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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
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【Pre-match Words 大宮アルディージャ・塩田仁史編】
(2016年4月1日掲載)
Q:開幕戦は相手がFC東京(〇1-0)で、会場も味の素スタジアムで、塩田選手にとっても非常に特別なゲームだったと思いますが、今から振り返って開幕戦はいかがでしたか?
A:対戦が決まってからはずっとキャンプの時から「(開幕戦の相手は)東京ですね」と言われていましたし、正直期する想いというか色々な想いがありましたけど、そこをどう自分の中で抑えながら良いパフォーマンスを出せるかというのをずっと自問自答しながらやっていましたし、本当にそこまで行くのに大変でしたね(笑) 長かっただけに。
Q:なかなか一筋縄で語れるゲームではないと思いますが、あの日の味の素スタジアムで勝利したということに関しては率直にいかがでしたか?
A:J1に上がってきて戦うという初戦だったので、勝ったことは本当に嬉しかったですけど、試合前にも言っていたように、正直今は大宮のサポーターの悲しむ顔も見たくないですし、東京のサポーターの悲しむ顔もあまり見たくないというのが本音の所だったので、複雑ではありました。でも、プロとして勝つことを求めて行くのが仕事なので、勝ち点3という結果については満足しています。ただ、気持ちの中では複雑でした。
Q:僕はテレビで拝見していたんですけど、一度大宮サイドのロッカーに下がったように見えて、次に画面に映った時には東京のサポーターに挨拶されていました。あれはどういう流れだったんですか?
A:「どこかのタイミングで挨拶は行きたいな」と思っていて、東京を出る時もスタジアムでみんなに挨拶してチームを後にできれば一番良かったですけど、移籍が決まったのも年末でしたし、練習グラウンドでみんなとお別れはしましたけど、スタジアムではできていなかったので、どこかのタイミングでとは思っていました。ただ、ゲーム前というのは集中していますし、勝つことだけを考えて準備していたので、「そのタイミングじゃないな」と思っていましたし、ゲームが終わってからいつもロッカーに下がると監督の話があるので、その話までしっかり聞いて、それから東京のサポーターの所に行こうと思って、あのタイミングで行きました。
Q:前に所属していたクラブのサポーターからあれだけの拍手をされることはそうそうあることではないと思いますが、ああいうのは選手冥利に尽きるという感じですか?
A:そうですね。正直嬉しかったですし、あのサポーターの所に行った時だけじゃなくて、後半が始まる時に、東京側のゴールマウスの方に走って行った時に、自然と東京のサポーターの方から拍手が来て、その時も本当に結構グッと来ましたけど(笑) 色々な想いのある中でサポーターの方々もそうやってエールを送ってくれたことに感謝したいと思いますし、それと共に大宮のサポーターの人たちも、あの試合が終わった後にグラウンドで話したりすると「良く向こう側に行ったね」とか「偉いね」とか言ってくれたんです。大宮のサポーターはそういう心の広いサポーターでもありますし、両方のサポーターに本当に感謝したいなという感じですよね。
Q:外から見ていると大宮のGKは加藤順大選手と塩田選手が高いレベルで争っていて、さらに今日の練習を見ていると松井(謙弥)選手も加藤有輝選手も十分良い選手ですし、GKという1つしかないポジションの争いをずっと続けてきていると思いますが、そういう中にずっと身を置き続けていると神経的には相当擦り減って行くものですか?
A:擦り減ってもうちょっとになってきちゃっていますかね、神経(笑) みんなどうなんですかね。やっぱり疲れる時は精神的に疲れる時もありますし、浮き沈みもあると思います。でも、みんな立ち上がって「やれることをやろう」と思ってやっていると思うんですけど、ここに来てからの2年は出ている時も出ていない時も正直凄く充実しています。
良い雰囲気と言っても慣れ合いではないですし、楽しい雰囲気ともちょっと違うなと思うんですけど、そこはここ2年で凄く"良い感じ"というか、レベルも高くやれていますし、別に妥協している訳でもなく激しくやっていますし、お互いリスペクトし合ってやれているという部分では凄く充実してやっています。それにまた今年は(松井)謙弥と(加藤)有輝が入ってきて、謙弥なんてオリンピック代表や各年代の代表に入っていてもちろんレベルは高いですし、有輝も各年代の代表に入っていてポテンシャルを持っていて、まあ大変ですね(笑) 大変です。みんな上手いから(笑)
Q:GKは「変わった人が多い」と言われがちですけど、実際にそう思いますか?
