ』って生徒に言っています」っておっしゃっていましたけど、「確かにそれはそうだな」って思いますか?

A:間違いないですね。ちょっとだけ雪が残っていたりすると、本当にプレスもしにくいんですよ。だから隅々まできれいに雪掻きしていましたね。ただ、次から次へとどんどん降ってくるので(笑) いつの間にかもう真っ白みたいな。ソックスを2足履いたりとか、ビニール袋を履いたその上からソックスを履いたりとか、みんな工夫していました。

Q:それで練習が終わって、次の日に学校に来たら、また積もっているんですよね(笑)

A:「もう降らないでよ」って(笑) わかっているんですけどね。

Q:逆にそういう環境だからこそ得られたものも結構あった訳ですよね?

A:そうですね。本当にエリアが限られているので、細かいボール回しやドリブルの練習もたくさんしましたし、そういう所はあの環境だからできた部分もあると思います。常に小さいコートでゲーム形式の練習をやっていたので、そういう部分が大きいコートになっても出ているのかなと思っていました。

Q:僕が小塚選手のプレーを初めて見たのは高校3年の選手権で、あの大会はチームとしても個人としても脚光を浴びた大会だったと思いますが、あの選手権は今から振り返るとどういう大会でしたか?

A:正直悔いは残っていますね。ベスト8という結果に関して、本当に悔いが残っています。「あの時にああしておけば良かった」というのがありますし、谷口先生も西田さんも選手権を経験しているので、「『あの時にこうやっておけば良かった』とならないように、練習から全力でやれ」と言われていたにもかかわらず、悔いを残してしまったというのは間違いないですね。

Q:準々決勝の前までは自分たちのスタイルも出せて、結果も付いてきていましたよね。

A:それはありました。ただ、選手権に入る前の練習試合では青森山田ともやりましたし、立正大淞南や大津ともやって、その時はあまり勝てていなかったんですよ。それでも初戦に勝てて、鹿児島城西にもああいう形で勝てて、自分たちが自信を持ってやれていた中で、小屋松(知哉・名古屋)にやられたんですよね。本当にあの京都橘戦は悔いが残っています。あそこで勝っていれば神田さんの記録(※神田勝夫強化部長は新潟工業時代に選手権全国ベスト8を経験)も超えられていましたし(笑)

Q:そうすると悔しい想いの方が大きいんですね。

A:そうです。悔いが残っています。でも、勝っていくにつれての注目度は凄いなと思いました。「選手権ってスゲーな」って。囲み取材の記者の方の数も凄くて、「こんなに人に囲まれることなんて、もう一生ないんだろうな」と思いながら話していました(笑) やっぱりあの大会に出ないと味わえないものがあるなと思いましたね。

Q:もう選手権の時はアルビに入ることは決まっていたと思いますが、あの大会で全国のレベルを体感できたことは、その後の自分に生きていますか?

A:生きていると思います。それまでプリンスリーグで北信越のチームと戦ってはいましたけど、あまり全国の強豪チームと試合をする機会がなかったですから。インターハイで青森山田と対戦して0-3で負けたんですけど、そこで悔しい想いをして、「全国には強い相手がいる」ということを認識できて、選手権に行った時は「青森山田を倒そう」とみんな思っていました。選手権に行けたのも、そのインターハイで負けたことが大きかったですね。また全国に行って優勝しようというのをみんな再確認できましたから。

Q:今から振り返ると、帝京長岡での3年間はどういう3年間だったと思いますか?

A3年間ですか... 好きなことをやらせてもらった3年間でした(笑) 本当に自分勝手なプレーばかりしていたなというのは、今になって思います。だからアルビに来た時に、最初はうまく行かなかったのかなと思っていました。でも、本当にあの3年間というか、JYも含めた6年間は自分のベースを創ってくれた時期だと思います。

Q:高校時代の活躍でかなり期待されてアルビに入りましたけど、出場機会を得られずに山口に行った訳じゃないですか。それで山口で結果を出して、またアルビに戻ってきて試合出場を重ねていますが、今の自分って客観的に見て、いかがですか?

A:山口から帰ってきて自信を取り戻せましたし、「自分はできる」と思えるようになりました。山口に行って、試合に出ることもできて、優勝もして、ある程度自信を取り戻せたと思います。アルビに入った当時は、体格も違ってみんな大きくてフィジカルもあって、「自分はダメだな」という風に思っていて。でも、そこで山口に移籍して経験を積めたので、本当に自信にはなりました。

Q:やっぱり山口というクラブや土地に対する感謝は相当大きいんですね。

A:相当大きいです。サポーターの方とも距離が近くて、商店街を歩けば「頑張ってね」と声も掛けていただきましたし、本当に応援されているなというのを肌で感じることができました。それにそういう人たちがスタジアムに来てくれているのもわかるので、「何とかJ2に上げたい」という気持ちでずっと戦っていました。違う土地から来た僕を、あれだけ温かく迎え入れてくれた山口には本当に感謝しています。

Q:これを最後の質問にしたいんですけど、夢ってありますか?

A:代表のユニフォームを着てプレーすることが夢です。今は同い年でも浅野(拓磨・広島)がああやってA代表でもゴールを決めていますし、「負けていられないな」と思います。あとはガク(野津田岳人)も新潟に来たことで、さらに代表への想いも自分の中で強くなってきたなと思います。

Q:以前の自分よりは、その夢に近付きつつある手応えはありますか?

A:昔より少しはあると思いますけど、まだまだ全然足りない部分の方が多いというのは実感しています。やっぱりチームのために走ることだったり、チームのためにゴールを守ったり、そういう部分をもっと出していかないといけないと思っています。

Q:代表に行きたいですね。

A:行きたいです。やっぱりカッコいいですからね(笑) 行きたいです。

【プロフィール】

見附FC、長岡JY、帝京長岡高を経て、2013年に新潟へ加入。翌年 月から期限付きで山口へ移籍し、昨シーズンは主力としてJ3優勝とJ2昇格に大きく貢献。今シーズンから新潟に復帰し、5月には五輪代表にも初招集。現在はJ1での試合出場を重ねている。


※所属チームを含めた情報は、当時のものをそのまま掲載しています。

ご了承ください。

取材、文:土屋雅史

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