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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年03月18日

Pre-match Words ~アルビレックス新潟・西村竜馬編~(2016年11月2日掲載)

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【Pre-match Words アルビレックス新潟・西村竜馬編】

(2016年11月2日掲載)

Q:ここからはキャリアのお話を聞かせて下さい。クラブの公式HPを見ると、サッカーを始めた年齢は8歳となっていましたが、それがアルカス高遠FCですか?

A:そうです。地元のチームです。でも、僕は元々野球が好きだったんですよ。父親が社会人で野球をしていて、仕事の後にナイターでやるくらいだったので、その影響で「野球をやりたいな」と思っていたんですけど、その野球場に行く途中にサッカー場があって、サッカーチームに誘われてそのまま入っちゃったんです(笑)

Q:ということはご家族的には野球に力を入れていたんですね。

A:野球ですね。だから、グローブとバットを買って「野球行くぞ」という感じだったんですけど、その途中のサッカー場で同級生に誘われたりするじゃないですか。「サッカーやる時間だから」みたいな。それで抜けられなくなっちゃって、そのままサッカーをやることになりました(笑)

Q:でも、お父さんは明らかに西村少年に野球をやらせたい訳じゃないですか。そこの話し合いはなかったんですか?

A:僕の父はそんなに我が強くないですし、メチャクチャ優しいんですよ。だから、たぶん同級生の親に言われて「しょうがないな」みたいな感じだったと思います。

Q:お父さんは切なかったでしょうね(笑)

A:そうですね。野球道具もだいぶ揃っていたので(笑) ボールは家の中に父のモノが転がっていましたし、家の前でキャッチボールとかもしていました。ただ、野球チームに入れるのは小学3年からだったんですよ。そのタイミングで体験入部に行こうとしていたら、その道中にサッカーグラウンドがあって、誘われちゃったという感じです。

Q:それ、お父さんがあまりにもかわいそうじゃないですか?(笑)

A:でも、それがあったから今があるので(笑) 休み時間とかもずっと野球をしていて、休みの日も野球をしていましたし、妹がやっていたのでバスケもやったりとか、色々な球技をやっていましたね。

Q:どこのファンとかはあったんですか?

A:いえ、特にはなかったです。父は巨人が好きだったと思います。

Q:好きな選手とかはいました?

A:まだ小学生だったので阿部慎之助(巨人)ですかね。「ホームランを打ちたい!」と思っていたので。ただ、そのくらいの時期に日韓ワールドカップがあったんですよ。それでサッカーに行っちゃったという感じもあったと思います。

Q:あの時の長野県にはパラグアイがキャンプで来ていましたよね。見に行ったりしました?

A:いえ、父はそんなに興味がなかったと思うので(笑)

Q:それはそうですね(笑)

Q:でも、僕がチームに入ってからはサッカーを好きになって、天皇杯は小学5年か6年の頃から毎年11日に国立競技場へ行っていて、去年は行けなかったんですけど、一昨年まではずっと行っていました。僕は色々な所に行っていましたし、ユースの時もほとんど休みがなかったので、家族旅行と言っても限られるじゃないですか。だから、「もう1年に1回はサッカーを見に行くのを旅行にしよう」みたいな感じで、毎年元旦に行っていました。

Q:それってプロになってからもってことですよね?

A:そうです。普通に行っていました。

Q:プロの選手がプロの試合をご家族で見に行って、チケットを買って入るんですよね?

A:チケットを買って入っていました(笑)

Q:そんなことあるんですね!(笑)

A:まあ自分がプロだって実感できていなかったですからね。ブラジルに行ったり、地域リーグに行ったりしていたので、お金はもらっていましたけど、地域リーグの時はロッカーがない会場とかでも試合をしていたので、今シーズンの初めの方もそんなにプロという実感はなかったですけどね。「ここにいていいのかな?」みたいな。最初テンパっちゃって(笑)

Q:それを考えたら今の状況は凄いですね。

A:よくわかんないですよ、今でも。

Q:でも、本当にうまく行けば来年の元旦は吹田のピッチに立って、家族をそこへ呼べますよね。

A:そうですよね(笑) それをしたいんですよ。Jリーグもそうだったんですけど、やっぱり天皇杯は"見るもの"でしたからね。ビッグスワンだってユースの頃に"見に行く所"でしたし、今年の初めもスタンドからずっと見ていたので、自分がまさかあのピッチに立てるなんて思わないじゃないですか。「本当に大丈夫かな?」って(笑)

Q:大丈夫ですよ(笑) ちょっと長野時代に話を戻します。サッカーにはすぐにのめり込んだ感じですか?

