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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年03月18日

Pre-match Words ~ヴァンフォーレ甲府・稲垣祥編~(2016年10月28日掲載)

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【Pre-match Words ヴァンフォーレ甲府・稲垣祥編】

(2016年10月28日掲載)

Q:ここからはキャリアのお話を聞かせて下さい。まずサッカーを始めたのは何歳の頃ですか?

A:幼稚園の年中なので4歳です。幼稚園のチームみたいな所で、遊びみたいな感じでしたけど、サッカーを始めました。最初は野球とサッカーとどっちをやろうかと親とも話していたんですけど、まあ野球が下手で(笑) 親に「サッカーをやった方が良い」と言われて。たぶん親はどっちかと言うと野球をやって欲しかったみたいなんですよね。野球好きだったので。でも、現実的なことを考えてサッカーを勧めてくれました(笑)

Q:4歳でその才能を見抜いてくれたことが、結果的に今の職業に繋がっていますからね。

A:そうですよね。親にそういう見る目があったんですかね。そんなことないと思うんですけど(笑) そんなにスポーツと深く関わりのある家ではなかったので。

Q:兄弟構成で言うとお姉さんと妹さんですよね。幼稚園からサッカーを始めるパターンは、お兄さんがサッカーをやっていたからみたいな感じは多い気がしますが。

A:そういうのはうらやましかったですね。例えばお兄ちゃんがいたら、目標がお兄ちゃんになって、一緒にサッカーをできたりもしますし、「追い付け、追い越せ」みたいになるじゃないですか。そういうのが凄くうらやましかったですけど、僕は上も下も女の子だったので、そっち系の女の子の遊びの方に流れていましたね。

Q:おままごととかですか?

A:そうですね。"シルバニア"とか。

Q:"シルバニアファミリー"!ウチにもありましたよ。ウサギの家族の(笑)

A:そうそう(笑) そっち系でした。シルバニアファミリー系?(笑) だから、電車とか車にも全然興味がなかったですし、そっち系でしたね。

Q:幼稚園のチームは大会にも出るようなチームだったんですか?

A:いえ、そういう感じではなかったですね。何回か試合をやったぐらいで。ただ、今でも覚えているのは幼稚園の最初の試合で、転んだ所の上から頭を踏まれて、その日は雨が降っていてドロドロの中でやっていた試合で、バシャーンってなって泣きながら母親の所に行って(笑)、試合を抜けて一緒に顔を洗いに行ったというのは忘れられないです(笑) それは母親も多分覚えていると思います。

Q:サッカーにはすぐにのめり込んだ感じですか?

A:はい。やっぱり楽しかったので。周りにもそういう友達がいたというのもあったんですけどね。

Q:そうすると"シルバニアファミリー"で遊んでいた少年が、だんだん外でサッカーをするようになっていったんですね。

A:そうですね。サッカーがなかったら、ずっと家でそういう遊びをするような子に育っていましたね。サッカーが唯一外で遊ぶ機会だったので、それは良かったかもしれないです。

Q:小学校は大泉西小学校で、大泉西ハリケーンというチームに入っていたんですね。これは小学校のチームですか?

A:そうですね。小学校のチームで、5年生の夏くらいまでやっていて、その頃に友達と僕が慕っていたコーチの方と「もう少し上を目指そうか」という話になって、サウスユーベに5人ぐらいで行ったんですよね。ハリケーン自体は練習の回数も多くなくて、サウスユーベの方が練習が多くて、「いっぱいサッカーをやりたい」という気持ちがあったので、行かせてもらうことになりました。

Q:大泉西ハリケーンはどういうチームでしたか?

A:普通の小学校でサッカーが好きなヤツが集まっているチームで、良いチームでしたけどね。良いチームでしたけど、やっぱり「もっといっぱいサッカーをしたい」という気持ちが強かったんですよね。その時は何人か同級生の中に「オレは行かない」という感じでハリケーンに残ったヤツもいて、それに関しては少し申し訳ない気持ちもありました。

Q:サウスユーベFCはどういうチームだったんですか?

