mas o menos

メルマガ

お好きなジャンルのコラムや
ニュース、番組情報をお届け!

メルマガ一覧へ

最近のエントリー

カテゴリー

アーカイブ

2020/03

S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

このブログについて

J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年03月03日

Pre-match Words ~アルビレックス新潟・舞行龍ジェームズ編~(2015年9月10日掲載)

mas o menos
  • Line

【Pre-match Words アルビレックス新潟・舞行龍ジェームズ編】

(2015年9月10日掲載)

Q:ナビスコカップ準々決勝の第1戦(対浦和 〇5-0)で決めたゴールが新潟での初ゴールだったと思いますが、率直にいかがでしたか?

A:「やっと決められた」という感じでちょっとホッとはしました。(山本)康裕の折り返しを最初は決められると思ったんですけど、通り過ぎて「ヤベッ」って思った所でまた戻ってきたので「ラッキー!」と思って、身体ごと押し込みました。凄く嬉しかったんですけど、どっちかと言うとビックリしました。

Q:なかなか新潟でゴールを取れないプレッシャーはありましたか?

A:ああ、まあ多少はありました。練習のクロスシュートとかでも結構決めるんですけど、終わった後にいつもレオ(・シルバ)が「いつ試合で見れる?」とか言ってくるので(笑)、プレッシャーじゃないですけど、自分も「早く決めたい、決めたい」という想いはありましたね。

Q:あのゲームはスコアこそ5-0でしたけど、特に前半は新潟もそこまで攻撃できていた印象は個人的にありませんでしたが、やはり今シーズンのベストゲームになりますか?

A:個人的にはアントラーズに3-2で負けた試合(2015年J1 2nd-第1節)は、最初の90分の内容としてはほぼ完ぺきに近い内容だったと思うんですけどね。最後の5分を抜きで見たらそれがベストゲームかなと思います。やっぱり浦和のゲームの2戦目(2015年ナビスコカップ準々決勝第2戦 ●0-3)にも前半にチャンスはあったと思いますし、それを決めていたらもしかすると1戦目のような試合になっていたかもしれないと思うので、チャンスを決め切れるかどうかで上にいるチームと下にいるチームは分かれていると思いますし、そこを自分たちも上に行きたいのなら、ナビスコ準決勝の1戦目みたいにチャンスで点を取らないと、なかなか上に行けないと思います。

Q:1戦目で5-0というスコアを付けて「これはかなりの確率で新潟が勝ち抜けるだろう」という中で後半は失点が重なりましたけど、あれに関してはいかがですか?

A:前半はうまく行っていたと思うんですけど、後半に個人的にはちょっとラインが深かった気がします。なかなか前にもプレスがハマらなくなって、押し込まれた所でセットプレーでやられてしまって。今年はセットプレーからやられている点が多いので、凄く良いシュートだったんですけど、それでもそういうセットプレーからの失点は防ぎたいですね。

Q:去年までは相手が浦和や広島の時に、相手のシステムに合わせて3バックを採用することが多かった中で、今年は松本戦(2015年J1 1st-第9節 〇2-1)で切り替えてからしばらく3バックが続いたと思いますが、その3バックと4バックの使い分けはしっくり来始めていますか?

A:4バックも良いんですけど、個人的には3バックのセンターが一番やりたいです。右だとちょっと運動量が増えるというか、センターの方がボールを持てる気がするので。でも、守備としてはハマる時は凄く守りやすいんですけど、ハマらない時はちょっと難しいというか、凄く自分がフリーな状況が多くて、それは新潟のサッカーにとってはあまり良いことじゃないとは思うので。マンツーマンですから。でも、去年よりは3バックにも慣れているかなと思います。

Q:去年3バックでやったゲームは基本的に舞行龍選手がセンターだったと思いますが、今年は右をやることが多い中で、結構役割にも違いがありますか?

A:上がっている時は良いんですけど、やっぱり上がった後の戻りとかが結構キツいですね。サイドバックをやるのは凄く久しぶりで、そこが体力的にあまり慣れていなかったので、夏場の連戦の試合で個人的には非常にキツかったですね。

Q:今シーズンは大野(和成)選手とCBを組むこともありますが、その同期入団の2人でCBを組むことは楽しかったりしますか?