A:自分で気付かないから変わっているんですかね?(笑) わからないです。その中でもマトモな方とは言われるんですけど(笑)キーパーの集団の中にいつもいるから、あまりわからないです。どちらかと言えばキーパーには「結構ストイックな人が多いのかな」という印象はありますけどね。フィールドの選手は「アイツら変わってるな」と思っているんじゃないですかね(笑) よく言われるのは「キーパーよくやってるな」みたいな。「絶対やらないよね。痛いし怖いし」とか。「その時点で変わってるよね」とかよく言われますよね。「ああ、そうか」と。
Q:もう塩田選手ぐらいになると「痛い」とか「怖い」とか考える領域ではないですよね?(笑)
A:そうですね。あまり考えないですね。「近くからシュートを打たれたら怖くないの?」とかよく言われますけど、怖くはないですね。恐怖を感じるフォワードもいるんですけど、それは違う目線で見て「怖いな」と思います。キーパーが恐怖を感じちゃうぐらい凄いヤツというか。「人の血ねえんじゃないか?」ぐらいの、凄い至近距離からフルスイングで打ってきたりとか。そういう時は「いや、これは怖いな」と思いますし、チームメイトだったら「ふざけんな」と思いますけど(笑)、相手だったら「メッチャ怖いな」と思いますね。
Q:そういう選手ってパッと思い浮かびますか?
A:僕が怖かったのはマルキーニョス。あの人は練習でもフルスイングでした。マリノスの特別指定選手の時に練習でも一緒にやったことがあるんですけど、ガチでフルスイングでした。でも、そういった所が「ストライカーなんだな」と思いました。この間の広島戦で決められた浅野(拓磨)君もフルスイングでしたよね。僕も止めなくてはいけない立場だから「凄い」とは言えないんですけど、斜めから抜けてきて「凄く腰が切れるな」というか、それでフルスイングで天井を抜かれたので、本人に「狙ったの?」って聞いたんですけど、「思い切り上を狙って振り抜きました」と言っていて、「ああ、やっぱりそういう頭なんだな。ストライカーだな」と思いました。
どうしてもああなるとキーパーは下が気になりますし、「下だったら全部止めてやる」とは思っていましたけど、急角度であの至近距離でグンと上に打たれたから、「ああ、ストライカーだな」って。結構ああいうシュートを打つのは外国籍選手とかに多いですけど、日本人で打つ選手はあまりいないですね。フロンターレにいたジュニーニョとかもそうですよ。至近距離からトーキックで急角度にシュートが上がって行くんですよ。キーパーって絶対に相手が近くなればなるほど体を縮めて、低い所を抜かれないようにするじゃないですか。それを上に急角度に行かれるんで。あれは凄いなと思いました。
Q:ここからは昔の話をお聞きしたいと思います。サッカーを始めたのは日高サッカー少年団ですね。どういうキッカケでサッカーを始められたのでしょうか?
A:僕も野球をやったりサッカーをやったり色々やっていたんですけど、「サッカーをやるの?野球をやるの?」という二択を両親に迫られて、たまたま近所のお兄さんの影響でサッカーに進んだというのが最初です。でも、2年生の最初にサッカーを始めた時は野球もやっていました。
Q:渋谷さんも吉田達磨さんも野球もサッカーもやっていたと話してましたよ(笑)
A:そうなんですか。みんな二択を迫られているんですね(笑) でも、その時の僕は2年生にしては運動能力がずば抜けていたので、野球のコーチとサッカーのコーチの取り合いみたいな感じでした。野球ではピッチャーをやっていましたし、サッカーもフォワードをやっていたので。最終的にはサッカーの方が動くから楽しかったんだと思います。
Q:ポジションはフォワードだったんですね。
A:フォワードか昔で言うトップ下みたいな所でした。
Q:チーム自体は結構強かったんですか?