A:サウスユーベは「とにかくいっぱいボールに触って上手くなろう」というチームで、絶対に練習の最初はリフティングから始まるんですよ。ピッチの横幅を使って、行きは"インステップだけ"、帰りは"インサイドだけ"とか、"右足だけ"とか"左足だけ"とか順番があるんですよね。それができないと、また元に戻ってやり直しなので、ずっとインステップから次に進まないヤツとかいますし(笑)、できるとどんどん難しいステップに進んで行くんですよ。それを毎日やっていたので、その頃にリフティングは上手くなりましたね。楽しかったです。それで空中のタッチの感覚は掴めるようになりましたし、色々な部分を使っていると、色々な動きが出てくるので、小さい頃とかはそういう動きも大事だと思いますし、リフティングは良いと思いますね。

Q:サウスユーベは強さで言うとどのくらいだったんですか?

A:僕らの頃は練馬で優勝したりとか、3位になったりとかで、区内では優勝しないといけないチームでした。そこから都大会に出てどれだけやれるかという感じでしたね。

Q:例えば全少の予選だと都大会には出るくらいの感じですか?

A:そうですね。全少の都大会は確かヴェルディに負けたんですよ。練馬区内では強い方でしたね。それだけ強かったからこそ、行きたいという気持ちがあったんです。黄色のユニフォームで結構目立つんですよ。カッコいい感じで。憧れのチームという感じで、僕の代のスター選手みたいなヤツも何人かサウスユーベにいて、彼らと一緒にやるのも楽しみでしたし、実際に一緒にやれて良かったなと思いましたね。練馬のトレセンもサウスユーベの選手が多かったですし、良い選手が多かったです。

Q:ご自身は選抜にも入っていたんですか?

A:練馬の選抜には入っていましたけど、都選抜には入っていないです。だから当時も練馬区内ではそれなりにやれていましたけど、都に行ったら全然有名な選手ではなかったですし、活躍はできなかったですね。練馬区のトレセンがあって、その上に地域トレセンがあって、その上に東京のトレセンがあるんですね。その地域トレセンには行っていて、練馬区、杉並区、中野区あたりが集まってやるんですけど、そこから上には行けなかったので、地域止まりという感じでした。

Q:同い年のヴェルディで言うと、高木俊幸(浦和)、高橋祥平(神戸)、大学で一緒になる北脇健慈(東京V)もいたと思いますが、小学6年の時の東京で一番のスーパースターは誰でしたか?

A:ヴェルディに児玉宗土(東京Vユース→国士舘大)というフォワードの選手がいて、その選手はもう強烈でしたね。左利きでインパクトが凄くありました。あの時のヴェルディは誰が見ても彼がエースでしたから。あとはヴェルディには碓井鉄平(長野)もいて、「コイツ上手えなあ」と思いました。後々同じチームでやるんですけどね。

Q:それこそ今おっしゃった碓井選手とも出会うことになるFC東京U-15むさしですけど、一期生じゃないですか。他に先輩もいないような状況だったと思いますが、なぜむさしだったんですか?

A:なるべく高いレベルのチームでやりたいなと思っていた中で、いくつかのチームのセレクションも受けに行っていて、たまたまむさしに合格させてもらったんです。僕がセレクションを受けた中でも一番レベルの高いチームでしたし、そこに行かない選択肢はなかったですね。元々第一希望だったので良かったです。

Q:一期生って先輩もいなくて、1年生だけでやる訳じゃないですか。最初の頃ってどうだったんですか?

A:結構違和感はありましたよ。公式戦もないですし、先輩もいないという中で、間違いなく良かったのは先輩がいない分、自分たちだけが密度濃くトレーニングできるじゃないですか。ピッチもフルに使えて。そういう所は良かったのかなと思いますね。でも、僕自身は入った時も一番小さくて細かったですし、見た目で言ったら"親"ぐらいのヤツもいましたし、もうみんな先輩みたいな感じでしたよ(笑)

みんな大きくて同い年に見えなかったです。親も「これだけ小さい子がこんな選手たちの中でできるのか」というのを一番心配していて、その時の監督だった天野さん(天野賢一・浦和コーチ)も、最初に親と面談するんですけど、最近会った時も「祥の親御さんは凄く熱心で、祥がやっていけるのか凄く心配していたんだぞ。俺はその印象が本当に強いんだ」と言われました(笑)

Q:ご本人も親御さんが心配していることは知っていたんですか?

A:まあ「親が心配していても関係ないだろ」と(笑)、そういう感じでした。確かに当時はチームの中でもダントツで細くて小さかったんですよ。だから、スピードとパワーで簡単に潰されていましたからね。

Q:それでも技術は通用するなという感じですか?

