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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年03月12日

Pre-match Words ~湘南ベルマーレ・坪井慶介編~(2016年5月28日掲載)

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【Pre-match Words 湘南ベルマーレ・坪井慶介編】

(2016年5月28日掲載)

Q:ここからは昔のことをお聞きしたいと思います。キャリアのスタートは鶴牧サッカークラブということですが、そこがサッカーを始めたチームということですか?

A:そうです。小学3年の時にまったくの素人で入りました。よくある少年団のチームでしたけど、実は僕自身あまりサッカーをやろうとは思っていなくて。

Q:そうなんですか?

A:その頃は野球が大好きでした。親が野球を大好きだったという影響もあったと思います。

Q:好きなチームはありましたか?

A:西武が大好きでした。僕が見ていた頃は秋山、清原、デストラーデのクリーンアップでした。石毛、田辺、辻とか。所沢の西武球場も1回行ったんですよ(笑)

Q:このインタビューシリーズでは野球をやっていた人が本当に多いんです。大宮の塩田(仁史)選手に渋谷洋樹監督、新潟の吉田達磨監督とか(笑)

A:僕は習っていた訳ではなかったですけど本当に好きで。よくカラーボールとカラーバットを持っていつも遊んでいました。

Q:そこからどうやってサッカーの道に進むんですか?

A:たまたま当時住んでいた団地の同じ棟にサッカーのコーチがいて、「オマエはサッカーをやれ」と連れて行かれたんです(笑)

Q:嫌じゃなかったんですか?

A:嫌でしたね(笑) でも、活発な子供ではありましたし、そのあたりをいつも走り回って遊んでいたので、サッカーのコーチがそういうのも見ていたんじゃないですかね。「良く動き回っているから、この子にはサッカーをやらせよう」と思ったのかなと。

Q:今から考えるとそのコーチは"慧眼"の持ち主ですね。鶴牧サッカークラブはどういうチームだったんですか?

A:今は強くなっているみたいで、グラウンドも人工芝になって凄いみたいなんですけど、僕らの時はどちらかといえば多摩市内でもそこまで強くなかったです。

Q:すぐにサッカーへのめり込んでいった感じですか?

A:いえ、1年くらい掛かりました。今の僕からは考えられないと思いますけど、練習をサボったり、「試合に行きたくない」と言って行かなかったりしていたんですよ。何だったんでしょうねえ。でも、練習には行っていました。若干渋々ですけど(笑)

Q:それは意外ですね。そこから何かサッカーが好きになるキッカケがあったんですか?

A:特に何かハッと思ったというようなことがあった訳ではないんですけど、何となく「ああ、楽しいなあ」なんて思い始めたのは小学4年くらいですね。そこからは遊びに行く時の持ち物がカラーバットとカラーボールからサッカーボールに変わりました。

Q:鶴牧サッカークラブにはいつまで行っていたんですか?

A:中学1年までです。中学は部活に入らないで、バスと電車に乗って隣の町田市にあった東京小山FCというクラブに通っていたんです。

Q:それは勧誘があった感じですか?

A:いえ、自分からです。どこかで看板のようなものを見つけて、調べたら結構強いチームだったんですよね。小学校の頃はなかなか勝利を味わえないチームだったので、『勝つ』というものを味わいたいというか、「強いチームでやりたい」と親に言ったのは覚えています。そうしたら、そのチームがたまたま隣の市にあるチームだったという感じでした。でも、最初は練習参加みたいな形で、すぐに「入って良いよ」ということにはならなかった記憶があります。何回か練習参加してから入れてもらえることになったんですよね。

Q:そんなに強いチームだったんですね。

A:周りも上手い子が多かったですね。しかも町田の上手い子たちが集まっているので、みんな顔見知りだったんですよ。だから僕だけ「誰だコイツ」みたいな感じて見られていたと思います(笑) 電車やバスを使ったり、親に送り迎えもしてもらいましたね。

Q:ちなみに小学校の頃は多摩市選抜には入っていたんですか?

A:入っていました。

Q:他の市との対抗戦みたいなのがあったんですか?

A:ありましたね。なんかやっていましたね。

Q:「なんかやっていた」的な感じだったんですね(笑)

A:あまり僕も良くわかっていなかったです。「何か試合があるらしいぞ」くらいで(笑)

Q:東京小山FCでは学年ごとのチームで試合に出場していたんですね。

A:そうですね。出させてもらっていて、凄く楽しかった想い出があります。遠征もみんなでワゴンに詰め込まれて、愛知県の方まで行ったりとか。そういう感じでしたからね。

Q:その時期が「もっと上のレベルでサッカーをしてみたい」という気持ちが出始めた頃という感じですか?