A:強かったですね。少年団の単独チームは、6年生の時に県で3位になりました。よみうりランドは選抜チームで行ったんですよ。
Q:ああ、全少に出られているんですね。
A:出ています。ベスト16で負けましたけど、小学6年の時に出ました。それは日立SSSという市の選抜チームでした。
Q:全少の予選は日高サッカー少年団も出ているんですよね?
A:いや、出ていないんですよ。日立市は日立の選抜で予選に出ていて。でも、鹿島町のチーム、今で言う鹿嶋市も鹿島町選抜とか、古河市からは古河市選抜とか、みんな選抜チームで予選に出ていましたね。それにクラブチームもあったので、それも含めて予選に出てという感じでした。
Q:全少で対戦したチームにのちのJリーガーはいたんですか?
A:もう引退してしまったんですけど藤田泰成です。泰成とは対戦していたらしいです。「らしい」というか、アイツはFC東京にいたんですけど、高知の出身なんですよ。それで食堂で何気なく全少の話になって、泰成が「ああ、オマエ出てるんだ」って言って、僕が「出てるよ、日立で」って言ったら、「えっ?俺、大方FCなんだけど」「あれ?予選でやったよな」って話になって(笑) そこで初めて知ったんですよ。お互いの記憶は全然ないから、対戦相手の名前しか覚えていなくて、「ああ、いたんだ」みたいな。それでFC東京でチームメイトになるなんて凄いですよね。ナオもそうですよ。石川直宏も小学校の関東選抜で一緒になって、そこからずっと会わなくて、FC東京で久々に会ったら向こうも覚えていて。
Q:じゃあ小学校の頃にはもう関東選抜に入っていたんですね。
A:はい。入っていました。関東選抜のセレクションに行きました。検見川に行って、加藤久さんとかが教えに来ていました。
Q:その時の関東選抜にものちのJリーガーがいたんじゃないですか?
A:いると思います。その時はナオと田中光男って昔大宮にいたんですけど、FC邑楽の選手で田中伸男・光男という双子でした。あとは小松原学もいました。FC邑楽は強かったですからね。
Q:中学は滑川中サッカー部ですね。ここは普通のサッカー部ですか?
A:普通のサッカー部です。ここが僕の中では結構大変でした。少年団は強かったですし、良いコーチもたくさんいた中で、中学校の時の先生とは今でも連絡を取ったりするんですけど、美術の先生でちょっとしかサッカーをやったことのない方だったんです。あとは色々な仕事もあったので選手間で練習を決めたりすることが多くて、僕はトレセンに行っていたので、そこでの練習を持ち帰ってきて練習をしていました。あとは中学からサッカーを始めたヤツも多かったんです。
僕の住んでいた地域は日立製作所の影響が大きな所で、日立グループの関係で子供が多かったんですよ。それで日高小学校から分裂して、田尻小学校という全校生徒1000人くらいのマンモス校ができて、僕は田尻小学校だったんですけど、そこには少年団がなかったんです。それで日高サッカー少年団でサッカーをするために、日高小学校までボールを蹴りながら30分か40分くらい歩いて通っていたんですよね。田尻小学校の生徒はそこから日高中学校と滑川中学校に分かれるんですけど、僕は滑川中学校だったので滑川小学校から来た子たちと一緒になりました。だから、チームメイトは小学校時代に一緒にやっていなかった子たちでしたし、なおかつサッカー未経験者が多かったので、最初の新人戦の時は市の大会で1回戦負けだったんですよ。
そのギャップは凄かったですね。もちろんGKコーチもいませんでしたし、いわゆる"ヤンキー校"の終わり掛けぐらいの頃だったので(笑)、怒られることもいっぱいありましたからね。僕はトレセンに行っていて、月に1回くらいはある程度レベルの高い選手たちとやれたので、その練習を持ち帰ってみんなで一生懸命やっていました。でも、最後は市の大会を勝ち抜いて県大会でベスト8まで行ったんですよ。市内も確か14校ぐらいあったと思いますけど、そこを勝ち抜いて県でベスト8まで行ったんです。
Q:それって凄い成長ぶりですよね。
A:そうなんですけど、東京にいる時はこんな話をしても、周りが凄い実績のヤツばかりだったので華やか過ぎて「オマエら、こんな苦しみわかんねえだろ」みたいな(笑) 各世代の日本代表みたいなヤツばかりですからね。
Q:聞き忘れましたけど、小学校の頃はもうGKを始めていたんですよね?