A:はい。そっちではある程度やっていましたけど、それでもやっぱり限界はあって、潰されることが多くて、色々なツラい経験をした中学時代ではありますね。

Q:周りにも重松健太郎(町田)、梅内和磨(盛岡)、碓井鉄平のように結果的にプロになる選手がいたと思いますが、やっぱりかなりレベルも高かったんですよね?

A:はい。1個下には廣木(雄磨・山口)もいましたしね。まあ「凄い所に来ちゃったな」と思いました(笑) 正直「ヤベー」と思っていましたけど、それでも必死に練習していた感じで、本当にギリギリで食らい付いていたという感じですね。それでもそんな中で練習が終わった後も、天野さんが居残り練習に付き合ってくれたり、色々なアドバイスをくれたりしていたので、あの人がいなかったら僕はあそこで潰れていたと思います。それぐらいレベルは違いましたから。

Q:もちろんチームを辞めるという選択肢もあるにはあったと思うんですけど、そこを自分に踏みとどまらせたのはどういう所だったんですか?

A:うーん... でも、そこで辞めたりしたら"負け"だと思っていたので、それは絶対に嫌だなと思っていましたし、結局天野さんがそうやって気にしてくれて、色々なサポートをしてくれていたので「もっと頑張ろう」とも思えましたし、練習前にも早く来て色々と付き合ってくれたりもして下さったので、本当に頭が上がらないです。本当に恩師ですよ。今でもたまにゴハンに行ったりもしますし。

Q:そう考えると今シーズンの埼スタでゴールを決めたことなんて、すごく喜んでくれたんじゃないですか?

A:本当にそうですよね。天野さん的にはあまり喜んではいけないんでしょうけど(笑)、そういう感慨深い部分はあったかもしれないですよね。

Q:中学3年の最後の高円宮杯で全国準優勝するじゃないですか。準決勝には途中出場されていましたけど、決勝では出場機会がなくて、完全なレギュラーという形ではなかったと思いますが、あの全国準優勝という結果はご自身にとってどういうものでしたか?

A:うーん... 結局試合にも出られなかったですし、もちろんチームが準優勝できたというのは凄いことだと思いましたけど、ほぼほぼ悔しさの方が大きかったですね。今になっても「準優勝したから良い思い出だな」とは言えないです。

Q:そうするとむさしでの3年間は悔しいことの多かった時期という感じですか?

A:そうですね。そこでの3年間がその後の反骨心になって、常にエネルギーになっていたので、そういう意味でもあの経験は大きかったなと思います。高校時代も「アイツらには絶対負けねえ」と思っていました。東京の高校にもむさしのチームメイトは結構いましたし、それこそU-18に上がった選手もいて、「コイツらには絶対に負けねえぞ」とずっと思っていましたね。

Q:むさしの中では誰が一番強烈でした?

A:重松健太郎は強烈でしたね。ユースに上がった年森勝哉(FC東京U-18→東洋大)もそうですし、碓井鉄平も上手かったですし、深川にも上手い選手はいっぱいいましたからね。だから、ライバルとも呼べない選手ばかりだったと思います。

Q:重松君はキャラクターも強烈で、U-18の時も試合中にサポーターから「キレないで!」とか言われてましたからね(笑)

A:健太郎とか今でもそういう所があるじゃないですか。「ああ、変わんないな」と思いますよね。プレーを見ていても「変わんないな」と思います。

Q:ギラギラしていますよね。

A:そうそう。アレが健太郎の良さだと思いますし、「そんなに人って変わらないんだな」と思いますよね(笑)

Q:高校は帝京に進まれる訳じゃないですか。当時のむさしからは山梨学院に行った選手も多かったですし、東海大菅生にも2人行ったと思いますけど、帝京を選ばれた理由はどういう所からだったんですか?

A:まず第1希望としてはU-18に上がりたかったというのがあって、それは叶わないということになった時に、やっぱりある程度レベルが高くて上を狙えるチームに行きたいという想いはあって、いくつか高校をピックアップしていたんですけど、帝京はグラウンドが実家からも近かったんですよ。それで通いやすいというのもありましたし、帝京に練習参加してみて「自分に足りないモノがここにあるんだろうな」ということを、何となくその時の雰囲気で感じて、自分がスタイルに合うとか合わないとかじゃなくて、「足りないモノを埋めないとダメだな」と、中学生ながらに直感みたいな感じで思って、「1回ここで鍛えられた方が良いな」と思って行きましたね。

Q:まあ想像以上に鍛えられたんでしょうけどね(笑)

A:想像を何十倍も超えていましたよ、本当に(笑) もう今は同じことをやれないです。高校時代は凄まじかったです。今でも高校時代の友達とそういう話になると止まらないですよ。「あんなこともあった」「こんなこともあった」って(笑) いくらでもありますよ。

Q:先ほどおっしゃっていた帝京で手にしたかった「自分に足りないモノ」というのは、どういう所だったんですか?