A:楽しいですよ。嬉しいですし。しかも、お互いに違うモノを持っていると思いますし、カズはインターセプトとかそこで凄くボールを奪うのが上手いので、個人的にはどっちかというとカバーの役割の方が自分は得意かなと思うので凄くやりやすいですし、あとはやっぱり2人とも苦労してきたので、そこでお互いが試合に出られるのはやっぱり楽しいですね。

Q:同期がいっぱいいた中で、もうアルビに残っているのは2人だけだと思います。2人とも先ほどおっしゃったように外へ出ていった中で、戻ってきて今こうやって一緒にやれているというのは不思議な感じもしますか?

A:不思議な感じもしますし、(川又)堅碁や(鈴木)大輔が他のチームで活躍しているのも凄く嬉しいですし、そこで俺らはやっぱり全員1回一緒にアルビで出たくて、それは叶わなかったんですけど、今2人でやれているのは正直に嬉しいですね。

Q:結構他のクラブに行った同期のメンバーとは連絡を取ったりしていますか?

A:取っていますよ。年末とか普通に試合の前日とかに電話したりもしますし、堅碁とも大輔ともチョコチョコ連絡は取っていますし、(木暮)郁哉は今シンガポールにいますし、みんな同期はやっぱり仲が良いですね。

Q:同期って良いモノですか?

A:同期は良いですね(笑) 凄く面白いですし、話は合いますし、1年目に入団した時は色々な想い出とかありますね。

Q:何か印象に残っている想い出はありますか?

A:それぞれにありますけど、堅碁で言うと僕ら若手がたぶん4人くらいベンチに入っていて、ナビスコカップのF・マリノス戦だったと思うんですけど、堅碁が43分に試合に入って45分に交替したんですよ。インアウトして凄く悔しい想いをしたと思うんですけど、それでも今は日本代表まで行っているのは凄いと思いますし、カズも1年目で2回中足骨を連続で折ったりとかしていてもサッカーを続けていますし、今もアルビで試合に出ていますし、みんなが本当に苦労しているので凄いと思いますね。

Q:今回はビッグスワンのゲームで、僕も中継で年に1回か2回はビッグスワンに来る中で、いつ来ても雰囲気が素晴らしくて、間違いなく来たいスタジアムの1つなんですけど、舞行龍選手にとってビッグスワンっていかがですか?

A:もう凄い気持ち良いですね。やっている時もアップの時もそうですし、今年はなかなかホームで勝てる試合はないんですけど、勝った後でサポーターと"バンザイ"するのも、それが凄く気持ち良いですね。それは今でも最初に勝った試合のことは忘れていないですし、凄く想い出に残っています。ホームでやれることは今回の試合もそうですけど、有利なことかなと思います。だから、そこはやっぱり勝ち点3は欲しいですね。

Q:今回はサポーターの皆さんも試合後に舞行龍選手と"バンザイ"できるのを楽しみにしていると思いますが、そのサポーターの皆さんへメッセージをいただけますか?

A:次のマリノス戦もみんなで"バンザイ"できるように頑張りますので、応援宜しくお願いします。

Q:ここからはキャリアのお話を聞かせてください。まずはニュージーランド時代のことを伺いたいんですけど、U-12、U-15と国の年代別代表に入っていたんですよね?

A:そうですね。代表というかトレセンみたいな感じで、若い選手が集まってやっていました。U-15の頃は普通に覚えていますけど、U-12の頃はあまり覚えていないです。同い歳で当時一緒にやっていた人はいないですけど、一緒のチームでやっていた人は1人アメリカのMLSでやっていて、その人はフル代表に入っています。やっぱり若い時の代表だったので、結構その後はメンバーも変わっていきますよね。でも、単純に大きい人が多かったですよ。

Q:ああ、そこはお国柄ですかね。

A:サッカースタイルもそんな感じなので、蹴るサッカーでパワー系で。それもちょっとずつ変わっていると思うんですけど、僕がいた頃のU-12U-15もモロにそんな感じで、後ろの方の選手は全員180センチくらいありましたし...

Q:U-12で180センチですか?(笑)

A:そうですね。12歳でも凄く大きな選手がいた中で、自分は凄く小さかったんです。

Q:ニュージーランドだともちろんラグビーがある中で、クリケットも盛んだと思いますけど、サッカーの位置付けはどんな感じだったんですか?

