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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。
【Pre-match Words アルビレックス新潟・吉田達磨監督編】
(2016年3月18日掲載)
Q:まずはプレシーズンのことからお聞きしたいのですが、プレシーズンを通じて開幕前までの手応えというのはいかがでしたか?
A:監督が僕に変わって、もちろん新潟というこの気候もあってキャンプに出ずっぱりの中で、選手と共同生活をして、良い意味でも悪い意味でもおとなしい選手が多いと。新しいトライを提案すると物凄く前向きというか、疑いを持たないというか、そういう形でやってくれました。それに対して凄く不思議な感覚と、あとは「これは責任が重いな」というか、「話を聞いてくれたりシンプルにやってくれる以上は、良いものを提示し続けなければいけないな」と。例えば曖昧さとかそういったものを持って、選手が選択する幅を与えたいというのが基本的な自分の考え方なんですけど、その幅の中で考えるというよりも「こうだ」ということに対して凄く動く選手たちだなというのが良くわかって、最初の高知キャンプで「そういうことなんだな」というのがお互いにわかりました。
タイ、清水とキャンプをやって行く中で、吸収のスピードが本当に"ピカピカ"というか、真新しい感じを凄く受けて、やればやるほど入って行くというような。だけど、やればやるほど入って行くんですけど、「やれば」の"や"ぐらいの最初にやったことというのはすぐになくなっていくというのが最初の感触でした。とにかくベーシックなことを塗り直し塗り直しやって行かないといけないなとは思いながらも、そのパワーを出すということに関して"突っ走る""ひたむきに走る"というこの2点は手応えもありましたし、「良いな」と思いながらプレシーズンは過ごしました。
Q:外から見ると昨年まで柳下(正明)監督が築き上げてきたことと、今まで吉田監督が志向してきたサッカーは違う部分も多いように思えますが、そのあたりの融合はいかがでしたか?
A:思い描いていたよりもかなり早かったです。まだもちろん課題の方が多いですけど、飲み込みということに関してはどんどん入って行くと。ただ、どんどん抜けて行くので、そのバランスだけで、とにかく「どんどん入れて行こう」とは決めていました。もちろん溢れない程度にですけど、どんどん入れて入れてということでやってきて、「とにかく走る」とか「厳しくマークする」とか、そういった去年までのベースは元々ある訳ですから、そこにはほとんど手を付けずに、映像で「こういう所は良いよね」「これはオマエらだったらもっと行けたんじゃないの?」「本当はもっと行けるはずなんじゃないの?」という所だけ刺激しながらチーム創りを運んで行きました。
開幕から3試合やってはみましたけど、本当に上手くいくシーンと一気にガタッと地面の底まで崩れてしまうシーンという両極端さがあったと思います。ただ、勝敗云々を抜きにすれば、時間の配分とか上手くやれているという実感は僕にもコーチングスタッフにも選手にもきっとあって、それをどう勝負のアヤの所、肝の所で押さえて行くかという所が大事になってくるんじゃないかなと思いながら今はやっています。
Q:吉田監督と言うと4-3-3のシステムを使うイメージがある中で、今は4-4-2と併用されていると思いますが、新潟自体は4-4-2を基本的にはずっと採用してきている中で、その使い分けというのはだいぶ整理されていますか?
A:そうですね。今いる調子の良いメンバーと対戦相手によって「いくつか使えるな」という風には思っていますけど、このシステムだったらこういうサッカーをするとか、こういうサッカーをしたい時にこのシステムを使うとか、そういうことを良くも悪くもバッチリ持っているチームではまだないと思います。だからこそ、これから出る選手たちの特性を考えたり、マッチアップやミスマッチを考えたりすると、「いくつか使えるな」と言うか「使った方が良いな」と思っています。
Q:小林裕紀選手をアンカーに置いて、しかもキャプテンに指名している所に吉田監督の志向が見える気もしますが、それに関してはいかがですか?