A:まずフィジカル的なベースが全然なかったので、「そこは付けないといけないな」と思いましたし、精神的にもちょっと"甘ったれ"みたいな感じもあって、それも女兄弟に囲まれて育ったところもあったのかなと。親も結構大事にしてくれる所もありましたし。

Q:それって実際は素晴らしいことなんですけどね。

A:そうなんです。それが今になってみると、良い方向にも繋がっているんですよ。それは思いますね。

Q:育ちが良さそうですから(笑)

A:そうですか?親に感謝します(笑) ただ、サッカーをやる上ではそれだけでも厳しかったりもするので、そういう部分は帝京にあるのかなと思いました。

Q:実際に入ってみた帝京はいかがでしたか?

A:もうすべてが衝撃的でした。今まで自分が生きてきた世界観と違い過ぎて。だから、私生活もサッカーも学校生活もすべてが違う感じでしたね。

Q:何が一番違いました?

A:もちろん練習のキツさ、練習の量、練習の時間も違いますし、先輩との上下関係も全然違いますし、生活態度の厳しさも全然違いましたし、そういうのはそれまでの僕になかったモノだったので、結構慣れるまでには時間が掛かりましたね。帝京自体が髪型や服装とか、身なりにも結構厳しいですし、挨拶にも厳しいですから。

帝京の生徒は学校で会った大人には全員が挨拶するんですよ。先生も含めて毎回挨拶しますし、その中でも特にサッカー部と野球部は厳しくて、先生が通ると廊下の端から端まで「こんにちは!!」という声が飛び交っていましたからね(笑) 中学の時はむさしに先輩がいなかったこともあって、そういうノリもよくわからなかったので、最初の頃は凄く違和感がありましたね。

Q:またクラブチーム育ちだと、周りからもそういう風に見られがちな部分もありますよね。

A:そうです。またFC東京出身ということで目立つ部分もありましたし、先輩とはなるべく当たり障りのないような関わりを心掛けて。そういうのは高校時代で身に付いたかもしれないです。「変に目に付き過ぎないように生きる」という(笑)

Q:1年生の時はトップチームのゲームに絡むのは難しかった感じですか?

A:難しかったです。Bチームに入れてもらっていましたけど、まだ小さくてヒョロヒョロで体も大きくなかったですし、その時の3年生にはかなり良いメンバーがいて、新裕太朗(シドニー・ユナイテッド58FC/AUS)さんとか浦田(延尚・愛媛)さんとか大久保択生(長崎)さんとかがいて、椎名(正巳・帝京→中央大)さんも上手かったですし、とにかく凄いメンバーがいたので、「サッカーでは及ばないな」と思っていました。オーラもありましたからね。

Q:どのくらいから「自分も帝京でやって行けるな」という手応えが出てきた感じですか?

A:浦田さんの代の3年生が卒業して、僕が2年生になってトップチームに上げてもらって、その時は「まだ試合に出るのはちょっと厳しいかな」という感じだったんですけど、治るまでに23ヶ月くらい掛かるケガをしたんですよ。その間に筋トレとかをやりまくって、体が結構大きくなったんですよね。それである程度フィジカル的なベースが付いて、復帰したら凄くプレーに余裕が出て、「あ、コレは結構イケるな」と思って、そこからスタメンで出させてもらえるようになったんですよね。夏か夏前くらいの頃だったと思います。

Q:その頃には身長も少し伸び始めていた時期ですか?