A:長野なのでスキーもやっていたんですよ。中学2年ぐらいまではスキーの選手にもなりたくて、おじさんがスノーボードで日本7位になった人なんですけど、うちの父も色々なスポーツをやっていて、その兄弟も色々なスポーツをやっていたので、その誘惑が色々あって(笑) 本当に「サッカーが一番だな」って思ったのは高校からですね。

Q:長野を離れてからということですね。

A:そうですね。小学校の頃のチームも強くはなくて、「初戦を突破できればいいね」という感じのチームで、僕らは南信地区という所だったんですけど、全然勝てなくて、総当たりのリーグ戦でも一番下みたいな感じだったんです。しかも僕も最初はキーパーだったんですよ。背が高いというだけで。

Q:当時から背は高かったんですね。

A:そうですね。背の順だとだいたい一番後ろでした。当時はオリバー・カーンになりたくて、カーンと同じキーパーグローブを買ってもらいました。

Q:いつまでキーパーだったんですか?

A:キーパー自体は好きだったんですけど、実際にやっているのはあまり楽しくなくて。でも、「フィールドをやりたい」と言っていても、他にキーパーがいなかったのでずっとやっていた中で、小学6年ぐらいの時に下の学年の子がキーパーになったので、それを機に解放されて、ボランチとかをやっていたんですよね。キックが一番飛んでいたので、大きくボールを蹴ってという感じでした。

Q:でも、結構長くキーパーをやったんですね(笑)

A:入った時からずっとキーパーですからね。だから、今でもシュートブロックにキーパーっぽく行っちゃうんですよ(笑) クロさん(黒河貴矢)には「オマエのシュートブロック、絶対に股は通らないよな」とか言われたりしますけど、今でもとっさに出ちゃうんですよね。

Q:キーパーの人が見たら、「ああ、キーパー経験者のブロックだな」みたいな。

A:そうですね。だから、際どい場面に体で行けるというのはありますよ。キーパー時代にそれが身に付いていて、足で行くというよりは体の中心で止めに行ったり、「体のどこかに当たってくれ」という感じで飛び込むので、今から思えば良かったかなと思います。でも、そこから中学はフォワードになるんですけどね(笑)

Q:中学はM.A.C SALTOジュニアユースということですが、もちろん通っていた中学校の部活やその他のクラブという選択肢もあったと思います。なぜそのクラブだったのでしょうか?

A:僕は高遠中学校に行っていたんですけど、「クラブチームに入った方がその先が広がるかな」と思いましたし、僕の代が1期生だったんですよ。新しくチームができるということで、その南信地区の上伊那という地域があるんですけど、上伊那トレセンの選手も集まるという感じになったんですよね。

Q:それは小学校の頃に西村選手も上伊那トレセンに入っていたということですよね?

A:入っていました。キーパーでしたけど(笑)

Q:そうでした(笑)

A:その選手たちが集まるみたいな感じになって、父も「それなら送って行くから3年間やりなよ」と言ってくれて、父にずっと送り迎えしてもらいながら始めました。ずっとなぜか10番だったんですけど。

Q:1期生だから先輩もいない訳ですよね。

A:1個上に2人いましたけど、試合に出させてもらいました。最初の頃は23チーム中で22位とか、結果も出なかったですね。

Q:でも、他のチームは3年生がいる訳ですよね。

A:そうですね。菊池大介(湘南)さんが佐久サームにいて、1回だけ試合したこともあるんですよ。その時の髪型が印象的で、前の方は普通なのに後ろの方だけメッチャ髪を立てていたんですよ(笑) それだけメッチャ覚えています(笑) しかも涼しい顔で涼しいプレーをするんですよ。「上には上がいるな」と思って。でも、その次の年からベルマーレに行くことが決まっていて、「何か行くらしいよ」みたいに噂し合って。そんな相手に10何対ゼロみたいな(笑)

Q:そうするとキャリアのスタート期はなかなか勝利が遠かったんですね。

A:そうです。勝ったことがほとんどなかったですね。でも、3年の時はクラブユース選手権で県3位になったり、県の決勝に行ったりもしていたので、3年になったらだいぶ強いチームになって、それでたぶん「アルビを受けるか」みたいになったと思うんですよね。父がセレクション用紙を持ってきてくれました。ホームページから見つけて。長野に住んでいたので、近場のJクラブは名古屋、甲府、新潟だったんですけど、日程的にアルビは平日にセレクションをやっていたので、父が仕事を休んでくれて、僕も「学校は休めるから行こう」と(笑)

Q:セレクションはここ(アルビレッジ)ですよね?

