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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年03月17日

Pre-match Words ~名古屋グランパス・田口泰士編~(2016年10月21日掲載)

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【Pre-match Words 名古屋グランパス・田口泰士編】

(2016年10月21日掲載)

Q:ここからはキャリアのお話を聞かせて下さい。サッカーを始めたのは4つ上のお兄さんの影響ということですが、何歳の時に始めたんですか?

A:幼稚園ぐらいじゃないですか。ずっとボールを蹴っていましたよ。幼稚園の頃からの傷がまだあるくらいなので。ココですけど(と、膝の傷跡を見せて)。

Q:泣きました?

A:泣いてないです。血をダラダラ流しながら、またやっていましたよ(笑) それだけは覚えています。幼稚園のグラウンドでボールを蹴っていて、ちょうど石の塊みたいな所で転んで、ダラダラと。良い思い出ですけどね。傷も残っていますし(笑)

Q:小学校は小禄南小学校で、チームがFC南スポーツ少年団ですね。何年生から入れるチームだったんですか?

A1年生から入れました。1年生で入って、すぐに1回止めたんですよ。友達もできて、遊びたかったので(笑) でも、「やっぱりサッカーがやりたい」となって、また始めてという感じですね。

Q:どのくらいやっていなかったんですか?

A1年経つか経たないかぐらいじゃないですかね。2年生の時はもうやっていたと思うので。

Q:サッカー以外のどんな遊びをしたかったんですか?

A:何をしたかったんですかね(笑) 1年生の頃とか友達と何してたんだろうなあ。でも、僕は釣りが好きだったので、今も好きですけど、よく父親と行っていましたね。

Q:パッと思い出すのは"釣り"ですか?

A:そうですねえ。釣りとか、海とかプールも行っていましたね。

Q:何でサッカーに戻ろうと思ったんですか?

A:何でですかね(笑) やっぱり好きだったからじゃないですか。

Q:その時にサッカーに戻っていなかったら、今頃は"釣り師"とかになっていたんじゃないですか?

A:本当に僕の昔の夢は漁師か学校の先生だったんです。体育の先生になりたくて。

Q:好きな体育の先生がいらっしゃったんですか?

A:そうですね。何か見ていて「いいなあ」と思って。「楽しそうだな」というか。僕自身が体育が好きだったからかもしれないですけどね(笑)

Q:FC南スポーツ少年団は沖縄県内でも強いチームだったんですか?

A:強かったですね。今でも交流がありますけど、指導者が素晴らしかったので。全国大会にも出ましたよ。僕が5年生の時に全少(全日本少年サッカー大会)に出ました。何もできなくて泣いて帰ったのを覚えています。グループリーグで同じグループにガンバがいたんですけど、「ヤベーな、コイツら」と思って、悔しい想いを抱えながら沖縄に帰ったのを覚えていますね。

Q:それがサッカーキャリアの中でも初めて受けた"全国の衝撃"みたいな感じですか?

A:そうですね。そこが一番じゃないですか。当時も九州大会とかに行っていて、明治北SSCの清武兄弟(弘嗣、功暉)がメッチャ有名でしたし、あとは鈴木惇さん(アビスパ福岡)も凄かったんですよ。有名な人がいっぱいいたので、そこでも多少の衝撃は受けましたけど、全国大会では特別に"食らって"帰りましたね。

Q:たぶん当時の沖縄では上里琢文(JPボルテスFC/フィリピン)が同い年でナショトレにも入っていましたし、名古屋へ一緒に入団した久場光もいたと思いますけど、あの2人は当時からのライバルという感じですか?

A:ライバルというよりメチャメチャ仲が良かったんですよ。琢文は家が宮古島なので、県選抜の練習となるとやっぱり"本島"でやるじゃないですか。そのたびに毎回僕の家に泊まっていて(笑)、毎回一緒に遊んで、練習して帰ったらまた遊んでみたいな。当時の宮古島にはマクドナルドがなかったんですよ。

Q:今はあるんですかね?

A:今はあるんです。この前のオフに自分の目で確認してきたので(笑)

Q:確認してきたんですね(笑)

A:はい(笑) 当時はなくて、琢文は僕の家に泊まった時にお昼ゴハンは絶対"マック"でしたよ。「食べたい!食べたい!」って言って。ムチャクチャ食べてました。「なかなか食べられないから」って。宮古島から団体で来た時もアイツはマックに行って、団体だからもらえたのかわからないですけど、無料券みたいなのをメッチャ持っていて、僕もそれをもらってマックでムチャクチャ食べまくったのを覚えています(笑)

Q:じゃあ上里選手との思い出は、サッカーというよりマックなんですね(笑)

A:そうなりますね(笑) 今でも仲が良いですからね。沖縄に帰った時には一緒に遊んだりしますし。アイツも今はフィリピンで頑張っていますから。

Q:小学6年の終わりにその上里選手とナショトレに参加されたと思うんですけど、その時に受けた衝撃もあったんじゃないですか?