A:もう小林裕紀って若い頃からプレーは見てきましたけど、何か年々らしくなくなって行っている印象があって、彼はもっと本来ボールを持って喜ぶタイプの選手で、それを少し忘れていて。でも、僕の見た中ではこのチームでサッカーを一番理解しているというか、反応も良いですし、言ったことや変えたことに対しての理解度や体現するスピードというのは最も速くて、意外か意外ではないかはちょっとわからないですけど、若手に一目置かれているような存在でもあって、彼が自分自身を取り戻した時ってそれ以上のものが出せるはずだから、失ったものもきっとあるでしょうから、そういう部分も込めて期待もあります。
あとは、チームの中で実は雰囲気を創れるヤツだったりするんですよ。「レオ・シルバがキャプテンじゃないの?」って、基本的に見たら「レオ・シルバがリーダーなんじゃないの?」って思うかもしれないですけど、レオ・シルバとも話をして、「日本人選手が経験を積んで、日本人選手が『俺たちが変わっていくんだ』という強い意志を持って、自分たちで変化を起こそうとしなければ、いつも隠れて脇役をずっと続けて行くようなことでは、おそらく新潟って上がって行けないのではないかな」ということを話した中で、アンカーというポジションを僕は結構大事にしていますし、求めるものも多いですし、初めはプレッシャーだと思うんですよ。茨田(陽生)なんかもそうでしたけど、きっと経験して乗り越えて行くと彼自身にとって色々なものが見えるでしょうし、そこを任された彼自身が見えてくるものが多くなってくると、それはおそらくチームがワンランク上に上がっている時だから、厳しくもそういう目で見ながら、本当に厳しい目でやりながら、その成長というのをちゃんと待たなくてはいけないなという風には思っていますね。
Q:今回はホームゲームということで、前節でビッグスワンでのゲームを1つ経験したと思いますが、あのスタジアムは何回行っても本当に独特で、物凄くサポーターの圧力があるスタジアムだと思いますが、ビッグスワンというのは率直にいかがですか?
A:いや、凄い!本当に最高だなと思いました。去年の3月にビッグスワンに来て、ACLも含めて6試合勝ちと引き分けしかない状況で初めて負けたんですけど、その時の何か言いようのない"うまくいかなさ"というか、見えているスペースはあるし、「今のはオマエら、そこは突けるだろ」と思うんですけど、何か飲み込まれていくような、そんな力があるスタジアムで。それはこの間の試合前にも選手に話しました。戦術の話をして、最後の方にふと思ったんですよね。「今日はあのスタジアムのサポーターのバックがあるんだ」とふと思って選手に伝えて、「関係ない話かもしれないけど、去年俺はこういう経験をした。今日はそれをバックに戦おうぜ」と。実際マリノス戦でも本当にそれがうまく行きかけて、選手たちが物凄い圧力で相手にプレッシャーを掛けてという試合ができたので、とにかく凄いなと思います。このスタジアム、このサポーターは。
Q:今回のレイソル戦ははかなりの注目カードになると思いますが、アルビレックスのサポーターにメッセージをいただけますか?
A:ここ2戦は凄く盛り上がったり、そこから突き落としてしまったりという不安定な戦いを見せてしまっていることに関して、とても一緒に戦ってくれているという実感があるだけに、本当に悲しいだろうなという所は感じています。ただ、パワーを出すことや盛り上げて一気にゴールへ迫って行くということは見せられていて、それをレイソル戦でも何度も何度も一緒に味わいたいと思っていますし、それを発揮できるように今週みっちりトレーニングをしてやって行きたいと思っています。
とにかくあのオレンジ色のサポーターと、ビッグスワンのウワッと来る圧力ですよね。あと、家に帰っても頭から離れないあの応援歌。あれと共に勝ちたいですし、柏レイソルが監督の僕にとってどういうチームであるかというのはもちろんほとんどの人が知っていることで、意識しないなんてそんな嘘はつけないですし、意識するに決まっていますけど、そういうことに囚われるのではなく、アルビレックス新潟として、チームとして1つになるということが可能な状況ですし、可能なスタジアムですし、それを「毎回できるんじゃないか」と思わせてくれるようなこの前の3月12日のマリノス戦で、そこに勝ち星というのを加えて、皆さんと来週また良い1週間を迎えられるように頑張りたいなと思います。
Q:今日は選手・吉田達磨の話を聞かせて下さい。まずはサッカーを始めたキッカケはどんな感じですか?
A:キッカケは単純に兄がサッカーをやっていたからです。僕は野球少年だったんですけど、兄が行っていたサッカーチームにちょっとずつ行くようになって、「オマエ、上手いじゃないか」という風になって行く中で、小学3年生から野球とサッカーを両方やっていました。それで小学5年生になる時に、野球もそれなりに上手だったんですけど、「どちらを選ぼうかなあ」というタイミングがあったんです。その時にはサッカーの面白さが自分の中ではとんでもないことになっていて、「サッカーをやろう」とサッカー1本にして、そこからのめり込んでいった感じですね。
Q:先週お話を伺った大宮の渋谷監督も野球少年だったとおっしゃっていましたよ(笑) ジャイアンツファンだったとのことでした。
A:僕はヤクルトスワローズが好きで、ファンクラブにも入っていました(笑) 父がヤクルトが好きで神宮球場にも通っていて、無料で入れるようなパスも持っていて、しょっちゅう行っていましたね。
Q:誰が全盛期の頃ですか?