A:サッカーをやっている人数は凄く多いんですけど、世界的にはそこまで強くないというか。でも、だいぶ海外でやっている選手も増えていますし、プレミアでやっている選手はたぶん1人か2人ぐらいだと思いますけど、僕が小さかった頃に比べれば海外に出る選手は増えましたよね。僕がニュージーランドにいた頃に海外でやっていた選手は本当に1人か2人ぐらいでしたけど、今はたぶん30人ぐらいはヨーロッパの色々な国でやっていますし、去年は仙台にマグリンチィも来ましたしね。でも、たぶんニュージーランドの選手がJリーグでやるのは難しいと思います。プレースタイルとやっぱり言葉が通じないのが凄く難しいと思いますし、やり方も全然違いますからね。

Q:言葉の壁は舞行龍選手も味わった部分だと思いますが、そもそもどういう経緯で日本の成立学園に入られたんですか?

A:僕がニュージーランドにいた時、ジェフでプレーしていた(ウィントン・)ルーファーさんがサッカースクールをやっていたんですけど、その人の繋がりでジェフにいた宮澤浩さんも一緒にサッカースクールをやっていて、その2人に教えてもらっていたんです。それで、実は最初は広島に2ヶ月くらい練習参加していたんですよ。

Q:広島ってサンフレッチェ広島のユースってことですか?

A:そうです。そうです。その時は柏木(陽介)とか槙野(智章)とか(高柳)一誠とかいて。

Q:ああ!だからこの間の浦和との試合の時に、彼らと挨拶していたんですね。繋がりが全然わからなかったんですよ!

A:そうです。それで仲が良いというか、普通に喋る仲なんですよね。その時はまったく日本語が喋れなかったですし、レベルも別世界というか。その時は前田俊介もいて、もう凄かったですよ。「こんな上手い選手がいるのか」というくらいの見たことがないレベルで。18歳でトップの試合に出たりしていたので、とにかく凄かったです。それで1回ニュージーランドに戻って、本当はサンフレッチェに行きたかったんですけど、そこに入るのはなかなか難しかったので「成立学園はどう?」という話になって、最初は練習参加みたいな形で「とりあえず3ヶ月か6ヶ月くらい行ってみたら?」という感じで、最初はあまり乗り気じゃなかったんですよ(笑) でも、親が凄く背中を押してくれて、ミヤさんもルーファーさんも凄く背中を押してくれたので、成立に入ることになりました。

Q:学校は普通に成立学園高校に通っていたんですよね?

A:そうですね。体育コースに入っていて、授業は4時間しかなかったので、いつも1245分に授業が終わって、そのままグラウンドに行くんですね。それで2時から練習です。月曜日だけは7時間まであったので、345分まで授業があって、その後で練習でしたけど、それが毎日の生活でした。でも、ニュージーランドは基本的に1時間か1時間半で練習が終わりますし、そんなにキツくないのがニュージーランドのスタイルというか、もうリラックスした感じでやっていて、それをルーファーさんとミヤさんは変えようとしていたんですけど、週に5日間もサッカーの練習をやっている所はなかったんですよね。日本だと当たり前だと思うんですけど、海外も基本は週2か週3で。

ニュージーランドに多いのはやっぱり色々なスポーツをやるという形で、例えばサッカーを週2回やって、空いている時は水泳をやって、他の日には陸上をやってみたいな。みんなそんな感じですよね。僕も若い時には陸上を火曜日にやって、水曜日は水泳で、木曜日はサッカーという感じでした。それがいきなり日本に来て、成立に入ってですから。高校サッカーがどんなキツいものかも正直知らなかったですしね。で、来てソッコーで"ボウズ"でした(笑) 今はないと思うんですけど、当時は凄く厳しかったんですよね。

Q:やっぱり"ボウズ"は抵抗ありました?

A:いや、僕は元々"ボウズ"だったので(笑)、そこまで嫌ではなかったですけど、みんなが"ボウズ"だったのが凄く衝撃的でした。で、練習も土!ニュージーランドに土のグラウンドはないので、それも衝撃的でした。あとは、来たばかりの時にいきなりサーキットみたいなのがあったんですけど、土の上で「スライディングだ」とか言われて(笑) こっちからしたら「何を考えているんだろう?」って。"ハンバーグ"もよくできて。最初は「"ハンバーグ"って何?」って感じでしたけど、今は分かるようになって今でもちょっと跡が残ってますけど(笑) 最初の3ヶ月から6ヶ月は凄くキツかったですね。やっぱり日本語を喋れないのがキツかったですし、"先輩後輩"という文化もそれまではなかったので、そのへんは難しかったです。

Q:いつ頃から楽しくなってきたんですか?