A:その頃は伸び始めていました。そのあたりがかなりのターニングポイントだったかもしれないです。体も大きくなって、復帰した時のそれまでと見える世界が違う感じもそうでしたし、離脱中にずっと練習を外から「ここはこうした方が良いな」とか自分で思いながら見ていたので、色々なことが頭で整理できてわかっていて、復帰した時にそれが意外にピッチで出せたことで、余裕が出てきたのかなと思いますね。

Q:技術は当然むさしや帝京に入れるくらいですから、かなりのモノがあったんだと思いますけど、きっとフィジカルが付いたことで元々あった技術がより生きた部分もあったんでしょうね。

A:それはありますね。帝京ではやっぱりフィジカル的なベースがないと、なかなか試合に使ってもらえないですよね。スピードが物凄くあったりするとまた違うんですけど、そういう選手ではなかったですし、そのフィジカルを付けるのは「マストだな」と思っていたので、そこはこだわってやっていましたね。

Q:2年生の時の選手権はレギュラーとして予選も勝ち抜いて、全国大会に出た訳ですけど、いわば初めて自分で勝ち獲った全国大会ですよね。どういう思い出がありますか?

A:もちろんある程度1年を通じて試合に出させてもらっていたというのはありましたけど、やっぱり先輩の存在がまだ大きかったので、「何とか足を引っ張らないように付いて行こう」という感じで、「自分が導いてやった」というようなことを言えるような存在ではなかったですね。

Q:1個上には伊藤竜司(東京23FC)がいましたね。

A:あの人は存在感がありました。高校レベルであの人に対人で勝てる選手はそういなかったですから。そのくらい速くて強かったですよ。浦田さんもそうでしたけど、あの2人は本当に"帝京のセンターバック"という感じですよね。

Q:全国大会は結構悔しい負け方でしたよね。

A:僕がPKを外して負けたんですよ。懐かしいですねえ。その時に負けた日もホテルにもう一泊したんですけど、ずっと一緒にいてくれたのが奥山慎(帝京→中央大)さんだったんですよ。

小野広報:アイツは熱いヤツですからね。

(※小野広報と奥山さんは中央大の先輩後輩)

Q:そうか。年も越していないんですね。

A:僕たちは2人で年を越しました(笑) ずっと僕の部屋で一緒に話していて。だから僕にはずっとあの人に恩があるんですよ。本当に優しい人で。その時のことで今でも忘れられないのが、3年生はもう引退じゃないですか。当時の帝京は試合や遠征の時に絶対コンビニに寄ってはいけないんですよ。それがバレたら結構ヤバいんですけど、「3年生はおつかれさん。もうコンビニ行っていいぞ」となって、「よっしゃー」って解禁されたんですけど、「1,2年生は来年も頑張らないといけないんだから、オマエらはダメだ」ということになって、「マジか~ 今日くらいいいじゃん」とか言っていたんですけど、慎さんがコンビニで僕の分も買ってきてくれて、「コレ一緒に食べようぜ」って(笑) 本当に優しくて。

Q:何を買ってきてくれたんですか?(笑)

A:甘いモノです。ケーキだったかアイスだったか、とにかく甘いモノを(笑)

Q:メッチャ良い話ですね(笑)

A:良い話ですよ。慎さんは一番仲が良かったので、今でも連絡を取り合っています。この話はあったかいエピソードですよね。

Q:キャプテンも務めていた3年生の時の1年間はいかがでしたか?

A:プレッシャーはありましたね。僕は性格的にみんなをガッと引っ張るタイプではなかったですし、1年や2年の時にも学年のキャプテンみたいなヤツは他にいて、3年になった途端に(廣瀬龍)監督から「オマエがキャプテンやれ」って言われて、最初は断ったんです。「僕はそういうタイプじゃないんで」と。しかも選手間でキャプテンは誰がいいかという投票もしていて、もちろんそれまで学年のキャプテンをやっていたヤツにほぼほぼ票も集まっていて、龍さんも「何で祥に1票も入ってないんだ?」って(笑)

Q:1票も入っていなかったんですか?(笑)

A:僕は全然そんなタイプじゃなかったですからね。ですけど、「オマエがやれ」と言われて、「そんなに言われるならやるしかないな」と腹を括ってやったんですけど、1票も入っていないヤツがキャプテンをやるって結構なプレッシャーじゃないですか(笑)

Q:失礼ですけど、周りは認めていない訳ですからね(笑)

A:そうですよ。それって結構嫌じゃないですか。でも、「これはオレも変わる良い機会だな」と思って、吹っ切れて色々な所から変えたりしましたね。だから、ちょっと無理していた所もあったので、プレッシャーはありました。

Q:キャプテンは途中ぐらいからしっくり来るようになったんですか?