A:ここでした。友達も一緒に受けに来たんですけど、セレクション後にフチさん(片渕浩一郎監督 ※当時は新潟ユース監督)から家に電話が掛かってきて「センターバックで獲りたい」と言われて(笑)

Q:フォワードでセレクションを受けたんですよね?(笑)

A:はい。フォワードで受けたんですけどね(笑)

Q:そのセレクションではセンターバックをやったんですか?

A:最後の5分くらいで「センターバックをやってよ」と言われて、「え?やったことないよ」と思いつつ、ポジショニングとかわからないじゃないですか。だからだいぶ適当にやっていたんですけど、受かったのはセンターバックでということで(笑)

Q:でも、その5分で西村選手の特性を見抜いたのだったら、やっぱり片渕さんは凄いですね。

A:凄いですよね。だから、もうビックリしましたよ。そんな電話が掛かってきて。「人を間違えてるんじゃないか?」と思いましたから(笑) たぶん父が電話に出て「監督だよ!」って言って。それで「どうする?」という話になって、すぐ「行きます」と即答したと思うんですけどね。その後で合格通知も来たんですけど、「センターバックで獲ろうと思っているから、そこをどう考えてる?」というのは聞かれて。でも、「こんなチャンスはないな」と思ったので、「やります!」と言って(笑)

Q:例えば中学はクラブチームに進んだり、今のお話のようにアルビのセレクションを受けに来たりしていたということは、やっぱり上を目指したいという気持ちはご自身の中に常にあったということですか?

A:そうですね。「プロになりたいな」というのはあったんですけど、長野県では実際にプロを見られる環境ではなかったので、「プロにはなりたいけど、プロって何なんだろう?」という感じだったんですよ。そんな明確なものがなくて、プロと言っても本当にテレビ上のモノでしかなかったので。でも、ユースが一番プロへの近道だと思って新潟に来ました。

Q:そう考えるとお父さんは凄いですね。野球をやらせたかったのに、西村少年の意思を尊重してサッカーを認め、中学時代は3年間送り迎えをしてくれ、アルビのセレクションも探してきてくれて、アルビレッジにも付いてきてくれて。

A:父に感謝ですね。でも、父も小学校の頃はスケートをやって、中学と高校はバスケをやっていて、仕事を始めてから野球をやり出したらしいんですよ。ただ、中学校には男子のバスケット部がなかったですし、環境的には男子だったら野球かサッカーみたいな感じだったので、父は野球みたいな感じだったと思うんですけどね。ウチの父の弟に当たる僕の叔父さんはサッカーをずっとやっていたので、今は毎日のように「今週はどうだ?」みたいなLINEが来ます(笑) 20代後半ぐらいでヴァンフォーレのセレクションを受けに行くぐらいの、サッカーオタクみたいな叔父さんなんですよ。

Q:僕は仲良くなれそうです(笑)

A:だからもう毎週Facebookでも、僕が載っている記事を引っ張ってきてシェアして、「予想スタメンに入っているぞ」とか「今週の評価は"5.5"でした」みたいな。

Q:絶対このインタビューもシェアされますね(笑)

A:されます(笑) 本当にヤバいくらいで、最初はちょっと「うるさいな」と思っていたんですけど、今ではプレーの改善点を言ってくれたりするんですよね。電話が掛かってきて「あのプレーはダメだ」とか(笑) ありがたいですよね。今までは僕自身がそういうことを言ってもらえるような環境にいなかったので。

Q:アルビのユースは寮ですよね。親元を離れた1年生の最初の頃はどうだったんですか?

