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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年03月07日

Pre-match Words ~ベガルタ仙台・渡部博文編~(2016年4月8日掲載)

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【Pre-match Words ベガルタ仙台・渡部博文編】

(2016年4月8日掲載)

Q:昨シーズンとの一番大きな違いはセンターバックのパートナーが平岡(康裕)選手に変わったことだと思いますが、平岡選手との関係性はいかがですか?

A:僕が連携で一番大事にしていることはコーチングなんですけど、後ろの選手が声を掛けることで、チームの前線の選手というのは本当に迷いなく守備ができると思うので、そういった所では平岡さんと声を掛け合いながら守備ができているのかなと思っています。

Q:2人ともエアバトルも強くて、ラインコントロールもできるタイプだと思いますが、それぞれのプレーの棲み分けはどのように話し合っていますか?

A:具体的にチャレンジアンドカバーを明確にすることです。僕たち2人の関係性もそうですけど、ボランチであったりサイドバックであったり、僕たちからしたら隣の選手になるべく良い声を掛けてあげることで、連携を取って良い守備をさせるという所が今2人で話し合っている所なので、そういった所はリーグ戦でももっともっと高めていきたいなとは思っています。

Q:仙台の4バックには比較的センターバックタイプの4人が並ぶことも多いと思いますが、そのあたりは実際にプレーしながら何か感じる所はありますか?

A:今年から入った大岩(一貴)選手に関しても、センターバックをやっていたことが多い選手ですが、実際にサイドバックをやってみると運動量も多いですし、果敢にゴール前に行く機会も多いので、チャンスを創れる選手でもあると思いますし、あまりセンターバックが多いからというのは気にしてはいないですね。

Q:今シーズンの仙台を見ていると、おそらく自分たちが理想としているよりは攻撃に掛けられるはずの時間が掛けられていないんじゃないかなという印象があるのですが、そのあたりはいかがですか?

A:実際にまさにその通りで、奪った後にパスミスをしてしまったりとか、自分たちがボールを握る時間というのがもうちょっとあっても良いのかなと思っていますし、それをより意識してマイボールにする時間が長くなることで、自分たちのテンポもできてきますし、相手も嫌だと思うので、もう少しリーグ戦でよりボールを長く握れる時間を創っていきたいなとは思っていますね。

Q:いくつか要因はあると思いますが、自分たちがボールを握り切れない要因というのは、後ろから見ていてどういう所に感じてらっしゃいますか?

A:一番は奪った後のファーストボールが少し雑になっているというか、もう少し1つ目のパスを大事にすれば、次の展開がより効果的になるのかなと思うので、そこのファーストボールをより丁寧にすることを全員が意識することが大事ですね。

Q:そういう意味で考えると後ろからのビルドアップ能力も大事になってくると思いますが、そのあたりは渡部選手も自信のある部分ではないでしょうか?

A:そうですね。ここ最近の試合でもクサビやサイドチェンジというのは自分の中でも狙っている所なので、迷いなくやろうとは思っていますね。

Q:鳥栖戦(2016年ナビスコカップGS第3節 △1-1)は少しメンバーも変わった中で、終盤に追い付いての勝ち点1獲得でしたが、その勝ち点1はかなり価値のあるものだったという印象ですか?

A:そうですね。前半に失点してしまった所をまず課題として挙げたいのですが、あの状況で1-1に持って行けたというのは、広島戦を考えれば成長に繋がるのかなと思いますね。

Q:後半の頭から出場するというのは、センターバックとしてなかなかないシチュエーションだと思うんですけど、少し難しさはありましたか?

A:実際にあまりそういったケースがないので、前日はかなりイメージトレーニングをして臨みましたけど(笑)

Q:そのイメージトレーニングはかなり生かされたという感じですか?

A:そうですね。ディフェンダーでフレッシュな選手だったので、なるべく声を掛けて周りを助けようとは思っていましたね。

Q:鳥栖戦はゴールキーパーの石川慧選手が出場することに対して、周囲もかなり注目していたと思いますが、実際に一緒にやってみていかがでしたか?