A:ありましたよ。今でも覚えているんですけど、ナショトレでJヴィレッジに行って、マナブ(齋藤学・横浜FM)と同じ部屋だったんですよ。僕も相当"子供"だったと思うんですけど、そんな僕から見ても「なんだ、この"子供"は」っていうぐらいの感じだったんです(笑) もちろんマナブとは仲が良いんですよ。それでもそう思って、何なら「ちょっと飛び級で来ているのかな」と思うぐらい年下に見えたんですよ。

Q:今でも結構童顔ですからね。

A:その時から顔は一緒です(笑) でも、ピッチに出たらキュンキュンなんですよ。「何だ、コイツは」と。「漫画の世界じゃないか」って(笑) 凄く衝撃的だったのを覚えています。あとは仲が良かった清武功暉も一緒にいて、当時の写真とかを見ると凄く懐かしいですよね。

Q:齋藤選手にライバル心はあったんですか?

A:いえ、そういうのはなかったです。「凄いなあ」という感じでしたね。

Q:進学された小禄中学校はそれこそ喜名哲裕(FC琉球U-18監督)、我那覇和樹(カマタマーレ讃岐)、赤嶺真吾(ファジアーノ岡山)、當間建文(松本山雅FC)と錚々たる人たちを輩出していますけど、相当強い中学だったんですよね?

A:強かったですね。昔から小禄やその近辺というのはサッカーが盛んな地域だと思いますし、良い指導者の方も凄くたくさんいて、僕がいた頃の小禄中の指導者の方も素晴らしい方でした。僕の兄もお世話になっていた方で、県選抜の担当もされていて、僕は兄の試合や練習が近くでやっている時は付いて行っていたので、向こうも僕のことを知っていましたし、本当に小さい頃からお世話になっている方だったんですよね、そういうのを見て育ってきたので、「そういう方にサッカーを教わりたい」と思っていました。

Q:小禄中サッカー部での3年間はいかがでしたか?

A:小学校も中学校も高校も、それこそ今も含めて僕は環境に恵まれて育ってきているので、中学校の時も良い環境の中でやらせてもらえたと思います。周りの先輩たちも上手かったですし、それこそ2つ上には當間選手もいましたし、上の代はメチャクチャ強かったですよ。1つ上の代のチームは、スタメン11人全員が沖縄県選抜みたいな感じでしたからね。山梨でやった全国大会でも確かベスト8まで行って、そこで国見中に負けたんですよ。国見には山村(和也・セレッソ大阪)選手がいたらしいです。小学校も中学校も高校も1つ上が強かったんですよね。

Q:確かに小学5年と中学2年で全国に出て、高校2年は全国二冠ですからね。

A:そういう所は凄く恵まれていましたね。

Q:中学1年の時にダノンネーションズカップでフランスに行っていますよね。田口選手は早生まれですから、小学6年の多いチームだったと思いますけど、その大会はいかがでしたか?

A:「何で僕が入ったんだろう?」って感じたのは覚えています(笑) 全然意味がわからなかったですね。それこそ「ナショトレで目に付いた選手が行けるよ」ということはチラッと聞いてはいたんですけど、マナブの衝撃でそんなことは忘れていたのに、なぜか選ばれて「絶対間違いでしょ」と(笑) 元気(原口元気・ヘルタ・ベルリン/GER)もいましたし、あとは森保(翔平)選手とチャジ(茶島雄介・サンフレッチェ広島)もいました。

Q:サッカーでフランスに行くとか、結構良い経験ですよね。

A:初めての海外遠征がフランスだったので、何か凄かったですよ。「食事会場からエッフェル塔が見えます」みたいなホテルで、そんな所に小学6年とか中学1年で行ってもという感じですよね(笑) もうちょっと大きくなってから行きたかったです。朝ゴハンでオシャレなパンを食べてとか(笑)

Q:そんな沖縄で育ってきた少年が、流通経済大柏高校を選んだのはどういう理由からですか?