A:キーパーはやっていたんですけど、少年団ではずっとフォワードだったんですよ。日立選抜ではキーパーだったんです。日立選抜は結構なセレクションがあって、日立市は大きくて子供も多いので、北、中央、南、西とかに分かれて選抜が組まれて、そこから30人ぐらいになって、最後は15人になるんですけど、最初はフィールドで選ばれていたのに、風邪でキーパーが練習を休んだ時に僕が遊びでキーパーをやったら「上手いね」となって、そのまま全少は予選からキーパーで出て勝ち抜いて、全国大会もキーパーで出ました。
でも、少年団の先生は僕をフォワードにしたかったみたいで、県で3位になった時は得点王になったんです。色々な所をやりたかったんですよ。体を動かすのが小さな頃から好きだったので、中学校もキーパー、フォワード、トップ下、センターバックとどこでもやっていました。一番楽しい感じですよね。だからメンバーチェンジとかも、キーパーをやっていても負けているとフォワードになってとか。
Q:メッチャ美味しいとこ取りですね(笑)
A:フォワードで出ている時は同じ背番号のキーパーユニフォームを用意してもらって、それにベンチで着替えてとか(笑)
Q:そんな紆余曲折のあった中学時代を経て、水戸短大附属高校というのはどういう選択肢の中で選ばれたんですか?
A:色々推薦の話は戴いたんですけど、当時は今ほどテレビでサッカーを見る機会がなかったじゃないですか。インターネットもなかったですし。そんな中で高校選手権をテレビで初めて見た時に、水戸短大附属の紫のユニフォームが目に飛び込んできたんです。今も水戸ホーリーホックでプレーされている本間幸司さんたちを見て憧れていました。それでトレセンに入っていたこともあって水短から推薦の話が来て、私立ですし、水戸ですし、寮でしたし、悩んだんですけど、最終的には父親が「オマエの好きな所に行ったらいいんじゃないの。やりたいようにやりなさい」という父親だったので、やっぱり紫のユニフォームへの憧れがあって水短を選びました。でも、僕はキーパーだったので紫のユニフォームは着れなかったんですけどね(笑)
Q:それは入って気付いたんですか?(笑)
A:そうです(笑) 「ああ、俺は紫着ないわ」って。まあジャージが紫だったので、それで何とか(笑)
Q:1年生の時は高校選手権で全国に出たんですよね。
A:そうです。メンバーリストには入っていましたけど、ベンチ外でした
Q:2年と3年は全国大会に出られなかったんですね。
A:ひどかったですね。県大会でベスト8を越えられなかったです。たぶん一番低迷していた時期なんじゃないですか。3年の時は全部の大会で鹿島高校に負けたんですよ。杉本恵太とかいた時の。弱かったですね。マジ不遇でした(笑) いや、本当に(平山)相太とか(徳永)悠平とかと話していて、「選手権どこまで行ったんですか?」「いや、ベスト8」「ああ、全国の」「いや、県の」「えっ??」とか言われて(笑) 大宮だって結構みんな凄いキャリアを持っていますからね。
Q:振り返ってみて水戸短大附属での3年間はいかがでしたか?