A:落ち着いていたとは思います。というか、自分に「落ち着け」と言い聞かせていたと思いますね。それがプレーにも出ていたと思いますし、実際にビッグセーブも2回か3回ぐらいあって、前半から自分の中でビッグセーブをしたことで試合にも入れたと思いますし、本当にこのナビスコカップで成長できるんじゃないかなと思っています。

Q:1シーズンの中で、しかもこの序盤で3人のゴールキーパーと公式戦で一緒にプレーするというのはなかなかないことだと思いますが、それぞれゴールキーパーによって特徴を考えながらプレーはかなり変えてらっしゃいますか?

A:もちろん変えていますね。キーパーの特徴は本当にさまざまで、キック力であったり、質であったり、ハイボールであったりという所は考慮しながら、「自分たちがなるべくハイボールは出よう」とか、「キーパーの声をなるべく聞こう」とか、そこはセットプレーの練習から声を掛けていることなので。でも、慧が何よりも昨日は自信を持ってやっていたので、そこはチームとしても自信を持てた所ではありますね。

Q:正直ちょっと難しさもありますか?

A:難しさもありますね。やっぱり迷っている人は顔に出るんですけど、そういった所が昨日の慧には見られなかったので、「迷いなくできているな」というのは感じましたね。

Q:去年もずっとレギュラーで試合に出られていて、今年も公式戦はほとんどの試合に出られていますが、試合に出続けることで中心選手としての、あるいはディフェンスリーダーとしての自覚はどんどん増してきていますか?

A:そうですね。やっぱりこのチームに来た時から、そういった強い気持ちで臨めば最初にスタメンも取れるだろうし、さらにJリーグでも上位を目指せるだろうとは思っていましたし、まずは試合に出続けることが自分の中の最大の目標だったので、チームにはうまく最初から入れたのかなと思いますね。

Q:鳥栖戦は後半からキャプテンマークを巻かれていましたが、キャプテンマークはいかがでしたか?

A:先頭を切って声も出したいですし、プレーもしたいですし、元々キャリア的にキャプテンだったことが多いので、あまりそこは気にせずに自分なりの仕事をしようと思っていました。

Q:むしろやりたかった感じですか?

A:やりたかった感じですね。

Q:実際に45分を終えてみて、やり切った感みたいなものはありましたか?(笑)

A:もうキャプテンをやるというのも聞いていたので、色々なイメトレをしてちょっと疲れましたね(笑)

Q:結構イメトレをするタイプなんですか?

A:前日にとりあえず1試合終えますね。かなり具体的にやりますよ。キックの質とかクロスの質とかをイメージしながら、自分はどこに戻ってとか、この選手はこのタイミングでクロスを上げてくるとか、こういう選手はこういうドリブルをしてというのはイメージしています。

Q:それって実際の試合とどれくらい合致していますか?

A8割くらい合致しています。今年はそのイメージ通りプレーできているシーンというのが多くて、インターセプトもできていますし、ヘディングのハイボールでもそこまで負けるシーンはないかなと思っています。

Q:残りの2割の合致しなかった部分で、何か印象に残っていることはありますか?

A:広島戦(2016年J1 1st-第5節 ●0-3)のようなアクシデントというか、ああいうことが起きる部分ですね。アクシデントは想定するんですけど、もちろん想定し切れない所があるので、ああいった時にどうチームを立て直そうかという切り替えの部分に自分で持って行くことが今は難しいです。

Q:結構事前に準備しておきたいタイプですか?

A:そうですね。万全にしておきたいタイプです。

Q:そういう中で想定外のことが起きた時にも、比較的きっちり対応できるタイプですか?

A:この間は1-0で負けている時に立て直せなかったので、もっと何人かにでもいいので「ボールを握ろう」とか声を掛けて、「今はこういう時間帯だ」というのを明確にしていたら、もっとチームの連動や連携が取れたのかなと思いますね。

Q:今回はホームゲームですけど、ユアスタはいつ来ても本当に良いスタジアムで、サポーターも素晴らしい雰囲気を創り出してくれると思いますが、改めてユアスタというスタジアムはいかがですか?

A:ユアスタはベガルタの聖地であると思うんですけど、今は東北唯一のJ1チームという意味では東北の聖地と言っても過言ではないかなと思っていて、ああいうサポーターが創り出してくれる空気というのは本当に鳥肌も立ちますし、そういった空気や環境でできるというのは幸せなことなので、今立っているピッチで本当に勝利したいという気持ちをもっと前面に出していきたいなと思います。

Q:ここからはキャリアのことをお聞かせ下さい。ちょっと別のインタビュー記事で拝見して、「そんなサッカーの始め方なんて聞いたことないな」と思ったんですけど(笑)、改めてサッカーを始めたキッカケを教えていただけますか?