A:そうですね。自分の中ではおそらく。小学校の頃になかなか勝てなかったこともあったと思います。

Q:それでも鶴牧サッカークラブも楽しかったそうですね。

A:そうですね。結果は出なかったかもしれないですけど、コーチたちが熱心で凄く練習が楽しかったですし、インサイドパスとかリフティングとか、しっかり技術を教えてくれたので、試合中も「大きく蹴れ」なんて言われたこともなかったですから。

Q:我々の時代としては珍しいですよね。

A:そうですね。だから僕にとって小学校時代の影響は非常に大きかったですし、鶴牧サッカークラブで良かったなと思いますね。

Q:中学時代に岐阜の付知町にある付知中学校に行く訳ですね。事前に調べたら『人口6000人』と書いてありましたが、そこは結構な変化ですよね。どういう経緯で付知町に引っ越されたんですか?

A:元々両親の実家があったんです。両親は同級生で、2人とも仕事で東京に出てきていて、そこで結婚したんですよ。僕の兄も東京で生まれて、東京で育っているんです。

Q:そうなんですね!でも、最初は東京とのギャップが凄かったんじゃないですか?

A:それでも親の実家があったので、小さい頃からちょこちょことは行っていましたし、どういう環境かということは知っていたんですけど、当時は自分がそこに住むとは思っていなかったですし、ましてやちょっと強いチームに入って、サッカーも凄く楽しかった時期で、「さあ、これから頑張るぞ」という感じだったので、最初は凄く嫌でした。「1人でも東京に残る」なんて言って。1人で生活できる訳ないのに(笑)

Q:それで付知中学校サッカー部に入部する訳ですね。

A:そうです。そこしかなかったですね。ちなみに両隣の町の中学校にはサッカー部が確かなかったはずです。付知中だけたまたまあったという感じでした。

Q:そういう意味ではツイていたということになるんですかね?

A:そうですね。しかも付知町は結構サッカーが盛んだったんですよ。強い弱いとかは関係なく、サッカーをやっている人が結構多かったんですよね。

Q:そうなると中学校のサッカー部はサッカー好きが集まっていた感じですか?

A:割と好きな子が多かったと思います。本当に上を目指してやるかどうかというのは当然人それぞれですけど、サッカーが好きでみんなやっているという感じはありましたね。

Q:自分の中で周りの環境も含めて、付知での生活に最初は難しさもありましたか?

A:最初は少しギャップを感じてしまいました。雪が凄く降ったり、寒かったりというのがありましたし、冬は朝になるとグラウンドが凍ってしまっていて、もうガッタガタの所で練習することもあって「何だよコレ?」と思いながら(笑) でも、結果的に僕は付知に行って本当に良かったなと思っています。そこでサッカー部のキャプテンをやったり、学校の中でも色々やらせてもらったりして、どちらかと言えば自発的に色々なことをやらないと物事が進まないというか、サッカーに関しても自分から自発的にみんなへ声を掛けたり引っ張ったりすることもその時期にできたので、そういう意味では付知での中学2年と3年の2年間は非常に大きかったという想いがあります。

Q:「学校でも色々やらせてもらった」というのは生徒会長みたいなことですか?

A:そこまではやっていないんですけど、ナントカ委員会の委員長みたいな感じで、全校生徒の前で喋ったりとか、そういうことも色々やらせてもらいましたし、"田舎ならでは"でサッカー部なのに陸上の大会に出させてもらったりとか、そういう色々な経験もさせてもらいました。バスケットも好きで友達同士で"3 on 3"の大会に出場しましたし、そこが人生の中でもちょっとしたターニングポイントだったのかなと思いますね。

Q:ちなみに何委員会の委員長だったんですか?

A:体育祭実行委員です。

Q:結構な大役じゃないですか(笑)

A:そうですね。だから、体育祭になると前に出て喋ったりとか。そういうのも良かったですよね。向こうのみんなも東京から来た訳のわからない僕を受け入れてくれたので(笑)

Q:付知町は岐阜県ですよね。当時で言えば高校は岐阜工業が強かったですし、他にもいくつか強豪はあったと思いますが、なぜ三重に行く道を選んだのでしょうか?