A:若松!若松監督。ピッチャーは松岡。キャッチャーは大矢から八重樫に変わったくらい。好きでしたねえ(笑)
Q:小学校の時のチームは普通の少年団ですか?
A:普通の少年団です。立花キッカーズという埼玉の三郷市にあるチームでずっとやっていて、これは凄い転機なんですけど、小学6年生の時にアセノサッカークラブというチームが、僕の住んでいた街の江戸川の河川敷でサッカースクールを開いたんですよ。しかも、6月9日という自分の誕生日に開校すると。僕は知らなかったんですけど、ウチの母親がポストに入っていたチラシを持っていて「こんなのがあるよ」と教えてくれて。それはチームじゃなくてスクールみたいな形なので、立花キッカーズとは曜日も違いましたし、「誕生日だから行ってみよう」と思って行って、そこで出会ったのが品村(敏明)さんというそのチームを創った方で、日本ではまだなかったいわゆるクラブチームの走りだったんですよ。
当時はクラブチームと言っても読売と三菱養和ぐらいしかなかったですからね。そこでそんなに有名じゃないチームで、『上手くサッカーをプレーすること』を言われたりして、一気に色々なものが自分の中に入ってきたんです。当たり前ですけどたくさん走ったり、色々な練習をしていましたけど、上手くなるためのちょっとしたキッカケとか、ボールを扱うことの大切さとか、それをいきなり6月9日に知ったんですよ。今はリフティングなんて当たり前になっていて、そこまで大事にされていないですけど、当時はそれを大事にしようなんて結構斬新ですし、僕もそれなりに上手な子だったのに、最初はリフティングが42回しかできなかったんです。でも、「500回やったらメダルをあげる」と言われて、1週間でクリアしたんですよ、そこからリフティングに関してはずっとできるようになったり。クラブチームというものに出会って、自分の中でサッカーの面白さがどんどん出てきた感じですね。そこから読売クラブにハマって、小学6年生くらいからはもう見まくりました。
Q:誰が全盛期だった頃ですか?
A:小見(幸隆)さん!(笑) 戸塚哲也さん、都並さん、ジョージさん、ラモスさんもいて。
Q:その小見さんと大人になって仕事するようになるなんて面白いですよね(笑)
A:小見さんには何回もその話をしましたけどね(笑)
Q:中学の時は読売のテストを受けに行ったんですよね?
A:そうです。中学1年はアセノでやっていて、その時に北島義生という水戸とかでプレーしていた選手が1個下にいて、そいつが「読売を受けたい」と言い出して、「一緒に行こうよ」と言われて。それで中学1年から中学2年に上がる時もアセノがあるから、最初は「嫌だよ」と思ったんですけど、読売は大好きでしたし、結局2人で一緒に受けに行きました。それで北島は簡単に受かって、僕はたくさんいるテスト生の中で3人だけ練習に合流した中に選ばれて、練習に通ったんですけど結局入れませんでした。それで、日立サッカースクール柏が当時できたので、そっちに入ったという感じです。小見さんと竹本(一彦)さんが読売のセレクションの時にいらっしゃって、途中までは良い感じだったんですけどね。最後はやっぱり読売の選手の中に入ってみると「この人たちはやっぱり凄いな」と思いました。体が凄く強くて、僕は凄く小さかったので、「ああ、これは勝てないな」とその時は思いましたね。
Q:日立のスクールは1期生ですよね。
A:1期生です。今のスタジアムのグラウンドでセレクションをしました。4月17日だったっけな。まあ、来た人はだいたい受かるくらいの規模で(笑)、そこでプレーし始めて、すぐに日立のファンになりましたね。当時のチームメイトはみんな凄かったですよ。今ももちろん付き合いがありますけど、サッカーが凄く好きですし、その時はクラブチームってちょっとアウトロー的なヤツがやるというような感じでしたからね。わざわざ部活じゃなくてクラブでまでサッカーをするって、本当にサッカーが大好きなヤツらが集まっているんですよね。だから、日曜日の朝から練習して、午後は日本リーグの試合を見に行って、帰りは新宿あたりのサッカーショップに寄って。そういう所に行くと、当時は貴重なヨーロッパのサッカーとかが見られるから、そこでサッカーを見て帰るみたいな(笑) 本当にそんな時代を過ごしていましたね。
Q:日立サッカースクール柏のチームとしての強さはいかがだったんですか?
