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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。
【Pre-match Words 湘南ベルマーレ・曺貴裁監督編】
(2016年5月6日掲載)
Q:5連敗(1st第4節~第8節)の時期はチームにどういうことを一番強調したり、一番落とし込んだりしていましたか?
A:「全然悪くないよ」という話はしていました。ただ、浦和(第4節 ●0-2)の試合も自分たちの力は出していましたし、最終的には力負けだったんですけど、浦和というチームに"力勝ち"していたら今頃1位なので、力負けするかどうかを実感するということに関しては全然ネガティブな話ではなかったです。ちょっとその後の試合はシンプルにそういう言い方に逃げるのは嫌ですけど、「運もなかったな」という所もあったりとか、悪くないのに1つミステイクがあった時に必要以上にネガティブに考えてしまうとか、そういった所はだんだん勝てなくなって自然にというか、選手がビビっている訳ではないんですけど、ちょっと慎重になっていて、それこそ三竿(雄斗)が上げて(岡本)拓也が行くような大胆さとか、思い切りとか決断の早さみたいなものがなくなっているのは、5連敗した大宮戦(第8節 ●0-1)で思いました。
選手は頑張っているんですけど、その『頑張り』が相手のゴールに向かう『頑張り』というよりは、何となく「ミスしたくない」というか、勝っていないから「凄く大事にしたい」というか、そのことが先行するあまり、選手もちょっと硬い表情をしていましたし、「ちょっとこれは何か話さなくてはいけないな」という風に、大宮に負けた時に思いました。あの試合もPKで点を取られて0-1で負けたんですけど、リーグ戦の鹿島戦(第7節 ●0-3)から0-0で終えたナビスコカップの磐田戦という流れで来ていた中で、そう思いましたね。ここ4試合はPKの1点しか取られていないので、そういう所で理屈的にも良くなってきましたけど、実際に5連敗したことよりも「挑戦しない」とか「大胆さがなくなる」とか、そういったことはあの時には考えました。
Q:ちなみに大宮戦が終わった後にはどういう話をされたんですか?
A:皆さんも話していますけど、脳で言うと『旧皮質』、要は自分の欲望とか「何々したい」とか、そういった「考えて動く」というよりも、目の前のウサギを追い掛ける犬みたいな、そういったものをちょっと考え過ぎているというか、『新皮質』になっているというか。それがその週の練習で紅白戦をやった後に、選手がお互い話しているんですけど、僕の中ではほとんど話してもあまり意味がないことというか、「そんな状況は2度とないから、今話しても解決しないよ」というようなことを話しているのが見えて、一見それは凄く試合に勝つためには良いように見えるんですけど、「コイツら、やっぱりちょっと考え過ぎちゃってるな」というか、「ちょっとマズいな」というか、「ちょっと針を戻さなきゃいけないな」と思いましたね。それを次の日のミーティングで話しました。ちょうどF・マリノス戦に向かう前々日かな。
その時に広島戦(第3節 △2-2)や浦和戦の映像を使ったり、脳の話をしたり、言葉で話す前にまずはっきり1人1人が自分がやらなくてはいけないプレーをやることに関してエネルギーがないと、エネルギーがない人がどれだけプレッシャーを掛けても、どれだけボールを持って前にトライしても、個がグループやチームになっていかないというか、そういう話はミーティングでして、「負けることなんて怖くないけど、そういう良さが出ないことの方が俺の中では全然怖い」と。そういう良さを出していくのが我々のスタイルなので、「負けることなんて恐れるな」と。3つの内の1個でしかないんだから、『勝ち』『負け』『引き分け』の他にいっぱいあれば『負け』が強調されますけど、3つの内の1つなんだから「そんなに勝ち負けなんて気にしてビクビクすることはない」という話はしました。
Q:結果が出ていない時期に試合後のインタビューでずっと「自分の力のなさを痛感している」という趣旨のことをおっしゃっていて、そのことを尋ねた際に「だってそれしか言うことがないから」とおっしゃっていたのが印象的でした。
A:今でもそう思っていますよ。力がないというか、力が元々ないから、力のない人が試合の中で勝てないから「やっぱり俺の責任だな」と。俺のどのアンテナをフルパワーにして、どのアンテナを切って、どういう風に向かうのかというのを自分で絶対に整理しなくてはいけないなというか、「自分はこうしたい」ってアンテナが人間にはあるじゃないですか。食べることとか、着る物とか、住む所とか、何が好きかとか色々。その中ではっきりどのアンテナを立てるかというか、そういう意味の「力が足りない」といつも思っていますよ。
このタイミングでこの練習をする、このタイミングでこういうことを言う、このタイミングで、みたいなことを考えると、よく天才と言われる人がいるじゃないですか。飛行機を発明したライト兄弟とか会ってみたいですけど、「何でその発想をあのタイミングで生み出せたのか」とか、俺は少しそういう指導している立場の1人として思うと、そういうことにも凄く興味があります。自分を客観的に見た時に「今はこっちの方に振れてるな」ということを考えてやろうと思っているんですけど、いつも会見の時は試合が終わった直後なので、「どこかの俺のアンテナが付いていないんだな」とか「気付けていないんだな」と思うことの方が多いですね。別に自虐で言っている訳じゃなくて、俺は事実を言っているつもりなんですけどね。
Q:ちなみにこの2試合(第9節 〇1-0 横浜FM、第10節 〇1-0 鳥栖)は、1週間のトレーニングのオーガナイズも含めて、「俺のアンテナは立っていたな」という感じですか?