A:厳しかったですね。厳しかったです。練習も厳しかったですし、生活も厳しかったですし、ましてや15歳で親元を離れて寮生活でしたから。言えることも言えないことも...
Q:言えないことの方が多いんでしょうね(笑)
A:そうですね(笑) でも、凄く人間的には鍛えられたかなと思います。実家も出ていたので甘えるような部分もなかったですからね。最終的に人間的にはしっかりしたものが形成されたかなと思いますね。
Q:2年と3年の時は国体に選ばれていたということで、同い年で言うと鹿島ユースに野沢拓也と根本裕一がいたと思いますが、彼らは国体のチームメイトですか?
A:そうです。拓也は小学校の頃からよく知っています。そう言えば拓也は関東選抜へ一緒に行っていました。茨城から選ばれていたのは僕と拓也だけだったので。天才ですよね。メチャ上手いです。本当にそう思います。
Q:初めて出会った天才みたいな感じですか?
A:そうですね。"止める、蹴る"で言ったら、アイツを超えるヤツはいないと思います。アイツか馬場憂太か。サッカー選手のトータルで考えたらわからないですけど、"止める、蹴る"ということに特化して考えたら、拓也と馬場憂太はスペシャルでしたね。
Q:3年の時の国体のメンバーは豪華でしたよね。
A:豪華でした。佐賀に勝って、2回戦で広島に負けたんですけど、広島も豪華でしたよ。森﨑兄弟もいて、駒野もいて。優勝した千葉も闘莉王、阿部勇樹、佐藤兄弟がいて、中澤聡太もいたので強かったですよね。2年の時はベスト8まで行って、最後は帝京の高橋泰さんがいた東京に負けました。でも、その時のキーパーは加藤慎也君が出ていたんです。当時は鹿島ユースの選手が多かったですね。
Q:そこから進学された流通経済大は当時茨城県リーグと関東2部を行き来しているような状況だったと思いますけど、どういう経緯で流通経済大に進学されたんですか?
A:最初は明治大のスポーツ推薦を受けて落ちたんです。それで「プロに行きたい」と思って、プロの練習に行きたかったんですけど、もう時期が11月とか12月で「難しいよ」ということになったんですね。その頃に国士舘大の大澤先生にも気に入って頂いて「ウチに来なさい」とおっしゃって頂いていたんですけど、僕の中で明治に落ちてプロにもなれなくて、結構目標を失っている時期だったんです。だから、何となく「楽しくサッカーをやれればいいかな」と思ってしまった転換期で、その当時は関東2部でしたし、正直「流経でいいや」という感じでしたね。
Q:今は流通経済大と言えば誰もが知っているサッカーの名門校ですけど、塩田選手が在籍していた時代が基礎の基礎を創った時代ですよね。
A:いやあ、もう本当に色々大変だったんですよ(笑) 入った当初はもちろんサッカーに力を入れ始めた頃で、全寮制になったのが僕らの代ぐらいからだったんですけど、まだまったくの駆け出しの頃でしたから、中野(雄二)監督が"つぼ八"の事務所で僕らの朝飯を作って、僕らも"つぼ八"で朝飯食べてみたいな時代で(笑)
Q:それ、凄い話ですね(笑) "つぼ八"の事務所ってどういうことですか?
A:学校の中にある寮に僕らは住んでいて、流経って学校がちょっと山になっている所にあるんですけど、みんなで朝になったらその山を降りて行くんです。で、今は確かコンビニか"はなの舞"か何かになっているんですけど、当時は"つぼ八"があって、その"つぼ八"の事務所を借りて食堂にして、中野さんと奥さんが毎朝僕らの目玉焼きを焼いてくれてという(笑) サッカー的にも筑波の1.5軍と試合をして8-0とか9-0で負けるような状況でしたからね。
Q:そんな状況からよく在学中に関東2部で優勝する所まで行きましたね。
A:そうですね。中野さんが頑張ったというのもありますし、巡り合わせもあったと思います。阿部吉朗さんも来ましたし、栗澤(僚一・柏)が来たというのも転機だったかなと。2人とも違う大学を落ちて流経に来ているんですよね。当時は『再生工場』って言われてましたけど(笑)でも、1個下には杉本恵太(ヴェルスパ大分)とか今はJFLの監督をやっている中島俊一とかいましたし、僕が4年の時は船山(祐二・東京V)とか阿部嵩とかナンちゃん(難波宏明・岐阜)とかも入ってきましたし、そこは巡り合わせですよね。みんな1つ挫折して流経に入ってきて、またみんなハングリーに「のし上がってやろう」みたいな勢いはありましたね。
Q:今に繋がる流通経済大の隆盛の基礎を自分たちが創ったというような誇りのようなものはありますか?