A1つ上に比嘉祐介(ジェフユナイテッド千葉)さんがいて、それこそ小学校の頃から知っていて、県選抜でも一緒だったんですけど、昔からああいうキャラクターの人で、良い人だったので親交もあったんです。そうしたら電話が掛かってきて、「来いよ」みたいな(笑) その時にまず僕は「どこ?」って言ったんですよ。流経柏を知らなくて。「オレたちの代が強いから」という風に言い出して、「ハイ、始まりました」と(笑)

Q:それがいつもの感じなんですね(笑)

A:「マジでオレたち強いからオマエも来いよ」と。それで何か気になって千葉県のことを調べたら、決勝で市立船橋に負けたりとか、準決勝ぐらいまでは必ず行っているようなチームだったので、「何か面白そうだな」と思ったんですよね。本当は当時も兄の試合をよく見に行っていて、兄は豊見城南という高校に通っていたんですけど、選手権予選の決勝で那覇西に負けたんです。兄は点を取ったんですけど、試合に負けたのを見ていて、僕がメチャクチャ悔しかったんですよ。それで「僕も豊見城南に行って那覇西を倒してやる!」と思っていたんですけど、結局流経に行っていましたね(笑) でも、当時は沖縄を出て県外でサッカーをやる選手が僕にはカッコ良く見えていたんです。

Q:それこそ赤嶺選手も鹿児島実業ですし、當間選手も東海大五ですしね。

A:そういうのを見てきていて、たぶん小さい時から憧れがあったと思うんですよね。選手権にも凄く憧れがあったので。でも、半分以上は"ノリ"で沖縄を出ました。親元を離れるとか、沖縄の友達の元を離れるということを、あまり深く考え過ぎずに決断しました。案の定、最初はメチャクチャ寂しかったですけどね。

Q:その時は泣きました?(笑)

A:泣きました(笑) 練習もとにかくキツいですし、4人部屋の寮生活で"地獄"みたいな生活だったので、実は1回だけ(久場)光と本気で脱走しようとしたんです(笑) 「もう沖縄に帰ろう」と言って。

Q:どのくらいまで脱走したんですか?(笑)

A:荷物をまとめたんですけど、僕は結局「オレはやっぱり止めるわ」と言って止めたんです。でも、光は「いや、もうムリ」とか言っていて(笑)、その日は午前練習で、光は午後に出て行くつもりだったんです。「午後は何もないからそこで帰るわ」とか言って。その時に本当に「怖っ」って思ったんですけど、その日だけ監督がいきなり光をトップの練習に混ぜたんですよ。そんなタイミングで。「えっ、本田先生(本田裕一郎・流通経済大柏監督)怖い...」と思って(笑)

Q:バレてたんじゃないですか?誰かが密告していたとか(笑)

A:いえ、それは絶対にないと思います。そんなタイミングで、普通そんなこと起きます?(笑) それでもう僕らは脱走を止めましたね。

Q:そういえば流経の他にJのクラブユースと迷っていたという話を何かで拝見したんですけど。

A:そうですね。そのクラブの練習には父親と一緒に行きました。一緒じゃないと電車に乗れないので(笑)

Q:そうか!沖縄って電車がないんですよね!

A:切符の買い方もわからないですからね。僕の父は大分出身なので、電車のことは知っていたんですよ(笑) だから一緒に付いてきてもらって行きましたね。やっぱり最後は選手権への憧れが勝りました。昔から「選手権に出たい」とずっと思っていて、1月の最初は元旦の天皇杯決勝から選手権までずっとサッカーを見ていたので、選手権に凄く憧れがあったのと、親は人付き合いのことも考えて学校のサッカー部の方が良いと感じていたみたいです。最後は「選手権に出たいから高校に行くわ」と言って、自分で決めました。

Q:1年生の時は脱走したくなるような時期もあったようですが(笑)、ゲームにはあまり絡めていなかった感じですか?

A:トップチームの試合にはあまり絡めていなかったです。メンバーに入ったりはしていましたけど、1つ上が強かったですからね。

Q:当然沖縄時代も強いチームでやっていたと思いますけど、入学直後は「凄い所に来ちゃったな」という感じだったんですか?

A:それは1年の最初の合宿に行って、練習をやった時に思いましたよ。「みんな上手っ!」って。「やっぱり沖縄とは違うな」と思いましたね。でも、「やれる」という風にも思いました。ただ、もう『やるしかない』環境だったので(笑)、言い方を変えれば『逃げ道がない』ですよね。千葉なので友達に逃げられる訳でもなかったですし、そういう環境の中で『やるしかない』という感じだったので、それが良かったと思います。

Q:どのくらいから「ここでもやっていけるな」という手応えを掴んだ感じですか?

