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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年03月06日

Pre-match Words ~大宮アルディージャ・渋谷洋樹監督編~(2016年3月10日掲載)

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【Pre-match Words 大宮アルディージャ・渋谷洋樹監督編】

(2016年3月10日掲載)

Q:今回は少し昔のこともお伺いしたいと思います。北海道室蘭市のご出身ということで、時代的にも地域的にもそれほどサッカーが盛んな時期ではなかったのではないかと思いますが、サッカーを始められたきっかけはどういう感じだったのでしょうか?

A:おっしゃる通りです。僕は野球が大好きで、ジャイアンツが大好きで。というのは、僕の家の前が野球場だったんですよ。だから「野球をやるために生まれた子」と言われていて(笑) 実は左利きでピッチャーをやっていて、朝から晩まで野球をやっていたんですけど、小学5年の時に「みんなでサッカー少年団に入ろうか」という流れが友達の間であって、そこで「俺も行こう」となったのがキッカケです。

Q:道内的に当時サッカーは人気があったんですか?

A:いや、そんなになかったですね。あったのかもしれないですけど、僕はサッカー自体をあまり知らなかったので。

Q:すぐサッカーにのめり込んだ感じですか?

A:いえ(笑) でも、入ってすぐに今の全日本少年サッカー大会の予選があって、僕は左利きだから左サイドバックですぐに試合に出してもらったんですよ。その試合は0-4で負けて、最終的にそのチームが全国に行ったんですけどね。室蘭の天沢小学校という所のチームが北海道代表になって。それで、「ああ、これに勝てば全国に行けるんだ」「東京に行けるんだ」と思ったんです。小学6年の時にはキャプテンをやったんですけど、その年の全日本少年サッカー大会の予選は決勝で負けちゃったんですよ。

Q:かなり強いチームですね。

A:そうですね。ウチの小学校は凄く強くて。中島旭ヶ丘サッカー少年団というチームだったんですけど、実は僕の2個下にはマリノスにいた野田知がいて、あとは城彰二もそうです。その時に僕と一緒にやっていた徳田というヤツがいて、室蘭大谷の9番を3人とも背負った徳田三兄弟の長男が僕と同い年だったんですよ。その彼は選手権で凄いゴールを決めて、セルジオ越後さんに「スーパーゴールだ」と言われた人なんですけどね(笑) 小学校時代は北海道で終わるような大会では優勝したこともありました。

Q:小学6年の時に室蘭大谷は選手権で全国準優勝していますけど、それが渋谷少年を室蘭大谷へといざなうきっかけになった感じですか?

A:そうですね。本当に野球少年で、僕は荒木大輔さんをよく見ていましたし、王貞治さんも同じ左利きで好きだったので、早稲田実業に行きたかったくらいですから(笑) ただ、小学6年の道大会決勝で負けた悔しさとかもあったので、最終的に中学に入る時に野球とサッカーで悩みましたけど、少年団の監督に「サッカーだったら世界とか行けるかもよ。オマエはそっちの方が向いてるんじゃない?」と言われて、「ああ、そうですか」という感じでサッカーを選びましたね。

Q:室蘭大谷の3年間はザックリ振り返るといかがでしたか?

A:実は入学してすぐに、5月のインターハイ予選から試合に出してもらったんです。インターハイ予選の決勝で鎖骨を骨折して、国体には出られなかったんですけど、選手権予選に出してもらって、そのまま全国も出してもらいました。やっぱり左利きということだけで凄く重宝されていたかなと思いますね。僕が入った時はみんな先輩たちの技術が高くて、「本当に上手いなあ」と思って見ていましたし、「ちょっとこの中じゃできないな」と思っていて。高校選びも登別大谷高校がサッカーに力を入れ始めた頃で、室蘭選抜の子たちを特待で入れていたんですよ。僕にも声が掛かっていて「登別大谷に行きます」と言った時に、中学の監督から「室蘭大谷からも推薦が来てるよ」と言われて、「じゃあ1日考えます」と。「確実に出られる方が良いかな」とも思いましたけど、レベルの高い所で出られなくても仕方がないかなと思って室蘭大谷を選びました。

それが1日ズレていたら、今はどうなっていたかわからないですよね。最終的には良かったかなと思います。2年生もレギュラーで、3年生はキャプテンでという感じで、良い想いばかりをさせてもらいました。でも、結果は出なかったですけどね。狭間の世代になってしまいました。僕の1個上と1個下と2個下が強かったです。1個下には熊本の飯田正吾(現・強化部長)、広島に行った佐々木直人(現・ユースダイレクター)、2個下にはザイ(財前恵一)、野田、山本亘とか本当に凄かったですね。