A:ウチの5つ上の姉が好きだった男の子がサッカーをしていて、僕はその当時野球をしたかったんですけど、ある日姉に「野球をしたい」と言ったら「いや、ダメだ」と。「オマエはサッカーをするんだ。これからはサッカーの時代が来る」という名言を残され(笑)、それで泣く泣くサッカーを始めたのがキッカケですね。

Q:野球は本格的にやらないまでも、小さい頃からやっていたんですか?

A:やっていましたね。近くでやっていたスポーツ少年団に、入ってはいなかったですけど一緒に混ぜてもらったりしていました。

Q:好きなチームはありましたか?

A:もう巨人のみですね。

Q:好きな選手とかいましたか?

A:バントの名手の川相さんですね。ああいう"いぶし銀"みたいな選手がメッチャ好きでした(笑)

Q:今でも結構野球は見られるんですか?

A:楽天と巨人、阪神ぐらいはチェックしていますね。

Q:小学生の頃に5つ上ということは、お姉さんは中学生ですよね。ちなみにサッカーをやっていた人との恋は成就したんですか(笑)?

A:してないですね。早い段階でダメだったみたいです(笑)

Q:でも、そこで弟にサッカーをやらせようなんて相当必死ですよね(笑)

A:そうですね。そこでサッカーの知識を得たのか、"壁当て""リフティング""ドリブル"の練習の3つは「欠かさずやれ」と(笑) 「学校から帰ってきたら2時間はやれ」と言われて。でも、夕方の4時ぐらいに帰ってきて、2時間もやっていると暗くなってくるんですよ。それを結構忠実に週4くらいで守っていました(笑) やっぱり5つ上ぐらいだと怖いんですよ。だから、それはマジメにやっていたんですよね。

Q:とはいえ、結果的にそれでサッカーが上手くなっていったということですよね?

A:そうですね。気付いたら小学2年でリフティングも80回くらいできるようになったりしていましたし、当時は夢中でやっていました。

Q:今になってお姉さんに感謝していたりしますか?

A:「感謝しなさい」って言われます(笑) 「上からだなあ」と思いますけど(笑)

Q:長井サッカースポーツ少年団に入られたのが小学3年の時ですね。少年団は強かったんですか?

A:県内では強かったと思います。常に上位を争っているチームでしたし、上の世代は何回か全国まで行っていたみたいですけど、僕たちは行けなかったです。良い選手は揃っていましたね。

Q:小学校の頃の県内でのちのJリーガーになったようなスーパースターはいたんですか?

A:それがいないんですよ。もちろんスーパースターはいましたけど、プロにはなっていないです。同じチームにもスーパーな子はいましたし、県内で中学までスーパースターでマリノスのユースに行った選手がいたりとか、ユースに行く人も増えて行った時代ですね。

Q:渡部選手は小学校時代から県選抜に入っていた感じですか?

A:入ってました... いや、入ってないですね。呼ばれたんですけどグレてたんで(笑)、「そういう集団とかあまり好きじゃねえし」みたいな。山形FCという県内で一番強いチームがあって、そこのチームの人たちが県選抜に主力として選ばれる訳じゃないですか。その集団の今で言うユースみたいな仲良し感が好きじゃなくて、呼ばれても断っていましたね。「オレはいいっす」みたいな(笑)

Q:中学は長井南中学のサッカー部ですね。モンテディオもジュニアユースはあったと思いますが、中学のサッカー部を選んだ理由は何かあったんですか?

A:いえ、何もないです。長井小学校を卒業したので、長井南中学校にそのまま入学しただけです。ただ、「長井南中でサッカーをしたい」という気持ちはありました。県内では強いサッカー部でしたし、クラブチームもそんなにない時代でしたからね。

Q:県内で優勝もされていたとのことですが、それは全国大会に繋がる大会ですか?

A:繋がる大会だったんですけど、全国の前に東北大会があるので、そこで負けちゃって全国には行けなかったんですよね。県で優勝したのも本当に何十年ぶりという感じだったみたいです。

Q:その頃はまだ攻撃的なポジションだったんですよね?