A:結構強かったですね。一応選ばれているメンバーなので、それなりに強かったです。覚えているのは初めて読売クラブと試合した時に9-1で負けたのに、その後は1-0ぐらいになったんですよ。経験値のない子が集まっているから。でも、だんだんみんな研ぎ澄まされて行って、サッカーが好きだから練習もしますし、成嶋徹さんという今は静岡産業大学にいらっしゃる方が監督で、僕にとっては本当に恩師ですけど、僕もクラブチームでちょっとやっていたので、読売に行った時に感じた体格の差についても、「いつまでも小さい訳じゃない」というのはいつも言われていました。「いつか大きくなるから、ちゃんとテクニックを磨いておけ」と言われていて。チーム自体も「いつかは勝つぞ」というような、そんな集団だった気がします。「今はやられたけど、いつかは勝とうぜ」みたいな。
Q:当時の日立にはユースがなくて、いくつかの選択肢がある中で東海大浦安高校を選ばれた訳ですね。そこまでサッカーの強豪校という感じではなかったと思いますが。
A:そうですね。僕の入れ替わりの代くらいまでは、選手権予選で準決勝に行くくらいの強さでした。僕の入る前の年は兄がいたんですけど、1次予選で敗退していました。そんな感じで入るまでは強かったので(笑) あとは、東海大学が強かったというのもあります。澤登(正朗)さんとか磯貝(洋光)さん、加藤望さんと、そのあたりの選手がバリバリやっていた頃なので、そういったものもありましたね。日立もユースができるできないみたいな話もあって、それを待っている内に1月くらいになってしまったので、東海大浦安に決めました。
Q:東海大浦安時代は指導者を志すキッカケになった時期ですよね?
A:具体的に自分の元になったのはそこですけど、指導をやりたくなったのはクラブチームと出会った時なので、アセノの時に「なんか指導者っていいな」と。そんなに明確じゃないですけど、サッカーの面白さを伝えてくれたすべての人に憧れを持っていましたから。当時のコーチには松橋力蔵さんもいらっしゃって。リキさんはケガかなんかをしていて、あれだけ上手いのに実業団に入れなくて、当時のアセノに辿り着いていて、社会人として茨城県リーグでプレーしながら、僕らのコーチをやっていたんです。僕が小僧の頃に凄くボールを蹴ってもらったんですけど、「この人がプロになれないんだったら、どれだけプロって上手いんだ」という感じでしたよ。その後であっさり日産で活躍して、「やっぱりそうじゃん」って(笑) そんな出会いもあって、「指導者って良いな」と思っていました。
Q:東海大浦安時代とレイソル時代は結構聞かれていると思うので、そこをすっ飛ばして京都時代の話をお聞きしたいんですけど、当時はラモスさんもいらっしゃったりと、かなりのタレント集団だった中で、京都での2年間はいかがでしたか?
A:京都は1年目の最初はちょっと試合に絡んでいたんですよね。レイソルではボランチやサイドバックをやったりしていた中で、トップ下になって試合に出ていたんですけど、すぐにケガをしたんです。サテライトの試合ですぐ腓骨を折ってしまって。メンバーに入って、スタメンで数試合出てベンチになって、ケガをしていたラモスさんが復帰したので、僕がサテライトの試合に出て骨折してしまって、結構な離脱だったんですよね。でも、ラモスさんとか藤吉(信次)さんとか森下申一さんとか、ああいう方がいる中でサッカーできたというのは、レイソルの方が当時は強かったと思うんですけど、華々しい感じがありましたね(笑)
サッカーとしてはそんなに大きな印象はなかったですけど、ラモスさんや藤吉さんが凄く良くしてくれたりとか、楽しく過ごしていました。それで2年目にオフトが来て、森保(一)さんが来て、オフトジャパンの色々な人が来たことでチームもガラッと変わって、あまり試合には出られなかったですけど、彼らと仲良くなれたのは良かったですね。僕は基本的に誰とでも仲良くなるタイプなんですけど(笑)、森保さんにも本当に良くしていただいて。オフトに対しては当時「面倒くさいことばっか言う人だな」と思っていましたけど、結構貴重だったなと思います。
Q:オフトとの思い出で具体的に覚えていることはありますか?