A:ユースの最初も今年の最初と似ているというか、こっちに来てみたらレベルが違い過ぎました。そもそもやったことのないセンターバックを始めている訳じゃないですか。中学の頃は週に3回ぐらいの練習だったんですけど、ユースは練習が11回で、走りもあって筋トレもあって、週に23回は二部練が入ってきたりという練習にまず付いて行けなくて、毎日のように明日が来るのが嫌でした。だから帰って、「もう疲れた...」という状態でベッドに入って、そこから「目覚めたくない...」って(笑)

もう毎日それで、しかも慣れる感じが全くなかったので、半年ぐらいは「勘弁してくれ」という感じでしたね。新潟出身の人も学年に半分ぐらいいたんですけど、そこはそこで固まるじゃないですか。しかも、彼らは中学の時に高円宮杯で全国2位とかになっているんですよ。もう必然的にプリンスとかで試合に出ていくんです。

Q:早川選手はそっちですよね?

A:そうです。史哉とか齊藤恭志(元盛岡)とか石井達(新潟ユース→新潟医療福祉大)、宮内翔(新潟ユース→日本体育大)とかはみんな試合に出ていて、県外組は4人だったんですけど、仙台から来た大下健太(新潟ユース→仙台大)も上手いから試合に出るんですよ。だから、出られない3人で固まっちゃうじゃないですか(笑) それで「ツラくね?」みたいな。コンビニでアイス買って食べながら、「練習ツラいよな...」みたいな感じで(笑)

Q:ちょっとダメなパターンですよね(笑)

A:そうでしたね。でも、その3人は今も仲が良くて、結局最後はその3人とも試合に出ていましたからね。僕とセンターバックを組んでいた柳田航(新潟ユース→中京大)と、松井聡希(新潟ユース→立正大)も試合に出るようになったんです。今でも毎週のようにLINEで連絡を取ってますね。

Q:だって学校にもそもそも中学時代からの友達なんていない訳ですよね。

A:そうなんですよ。「何で息抜きすればいいんだ」って(笑) お金もないからゲームもできないので、18インチくらいの小さなテレビでドラマを見たりとか、それぐらいじゃないですか。コンビニが近くにあるくらいで、もう本当にツラい日々をずっと過ごしていました。

Q:そんなツラい日々はいつ頃から変わり始めるんですか?

A1年の夏のクラブユースぐらいですかね。その時にちょっとだけフチさんに出してもらって、ちょっと自信が付き始めて、2年の時もコンスタントに試合に出るというような感じではなかったんですけど、スタメンを取り合っていたような当時を考えれば充実していたので、1年の秋頃からは「スタメンを獲ってやる」と思っていましたね。僕は中学3年ぐらいから身長は変わらなかったんですけど、体重がなかったんです。でも、その1年で56キロ増えたので、そこでうまく体を作れたことも良かったのかなとも思います。

Q:やっぱり1年の時のユースでは、奥山武宰士(新潟ほか)と泉澤仁(大宮)が別格でしたか?

A:もうヤバかったですね。対人とかしたくなかったです(笑) その2人とヤスくんですかね。キーパーの渡辺泰広(徳島)。その3人は凄かったです。もう3人でゲームを創るという感じでしたね。だから、センターバックがミスしてもヤスくんが止めますし、失点してもあの2人で点を取っちゃいますし。オクくん(奥山)がボールをもらいに来て、そこから攻撃が始まるじゃないですか。それに(泉澤)仁くんの一発もあるので、だいぶ別格でしたよね。

Q:そうするとゲームにコンスタントに出始めたのは3年生の頃ですか?

A:そうですね。でも、その前に2種登録されたんです。ユースで試合に出ていないのにトップのキャンプに呼ばれて、その時に対人している相手がチョ・ヨンチョルさんだったんですけど、何か2回くらいふっ飛ばした形になって、その時ぐらいから「オマエ強いな」みたいになったんです。

でも、トップはその前にフィジカル的なトレーニングがあって、みんな疲れていたというタイミングの良さもあったと思うんですけど(笑)、そこから2種登録されて、ほぼトップの練習に帯同することになって、コンスタントに試合に出る前にトップに行って、試合だけユースに戻って出るみたいな感じになったので、自分でもわからないぐらいに事が速く進んで行きましたね。

Q:何でそこまでゲームに出ていなかったのに、2種登録されたんだと思いました?

A:トップに呼ばれる時にみんな調子が悪かったらしくて、フチさんが断ったらしいんですよ。他の3人ぐらい。それで僕に順番が回ってきて、キャンプに行って「良かったら」と言われたんですけど、それでうまく行ったんですかね。全然わからないですけどね。何であの時にヨンチョルさんが吹っ飛んだのか(笑)

Q:ずっと2種登録選手ということで帯同していたトップチームで「これはやれるな」という手応えはあったんですか?