A:ああ... 偉そうに言うような部分はないですけど、やっぱり今は強いですし、(江坂)任なんてインカレでも優勝してくれましたしね。でも、苦労した分だけ思い入れはあるかなと思っています。中野さんも厳しい人でしたけど、あの時に自分の時間を使って僕らのために努力してくれていましたし、奥様の博子さんも選手に付きっきりで色々なことをやってくれましたし、そういうのを含めて良い時代であり、楽しい時代を過ごせたかなと思っているので、思い入れは凄く強いですね。
Q:今から振り返っても楽しい4年間だったなという感じですか?
A:今思えばですけどね(笑) 当時は朝練もありましたし、毎日走っていましたからね。夏まで毎朝8キロとか、クロスカントリーとか、たつのこ山っていう山があるんですけど、そこのてっぺんまでダッシュ20本とか、朝の7時とかからですよ(笑)でも、そういうのをみんな経験して強くなっていったというか、それは凄く良かったと思います。実際に面白かったですよね。今なんて良い子ばっかりですよ。今入ってくるユースの子たちもみんなマジメですし、「良い子たちだなあ」って(笑) 「まっすぐに生きてきたんだろうなあ」って。素晴らしいことだと思いますけど、「ここからの人生大変だろうな」とも思いますよね(笑)
Q:GKというのは1人しか試合に出ることのできないポジションで、FC東京時代からライバルと言われる選手が必ずいて、失礼ですけど今までのプロキャリアを振り返ってもゲームにずっと出てきた訳ではないと思います。それでもここまでずっとプロとしてやってきているのは、どういう部分が一番大きかったと思いますか?
A:一番大きかったのは『諦めなかった』という所かなと思っていて、人ってそのストレスから解放されようとすると慣れようとするじゃないですか。「ベンチに座っていることに慣れよう」とか、「ゲームに絡めないことに慣れよう」とか、そう思っている人もいると思うんですけど、僕はずっと"慣れよう"としなかったんです。特に土肥(洋一・東京Vコーチ)さんとやっている時なんて、毎週「俺が出るんじゃないか」と思って練習していましたし、「この人にこのミニゲームで勝てば、俺が試合に出られるんじゃないか」と毎日思ってサッカーをやっていましたし、その部分は今も自分を支えていると思います。
今年で35歳になりますけど、先ほど言われたように正直そんなにリーグ戦にも出ている訳じゃないですし、カップ戦を合わせても150試合くらいで、200試合も300試合も出ている訳ではないんですよね。でも、ここまでサッカーをやることができて、今のJ1でも数えるくらいしか年上の選手はいないですし、そこまでキャリアを積めてきているのは『諦めなかった』ことと、ここというゲームで勝てたことかなと思います。去年で言ったらパッと出たヴェルディ戦は舞台も味スタでしたし、今年で言ったら開幕戦で相手がFC東京でとか、実はたまにパッと出た時の印象は凄く大事じゃないですか。そういうゲームでずっと勝ってきた自負はあります。そういう所で勝ってきたから、ここまで残っているのかなと思っているんですけどね。
Q:僕は栃木ウーヴァFCの前田和也前監督と親交があって、去年の天皇杯で前田監督と対戦したじゃないですか。彼があの試合後に、「たぶん大宮でこのゲームの本当の意味をわかっていたのはシオさんだけだと思う」と。「他の選手がどう思っていたかはわからないけど、俺はシオさんだけがこの試合の意味をわかっていて、実際にそれだけのプレーをしていたと思います」と話していて、「前田くんも偉くなったな」と思ったんですけど(笑)、凄くその話に納得したんです。あのゲームというのはどういうゲームでしたか?