Q:1年生の選手権では望月聡さんと美濃部直彦さんがいた守山高校と対戦しているんですね。

A:そうなんですよ。それでモチさんと仕事するようになって、モチさんからその試合の映像をもらって見たんです(笑) 3-1で負けたんですけど、映像を見たら自分がヘタクソで。「俺のせいで負けたんだな」と思いました(笑) でも、大谷の選手たちは本当に上手かったです。ボールを動かすのが上手くて、ああいう時代でもああいうことができたんだなという感じですね。

Q:そこから古河電工に入られる訳ですけど、当然かなりの名門チームでしたし、高卒で加入できる選手もかなり限られていたと思いますが。

A:僕は高校2年の時に東西選抜に入っていたりしていて、今で言うトレセンにも選ばれていましたし、大学という選択肢もなくて就職しようと考えていたので、「渋谷は古河に行きなさい」と言われたんです。それは高校の先生に感謝ですね。入れてもらったその時の監督の清雲(栄純)さんや同郷の川本治さんにも凄く助けられました。

でも、僕は古河電工なんて全然知らなかったんですよ(笑) 「ああ、古河電気工業株式会社という所に行くんだ」という感じでしたから。サッカーが凄いなんてまったく知らずに。北海道で古河電工と言ったらアイスホッケーなので、「そこにサッカー部があるんだ」と。当時は読売クラブ、日産、ヤンマーの3チームしか知らなかったですし、僕は新日鉄室蘭に行くか、学校の先生になるかという感じでしたから、サッカーを続ける意思もそこまでなかったので、「普通に就職できて良かった」という感じでしたね。

Q:そんな青年が入るにはとんでもないチームだったんじゃないかなと思いますけど(笑)

A:それを知るのは入団して1か月後です。「凄いチームだ」って(笑) 会社で3月から練習を始めて、4月の頭に入社式がありますよね。その後に「1年頑張って下さい」という感じの発足会というのがあるんですけど、会社の会議室のような所に集まって、社員の人も何人か来て、「今年のメンバーはこういう顔触れです」と紹介するような会で。その時にメンバーのパンフレットを見たんですよ。そうしたら「1番、元代表。2番、代表。3番、元代表。4番、ユース代表。5番、代表。6番、元代表」みたいな感じで、「えっ、ウチってスゲーんだな」ってその時に気付いて(笑)

本当にそういう世界だったんですよ。だから「間違った所に来たな」と。「1年くらいで終わりだな」と思いましたね。もう3月の時点でレベルが違いましたし、11で全然ボールが取れないですし、練習試合で金田(喜稔)さんにおなじみのフェイントで4回全部抜かれたりとか、「ああ、もうダメだな。1年やったら田舎に帰るかな」と。本当にそんな感じでしたよ。でも、清雲さんが練習後の"アフター練習"に1年間付き合って下さったので、それが長くサッカーを続けられた1つの要因だと思いますね。1年間ヘディングとキックと走りをずっとやってもらったので、キヨさんには本当に感謝しています。あとはオカさん(岡田武史)にも凄く良くしてもらいましたけど、今は成立学園を指導されている宮内(聡)さんには凄くお世話になりました。

Q:パッと思い浮かぶ宮内さんとの想い出はありますか?

A:当時もこういうクラブハウスのような所でマッサージしてくれるんですけど、マッサージの順番を待つ1時間くらいの間は宮内さんが僕の寮の部屋に来て、お茶して、テレビ見て、色々とサッカーの話をして、僕の部屋からマッサージに行くというのがほぼ日課でした。そういう感じでサッカーを続けられる術を教えて頂きましたね。あとは前田(秀樹)さんだったり、オカさんだったり、頭でサッカーをやる人たちがたくさんいたので凄く勉強になりました。「スピードだけじゃないぞ。サッカーはこうやってもできるんだぞ」というのを凄く言ってくれたので、とにかく環境が良かったですね。「古河電工って凄いんだな」と思いました。

Q:岡田さんや前田さんのような代表やJリーグの監督から、宮内さんのような高校の監督まで、当時の古河でプレーした人はかなりの方が指導者になられていると思いますが、今から振り返ってもそういう土壌はあったと感じますか?