A:いつ頃からですかね。最初の6ヶ月ぐらいは正直凄く帰りたかったんですね。結構親とも週に23回は電話して喋っていて、「帰りたいよ」とか言っていて、「もうちょっと頑張ってね」とか言われて。その当時は学校に英語の先生がいて、その先生が助けになったというか、ストレス解消の場所でしたし、みんなも凄く優しかったです。最初はみんな「コイツ、何で外国から来てるの?」という感じだったと思うんですけど、自分も頑張った結果としてみんなと仲良くなれましたし、当時は寮に入っていた1年生が凄く多かったので、寮生活もちょっとずつ楽しくはなっていった感じですよね。それに6ヶ月ぐらい経って、少しは日本語も聞き取れるようになったので、それでコミュニケーションが取れるようになったことも大きかったですし、インターハイが終わった9月くらいに初めて選手権に向けてのトップチームに入ってイチからやり直した感じだったので、そこからちょっとずつ楽しくなったかなと思います。

Q:当時の成立は相当レベルが高かったですよね?

A:そうですね。普通に「高校でもこんな上手い選手がいるんだ」というか、高校1年生の時にはクラブユースからもいっぱい来ていて、マリノスの追浜が3人くらいいて、アントラーズも3人ぐらいいて、ジェフとかFC東京とか、凄く良い選手が集まった年代だったので、それは凄く良かったというか、成立の3年間が自分のサッカー人生の中でも一番伸びた時期だったと思います。

Q:大津祐樹(柏)、菅野哲也(湘南、現長野)、マイケル・ジェームズと3人もJリーグ入団内定選手がいる高校なんて他になかったですからね(笑)

A3人がプロに行きましたけど、あの代からは67人行ってもおかしくなかったと思います。むしろ何で僕がプロに行けたのかはわからないですけど、それぐらい上手い選手がたくさんいたと思うんですよね。佐藤涼や小檜(宏晃)もいましたし、石福(敬一)はサッカーを辞めて、浪人して普通に慶應大に入ったんですけど、石福は天才でしたよ。超上手かったです。選手権には行きたかったですね。あの年の優勝チームは大前元紀がいた流経(流通経済大柏)だったじゃないですか。あそこと練習試合をやっても凄く良い戦いができていたし、市船(市立船橋)とも良い戦いができていましたからね。

ただ、なぜか土のグラウンドで蹴ってくるチームに凄く弱かったんですよ(笑) あと、メンタルの部分がみんなちょっと甘かったというような気はしますね。凄く良いサッカーをしていても結果を出せなかったです。当時は練習試合もほぼ負けたことがなかったですよ。他のチームからも「練習試合は成立が一番強い」とか言われていて。でも、結局大会になるとTリーグはうまく行ったんですけど、インターハイと特に選手権はもっとやりたかったですね。

Q:個人的には全国で優勝を狙えるチームだと思っていました。

A:みんなもそういう自信を持っていたんですけど、結局準決勝で個人的なミスがあって、それが一番大きな原因で全国に行けなかったので、それはその後も結構引きずりましたね。アルビに来てもちょっと自信を無くしていました。(※高校3年の選手権予選準決勝で舞行龍選手は前半の内に2枚のイエローカードをもらって退場処分に。チームはPK戦の末に敗退し、全国出場には届かなかった)

Q:当たり前ですけど相当悔しかったですよね?

A:そうですね。正直あまり覚えていないんですけど、みんなに聞いてもずっと泣いていたらしいです。ほとんど記憶はないですけどね。でも、2年生の時も3年生の時も凄く楽しかったです。練習も遠征の時には2部練とかあってキツい時もありましたけど、今思い出しても楽しい想い出の方が多いですね。

Q:そんな来日当初は辛い想いをしていた少年が、もう日本に来て10年以上が経っていますけど、正直こんなに日本にいることになるなんて思っていなかったですよね?

A:いやあ、全然ですよ。むしろ最初来た時は「6ヶ月だけ日本でやって、親を満足させて帰ろう」という感じでしたからね。あまり長く居たくはなかったですよね。でも、高校が凄く楽しかったですし、先ほども話したように高2、高3がサッカー的にも凄くうまくいって、プロにもなれたじゃないですか。「よし、プロになった!」と。それだけでOKではないにしても、「これからもっと楽しくなるぞ!」と思っていたんですけど、むしろそこからはイチからというか、またゼロからのスタートでしたけどね(笑)

Q:舞行龍選手をここまで日本でプレーさせ続けた一番の理由は何ですか?