A:いえ、その時は全然なかったですね(笑) むしろ「大丈夫かな?」と。「ユースで出ていないのに、こっちに来ていいのかな?」ぐらいの感じでしたし、1つ下にも良い選手はいましたし、史哉よりも僕の方がトップに呼ばれたりしていて、それも何かしっくりこなくて。

Q:早川選手はU-17の日本代表選手でしたからね。

A:アイツは代表とかもあったので、僕が行くような流れもあったんですけど、そういうので「何でだろうなあ?」とずっと思っていました(笑) リーグ戦も2回ぐらいベンチに入れてもらったりしましたし、コーチのサントスさんが凄く良くしてくれて、毎日話もしてくれましたね。

Q:そう言えば2011年だったら森保(一・広島監督)さんもいらっしゃいましたよね?

A:はい。ずっと教えていただいていました。

Q:次の試合はそういう因縁もありますね。

A:覚えていてくれてますかね?(笑)

Q:覚えてるでしょ(笑) スカウティングされてますよ(笑) でも、その状況からトップに昇格する訳ですけど、そこに躊躇はなかったですか?

A:実は契約に「ブラジルに行く」という項目が入っていたんですよ。それで神田(勝男)強化部長に呼ばれて、「『ブラジルに行く』という契約が入っているけど、行ってもらってそこから成長してもらう契約だから、行ってもらうことが前提だけどどうする?」と言われて、親にも相談せずに即答で「行きます」と言いました。

逆にフチさんがビックリして、「オマエ、親にも言っていないのに大丈夫か?」と心配してくれたんですよね。2種登録だったこともあって、大学にも何校か呼んでもらっていたので、「大学にも良い所はあるんだから、そっちでもいいんだぞ」とまでフチさんが言ってくれて(笑) でも、「ブラジルに行きたいです」と。お母さんには「何で相談しないの?」って怒られて。

Q:怒られるでしょうね(笑)

A:ですよね(笑)

Q:その決断はやっぱり「プロになりたい」という気持ちが強かったんですか?

A:そもそも大学は考えていなかったので、「なれるものならプロになりたい」と思っていましたし、その時は寮にラファエルと岩崎陽平(新潟、岐阜ほか)さんがいて、2人がポルトガル語で喋っていたような環境もあって、「いつかはブラジルに行ってみたいな」と思っていたんです。

Q:そうか。トップの選手も一緒の寮だったんですね。

A:高校3年生だけ一緒の寮に来るんです。その環境もあって、逆に「こんなチャンスはないかな」と思って即答でしたね。

Q:実際に行ったブラジルはいかがでしたか?

A:ポルトガル語を勉強していったんですよ。当時はミシェウとブルーノ(・ロペス)がいたので教えてくれて、辞書を買ったり本を買ったりして勉強して、ノートに「これは絶対に使うだろう」と思って書いていったポルトガル語をあっちで使ったら、まったく通じなくて(笑) だから、もう紙とペンをずっと持ち歩いていて、聞いた言葉はとりあえずカタカナで書いて、それを辞書で調べてというのをやっていて、「いや、これノートに書いてきたじゃん」って言葉もメッチャ出てきたんですけど、発音がちょっとだけ違ったりするんですよね。結局勉強して行った意味はまったくなかったです(笑)

イチからノートも書き直して、チームメイトが「ショッピングに行くぞ」と言ったら一緒に行って、わからないけどひたすら喋るみたいな。日本語でもいいからとにかく喋って、わからない言葉は書いて、「これはこうだよ」と教えてもらった言葉もとりあえず書いて、帰って辞書で調べてノートに書いての繰り返しで、「チームメイトとやれることは全部やろう」と思ってビリヤードとかもやっていたので、それで3ヶ月ぐらいしたらある程度はポルトガル語も聞けるようになりましたね。

Q:それはなかなかですね。

A:でも、意地悪をするチームメイトがいたので。意地悪なのかイジっているのかわからないですけど、それが嫌でしたね。

Q:どんなことをされたんですか?