A:全然そう思ってない(笑) むしろ勝った時も同じように思うから。「もう今日は完璧な試合だった」みたいなことってないでしょ、1回も。だから、鳥栖の試合もあれだけ風が強くてちょっと押されて、本当にちょっとラッキーなゴールみたいなのが生み出されて。でも、そこには気持ちの持って行き方というか、この試合に対する心構えみたいなものは今は結構話をするようにしていて、そこは良い方に出たかなと思いますけど、そんな心構えを話して勝てるようだったらみんな話すじゃないですか。それは一部なので。ただ、思うのは最近良い意味で開き直るようにしているというか(笑)、「俺は別に神様じゃないし、聖人君子でもないし、オマエらがどう思っているかわからないけど、俺だって間違うんだよ」みたいな。「オマエらに『ミスするな』って言ってるけど、俺だってミスするんだから知らねえよ、もうそんなの」みたいに思うようにしています(笑)
Q:とはいえ、我々メディアも含めて曺監督は最近それこそ『神様』とか『聖人君子』的に思われがちな部分もあるような気がしますが、そのあたりはプレッシャーになったりしますか?
A:コンピューターとかプリンターという機械は、同じことを再現できるじゃないですか。何の感情もなく。厳密に言ったら違うかもしれないですけど、年賀状を何枚もほぼ同じように刷れますし。コンピューターは前のファイルを開けばそういうことができるじゃないですか。でも、F・マリノス戦の試合を鳥栖戦でもう1回やろうって言っても無理ですよね。人間がやることだから。
俺が大学生だった頃のバブルの時代は、家を買って、土地を買って、第三者に売ればそれだけで儲かった訳じゃないですか。"転売"という形で。それって凄いことですよね。何の労力もなく、ローンを組んで買ったのを人に売り渡すと儲かるって。このバブルの幻想が世の中の人を変えた訳じゃないですか。そこから経済が悪くなって、今はちょっと盛り返しつつありますけど、これから何で経済を盛り返してやっていこうかと言ったら、機械とかお金の力ではなくてやっぱり人ですよ。ヒューマンリソースです。だから、「人がやるんだから、オマエらにこの前の試合をもう1回やれと言っても難しい」と鳥栖戦の前に言ったんです。「ナイトゲームで、テレビでも放送されていて、みんなに『感動した』と言われるような試合の次の試合は、本当にテンションが難しいから言うけど、この試合を愚直なまでにそういうテンションでやれればオマエらは凄い」と言ったんですよ。「普通はできない。だから、できなくても俺は別に何も言うつもりはないよ」と。
ただ、去年も13時キックオフの試合は結果が良くなかったとか、そういう今までの歴史とかも話した上で「人間らしくプレーしろ」と。「機械だったらこの前と同じようにやらないといけないし、また1対1ができたら(高山)薫も絶対に決めなきゃいけないけど、今度は決まらないかもしれないよ」という話をするアンテナを、その時は付けたみたいな感じですね。それで結果として勝ったから「こういうのが良かった」とか言って結果論みたいな話をして、それが"本"になるみたいな(笑) 逆に結果が出なかったら「何言っているの、この人?」みたいな感じになるという(笑)
Q:F・マリノス戦に勝ったことって率直に嬉しかったですか?