A:トップ下です(笑) ひたすらスルーパスを狙う系でした。その時にチームメイトだったフォワードの選手が、陸上の100メートルの東北大会で2位とか3位に入っちゃうようなメチャメチャ足の速いヤツで、その選手をどう生かすかというのを常に考えてプレーしていました。背番号は7番とか8番が多かったですね。

Q:自分のトップ下の才能に手応えは感じていたんですか?

A:メチャクチャ感じてましたよ(笑) 楽しくて仕方なかったです。僕が蹴ったら、その足の速いヤツが追い付くので、実際に凄かったのは僕のセンスというより彼の足の速さだったと思うんですけど、本当に蹴ったら追い付くから気持ち良かったですね。

Q:その頃は県選抜に入っていたんですよね。

A:そうですね。その時も1回グレたんですけど(笑)

Q:結構グレてますね(笑)

A:ですね(笑) それも小学校の頃の感じを引きずったままで、練習に参加はしたんですけどね。所属チームでやる分には「引っ張ろう」と思いますし、自分が先頭に立ってやっていたんですけど、選抜で違う空気が入ってくると「ちょっとオマエ、違うだろ」とか思って(笑) 若気の至りです。

Q:長井市と山形市はそんなに近くないと思いますけど、山形中央高校を選ばれたのはどういう理由からですか?

A:理由は本当に作り話ではなくて、当時の選手権予選に出ていた菅井直樹のテレビ映像を見て、あの人が結構遠めからロングシュートを決めたんですよ。それが「超カッコイイ!」と思って、中学の先生の所に行って「オレ、中央に行きます」って(笑) それが衝撃的で。ちょうどテレビを見ていた時にスーパーシュートを決めたんです。そのゲームが間違いなくキッカケでした。

Q:学年で言うと、渡部選手が中学3年の時に菅井選手が高校3年ですよね。

A:そうです。だから僕が入学してもいないのはわかっていたんですけど、とにかく山形中央でやりたいと思いましたね。凄く魅力的なサッカーをしていて、上手い選手もいっぱいいて、「面白そうだなあ」と思いました。

Q:ちなみにそのことは菅井選手に話されたんですか?

A:いや、さすがに本人に話したことはないです。でも、ロングシュートの話はしました。本人にも記憶はありましたよ。でも、それが山形中央に入るキッカケになったとは言ってないです。

Q:じゃあこれは載せない方が良いですか?(笑)

A:大丈夫です。仙台に来て取材を受けた時に何回か言っているので(笑)

Q:あえて本人には言わないんですね。当然菅井選手とは重なっていないとはいえ、高校の先輩後輩という関係ですけど、それはプロになった今でも変わらないですか?

A:先輩後輩というよりも、今はプロなので1人のプロの選手として尊敬している選手という目線ですね。

Q:山形中央での3年間は今から振り返るといかがでしたか?

A:「サッカーに没頭していたな」という感じですね。チームでの朝練はなかったんですけど、自主的に朝練をやって、夜も練習が終わってから自主練をやってという感じでした。夜の9時にグラウンドの照明がパッて消えるんですけど、「ああ、もう終わっちゃうのか」って。それで帰り道に「サッカーやりたいな」と友だちと話すみたいな(笑) そのぐらいサッカーをやりたかったですね。

Q:高校の最初の頃はまだトップ下ですか?

A:いえ、もうボランチでしたね。たまにセンターバックとか。高校1年の夏ぐらいからスタメンで出るようになって、選手権予選も出ていました。

Q:それは自分でも納得していましたか?

A:納得していました。中学の時もチームの監督は「前で使いたい」と言ってくれていたんですけど、他のチームの監督やコーチは「あの選手は後ろだろ」みたいな。「あんな大きな選手を後ろで使わない手はないだろ」みたいなことを言っていたみたいです。でも、高校2年や3年の頃はアンカーのような守備的な位置をやることが多かったですね。

Q:高校3年の時はインターハイも選手権も全国に出ていますよね?