A:和也も偉そうなこと言ってますね(笑) アイツが監督のチームと僕が選手で対戦するなんて思ったこともなかったですから、マジでビビりましたよ(笑) でも、相手はウーヴァだったかもしれないですけど、正直「ここで生き残るためには」という感覚しかないですよね。そのウーヴァのゲームだけじゃなくて、キーパーは勝ち負けに直結するポジションなんですけど、それを変えられない部分もあると思っていて。キーパーはシュートを止めることはできますけど、ゴールを決めることは基本的にできないんですよ。だから、自分の力だけで引き寄せられるのは最高で引き分けですよ。そうなると考えるのは「どうこのゲームを勝ちに持って行こうか」という部分しかないんですよね。でも、そういう時に勝たないと意味がないんですよ。自分が次に生き残っていくためには。
ウーヴァの時もそう思いましたし、「ここで勝たなかったら、もう次に出る所ないよね」って。結果的に次の天皇杯の試合は出なかったですけど、3回戦にも繋がらないですし、ましてや4回戦なんて絶対になかったですし、リーグでも「苦しい時にはコイツだよね」というチョイスにはならないと思っているので、そういう気持ちしかないですよね。去年のヴェルディ戦もそうでしたけど「ここで勝たなかったら、もう俺はないな」という。サッカーを続けられるか続けられないかのギリギリの所で戦っていますから、精神はやられますけどね(笑) そこは難しい所です。上手いヤツや期待されているヤツ、ずっと試合に出ているヤツはもちろんポテンシャルがあって、パフォーマンスが良いから試合に出ているんですけど、あまり1試合1試合の出来はピックアップされないんですよ。逆にたまに出るヤツの方がその1試合を良い意味でも悪い意味でもピックアップされるんです。それぐらい責任があるんですよね。
そう思っていつもピッチに立っていますし、だからたまに出る人って大変ですよね。それは「スゲーことだな」と思いますし、ましてや先日の日本代表の試合とか見ても「日本を背負ってやっているヤツとかスゲー大変だな」って(笑) 日本代表でやっているって相当なプレッシャーですよ。僕は同業者だからわかりますけど、例えばワールドカップに出られないようなことがあったら人格否定までされることもあると思いますし、人生が狂ってしまうというくらいのことですからね。それを背負ってプレーしているアイツらは「スゲー強いな」って思いますし、本田圭佑なんて自分で大きなことを言って周りを守っている部分もあるでしょうし、大変だなって。彼は別に大変ではないのかな(笑)
Q:最後の質問です。今までを振り返っても試合に出る機会はそこまで多くなかったと思うんですね。しかも凄く神経も体も擦り減らしてきている訳じゃないですか。それでも「プロになって良かった」と思いますか?
A:思います。やっぱり忘れられないですよね。勝った時とか、ああやってグラウンドに立って、歓声を浴びながらサッカーをやるということに幸せを感じていますし、ベンチに座っていてもそこが忘れられないから頑張れるんだと思うんですよね。だから、その先にこの間のFC東京戦みたいな称賛もありますし、皆さんから拍手も戴けましたし、それをずっと追い求めているから頑張っているのかなと思います。コレ、最後カッコ良かったですよね?(笑)
【プロフィール】
流通経済大時代には2003年のユニバーシアードで世界一を経験、2004年にFC東京へ加入すると、土肥洋一や権田修一らと激しいポジション争いを繰り広げる。2015年に大宮へ移籍。サッカーに取り組む真摯な姿勢はチームメイトやサポーターから強く支持されている。
※所属チームを含めた情報は、当時のものをそのまま掲載しています。
ご了承ください。
取材、文:土屋雅史
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