A:「オマエには可能性がある」と言われたことがあるんですよ。「オマエはボールラインの後ろでプレーしろ」と言われて、「何言ってんだよ?」と当時は思ったんですけどね(笑)今から考えれば「前向きでプレーしなさい」ということだったと思うんですけど、当時は理解できなかったですね。「ポジショニングには限界がない」と言われたこともありました。「オマエのフィジカルに限界はあっても、どのポジションに立つかという工夫に限界はない」と。全然訳わかんなかったけど(笑)、今は良くわかりますよ。
Q:周囲もそういう感じだったんでしょうね。オフトはちょっと先を行っていた感じですか?
A:いや、先は行っていなかったと思います(笑) それも今なら良くわかります。教わったのはベーシックなことですから。それが日本にまだ定着していなかったということだと思います。
Q:山形時代はゲームに一番出ることのできた時期だと思いますが、山形時代の3年間はいかがでしたか?
A:山形時代は本当にサッカー選手として、試合に出続ける経験ができましたし、土地と人が大好きでしたし、チームも本当に好きでしたし、凄く愛着があります。監督の植木(繁晴)さんにも信頼して使ってもらって、あれは何物にも替えがたく今も残っています。元々どんな時代でも輪の中心にいるようなタイプだったと思いますけど、山形ではまた1つ今に通じる何かが出てきたのかなと思う所はありますね。
Q:貴重な3年間だったんですね。
A:もう本当に大きいです。信頼できる仲間もできましたし。高橋健二さんとか。
Q:山形の大スターですね。
A:最高に仲良くしてもらいました。そんなに頻繁に連絡を取り合う人じゃないですけど、ちゃんと繋がれている感じがします。オフは山形に行ったりしますよ。コッソリね(笑) 色々な人との繋がりが強過ぎて、みんな良くしてくれ過ぎて、山形に行くと1日しか行けないのに「この人には会うけど、この人には会えない」というのができなくて、コッソリ行って空気だけ吸って帰ってきます(笑) それでも行きたいなと。パワーをもらえる感じがするんです。それはこの新潟に来てみて、凄く似ている感覚があります。
Q:その後はシンガポールのジュロンFCでプレーされることになると思いますが、ジュロンってアルビレックス新潟シンガポールの本拠地になったんですよね。それも今から考えると凄い縁だと思いますが、ジュロンFCでプレーすることになった経緯を教えて下さい。
A:僕は山形との契約が終わった後にオーストラリアか中国でサッカーをしたいなと思っていて、日本でサッカーする道ももちろんあったんですけど、もう28歳で選手としてのキャリアもだいたい先がわかっていましたし、30歳まで現役をやることが別に大事ではないと思っていたので、絶対に指導者になりたいから、その前に外国人とサッカーをしたいというだけでチームを探していました。英語圏に行くか、中国語を学ぶという訳のわからない考えを持っていて。
Q:何で中国語だったんですか?
A:その当時のサッカー選手としての発想なんて本当に大したことないものだったから、「これから中国が来る」と言われていて、「せっかくサッカー選手なんだから中国でやろう」と思っていたんですけど、なかなかパイプ的に難しくて。そんな時に山形で一緒にやっていた佐藤太一という選手がシンガポールのチームと契約したんですよ。それで電話が掛かってきて、「達磨さん、Jリーグでそれなりに経験のあるボランチを探しているよ」と。「すぐ浮かんだから電話したんだけど、おいでよ」と言われて(笑)
ちょっと時間があったので「行ってみようかな」と思って行って、彼がいるチームに練習参加したんですけど契約がうまくまとまらなくて。そんなこんなでもうシンガポールに行ってしまったので、帰る帰らないとかじゃなくて「どうしようかな」という時に、そこも人の繋がりでジュロンFCというチームが「練習に来ていいよ」ということになったので、バッグだけ持って練習に行ったら凄く気に入ってもらえたんです。「1ヶ月とか短い契約が良いんだ」と言ったら、向こうも「いいよ」と言ってくれて、入ることになったんです。だから、毎日ジュロンイーストスタジアム(※アルビレックス新潟シンガポールのホームスタジアム)に通っていましたよ。
Q:結果的に海外でチームに所属したのはジュロンFCだけになると思いますが、ジュロンという土地にも思い入れはありますか?