A:嬉しいとかホッとしたというより、選手の感じにビックリしました。何かこの試合に勝つことに殺気立っているというか、「何だったんだろう?」と思います。去年F・マリノスとやって0-3で負けた試合は"意気地なし"みたいな試合になっちゃったんですけど、元F・マリノスの選手が多かったとか、ずっと勝っていなかったとか、そういう歴史の話を俺がしたとかありましたけど、勝った後にパッて選手の表情を見た時に、何て言うのかな... 登山家が一番最後頂上に登って旗を差す時の心境はわからないですし、アメリカが独立宣言をした時のことはわからないですけど、ベルリンの壁が潰れた時とか、そういう時みたいな感じはしました。
ああいう時ってたぶんちょっとそういう感情になるはずじゃないですか。理屈じゃなくて。だから、あの試合を見ていた人は「湘南って頑張るな」という風に思ったかもしれないですけど、その『頑張る』というのが凄く純粋で透明な感じで、色が付いていない感じで何か凄くビックリしました。「こんな風にできるんだ」というか。何かそう思いました。
Q:試合が終わった後の奈良輪選手を見ていると、「凄い勝利だったんだな」と感じちゃいますよね。
A:アイツにも期するモノがあったんでしょうね。だけど、俺は奈良輪を"ハムちゃん"って呼んでるんですけど、「あれぐらいはやるだろうな」と思っていたから、俺の中では驚きでも何でもなかったですけど、アイツはそこにやっぱりプレッシャーはあったんだろうなと。そんな感じはしました。
Q:試合後の締めの言葉は奈良輪選手に任せたんですよね?
A:ずっと喋ってましたよ。5分くらい。途中で「オマエ、長え~よ」って言ったけど、ずっと喋ってて(笑) それくらいアイツの中には想う所があったんでしょうね。
Q:その5分間は曺監督にとっても印象的な5分間でしたか?
A:いや、別に(笑) 「そういう風に話したいんだ」って途中でわかったから、「ちょっと会見もあるから早く終わって欲しいな」と思っていたのに、どんどん話し出したからね(笑) でも、彼にとっては記憶に残る試合になったんじゃないかなと思います。
Q:ここからは現役時代のお話をお聞きしたいと思います。突然ですけど子供の頃のサッカーにおけるアイドルは誰だったんですか?
A:釜本(邦茂)さんだと思いますよ。ウチの少年団にも一度教えに来てくれましたし、ピースして写真を撮ったのを覚えています(笑) あとはペレとかマラドーナとか。釜本さんが来てくれた時は現役だったのかなあ。でも、晩年だと思いますよ。
Q:その頃のポジションはどこだったんですか?
A:あまり覚えていないですけど、フォワードとか中盤だったと思います。
Q:攻撃的なポジションだったんですね。
A:攻撃的だったのかどうか覚えてないけど(笑)、練習もゲームばっかりやっていた感じでしたしね。でも、前の方にいたかな。
Q:そうすると釜本さんとかペレとか攻撃的な選手がアイドルなんですね。
A:当時はサッカーを見られる環境もそんなになかったですからね。ただ、日本代表の試合はたまに京都だと西京極でやるんですよ。日本代表対"何とか選抜"みたいな。そういうのはよく見に行っていましたね。
Q:西京極で見た試合の中で、印象に残っている試合はありますか?
A:いつの試合か忘れましたけど、洛北高校の先輩で今井敬三さんというフジタでプレーされていた方がいらっしゃって、その方が代表でプレーされているということで、僕が中学生ぐらいの時に見に行った相手がハンガリーのチーム(※ウイペシュティ・ドージャ)で、試合が荒れちゃって乱闘みたいになったんですよ。それでウチの少年団の団長が「いくら大人の試合とはいえ、あんな乱闘を子供に見せるのは違うだろ」みたいに怒っていたのを覚えています。「せっかく見に行かせたのに、そんなものを見せやがって」みたいな。俺は小中高と海外サッカーとかほとんど見ていないですから。ワールドカップは見ていましたけどね。
Q:年齢的に最初に見たワールドカップはスペイン大会あたりですか?
A:スペイン大会ですね。印象に残っているのは。イタリアが優勝して、ロッシがハットトリックしてみたいな。
Q:それは食い入るように見ていた感じですか?