A:そうですね。天皇杯も県の代表で出ました。

Q:インターハイは初戦で中京大中京と対戦されていて、調べたら伊藤翔(横浜FM)がいたんですよね。

A:そうです。噂は聞いていたんですけど、実際に対戦してみて「ああ、この子だけ違うな。とんでもないヤツ来たな」とは思いました。やっぱり裏に飛び出すタイミングとか、ドリブルの仕方とかも自分たちの世代ではあまりいないタイプだったので、「凄い選手だったな」という記憶はあります。試合はPK戦で負けてしまったんですけど、内容はほぼ互角というか、カウンター合戦だった感じでしたね。

Q:その頃には全国も経験されて、「自分も上のレベルでやれるぞ」という手応えを掴み始めていた頃でしょうか?

A:そうですね。同じ高校の世代の中では少しずつ手応えは掴んでいましたし、実際にレイソルがシーズン中に新潟でやったキャンプにも参加させてもらいました。その時に確かFCホリコシと練習試合をやって、アマラオとマッチアップしたんですよ。それでアマラオにチンチンにされて心が折れて、「オレ、やっぱり大学に行きます」ってなったんです(笑) アマラオもサッカー選手としては年齢的に下り坂だったとは思うんですけど、それでも手の使い方とか巧くてヘディングも全然勝てなくて、「何だ、この選手」と思って挫折しました。『アマラオで挫折』です(笑)

Q:ということは、そこまでは自分の中でも「プロでもやれるかな」と思っていたということですか?

A:そうですね。自分の中では凄く大きなチャレンジでしたし、「この練習でスカウトの人に見てもらおう」と思ってがむしゃらにやりました。でも、しっかり折られましたね(笑)

Q:ちなみにどういう経緯でレイソルから練習参加の声が掛かったんですか?

A:高校の監督が下平(隆宏)さんと繋がっていて、下平さんがその時はまだ現役を辞めて1年とか2年ぐらいの頃でスカウトだったので、それで声を掛けてもらってキャンプに参加しました。

Q:その人とこの間のナビスコカップで選手と監督として対戦した訳ですよね。

A:そうですよ。シビれましたね。今から考えればシモさんとは高校時代から長い間繋がっていますし、そういった意味でも凄く気持ちの入ったゲームでした。

Q:だいぶイメトレしていった感じですか?(笑)

A:相当していきました(笑) でも、イメージしやすかったですよ。レイソルの選手はみんな特徴も性格もわかっているので、それは凄くイメージしやすかったですけど、シモさんがトップチームで監督をしていることに少し違和感もありましたし、「こんなに早いタイミングでシモさんとやれるんだ」という感じもあって、不思議な感じでしたね。

Q:そう考えると凄い縁ですよね。

A:レイソルはシモさんに限らず「凄く縁があるな」と思いますね。シモさんがスカウトを辞められて、僕が大学3年の時に声を掛けてもらった佐々木(直人)さんという方がいて、その方もたまたま「良い選手がいる」ということで僕に声を掛けてくれて、それがたまたまレイソルだったんですよね。佐々木さんは僕がシモさんに呼んでもらって高校時代に練習へ参加していた経緯も知らなかったので、偶然レイソルのスカウトだった人が見てくれて、声を掛けてくれたということで、僕の中では大学時代はずっと「レイソルで活躍したい」という想いしかなかったですね。

Q:そういうチームと対戦して勝ったりするって最高ですよね。

A:シビれますよね。最高ですよ。去年は3回やって引き分けか負けしかなかったので、ようやく勝てました。

Q:大学時代は専修大が関東1部のリーグ戦で優勝し始める少し前の時代だったと思いますが、専修での4年間はいかがでしたか?

A:ひたすらキツかったですし、ひたすら楽しかったです。

Q:その相反しそうな2つは結び付くんですね。

A:結び付きますね。僕が4年の時は勝てない時期が多かったですけど、2年、3年と2部から1部に上がって、1部で6位に入って、自分たちでも凄く手応えを掴めた試合が多かったんです。僕の1個下の代には凄い選手が多くて、高山薫(湘南)とか藤本修司(VONDS市原)とか良い選手が揃っていたので、こっちもやっていて楽しかったですし、後ろから見ていて「みんな上手いなあ」って(笑) 「オレ、センターバックになって良かったなあ」って思ってました。実は源平(貴久)監督に自分から「センターバックをやりたい」って言ったんですよ。上手い選手が多かったので「これは中盤をやっていても生き残れないな」と思って、「オレはもう守備に生きる」とセンターバックを自分から志願しました。

Q:センターバックにはすぐに手応えを感じていましたか?