A:うーん、何ですかね。そんなに深く考えていなかったというか、「別に岐阜でもいいじゃん」って思いますよね?(笑)

Q:思いますよ(笑) それで今お聞きしたんです(笑)

A:その時は確かに岐阜工業が強かったですし、大垣工業とか各務原とかも強かったですからね。ただ、なんか岐阜を出たかったんですかね。当時は四日市中央工業(以下、四中工)の三羽ガラスの影響はありましたよ。

Q:小倉隆史、中田一三、中西永輔ですね。

A:そうです。しかもユニフォームがまたレトロな感じで、サッカー雑誌にも高校選手権の特集とかでよく載っていたじゃないですか。たぶんその影響だったと思います。ちょうど僕が小学校くらいの頃に小倉さんたちが活躍していたので、その影響が強かったと思います。「このユニフォームがカッコいい!」とか「ここでサッカーをやってみたい!」というような。その時の衝撃が結構ありました。

Q:ちなみに四中工時代は寮だったんですか?

A:サッカー部の下宿みたいな所が点在しているので、そこに入れていただいた感じですね。

Q:親元を離れることに躊躇はなかったですか?

A:そうですね。実家を出ることにほとんど躊躇はなかったです。

Q:もちろん当時の四中工は相当レベルの高いチームだったと思いますけど、入学当初の坪井少年はどういう感じだったんですか?

A:入った時は球拾いと走りだけです(笑) "ネームT"着て。アレがだんだん黄ばんでくるんですよね(笑) ネームTを着て、球拾いと走りをやっていました。

Q:「ちょっとレベルの高い所に来ちゃったな」と感じましたか?

A:それは思っていました。もちろん三重県内でも上手い選手が集まってきますし、同じ学年にも1年生からAチームに入っている選手もいたので、「この先どうなるのかな」と最初は思っていましたね。

Q:どのくらいから「何となくやれるかな」と思い始めた感じですか?

A:思っていたより早く、ちょっとずつ上のチームに上げてもらえたのは覚えています。1年の夏過ぎくらいから1つ上のチームに上げてもらえて、その時の3年生の方々は選手権予選で負けてしまって、早めに新チームに切り替わったので、確かそのタイミングでAチームに上げてもらえたんですよね。

Q:そこからはどんどん自分が上手くなっていくような感覚があったんですか?

A:そうですね。1個上の先輩にも強烈な人がたくさんいたので、何とか必死に頑張っていくと自分も上達するんじゃないかと思って、食らい付いていく感じだったと思います。

Q:それこそ1個上には鈴村拓也さん(デウソン神戸)がいらっしゃって、鬼籍に入られてしまった関本恒一さん(元鳥栖ほか)もいらっしゃって、中村元さん(元Honda FC、FIFA U-17W杯出場)までいて、かなりのタレント集団ですよね。

A:はい。僕は「強烈な先輩方だな」と思っていましたし、本当に楽しかったです。ディフェンダーだったのでスズさんとバチバチ当たったり、セキさんとやり合ったりして。だから、あの時期の自分はとにかく色々なものを「吸収しよう。吸収しよう」という感じでしたね。それから考えると僕らの年の成績は物足りなかったです。

Q:同じ学年には安部裕之(元Honda FC)と野嶋良(元富山ほか)もいたんですよね。

A:そうです。安部と野嶋がいました。野嶋は入学した時からAチームでずっとやっていましたし、彼は別格と言えば別格でしたね。今でも仲は良いですよ。連絡を取ったりします。

Q:同じ学年の中での坪井選手のサッカー面に関する位置付けは、だんだん変わっていった感じですか?

A:最初から考えればそうだったのかもしれないです。当時の四中工には一番下のチームとして"B2"という3軍のチームがあったんですけど、僕はその下の"新人"から始まったので(笑) その"新人"から最終的にAチームの試合に出るというパターンはなかなかなかったみたいなので。でも、ウチの学年には僕を含めてそれが2人いたんですよ。だから、だんだんみんなに認められていく感覚はありました。

Q:四中工時代にご自身が試合に出場した全国大会は、3年のインターハイだけになるんですよね。実際に体感した全国はいかがでしたか?

A:うーん... 何か「あっという間に終わっちゃったな」という感じでした。「何かを残してやろう」という気概を持って行った全国だったんですけど、まったく何も残せず、あっという間に終わっちゃったなと。

Q:初戦で登別大谷にPK負けですね。記憶としては鮮明に覚えてらっしゃいますか?

A:試合自体は鮮明には覚えていないですけど、その前後のことは覚えていることもあります。

Q:どういうことを覚えてらっしゃいますか?