A:見ていましたね。ブライトナーとかルーベッシュとか。ジレスとかティガナとかリトバルスキーとか。憧れましたね。
Q:著書を読ませて頂きましたが、洛北高校時代に国体の京都選抜に選ばれているんですよね。当時のチームメイトで今もサッカー界でお仕事をされている方っていらっしゃいますか?
A:まず山城にいた(奥野)僚右だね。それから今は徳島でGKコーチをやっている中河(昌彦)が京都商業で1つ下にいて。当時は京都商業がメチャクチャ強くて、紫光クラブから結構京都商業や山城に流れていくんですけど、5年くらい前に1回そのメンバーで集まりましたけどね。俺なんかよりみんな全然上手かったですよ。みんなプロになれるくらい力があったと思います。あとは鹿島にいた長谷川祥之がいましたね。アイツもそういう意味では叩き上げですよね。宇治高校から大阪経済大に行って、本田技研から鹿島ですからね。みんな本当にサッカーが上手かったですね。
Q:山城と京都商業が中心になっていた中で、洛北から国体選抜に選ばれるなんて珍しかったんじゃないですか?
A:もう1人GKが入っていたかな。公立だったらウチか山城が強くて、1年と3年の時の選手権は山城が行ったんですけど、力は京都商業が一番あったんですよ。それは覚えています。
Q:高校2年の時は選手権予選の決勝で負けたんですね。
A:そうですね。俺のヘディングのクリアを、大上兄弟の1人にそのままダイレクトで決められたんですよ。それで終わったみたいな。
Q:大上兄弟という方たちがいたんですね(笑)
A:京都では有名なんですけど、京都商業にいた兄弟なんですよ。松山兄弟(吉之、博明)とか有名でしょ。柱谷兄弟(幸一、哲二)とか。それと同じ流れですね。
Q:全国大会には国体でしか出ていないんですね。
A:そうですね。3年の時は本にも書きましたけど、俺がPKを外して負けましたからね。そう考えれば悲惨だったね(笑) だって、3年で負けた時とか震えちゃって何もできなかったもん。学校なんて行く気もしなかったし。結局しょうがないから行ったけど(笑) あの時の選手としての悔しい気持ちとか、今でも思い出したりする時はありますね。あの場面、あの高校の土のグラウンドでボールを置いた感じとか、「どっちに蹴ろうかな」と思ったこととか、今でも結構思い出して「迷っちゃダメだな」と自分に言い聞かせていることが、無意識ですけど結構ありますね。やる前に「入らないかも」と思ったのは後にも先にもあの1回だけでしたし。
Q:校庭でPKを迷っている自分は原風景みたいな感じですか?
A:原風景ですね。場所は忘れたけど京都の南の方だったんだよね。相手は紫野高校で。あの試合は本当にツラかったなあ。選手としてあれ以上に悔しいことがあったかなというくらい。まああったんだけど(笑) 毎日朝練していたんですよ。俺は大原に住んでいたから電車もなかったですし、バスしかないので1日で一番早いバスに乗って、途中のバス停で降りてそこから自転車で行くんです。乗り継がなきゃいけなくて。それでだいたい8時半くらいに学校が始まるから、6時半か7時に学校に着いて汗かいて練習して、3時間目の授業が終わったらすぐに"早弁"して、4時間目が終わったらすぐに着替えて、また1時間練習するんですよ。それで3時半になったらまた練習するじゃないですか。やっぱり凄く"懸けていた"から。プロになろうと思っていた訳ではないんですよ。でも、何か本当に"懸けていた"から「これで終わり?」みたいな感じでしたね。
Q:"懸けていた"というのは選手権に出るということに対してですか?
A:何だろうね。サッカーをしていくことで見えてくる次の未来なんて俺は想像できなかったんですよ。目の前の"ここ"に想いを全部乗せて、やれることは全部やるみたいな。当時は練習がどうとか、戦術がどうとかいう時代ではなくて、ただ「コイツ上手いな」とか「左足がスゲーな」とか「ヘディング強いな」ぐらいの時代なので、そういう原風景も含めて「あの時の俺は純粋に頑張っていたな」と思いますね。
Q:そんな青年が大学は早稲田という強豪チームに入って4年間頑張る訳だと思いますが、早稲田での4年間を今振り返っていかがですか?