A:その時はまだアマチュアの世界だったので、「皆さんサッカー好きだな」とは思いましたけど、指導者になるという風に思っていた人がいたのかなと。元々サッカーをやっている人自体も、学校の先生になりたかったような人が続けてきていたようにも感じるので、学校の先生ではなくて指導者になったというような感覚だと思うんですよね。「人に伝える」という部分が凄くあるのかなと。まあ日本でトップクラスの凄い方たちだったので(笑)、だからこそ今も指導者をされているというのがあるのかなと思いますね。

その方たちが指導をやって下さっていたからこそ「日本も強くなってきたのかな」とも感じますし、その方たちが指導者育成にも携わって下さったりしていたので、世界を見てきている人たちがやっていることも良かったのかなと思います。先ほども言ったように、「サッカーはスピードだけじゃなくて、こういう風にすれば十分できるんだ」ということを自分の中で持っている方がたくさんいたので、「オマエら、それだけじゃ通用しないぞ」「こういう風にされたらどうするんだ」「こうできるよな」という風に考えてきている方たちが、そういう所を良く知っている方たちが指導者になっているのかなと思います。

Q:そうすると古河時代の経験は今にも相当生きているという感じですね?

A:相当大きいです。その時にゲームとかで言われていたことは、今のサッカーとあまり変わらないです。やっぱり今思うと凄かったです。

Q:四半世紀前の時代でそれは凄いですよね。

A:オカさんに言わせれば「昔とは変わってるぞ」とか言うと思いますけど(笑) やり方とか戦い方、戦術戦略は違うでしょうけど、ベースになる部分は変わらないですよ。コンパクトにサッカーをやっていましたし、非常に面白かったですね。僕はウチのチームの守備を"ピラニア軍団"と言っていたんですよ。それぐらいボールの所にギュッと集まっていて。宮内さんが一番凄くて、FC東京の米本(拓司)じゃないですけどあれぐらい予測力があって、ボールを奪って繋いで。そこに越後(和男)さんがいて、前田秀樹さんがいて、吉田弘さんがいて。永井(良和)さんが右、菅野(将晃)さんが左、DFラインはオカさんと金子(久)さんが真ん中、五十嵐(和也)さんか吉田暢さんが右で、小林寛さんが左。もう見事でした。今で言うと4-3-3みたいな形になっていて、アタッカーがいて、インテリオールで前田さんや越後さんがボールを受けてプレーすると。イメージの共有があって、今のサッカーでも全然通用するスタイルですし、攻守の切り替えも速かったですし、ラインコントロールも凄かったですしね。オカさんが声で上げ下げして。勉強になりましたね。

Q:その後はPJMフューチャーズでプレーされることになりますが、PJMに所属していた頃は渋谷さんにとってどういう時代でしたか?

A Jリーグに移行する時期に古河に残れなくて、PJMに移籍することになったんですけど、まず移籍するに当たって「新しいチームでトライしよう」ということでやらせてもらいました。ただ、ケガで終わった2年間という感じで、あまり試合出場はできていないんです。メンバーは金沢で監督をやっている森下仁之さんとかもいらっしゃって、レベルは高かったです。

それまでも静岡4部から上がってきて、90連勝ぐらいしているんですよ。外国籍選手のレベルも高かったですし、Jリーグを目指すという所では良いチームだなと思いました。選手たちもそんなに良い環境ではなくてもしっかりやっていましたし、外国籍選手もバチスタ、パスクリ、ウーゴ・マラドーナと。ウーゴはアビスパやコンサドーレでも活躍しましたけど、凄く日本に合った選手だったと思います。だから、PJMに行って「こんなにレベルの高いチームがあるんだ」と感じました。ただ、あまり試合で想い出があるかと言ったらそんなにないんですよね。

Q:その後は甲府での4シーズンを挟むとしても、大宮アルディージャまで繋がるNTT関東での人生が始まる訳ですけど、やはり「NTT関東に来た」というのは人生で考えても非常に大きな出来事ということですね。

A:非常に大きいです。その時に呼んで頂いた、今は甲府の監督をされている佐久間(悟)さんだったり、清水(隆)さんだったり、佐々木則夫さんを含めてスタッフの方に感謝していますし、それがなければ今はないと思います。NTT関東はアマチュアでやっている選手たちで、僕はプロでやっていた選手として、アマチュアのチームでも強くしたいという中で一応入社させてもらったので、本当に力になりたいと思いましたし、3年間プレーをやらせてもらう中で社員選手の人たちのサッカーに懸ける想いというのを凄く感じられたので、それは私にとっては凄く大きなものでした。

Q:NTT関東にはプロ選手として加入されたんですか?