A:僕は初めての全国大会だったんですけど、試合前は「意外と緊張しないで行けるな」という感じでした。でも、試合が終わった後は「何だよ、コレ」みたいな(笑) 「もう全国大会終わっちゃったよ」という脱力感が凄かったです。

Q:宿舎のこととかは覚えていますか?

A:覚えていますね。みんなで泊まって、雑魚寝みたいな感じで寝て。それで、試合会場に行くバスの中は超眠かったけど、「試合前に寝ちゃダメだ」と思ってメッチャ頑張って起きていたのは覚えています(笑) 「試合前に寝ちゃダメ」っていうのありましたよね?

Q:あった、あった(笑) またバスの揺れが良い感じで眠くなるんですよね。

A:そうそう。「絶対に寝ちゃダメだ」って頑張ってました(笑) それは覚えていますね。

Q:ちょっと悔しさの残る全国大会という感じですね。

A:基本的に高校3年の時は悔しい想いばかりでした。選手権も県予選の決勝で負けているので。

Q:僕も決勝で負けたんですけど、高校3年の選手権予選敗退は喪失感が凄いですよね。

A:それは確かボロボロ泣きました。何なんでしょうね、あの高校サッカーの独特の感じ。高校野球もそうだと思いますけど、なんか「1つの人生が終わった」みたいな感覚。あれは凄いですよね。「この先なんて、もう何もできない!」ぐらいの感じですよね(笑)

Q:やっぱりそれだけ懸けていたということですよね。

A:そうですね。やっぱり3年間、練習キツかったですからね。

Q:そこから福岡大学(以下、福大)に進学されることになりますが、四中工から福大というラインは元々あったんですか?

A:いえ、僕が初めてだと思います。

Q:何で福大だったんですか?

A:拾ってもらったんです(笑)

Q:「拾ってもらった」んですか?

A:実は色々な大学に落ちたんです。四中工の先輩がよく行っていた関東の大学も受けて、そういう流れもあったので「受かるだろう」という想いもあったんですけど、結局落ちてしまって。でも、そもそもは高校の時点で「大学には行かずに働こう」と思っていたんです。プロに行けるような状況ではなかったので、JFLでも地域リーグでもどこでもいいから、「働きながらサッカーをしようかな」ということも樋口(士郎)監督に相談していたんですよ。そうしたら樋口さんに「絶対ダメだ」と。「オマエはプロになりたいんだろ?オマエは可能性があるから大学に行け」とおっしゃって下さって。

その時は「いや、大学のサッカーなんて知らないし」と思いましたし、実際に受けたら落ちましたし(笑) でも、僕は今でも樋口さんを凄く尊敬しているんですけど、凄い情熱のある方で11人に対する"熱"が凄いんですよ。それで僕が大学に落ちたら「俺のせいや」とおっしゃってしまって。絶対に受からなかった僕のせいじゃないですか(笑) でも、「俺のせいや」ということで、「何としてでもオマエの進路を決めてやる」と。それで福岡まで僕と一緒に来て下さって、乾(眞寛)監督に「こういうヤツなんです」と紹介して下さって、少し練習参加させてもらってから、乾さんに「面白いからウチに来るか?」と言っていただいてという感じでしたね。

Q:自分ではわからないかもしれないですけど、樋口監督をそこまでさせる何かが当時から坪井選手にあったんでしょうね。

A:そうなんですかね。その当時は全然わからなくて「何で士郎さん、そんなに俺を大学に行かせたいんだ?」とちょっと疑問に思っていましたから(笑)

Q:それも1つの大きなターニングポイントですよね。

A:僕はサッカーを始めたきっかけもそうですし、中学でも高校でも大学でも、ありがたいことに指導者の方々に本当に恵まれてきているのは間違いないです。

Q:お話を伺っていると、プロになりたいという気持ちは高校の時にあったんですね。

A:ちょうど中学の頃にJリーグが開幕して、中学3年くらいの頃にはなりたいという気持ちがありました。

Q:当時の福大は今ほどJリーガーを頻繁に輩出するような状況ではなかったと思いますが、レベル的にはいかがだったんですか?

A:九州ではいつも鹿屋体育大と12を争うチームで、大学選抜に入っている選手が結構いたんですよ。そういう意味では面白いチームだと思っていました。

Q:前線に黒部光昭さん(現・富山強化部長)がいて、CBには高橋直樹さん(元新潟ほか)と吉本岳文さん(ブランデュー弘前FC監督兼選手)がいたと思うんですけど、高橋さんと吉本さんとはポジションが重なりますよね。すぐに試合には出られたんですか?