A:いえ、まだまだでしたね。元々ボランチだったので繋ぐ意識が高くて、どちらかと言うとそっちに寄っちゃって、守備もそんなに好きではなかったので、前に出て行ったり1人かわしたりとかが好きでしたね。

Q:大学3年生の時には柏の特別指定選手にもなっていますし、関東1部のベストイレブンにも選ばれていますが、この時期はプロを目指す上でもかなり重要な時期だったなという感じでしょうか?

A:この時期は正直難しかった所もあって、年間通してレイソルと大学をずっと行き来していて、週に3回か4回はレイソルに行って、大学にも行ってリーグ戦を戦ってという繰り返しでしたし、レイソルのサッカーと大学のサッカーも全く違いましたからね。でも、大学に行ったら大学のサッカーをしなくてはいけないですし、プロに行ったらプロに合わせないといけないですし、自分のスタイルが確立できない年でもありましたね。本当に難しい時期でした。充実感はあったんですけど、頭が付いていかなかったです。

Q:その中でもプロでやっていきたい気持ちは高まっていましたか?

A:そうですね。練習でスピードに慣れ始めたあたりで「絶対プロでプレーしたいな」と思っていました。

Q:先ほども少し言いましたけど、専修大は渡部選手の卒業後に急激に強くなった感じでしたが、やっぱり専修に行って良かったなと思いますか?

A:思います。源平監督とコーチのブチさん(岩渕弘幹コーチ)がサッカーだけを見るのではなくて、私生活やその人の態度や振る舞いというのをしっかり見て、そこを指導してくれたというか、理不尽なこともたくさんあったんですけど、それすらも理解しろと。「オマエが今こういう風になった状況を自分で考えろ」というスタイルだったので、やっぱりそれを考えられなかった選手は落ちて行きますし、考えた選手は生き残りますし、そういう世界である意味での"縦社会"を作ってくれたので、私生活から気を抜けなかったというのはありました。学生だけど「自分で考えろ」というスタイルは良かったですね。

Q:これを最後の質問にしたいと思いますが、今考えている夢ってありますか?

A:ありますね。

Q:聞いても良いですか?

A:世界に通用するプレーヤーになりたいです。

Q:具体的なイメージはありますか?

A:レイソル時代はACLに出る機会が多かったので、まずはそういう所でスピードやフィジカルで通用する自分のプレーを見せ付けるというのはずっと意識していました。プレミアリーグへの憧れもありますし、それを憧れだけで終わらせるのではなくて、「自分の中で設定した高い所を見据えてチャレンジしたいな」という気持ちもありますし、世界で通用するプレーヤーになりたいなと思っています。

Q:外から目に見える日本代表やプレミアリーグに到達するという部分と、自分の中に設ける「世界に通用する」という基準の部分があると思いますが、その両方を満たしていきたいという想いでしょうか?

A:まず世界に通用するプレーヤーを目指すことで、代表というのは自ずと付いてくるのかなと思っていて、実際に試合に出続ければ「代表の監督も見てくれている」と僕は信じていますし、その上で代表という目標よりもさらに上を目指して高い目標を作ることで、自分が引っ張られるというか、自分がそこに自然と向かって行けるのかなと思っているので、今はそういう目標を掲げてやっています。

Q:手応えは掴みつつありますか?

A:手応えは掴みつつあります。でも、まだまだ、まだまだですね。対面するフォワードをもっともっと圧倒しなくてはいけないですし、それを目に見える形で数字としても残さなくてはいけないですし、それができなければたぶん代表には届かないですよね。そういった所で自分の中でどんどんプレッシャーを掛けて行けば、自分としても成長していけるかなと思います。

Q:そこもイメトレが大事ですね(笑)

A:大事ですね(笑) いつ、どんな時に呼ばれても良いようにしたいと思っています。

【プロフィール】

山形中央高、専修大を経て2010年に柏へ加入。期限付きで移籍した栃木で試合経験を積み、復帰した柏では2013年元旦の天皇杯決勝でゴールを叩き込み、優勝に大きく貢献。2015年に仙台へ移籍。現在はディフェンスリーダーとして最後尾からチームを支えている。


※所属チームを含めた情報は、当時のものをそのまま掲載しています。

ご了承ください。

取材、文:土屋雅史

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