A:いや、1年の時なんて本当に地獄でしたよ(笑) 大榎(克己)さんとか池田直人(元全日空)さんが4年生で凄く怖かったですし、3年生に今のウチの社長の水谷(尚人)さんでしょ。もう東伏見のグラウンドの横のスゲー汚い寮で、四畳半に2人とか六畳に3人とかで住んでいて、まあ先輩たちの"追い込み"も凄く厳しかったから(笑)、「グラウンドに桜の花びらが落ちているから」とか言われて練習後はダッシュさせられるんですよ。ヒドい時なんて夜の12時ぐらいまで。「どうやって防ぐんだよ。こんなグラウンドの方まで枝がピューって伸びてるのに。花びらが落ちないなんて無理だよ」とか思いながら(笑)
あとは雨が降ったら朝の9時からグラウンド整備するとか。だから、練習の時は力が残っていないんですよ(笑) グラウンド整備もメチャクチャキツいから。"トンボ"だけじゃなくて、スポンジで吸って水を出したりとか。でも、メッチャ同期の仲間意識が生まれるんですよ。そういうのを一緒に乗り切ったみたいな。オフになると「ああ、やっとオフだ」と思うのに、また練習が始まると地獄みたいな。だから、あの時の同期は今でも一番仲が良いですね。1年に2,3回集まりますけど、別に何の説明もしなくても俺も凄く応援してもらっていますし、結婚式とか何かがあって集まった時に「みんな元気だな」って思うとパワーをもらいますし、今でも実際に仕事をやっている中で誰かを紹介してもらったりする繋がりもありますし、やっぱりあの時の友達は自分にとって凄く大事ですね。
Q:3年生からレギュラーになったということですが、サッカー的にはいかがでしたか?
A:俺は高校から中盤だったんですよ。2年の時もメンバーに入れてもらっていましたけど、常時出ているような選手ではなくて。覚えているのは2年の終わりに、今は亡くなられてしまいましたけど、広島のご出身で東海大一から早稲田に来て、エスパルスに進まれた山田(泰寛)さんという本当にサッカーの上手い方が1つ上にいらっしゃって、当時スイーパーだった4年生が卒業して抜けていたこともあって、山田さんに「オマエ、1回スイーパーやってみろ」と言われて、最初は凄く嫌だったんですけど、やったら凄く面白かったんです。
それで当時のコーチに加藤久さんがいて、普段はそんなに来ていなかったんですけど、何かの試合の時に俺のプレーを見て「オマエは後ろのセンスがあるから、スイーパーにコンバートしてやってみろ」と言われて、「ああ、じゃあディフェンスやろうかな」という風になったことが、3年になって試合に出させてもらえるようになった一番の理由ですね。まあ大学3年になる頃くらいは『地獄の1年生』が終わって(笑)、2年生を経て、だいぶ大人になってきたような感じだったので、「チームでそこが足りないなら自分がやらなきゃいけないな」と感じでした。凄くサッカーを全体で見られるようになったというか、「どうやったら守れるのか」というようなことを考えられるようになりましたね。
Q:1つ下の大倉(智)さんは結構点を取っていたんですよね?
A:点を取っていたかどうかは覚えていないですけど、大倉と今の早稲田の監督の古賀聡はずっと出ていました。
Q:古賀さんも曺さんの1つ下ですよね?
A:そうです。古賀が左で大倉が真ん中で、右には池田伸康がいて。だから錚々たるメンバーでしたよ。相馬直樹や原田武男もいましたからね。大学が早稲田で良かったなと思うのは、サッカーが上手いから偉そうにするヤツとかいなかったですし、サッカーが下手でも一生懸命頑張っている選手はリスペクトされるようなチームだったので、そういう意味でも俺が今監督をやっている原型があそこにはありますよね。全員で頑張って1つのものを創り上げていくというか、それによって自分が凄く成長させてもらったなという想いがあるので、試合に出る出ないだけではなくて「もっと大切なものがある」みたいな感じで、美談ではないんですけど、そう思うことが多いですね。
Q:当時の早稲田は全国から優秀な選手が集まってきていた中で、いわゆるサッカー観が磨かれていった感じはあったんですか?