A:もう本当に秋ぐらいで、最後の方ですね。夏場は色々と苦しんでいました。龍さんにも色々とアドバイスをもらったりしましたけど、そう簡単に人って変わらないですからね。でも、キャプテンってちょっと"キャラ"的なものもあるじゃないですか。だから、半年ぐらいキャプテンをやったら、周りも僕がキャプテンという"キャラ"だと認識するので、僕も色々と言いやすくなりましたね。キャプテンになってからは、結構キツく言っていましたよ。同い年にもそうですし、後輩にもそうですし。だから、特に後輩は嫌がっていたヤツも多かったと思います。それでも結構言っていました。「嫌われてもいいや」と思っていましたし。

Q:まあ帝京のキャプテンですからね。ちょっと重みが違いますよね。

A:龍さんも「オマエが嫌われ者になれ」ってよく言っていたんですよ。僕らの代は結構仲が良い代で、それが良さでもあったと思うんですけど、それが強くなり切れない部分でもあったりしていたので、「オマエが嫌われ者になってかき乱せ」と言われて、「え~、嫌だよ」と思いながら(笑)、もう無理やりそういう風に持っていって、変にみんなと群れないようにもしていましたし、色々やっていましたね。

Q:10何年前は"シルバニアファミリー"で遊んでいた子が(笑)

A:本当ですよ。僕の本性は"シルバニアファミリー"なんですよ(笑)そんな嫌われるような発言をするヤツではないんです。でも、それをやらないといけないとなった時には、結構しんどかったですね。

Q:そういう悩みを相談できるような人は周囲にいたんですか?

A:同い年の副キャプテンにたまに話したりしていましたけど、僕は基本的に今でも何かあってもあまり人に相談しないタイプなんですよ。だいたい自分でいつも消化していくタイプなので、あまり人には言わなかったですね。

Q:選手権で3年連続全国に出なくてはいけないという、成績的なプレッシャーもかなりあったんじゃないかと思いますけど。

A:そうですね。もちろん「選手権に出ないといけない」というプレッシャーは相当強かったですし、帝京自体が東京でもずば抜けて強かった訳ではなかったですからね。

Q:正直、成立学園の方が選手も揃っていた印象でした。

A:そうですね。僕の代の成立には良いメンバーがいましたし、普通にやったら負ける相手でしたから。でも、一発勝負になるとああいう帝京の強さとかが出てくるのかなと思いますよね。

Q:準決勝と決勝の間にケガをされたんですよね?

A:そうです。しかも"砂浜"の合宿でケガしたんですよ。地獄の合宿で(笑) 強化しに行ったのに、ケガして試合に出られないという(笑)

Q:"砂浜"の合宿って凄いですね(笑)

A:それは1年生の時からあったんですけど、1年生の時が一番キツいですよ。先輩も一緒にいるので、先輩からマッサージや洗濯をお願いされますし、朝、午前中、午後とボールを使わずに走るだけなので、それが帝京で一番キツかったですね。

Q:いつもその時期にあるんですか?

A:夏合宿で行って、3年生が引退して新しい代になった時に行って、あとは大会の前にも行くんですよ。インターハイ前、選手権前って。いつも決まった宿舎で、決まった砂浜で。宿舎から砂浜まで30分くらいなんですけど、毎回走って行くんですよ。朝、午前中、午後ってあるのに、毎回往復1時間も走るんです。それだけで3時間も掛かっているんですよ(笑) あれはしんどかったなあ。8人ぐらいで横一列になって走って、全員が決まったタイムに入らないとカウントされないので、1年の時は本当に地獄でしたね(笑) キツかったなあ。

Q:でも、その合宿でケガをして、高校生活最後の選手権予選決勝に出られるか出られないかの状況で、しかもキャプテンだった訳じゃないですか。それって結構大変ですよね?

A:結構大変でしたけど、龍さんも含めてドクターの方も色々なサポートをして下さっていたので、それはありがたかったですけどね。

Q:決勝は延長後半から出場して、PK戦でPKも決めて優勝しましたけど、相当嬉しかったですよね?