A1年の時から使ってもらっていました。当時はボランチで出ていたんですよ。CBに高橋さんと吉本さんがいて、僕はその前にチョコンといて、ひたすら相手を潰しているという(笑) 後ろにあの2人がいたので、とにかく動きまくって潰しまくるという感じでした。

Q:1年のインカレで準優勝していますけど、試合には出ていたんですね?

A:はい。ボランチでずっと使ってもらっていました。

Q:大学に入って、いきなり全国大会でそんな所まで行けたというのは、上を目指していく中で非常に大きな経験だったんじゃないですか?

A:大きかったですね。やっぱり福大を選択して入学して、関東と関西の大学がどうしても目立ちますけど、地方の大学からでもしっかり力を付ければ全国を狙って行けるということを感じられたので、「その選択が良かったな」と思えた出来事でもありました。まあ"選択"とか言いながら、拾ってもらっただけですけど(笑)

Q:そうすると福大に対する想いというのも強いですか?

A:そうですね。サッカーも楽しかったですし、大学生活の中で福岡という街自体も凄く楽しかったので、そこは凄く良かったですね。

Q:今から考えればプロに大きく繋がっていく4年間ですよね。

A:そうですね。高校の時よりも遥かにプロが現実味を帯びて行かないといけない時期でしたし、乾監督も自主性を大事にされる方だったので、そこでも色々と学ばせてもらいました。自分から何をやっていくのかということを、目標を定めてそこから逆算しながらやっていかないといけなかったので、そこは非常に自分でも考えながらやっていましたね。まあ多少お酒は飲みましたけど(笑)

Q:今のお話を聞いていると、例えば四中工では"新人"からスタートしたり、大学も拾ってもらったりと、いわゆる"雑草"みたいなイメージで捉えられるのかなとも思うんですけど、そういう風に捉えられることに対してご自身はどう思ってらっしゃいますか?

A:いえ、全然問題ないです。実際にそうだと思っていますから。僕は良いチームと良い指導者に巡り合えたと思っているんですけど、"強い"とか"結果が出ている"というような位置にはほぼいなかったですし、そういった部分で見るとずっと上を見ながら底辺を走ってきたと自分では思っているので、そう言われることに抵抗もないです。意外とプロからの僕しか知らない人は、そういう時代のことを知らないんですけどね。だから、レッズの時も試合に出られなかったり、ベルマーレに来てからも試合に出られなかったりしている時に、「何でそんなに変わらずに努力できるんですか?」と聞かれたこともありますけど、「いや、昔の方がひどかったからな」と思いますから。そう思うと、なかなかしつこくて根の強い"雑草"に育ちましたよね(笑)

Q:最強にしつこい"雑草"ですね(笑) これを最後の質問にしたいと思いますが、お話を伺ってきたような学生時代を辿ってきて、プロにもなって、ワールドカップにも出場された訳じゃないですか。それで今も36歳で現役を続けている訳ですけど、そういう自分のキャリアって気に入ってますか?

A:うーん... 気に入って... 難しいですね(笑) 別に後悔はしていないですけど、気に入っているか、気に入っていないかで言ったら、そんなに気に入ってはいないですね。今となってはという話ですけど、「その時その時でもっと何かできたんじゃないかな」と思っているので。

Q:それはプロになる前も、プロになった後もということですか?

A:そうです。ワールドカップでも「もっともっと良い準備ができたんじゃないか」と思いますし、四中工で選手権予選に負けた時も、他の試合で負けた時も「もっとあの時にこうしておけば」とか「もっとあの時にあれを注意しておけば」というような想いはあります。「もっと努力できたんじゃないのか」と、過去の自分に対して思いますね。

Q:逆にその想いがあるから今でも現役を続けている所もあるでしょうか?

A:そうですね。そういう部分での熱意が、僕の気持ちを持たせてくれているのかもしれないですね。

【プロフィール】

四日市中央工業高、福岡大を経て、2002年に浦和へ加入。すぐに定位置を確保すると、Jリーグ新人王やベストイレブンにも輝き、2006年にはドイツW杯に出場。2015年に湘南へと移籍し、若いチームを豊富な経験と強靭なメンタルで支えている。


※所属チームを含めた情報は、当時のものをそのまま掲載しています。

ご了承ください。

取材、文:土屋雅史

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