A:やっぱり試合をやっていくごとに、そういう自信は持てるようになっていきましたよ。あまりこういう言い方は好きではないですけど「オレが中心だ」ぐらいの気持ちで、だんだんやれるようになっていきました。

Q:高校1年の時に年代別代表でフランコ・ガッリーニ国際大会にも出ているんですよね。

A:そうですね。宇佐美(貴史・アウグスブルク/GER)とかと一緒に行きました。

Q:MVPを獲ったんですよね?

A:本当に全然点とか取らないのに、たまたま決勝で点を取ったんですよ。そういうものじゃないですか。決勝で点を取った選手がMVPになるみたいな。そんな感じです(笑)

Q:優勝して、1-0の1点を取ったみたいな感じですか?

A2-02点取ったんです。それでMVPをもらいました(笑)

Q:持ってますね(笑) 学生の内に2回も代表で海外の遠征に行けるなんて、なかなか凄いことですよね。

A:本当に今から考えても不思議ですよ。「何でオレが?」という感じでしたし、そんな感じのままでキャリアもここまで来ていますからね。

Q:高校2年の時は再三おっしゃっているように、1つ上の代がかなり強くて、結果も物凄く出た1年だったと思いますが、やっぱりあの1年間は今から振り返っても特別な1年でしたか?

A:本当に色々な経験をさせてもらった1年でしたし、自分の夢が叶った年でもありましたからね。『選手権に出る』ということもそうですし、『全国優勝する』ということもそうですし、そのために千葉に行ったようなものでしたから、1年で2回も全国優勝できるという、凄くありがたい経験を1つ上の代にはさせてもらったので、本当に感謝しています。

Q:高円宮杯での優勝はご自身にとっても初めての日本一だったと思いますが、あの日本一はどういう捉え方だったんですか?

A:周りからは高校とユースの"真の日本一決定戦"と言われていたので、当時のサンフレッチェ広島ユースなんて凄く強かったじゃないですか。そのチームに決勝で勝てましたしね。ただ、そこでもう1回選手権で日本一を獲ってしまう訳ですから、本当に1つ上の代は強かったですね。インターハイも全国ベスト4でしたし。

Q:1年間でほとんど負けていないということですよね。

A:あの代は本当に負けていないです。練習試合とかもまったく負けなかったです。

Q:楽しかったでしょうね(笑)

A:ムチャクチャ楽しかったです(笑) 負けると走ったりすると思うんですけど、そういうのは全然なかったです。何か変なことがあった時だけ走るみたいな。

Q:失礼ながら流経だと「何か変なこと」も結構あったんじゃないですか?(笑)

A:そうなんですよ。部員が多いので、誰かしらが何かやるんですよ(笑) サッカー以外のことで走ったことはありますけど、サッカーの結果で走ったことはほとんどなかったです。本当に強かったですね。

Q:あの選手権自体は日本一になったということも含めて、やっぱり良い思い出ですよね?

A:はい。昔からの夢が叶った訳なので、「沖縄から千葉に来て良かったな」と思いましたし、良い1年でしたね。

Q:国立競技場ってやっぱり良い舞台でしたか?

A:憧れでしたからね。でも、「ああ、こんな感じなんだ」とも思いました。ロッカーとか。やっぱり当時は昔から使っていた場所だったので、「とにかく凄い所だろうな」と思っていたんですけど、「ああ、ロッカーとか意外に普通だな」と(笑) それはそうですよね。

Q:どういうロッカーをイメージしていたんですか?(笑)

A:本当に"スタジアム"みたいな感じですよね。メチャクチャ綺麗で、色々なモノが付いていてという。僕がイメージしていたのとは違いました。「意外に普通なんだな」と(笑) あの大観衆というのも最高でした。

Q:最後は決勝でゴールまで決めていますけど、国立でゴールを決めるってどんな感じなんですか?人生の中で国立でゴールを決められる人なんてほとんどいない訳ですけど。

A:不思議でしたよ。本当に小さな頃からテレビ越しに見ていた舞台で、自分自身が出ていて、点も決めて、チームが優勝するという、そのすべてが不思議でした。あのゴールも「足を出したら入っちゃった」という感じでしたけど、とにかく不思議な感覚でした。

Q:今でも思い出したりすることはありますか?

A:ありますよ。本当に小さな頃からの夢で、嘉人(大久保嘉人・川崎フロンターレ)さんとかも見ていたので。僕、嘉人さんが大好きなんですよ。一応昔はフォワードだったので、メッチャ憧れていて、同じスパイクとか履いたりしていましたから。黒と青と水色みたいな。それを履いて僕もやっていました。

Q:そこで1つの目標が叶ってしまった訳じゃないですか。でも、まだ当時は2年生で、3年生の時はインターハイこそ全国優勝するものの、選手権は予選で負けてしまった訳ですよね。3年生の1年間というのはいかがでしたか?