A:もちろん嬉しかったですけど、ホッとしたというのが一番でしたね。「自分たちの代で全国を途切れさせたら...」というのがあったので、ホッとしたのが一番でした。でも、正直そんなプレーできるようなケガの状況ではなかったので、あの時は結構無理して出ていました。痛み止めの注射を打ってもらって。ドクターにわざわざ試合会場まで来てもらったんですよ。

Q:決勝で当たった成立は戸島章(町田)、柿木亮介(藤枝)、田辺圭佑(琉球)と3人ものちのJリーガーがいて、かなり強かったですよね。

A:かなり強かったです。僕らも「普通にやったら厳しいな」と思っていたんですけど、僕らが1年の時の浦田さんの代もそうだったんですよ。成立にはえげつないメンバーがいたので。

Q:大津祐樹(柏)、菅野哲也(長野)、舞行龍ジェームズ(新潟)、小檜宏晃(tonan前橋)ですね。あの時も準決勝で帝京がPK戦で勝って。小檜はホント凄かったですよね。

A:あの人はマジで上手かったです。成立は僕が高校生だった頃は、不思議とそういう運命みたいな所もありましたね。

Q:全国大会は開幕戦で負けて、稲垣選手も結局後半しか出られなかったと思いますが、当時の思い出としてはいかがですか?

A:まあ開幕戦でゴールも決められましたし、「もういいか」と(笑) 良い思い出になりました。今思うとですけどね。良い思い出ですよ。それであそこから山本大貴(松本)がフィーバーしたじゃないですか。

Q:相手のルーテル学院にいたんですよね。

A:アイツが今でもああやって松本でプレーできているのは、帝京のおかげだと思って欲しいんですよね(笑)

Q:大会得点王でしたよね。

A:そうですよ。アイツはウチらとの試合で波に乗っていったので。結構なスーパーゴールを決めさせてあげましたから(笑)

Q:感謝して欲しいと(笑)

A:当時の帝京の選手はみんなそう思っているはずです(笑)

Q:改めて振り返ると帝京の3年間というのはいかがでしたか?

A:うーん... もちろんほぼツラいことばかりでしたし、大変なこともたくさん経験しましたけど、今こうやってヴァンフォーレでプレーできているベースというのは、間違いなく帝京時代にあるとは思うので、あの3年間は自分にとってなくてはならないモノでしたね。

Q:良い思い出という感じですか?

A:すべてひっくるめれば良い思い出でしたし、今となれば笑い話として色々な話ができますし、今から考えれば凄く楽しい3年間でしたね。戻りたくはないですけど(笑)

Q:稲垣選手が3年生の時に出て以来、帝京は全国から遠ざかっていますけど、今の母校に対して思うことはありますか?

A:僕が何を言える立場でもないですけど、たぶん選手は選手で懸命に頑張っていると思うんです。今は松本にいる柳下(大樹)が3年生の時に、僕も大学4年で教育実習で帝京に行っているんですね。だからそういう代とかを見ていて、今は結果こそ出ていないですけど、「選手は本当に頑張ってやっているんだな」というのは知っていますし、変なプレッシャーを感じずに頑張ってほしいですけどね。

Q:やっぱり今の帝京って、全国優勝していた頃に比べればそこまで選手も集まっていない中で、それでもあのユニフォームや学校の名前自体で物凄いプレッシャーが掛かると思うんですけど、その気持ちはわかる感じですよね。

A:わかります。凄くわかりますし、OBの方からもその重みを言われたりしますからね。だからこそ、その重みを感じながらやって欲しいですけど、やっぱり選手は伸び伸びやらないと良いモノは生まれないですし、個人の成長もないと思うので、そこは本当に伸び伸びとやって欲しいなと思いますね。

Q:これを最後の質問にしたいんですけど、今って楽しいですか?

A:楽しいです。楽しいですよ。もちろんプロに入ったら、今までのアマチュアの時とは違うプレッシャーの掛かり方とか、精神的に凄くナーバスになったりすることもあるんですけど、やっぱりあのピッチでプレーできている幸せというのは感じますし、あの応援をバックにプレーできているというのは、何回やっても幸せだなと思います。それは普通の人には経験できないことだと思いますし、凄く楽しいですし、幸せですし、これから先ももっとサッカーをやっていきたいと思います。

【プロフィール】

FC東京U-15むさしを経て、帝京高時代に高校選手権で全国に2年連続出場。日本体育大で自らの評価を高め、2014年に甲府へ加入。ルーキーイヤーから出場機会を得ると、現在は複数ポジションをこなすポリバレントさで、チームの重要なピースとして活躍している。


※所属チームを含めた情報は、当時のものをそのまま掲載しています。

ご了承ください。

取材、文:土屋雅史

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