A:いえ、中途採用の社員で入りました。ですから、僕は古河電工とNTTに入っていることになるので、一流企業に2つ入っているんですよ(笑) これは人生においても凄く自慢なんです。僕は幸せ者だと思っています。基本的に僕は今までの人生、幸せ者なので。色々な繋がりで、色々なことが何となく良い方向に行っているんですよ。

Q:NTT関東も渋谷さん、佐久間さん、佐々木さんを筆頭にコーチを含めても数多くの方が指導者の道へ進まれていますが、古河同様にそういう土壌があったという風に感じますか?

A:はい。大宮でピム・ファーベークというオランダ人にサッカーの構築というものを学んだ選手たちは、たぶん指導者になりたいと思うでのはないかなと。なぜなら、「自分がこうしたらうまくボールが回るんだ」とか「こうやったらボールを蹴れるんだ」と体感できたので、それを伝えたいと思うはずなんです。例えばボールポゼッションでボールをしっかりと動かすためのノウハウを学んでいる選手たちは、それを伝えた方が良いとも思いますしね。

Q:NTT関東からアルディージャに移管した頃にこのクラブに所属されていた方々は、皆さん揃ってピムのことに必ず言及されるんですけど、やっぱりそんなに他の指導者とは違っていたんですか?

A:その時代には多分他にいないような存在だったんじゃないですか。今では「間で受ける」とか言いますけど、その時代にはそういう発想が何もない中で「Between position」と。「間で受けなさい」と。今はイニエスタやラキティッチが普通に間で受けていて、みんな同じようにやっていますけど、それが1998年だから今から18年前にもう大宮の選手たちはわかっていた訳ですよ。でも、ボールポゼッションはできるけど「大宮は攻めてこない」「ボールだけ持っている」という風になってしまったのかもしれないですね。

実はその時に山形に所属していた吉田達磨くんが、アルディージャと対戦して「ボールが全然取れない」と。それで「何で取れないんだ?」「どんな練習をやっているんだ?」ということで、今はなでしこで指導されている中村順さんの所に来て、「どうやっているんですか?」というのを聞いて、それが今のレイソルの育成のスタイルに繋がっているんですよね。だから、レイソルの選手も大宮の育成を見たら「なるほど」とはなると思うんですけど、それが本当に日本サッカー界で全員がイエスと考えるかと言ったら、それはまた違う話だと思うので、そこは履き違えないようにしないといけないですよね。

ただ、ピムがやっていたことは本当に基礎の基礎だったので、それこそ僕もピムの練習を1年半くらい見ていましたけど、2003年にオランダへ行ったら10歳の子がそれをやっていました(笑) その時に大宮の選手は20代の選手がそれをやっていても10年遅い訳ですよ。もうそこは追い付けなかった訳ですよね。だから、今はやっぱり協会の育成の指針とかは凄く発達していますし、これだけの選手が世界に行けているのは指導者の方たちの努力が凄かったんだと思います。

Q:お話を伺っていてもサッカーへの情熱を物凄く感じますね(笑)

A:サッカーが好きなので(笑) 情熱があるかどうかはわからないですけど、そういう風に考え方を持つというか、そういうのが好きですね。喋ると長くなってまとまりがなくなっちゃって。もうちょっとシンプルに話せれば良いんですけど(笑)

Q:NTT関東時代を選手として経験されて、大宮アルディージャの創世記を指導者として経験された渋谷さんは、今のアルディージャの状況というのを当時から想像できましたか?

A:いや、全然想像できなかったです。環境は力を入れればある程度は整備できると思いますけど、J1でこれだけ長くやれるというイメージはなかったですね。育成の所も今では非常にレベルが高いですし、そこは僕が佐久間さんと一緒にユースを立ち上げて、ジュニアユースも僕が1年目で立ち上げたという形になっているんですけど、やっぱり育成の選手たちが将来的にレギュラーとして何人も出ているというのが僕の夢でしたし、それは本当に早く実現したいというのがありました。選手を集めるのではなくて、大宮で育成した選手たちが中心になってというのが一番の夢だったので、今はだいぶそれに近付いてきていますし、本当に大宮のスタッフの人たちの努力は凄いなといつも思っています。

Q:ユースを立ち上げたというお話もあって、金澤慎選手と木村聡選手が下部組織出身の選手として初めてトップへ昇格した時のユースの監督も渋谷さんでしたし、「このクラブの育成の礎を築いたのは自分だぞ」というような自負はありますか?