A:もうブラジルに来てだいぶ経っているのに、フォークとナイフで食事していたら、「フォークとナイフの使い方を教えてやるよ」とか言われてイチから教えられたりとか、「オレがポルトガル語を教えてやるよ」みたいなことを言って、僕のノートにバーッて書くんだけど、字が汚過ぎて読めないとか(笑) 結構おせっかい的な人が多いというか、ブラジル人のノリとしてやってあげたいんだと思うんです。「オマエ、何か良いモノ持ってるんだろ」とか言ってバックをあさられたり。でも、当時はスマートフォンを持って行っていたんですけど、ブラジルはまだほとんどがガラケーで、「それ良いなあ」みたいに言われていたので、それだけは本当に寝る時もポケットに手を突っ込んで、そこにスマホを入れて寝るみたいな(笑)

Q:そんな感じなんですね。

A:スパイクとかもなくなるんですよ。タオルもなくなりましたし。

Q:チームメイトに盗られるんですよね。それは誰だか特定できるんですか?

A:いえ、わからないですね。でも、最初にタオルをパクられて、「うわ~、誰だよ?」とか思っていたら、自分と一番仲が良かったマックスってヤツが使っていて、「オマエかよ!」って(笑) 一番裏切らないで欲しい人に裏切られるという(笑)

Q:西村選手の目の前で使っていたんですか?

A:そうです。「オマエか!」と思ったんですけど、こっちからは言いづらいじゃないですか。いつもいろいろと教えてくれるヤツでしたし、ゴハンにも連れて行ってくれたりしていたので、結局言えなくて(笑) 「いや、盗られてるし。何なんだよコイツも」みたいな感じでしたね。

Q:サッカー的にはすぐに「やれるな」という感じだったんですか?

A:みんな1カ月契約だったんですよ。次の月の契約が保証されていないので、どんどん選手も変わっていって。でも、僕は「決まった期間はいます」みたいな感じじゃないですか。「アイツ契約あるぞ」みたいな感じになって、とりあえずボールを持ったら足ごとスコーンと行かれて、スネとかも血だらけになるんですよ。芝も良くないので、基本的には土で端っこは雑草みたいな感じで、なのにみんな取り換え式のスパイクを履いているんですよ。意味がわからないじゃないですか(笑)

Q:完全に削る用ですね(笑)

A:そんなんで削られて。でも、その時に球際は本気で行かないとと思いましたね。「やられたらやり返す」というよりも、「やられる前にやれ」という感じだったので、ボールをさらしているヤツには足裏で行くみたいな。最初はそれができなくて。そんなの日本ではやらないじゃないですか。

ただ、それで行き始めてからは「オマエ、行けるようになったな」みたいな感じで、逆に周りから認められる感じがあったので、そこからちょっと試合に出始めました。結局3試合ぐらいしか出ていないんですけど、それでもだいぶ信用された感じはあったので、自信になりましたね。"マウア"というチームと"サン・ベルナルド"というチームが提携していて、僕がいた"マウア"から"サン・ベルナルド"の練習に行かせてもらえて。

Q:"サン・ベルナルド"の方がカテゴリーは上なんですね。

A:そうです。そっちの方がまだ日本っぽい感じだったので、うまく入れてできたんですけど、"マウア"がキツかったですね。8人部屋に二段ベッドがあって、ブラジルなのに部屋が寒くなったり(笑)、ゴハンもずっと外に置きっぱなしなので、ハエがたかったりとか、そんな感じでしたね。「ボトルの水は絶対買った水にしろよ」みたいにブラジルの人が言ってくれたんですよ。それで2ヶ月ぐらい経って、ちょっと練習に早く行き過ぎて、準備している人を見ていたら、普通にボトルに水道水を入れているんです(笑) 「コレ飲んでたのかよ!」って(笑)

Q:鍛えられましたね(笑) ちょっと他の方からお聞きした"カツアゲ"の話もお聞きしていいですか?

A:週に1回ショッピングに行っていたんですけど、絶対に通る公園があるんですよ。公園を通って、川を通って、大きな駐車場を抜けるとショッピングセンターがあるんです。でも、その公園がちょっと暗くなると、メッチャ怖い人がいっぱいいるんですよ。チームメイトも「コレは"クスリ"のにおいがするぞ」とか言っていて、僕なんて"クスリ"のにおいを知らないじゃないですか。

そんな所を通っていた時に、ちょっと奥にテーブルとベンチが置いてあるような所があるんですよ。木がいっぱいあって暗いんですけど、「おい、日本人!」とか呼んでいるんです。そっちを見たらベンチに座っている、フードをかぶってポケットに手を入れている黒人がいて、「コレは行かないとヤバいヤツだ」とか一緒にいたチームメイトも言い始めたら、「オマエはちょっとここにいろ」みたいに僕と切り離されたチームメイトが戻ってきて、「アイツお金出せって言ってるぞ」とか言い出して(笑)