A:今の子たちはわからないですけど、俺らはサッカーの話しかしてなかったですから。コーチからしたら間違っている話もあったと思いますよ。もちろんバカな話もしますけど、ほぼ寮でもサッカーの話をしていましたからね。「オマエ、練習に対する態度がアレじゃダメだよ」とか。サッカーに対しては何事にも凄く純粋でしたよ。チームに対してとか。感謝してもしきれないくらい感謝していますね。大学時代の想い出というか、経験させてもらったことというのは。
Q:記録を見ると在学中のインカレは全部準決勝で負けているんですね。
A:準決勝の壁を破れなかったですね。4年の時も準決勝で国士舘大とやって、ウチのキャプテンが先制点を入れて残り5分くらいだったんですけど、当時国士舘には野田知や永井秀樹もいましたし、岩科(信秀)、新村(泰彦)、本街(直樹)とか良い選手がたくさんいた中で、今は新潟経営大の監督をやっている杉山学にやられたんですよ。俺が高校の国体選抜で一緒だった京都商業のメンバーと学は国士舘で凄く仲が良くて、たまにゴハンとか食べる仲だったんですけど、その学にやられた時のことは今でも忘れられないですね。俺がヘディングで競った後に「カバーに行こうかな」と思ったら学が見えていなくて、アイツに打たれたシュートで入れられたんですよ。
それで古賀に「曺さん、何であの時足を止めたんですか?」って泣きながら言われたのを覚えてます(笑) 「確かに」と思って。だから、「やっぱり試合って最後までわからないな」と思いましたね。あの時は見えていなかったというか、完全に俺の準備不足で。今は選手にそういうことを言いながら、当時の俺はそれが全然できていなかったという(笑) そういうパターンですね。古賀は熱いヤツなんですよ。その後もアイツに珍しく飲み屋に誘われた時に「曺さん、やる気あります?」って聞かれたりとか(笑) でも、そういう感じでしたよ。俺らの頃の先輩後輩って。今は気になるヤツがいても「まあいいか」ってなっているのかもしれないけど、当時は違いましたからね。「アイツはアレだからちょっと話そうぜ」とか。だから、その熱さはやっぱり良かったですよね。
Q:その後に入られた日立製作所サッカー部出身の方も指導者になっている方が非常に多いと思いますが、そういう土壌が当時の日立にはあったということでしょうか?
A:日立時代も早稲田と同じように、みんなサッカーの話をしていて、みんな一生懸命サッカーをやっていましたよ。サッカーの話をしながらゴハンを食べたり、一緒にいたりする時間は多かったです。それこそ(吉田)達磨とかもそうですし。
Q:そんなに先輩後輩もなかった感じですか?
A:社会人だからそこまでなかったですね。何か懐かしいですね(笑) 俺は3年しかいなかったですけど。
Q:そういう時期を一緒に過ごしていた人たちとJリーグの監督同士として対戦するとか、指導者として指揮を執っている試合を見ることができるというのは、どういう感覚なんですか?
A:やっぱり嬉しいですよ。あの時に一緒にやっていた人たちと試合をしたりとか、サッカー界で色々なことで繋がり合っているということは「嬉しい」以外の何物でもないですよ。お互いに「頑張れよ」みたいなノリでできるというか(笑)、確かにライバルではあるんですけど「敵であって、敵じゃない」みたいな感じもあります。
Q:日立時代は働きながらサッカーをやっていた訳ですけど、その3年間は今の曺監督を形成する上でどういう3年間だったと思いますか?
A:俺はそもそもプロサッカー選手になるつもりなんてまったくなかったですし、サッカーの指導者なんて絶対にやりたくなかったんです。本当に仕事しようと思っていたので、宣伝部に配属されて、先輩の仕事を見ながら「面白そうだな」とずっと思っていましたからね。研修員から本当の社員になるための試験を3年目に受けて、ちゃんと通って「いざ」って時に浦和へ移籍したので、上長からも凄く反対されましたよ。「同期でも宣伝部という部署に配属されることが本当にないことだから、『安定を守れ』という訳ではないけど、もったいないことするな」と。「オマエ、プロなんかなってどうするんだ」と。それを聞いて「確かに」と思いましたけど。
Q:「確かに」とは思ったんですね。
A:それは「俺のことを心配してくれる人はそう言うだろうな」と思って。その方には今でも連絡をいただいたりして、良くしてもらっています。反対はされましたけど、最後は俺の「プロでやりたい」という気持ちを尊重してくれました。
Q:本当に大きな決断でしたね。
A:今から考えればね。「サッカーを辞めた後に何をやろう」とかまったく考えていなかったですから。むしろ「サッカーの指導者なんて絶対に嫌だ」と思っていたのに。何だったんだろう。「会社に残っていたらどんな人生だったんだろう?」って最近想像することはありますね。
Q:まあ"手帳"は出してないでしょうね(笑)
A:確かに(笑) 最近はそういうのも運命かなって。自分が選んだことが自然とそういう運命になったんだろうなって。だから、運命なので「別に勝とうが負けようが俺のせいじゃねえよ」という開き直りをしている所です(笑)
Q:その時期は運命を左右する時期だったと思いますけど、そのまま会社に残っていたら今頃は部長クラスになっていた可能性もありますよね?