A:ないです(即答)。自負は全然ないです、ただ、「レベルの高くない選手でも3年間しっかりとトレーニングしたら、ある程度全国までは行けるんだな」というのがわかったので、それは僕の指導者としての凄く大きなポイントですね。金澤や木村はいましたけど、第1次のセレクションで30人合格にしたのに10人しか来てくれなくて(笑) 第2次は「合格したら必ず来て下さい」とお願いするような感じだったので。まあ、慎も含めた大宮FCの子は4人決まっていたので、それ以外の6人だけですよ。他の子は「一応受けてみたいから来た」という感じで。「15人いないとクラブが立ち上がらないから、すぐ第2次やらなきゃ」と言って第2次をやって、募集の但し書きに「合格した場合は必ず入団すること」と書いて(笑)

最初は中学生にも負けていましたし、Jユースカップでは鹿島アントラーズに16-0で負けて。みんな泣いていましたし、あれが彼らにとって一番悔しい想い出だと思いますけど、その2年後の全国の懸かった大事な試合の前にその話をしました。「そういう想いがあってここまで来ているんだぞ」と。そうしたら全国に行ってくれて、1勝もしてくれて。だから歴史を創ってくれたのは彼らだと思います。

今は僕からしたら本当に夢のような選手がたくさんいますよ。レベルも高いですし。でも、そこで「本当に勝ちたい」というような色々な想いを持ってやってきた選手たちが今までにいたので、そういう歴史はしっかりと引き継いでいきたいですし、僕がコーチをやっていた頃の選手がいまはコーチをやっているので、それも僕からすれば夢のようなことですよ。だから、僕が何かをしたというのはないですけど、彼らも「大宮でこういう練習をして、チームを引き上げよう」という想いがあるから指導者になりたいのかなと思います。でも、今の指導者の人たちは怖いですよ。「オマエたち、怖いな」っていつも言ってます。「日本一優しいのはオレだ」とも言ってますけど(笑)

Q:今って楽しいですか?

A:「今、楽しいか?」ですか。楽しくさせてもらっています。というのは、やっぱり昨年のJ2で優勝できたのも選手とスタッフのおかげですし、「僕が監督でもJ2で結果が出るんだ」とか(笑)、そういう感じなんですよ。今も僕以外の所でみんなが色々動いている訳じゃないですか。選手も動いてくれて、結果もこうやって出て、なんか動いてもらっているというだけですね。監督になってから僕が何かをやっているというのはあまりなくて、「選手やスタッフというのは本当に見事だな」って(笑)

Q:ちょっと客観的に見えている感じですか?

A:そうですね。僕はこんなに結果を出すような人間じゃないですし、そういう指導者だと思っていないので、僕は結果が出なくても「だって俺だもんな」というのがあるので。

Q:先ほどからお話を伺っていると、その立ち位置はブレないですね。

A:僕は普通に見たら良い所を、実はエリートコースを辿っていますよ。でも、横に必ずもう1人上を行っているヤツがいるんですよ。この横にずっと。僕は「2番目にいた方が活躍する」とか「トップに立つことがない方が良い」とよく言われていて。

Q:誰がそんなことを言うんですか?(笑)

A:色々な人が(笑) 僕は自分でも言うんですけど、やっぱり"優しい"というか"甘い"ですね。「甘いから、ここという究極の時にその甘えが選手のプレーに出るよ」と言われていて。やっぱり厳しく怒る時には怒るというのが"優しい"ということだというのは僕自身もわかっていて、「これはどのタイミングで怒ればいいんだ」と思いつつも、「ここで怒ったからコイツがちゃんとできたんだな。これが"優しい"っていうことだよな」と感じながら(笑) そもそも怒るという導火線がないんですよね。そういうタイプなんです。こんな感じでやってます(笑)

【プロフィール】

現役時代は古河、PJMNTT関東でプレー。NTT関東と大宮でトップチームや下部組織の監督、コーチを歴任し、2010年から4シーズンは甲府でコーチを経験。コーチとして復帰した大宮で20149月から監督に就任し、昨シーズンはJ2優勝、J1昇格を達成した。


※所属チームを含めた情報は、当時のものをそのまま掲載しています。

ご了承ください。

取材、文:土屋雅史

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