ちょっと奥の方に行ったら「お金全部出せ。結構持ってるんだろ?」みたいに言われて、「そこのテーブルに出せ」と。こっちも必死じゃないですか。「ヤベー、殺されるかも」みたいな。しかもちょっと夕方だったので、人もあまりいなくて、「出さないとヤバい」と思って、もうポケットに入っている全財産を出して。でも、小銭って言っても日本円で10円以下なんですよ。それを出して、「札も出さないとダメだな」と思って札も出して。でも、カードとちょっとした大金は色々な話を聞いていたので、パンツの中に入れていたんですよ。それ以外のお金は全部出しました。合計で500円くらいですかね(笑)

「わかった。もう行っていいよ」と言われて。それで帰る時に「いや、ヤバくなかった?」と思って。その時は冷静だったんですけど、終わってから「ヤバッ」と思って、ちょっと震えが来ましたけどね。「コレが言われていたヤツだ」と(笑) その時はさすがにビビりました。でも、必ずショッピングにはスニーカーで行っていたんですよ。靴ひももメッチャしっかり縛って、いつでもダッシュできるように(笑) そんな感じでしたね。それ以降は夜も外出は控えるようになりました。

Q:生きてて良かったですね(笑)

A:ヤバいです。あんな経験なんてなかなかできないので。

Q:これを最後の質問にしたいんですけど、西村選手は若いのにかなり数奇なキャリアを歩んでらっしゃるじゃないですか。この積み上げてきたキャリアは気に入ってらっしゃいますか?

A:僕はここに来る前にアスルクラロ沼津にいたんですけど、アスルクラロはJリーグを目指していて、本当に夢があるクラブで、夢を持っている人たちしかいなかったんですよ。そんな中で自分もそのチームに関わらせてもらって、こういう状況でアスルクラロではJリーグに上がれずにアルビレックスに来て、最初は試合に出ることも考えられなかったので、「とりあえず試合に出ることを目指そう」と思っていたんですけど、こうやってチャンスをもらっている中で、メンバー表の前所属の欄に"アスルクラロ沼津"って出るじゃないですか。「それを多く出したいな」と自分の中で思っていて、アスルクラロを色々な人に知ってもらえて、自分が頑張ることによって一緒にプレーしていた選手たちにも、「アイツが頑張っているから、オレらも頑張らないといけないな」と少しでも思ってもらえたらなというのもありますし、逆に「アイツができているなら、オレらもできるぞ」という風に思ってもらえたらというのもあるんですよね。

それはアスルクラロだけではなく、JAPANサッカーカレッジでもそうですけど、そういう所でプレーしていた選手が上でもできるという夢というか、諦めなければそういうチャンスが巡ってくるというのも、みんなに知ってもらいたいなというのも思いながら、その前所属にアスルクラロの名前があるのも、自分の中では誇りなんです。「え?どこのチーム?」と思われるかもしれないですけど、そこを調べてもらうことによってアスルクラロの知名度も上がるかもしれないですし、「いや、どこだよ?」と思いながらも、こういう風にJ1でプレーする選手が出たチームということになれば、そこを目指す人も出てくると思うんですよ。

そういう人たちの夢というか、「アイツが出られているんだったら、自分ももしかしたら行けるかもしれないな」というのをちょっとでも思えてもらえたら、自分の中で大きいことかなと思って、今はそう思いながらサッカーをしていたりもするので、自分の中ではこういうキャリアで良かったと思っています。もう『雑草魂』だと思うので、ピッチに立ったら誰よりも自分が下手だと思っていますし、それでも「やってやるよ」とか「食ってやろう」と思ってサッカーをやっているので、本当に毎試合毎試合刺激を受けていますね。だいぶ底辺から始まったプロキャリアなので、「まだまだ成長できるな」というのもあって、まだまだ成長していきたいと思います。

【プロフィール】

新潟ユースを経て、2012年にトップチーム昇格を果たすとブラジルで1年間の武者修行を経験。帰国後もJAPANサッカーカレッジ、アスルクラロ沼津と期限付き移籍を繰り返し、今季から新潟へ復帰。ユース時代に指導を受けた片渕浩一郎監督の下、出場機会を伸ばしている。


※所属チームを含めた情報は、当時のものをそのまま掲載しています。

ご了承ください。

取材、文:土屋雅史

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