A:ありますね。ジュロンは本当にあります。アルビレックス新潟シンガポールの試合も、現役が終わった後に何試合か見に行っているんですよ。去年レイソルでコーチをやっていた杉山(弘一)さんが監督をやられていたので、その時にはジュロンに行っていますしね。ジュロンはちょっと中心から離れていて、緑色の電車でかなり遠くまで行くんですけど、"チャイニーズ・タウン"という駅で降りて、すぐ近くに美味しいチャーハンのお店があって、駅から10分歩かないくらいでスタジアムがあるんですけど、そこは複合施設でレジャープールとかあって、とにかくスタジアム的には凄く満たされている感じですね。静かで凄く良い場所です。
Q:何か不思議な縁ですね。
A:ですね。あまり意識したことはなかったですけど、「縁だなあ」とは思いますし、不思議ですよね。コーチの能中(太司)は何回か行っているので、ジュロン話はできますけど、他にはあまり今のチームにジュロン話ができる人はいないですね。杉山さんとはたくさんできましたけど(笑)
Q:結果的にどのくらいいらっしゃったんですか?
A:練習生の期間を入れれば2ヶ月くらいジュロンにいましたけど、プレーしたのは1ヶ月で2試合しか出ていないですから。でも、最高の経験でしたね。日本人も僕1人という環境で。その時に一緒にプレーした韓国人選手は今も凄く仲良くて、今でもしょっちゅう連絡を取り合っていますしね。
Q:これを最後の質問にしたいと思うんですけど、ずっと育成年代の指導者をされてきた中で、昨シーズンと今シーズンはJリーグのトップチームの監督を経験されています。おそらく色々なことがあったと思いますが、それでもトップチームの監督をやってみて良かったですか?
A:良かったと思います。やっぱり一番大きいものを扱うというか、一番上に立つ訳だから、人生経験としては良かったなと。もちろんとんでもないプレッシャーも降りかかってくる場所ですよ。でも、これをやらないと見えなかったものもたくさんあって。育成年代の監督は子供たちのこれからを左右する訳ですから、また違った責任感はありますけどね。やってみてわかりましたけど、本当に指導者が左右するんですよ。それは今みたいに色々な人の喜びとか生活とかを背負うトップチームの監督の責任と、彼らの1人1人の人生を背負う育成年代の監督の責任と、種類は違いますけど凄く共通するものがあるなとは思いますね。トップチームというのは色々な人の幸せとか、それに関わるスポンサーの方やメディアの皆さんやモロモロを含めても、背負い込んではいけないのかもしれないですけど、それはちゃんと背負う覚悟を持っていないとできないなとも思います。でも、指導者は指導者かな。
Q:実際に育成年代を指導されていた時と比べて、プロの大人を指導しているこの1年あまりで、指導する難しさや違いというのを感じる所はありましたか?
A:もちろんみんなプロですから、自分の持ってきたもので良い想いをたくさんしてきている人たちなので、『受け入れる扉』も最初から開いている者だけじゃないですしね。育成の子たちというのは基本的に最初からその扉が開いていて、そこから詰め込んでいく作業が多いですけど、プロは良い物も悪い物も詰まっている選手たちなので、悪い物は悪いとどれぐらい気付かせていくかとか、良い物を捨てずにそれをやっていかなくてはいけない訳です。あとは去年の柏の監督の場合は僕を良く知っている選手と知らない選手が半々だったので、そこは凄く難しかったし、ストレスにもなりましたけど、今は基本的にみんな僕のことを良く知らないですし、これからみんなの前に立つことで信頼を得なくてはいけないという新鮮さが今は凄くあります。でも、プロの選手たちに受け入れる最初の扉を開かせられるかどうかは、凄く難しいなと思いますね。
Q:それでもJリーグのトップチームの監督をやって良かったなと思うんですね。
A:思います。でも、いつかは育成をやりたいかな(笑) この経験が生きるでしょうし、今すぐにとか来年とか再来年とかじゃなくて、いつかはジジイになったら子供たちというか、これからの人たちにサッカーを伝えていきたいというのはありますね。結局、自分の中での最終的な居場所というか、そこが夢なんだと思います。何かやりたいんですよね。夢なんですよ、それが。
【プロフィール】
現役時代は日立、柏、京都、山形などでプレー。引退後は柏の下部組織に一貫したスタイルを浸透させ、工藤壮人や酒井宏樹など数多くの選手をトップチームへ輩出する。昨シーズンは柏のトップチームを指揮し、今シーズンから新潟の監督に就任。
※所属チームを含めた情報は、当時のものをそのまま掲載しています。
ご了承ください。
取材、文:土屋雅史
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