A:なってたかなあ(笑)でも、代理店の人たちと話したりするのも好きだったから、出世とかはしていなかったと思うけど、仲間と協力して仕事している感じは想像できますね。
Q:実際に会社に残るという選択肢もあった中で、今から振り返ると「あの時にプロになって良かったな」と思いますか?
A:わかんない。全然わかんない。でも、逆にさっきも言ったように「あの時に会社に残って、日立で働いていたらどうなっていたかな?」と思うことの方が多いですけど、親には「たぶん会社にいても辞めていたよ」と言われます。「ずっと日立に残っているタイプじゃないよ」とか言われて、「そう?別にそんなことないし」とか自分では思ってますけどね(笑)
その時の上長に最初に言われたのは「普通は大学の体育会出身のヤツは成績がみんな悪いけど、オマエは意外と成績が良かったんだよ」って。俺にはまったくその認識がなくて、学校には行っていましたけど、ちゃんと勉強したという自信もなかったので、「これで良いのか」みたいな。でも、"優""良""可"という成績の中で、結構"優"が多かったらしくて。大して勉強していないですけど、「だから採ったんだ」と言われて、「成績ってそういうのに使えるんだ」と思いました。
Q:大学の成績って「単位が取れればいいや」みたいな所もありますからね。
A:だって試験が全然わからなくて、全然違う答えを書いたのに"良"をもらったりとか。「この先生ナイス」みたいな。「この気持ちだけは直接伝えよう」みたいなね(笑) 大学時代や社会人時代は考える時間が多かったから、あの時はプロの世界が始まるタイミングで「1回も挑戦しない」という自分が想像できなかったですし、そのために準備していた訳ではないですけど、「チャレンジしないと何も始まらないな」と思って、プロになった感じですね。
Q:最後にお聞きしたいのは、今の曺さんってみんなに言葉を待たれていたりとか、「曺さんだったらやってくれるだろう」みたいに思われている状況だと外からは見えるんですけど、それって実際にいかがですか?
A:言葉を待たれている空気は年々感じます。でも、別にそれは自分を鍛えていくことだから、「ちゃんと話そう」と思うことの温度が上がることは俺にとって悪いことではないので、「どんなことを話すのかな?」って聞いてもらえる人とあまり聞いてもらえない人だったら、聞いてもらえる方が絶対に良いですからね。
Q:「何か良いこと言わなきゃ」みたいなプレッシャーはありますか?
A:ない。俺は自分が思っていること以外は言わないから。でも、「今日は勝ったんで満足です」なんて聞いても面白くないでしょ。「今日は負けたから悔しいので話すことないです」とか。それは俺のマスコミの人やサポーターの人たちに対するリスペクトですよ。完全に。それは監督としての仕事なので、仕事を放棄するということは絶対にしたくないです。「負けて気分が悪いから話さない」なんてことがあったら、「いや、仕事だから」と。それだったら「会見自体をなくせばいいじゃん」と思う訳ですよ。
マスコミの皆さんにも忙しい時間の中で、自分の仕事という形で会見を聞きに来てもらっている訳ですし、その情報を出してもらうことで「ウチを応援しよう」と思ってくれる人を増やすというのも、試合の勝ち負けと同じように大事な仕事ですからね。俺は嫌なんですよ。勝ったら喋るけど、負けたら喋らないという姿勢が。そういうのが一番選手に伝わるじゃないですか。「この人、なんだかんだ言っても負けた時はこんな感じなんだ」みたいな。そうなると説得力がなくなるので、別に試合の勝敗によって、話すか話さないかを変えようとは思わないですね。
【プロフィール】
洛北高、早稲田大を経て、日立製作所サッカー部へ入部。浦和、神戸でプレーした後、1997年に現役引退。ドイツ留学を機に指導者の道を歩み出し、2005年にジュニアユースの監督として加入した湘南で、2012年からはトップチームの監督を務めている。
※所属チームを含めた情報は、当時のものをそのまま掲載しています。
ご了承ください。
取材、文:土屋雅史
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