A:やっぱり親の存在は凄く大きいですね。あとは、レンタルで他のクラブに行っている時、サッカーカレッジに行った時は試合に出るためでしたけど、サッカーカレッジの中でも宇野沢(祐次)選手とか渡邊圭二選手とかは「絶対にJリーグでもやれる」と言ってくれましたし、金沢ではタツさん(久保竜彦)とか、長崎だったら(佐藤)由紀彦さんとか、その人たちもずっとそういうことを言い続けてくれたことも、1つのここまでやり続けて来られた理由だと思います。

なかなかチャンスが来なかった時には結構メンタル的にキツかったですよ。4年半くらいレンタルで出ていましたから。あとは宮内さん(宮内聡・成立学園監督)もそうですよね。去年だけ行けなかったですけど、成立の初蹴りにはその前までは毎年必ず行っていたので、そこでもスタッフの皆さんと会ったりして。正直生徒だった時は凄く怖かったですけど、高校を卒業して堂々と大人と大人の話ができるようになって、それが凄く楽しいというか、宮内さんは凄くサッカーを知っていて、凄く熱い人ですし、凄く尊敬しているので、いつも話を聞くのも本当に楽しいですからね。だから、そういう人たちがいなかったら続けられなかったかもしれないです。

Q:そのレンタルが続いていた状況の中で、ニュージーランド代表に選ばれたということは大きかったですか?

A:そこは正直に言うと自分の可能性に賭けたというか、自分的には日本国籍を取ってJリーグに戻ってプレーしたいというのがあったんですけど、代表からはそこまでもあまり声も掛かったことがなかったですし、しかも日本代表と試合をやるということになっていたので、自分は自信がありましたし、そこでもし試合に出て良いプレーを見せたらそっちの方が早くJリーグに戻れるんじゃないかなという自分の考えがあったので、そこに賭けてやっていたら、結局震災があってその試合がなくなってしまったんですよね。

決して悪い選択ではなかったと思いますけど、結果として日本国籍を取るのが長引いたのはあったと思います。でも、凄く良い経験をさせてもらいました。自分の中にはニュージーランド人と日本人とどっちの要素もありますし、むしろほぼニュージーランドにいた時と同じくらいの時間を日本で過ごしていて、大人になってからは日本の方が長いですし、よく親に会っても「性格が日本人っぽくなってきたね」と言われます(笑)

Q:日本を相当気に入られているんですね。

A:僕は凄く好きですよ。凄く好きです。東京も凄く好きですし、やっぱり赤羽とか大宮のあたりはほぼ生活していたので、たまに渋谷とか原宿に行っても凄く楽しかったんですけど、地元は赤羽と大宮みたいな。まあ、東鷲宮まで行ったら凄く田舎ですけど(笑)、そういう感じが凄く好きですね。

Q:今、新潟でプレーできていることも不思議な感じですか?

A:凄いなとは思いますね。昨日も天皇杯で秋田と試合をしたじゃないですか。あそこにも下田(光平)がいて、彼も僕らと同じ代でFC東京に入ったんですけど、色々なチームに行ってプレーしてきているので、昨日も色々と喋っていた中で、「凄いな。どうやって新潟に戻れたの?」みたいなことを言われたので、「もう運とタイミングで、そこで結果を出すか出さないかだったよ」という話をして。そこで本当にやり続けたことが良かったです。今やっとそれを言えるというか。でも、まだまだこれからです。個人的にもやっとJリーグの試合には出られていますけど、例えばベストイレブンとかもっともっと上を目指したいですし、優勝を狙えるようなプレイヤーになっていきたいですね。もっと結果を出さないといけないと思います。僕らはサッカーでお金をもらっているんですから。

【プロフィール】

16歳でニュージーランドから来日し、成立学園高校へ入学。2008年に新潟へ入団したが、翌年からJAPANサッカーカレッジ、金沢、長崎と4年半の期限付き移籍を経験し、2013年に日本国籍を取得して新潟へ復帰。以降はCBのレギュラーとしてチームを最後方から支えている。


※所属チームを含めた情報は、当時のものをそのまま掲載しています。

ご了承ください。

取材、文:土屋雅史

  • Line