A:それこそ1つ上の代があれだけの結果を残したので、相当なプレッシャーもありましたし、僕たちも1つ上のようには強くなくて、結果的にインターハイも両校優勝という形でしたしね。

(注:田口選手が3年時のインターハイ決勝は、雷雨のためにキックオフ直前で試合中止が決定。流通経済大柏、市立船橋両校優勝という形になった)

Q:あの決勝はJ SPORTSが中継するはずだったんですよ。そうしたら「アレ、試合やらないんじゃない?」みたいになって(笑)

A:いきなりアップが終わってからですよね。

Q:結局放送できませんでしたからね。

A:代替日がないという(笑) 決勝でそんなことありますか?(笑)

Q:ちょっと喜べないですよね。

A:僕たちは全然喜べなかったですね。決勝をやりたかったです。結局高円宮杯も負けて、選手権も予選で負けたので、僕たちは結果の出ない代でしたね。

Q:選手権予選で負けたのも結構早めでしたよね。

A:そうですね。ベスト8で渋谷幕張に負けました。ガチガチに守られて、PK戦まで行って。僕が1番目のキッカーだったんですよ。先攻で決めて、後攻の1番目が外して、そこからずっと次に決めたら勝ちという所でウチの選手が外して、向こうが外して、ウチが決めたら勝ちなのにまた外してということの繰り返しで、順番が一周してきて、また僕が蹴ることになったんです。

Q:そんなことになったんですか。12番目ということですよね?

A:はい。そこで僕が外したんですよ。それで後攻の相手が決めて終わりでした。

Q:それはキツい終わり方ですね。キャプテンでしたし。

A:キャプテンでしたね。でも、今となっては良い思い出です。

Q:流経だとサッカーはもちろんですけど、寮に入っている選手も多くて、3年間寮生活だった訳じゃないですか。その寮生活で特に印象に残っていることとかありますか?

A:ムチャクチャありますよ(笑)

Q:大半が話せないことだと思いますけど、話せることでお願いします(笑)

A:いっぱいありましたけど、特に覚えているのは点呼の時に全員廊下に出るんですよ。ある時にコーチが何か怒っていて、「食器がねえぞ」みたいな。

Q:"食器"ですか?

A:選手の部屋は2階にあるんですけど、1階に食堂があって、「食堂にあるはずの食器が全然ねえぞ。オマエら部屋に持って帰ってるんだろ」みたいな。「部屋で何か食べて、下に持って来てねえだろ」と。当時僕は2年生だったんですけど、1年生から3年生まで全員廊下に出てくる訳ですよ。それでコーチが11つの部屋に入って行って、その中から箸とかが飛んでくるんです(笑)

Q:実際に持って行ってるんですね(笑)

A:持って行ってるんです。スプーンとか箸とかどんどん飛んできて、廊下で同じ部屋のヤツと「ヤベーぞ、コレ」とか話していて(笑) 僕は光と同じ部屋で、あと2人同部屋がいたんですけど、僕たちの部屋からは箸とスプーンに加えて茶碗とかも飛んできて、確実にウチらの部屋だけ飛んでくる数が多いんですよ(笑) 何ならカップラーメンのゴミとかまで出てきて、「ヤベー、ヤベー」みたいな。しまいには練習場にあるはずの、絶対部屋に持って帰っちゃいけない"ダンベル"がゴロゴロって転がってきて、「終わった...」って(笑)

Q:相当貯め込んでいた部屋ですよね(笑)

A:悪い部屋でした(笑) まだまだいくらでもありますけど、話せるのはこのぐらいですかね(笑)

Q:それも含めてやっぱり「流経に行って良かった」と思いますか?

A:思います。そう思います。今から思えばですけどね。「沖縄から出て流経に行って良かったな」と思いますし、人間的にも成長させてもらったので、あまり深く考え過ぎずに沖縄を出た当時の自分を褒めてあげたいです(笑)

【プロフィール】

流通経済大柏高時代にはインターハイ、高円宮杯、高校選手権と全国3大タイトルをすべて制覇。2009年に名古屋へ入団すると、ストイコビッチ監督の下で4年目にブレイク。2014年には日本代表にも選出され、ブラジル戦を含む国際Aマッチに3試合出場している。


※所属チームを含めた情報は、当時のものをそのまま掲載しています。

ご了承ください。

取材、文:土屋雅史

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