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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。
【Pre-match Words 柏レイソル・大谷秀和編】
(2015年11月6日掲載)
Q:プレースタイル的に今シーズンはここ数年と違うことを要求されているかもしれないですし、ご自身も心掛けているかもしれませんが、そういう部分の変化はどのように感じていますか?
A:今までよりも距離で言ったら5メートルか10メートルぐらい前でプレーしていることが多いので、やっぱり数字という所はもっと自分が意識するというか、高めていかなくてはいけない所だと思うし、そこはゴールだったりアシストだったりという部分は感じますけど、やっているプレーに関してはそんなに自分の中では変わっていることはないです。ただ、ちょっと前に出たことによってポジショニングだったりという所は変わってきますけど、何か大きく変わったことはあまりないですし、まったく新たな可能性があるんじゃないかと思って積極的にトライはできているので、そんなに大きな変化はないですけど、まあシュート練習を増やしたくらいですかね(笑)
Q:単純にシュート練習は量が増えたんですか?質もちょっと変えた感じですか?
A:やっぱりフォワードとか前線の選手とかと一緒に、トレーニングが終わってからやることが多いです。ただ、フォワードの選手たちとは実際のゲームの中で打つ距離とか場所が変わってくるから、そのへんはもう少し工夫しながらできればなとは思いますけど、単純にネルシーニョ監督はあまりボランチにそんなシュートを求めてこなかったから、シュート練習をやる時も「上がっていいよ」という感じだったのが(笑)、今年からは自分から結構そこに入って行ってやるようにはしていますけどね。
Q:それは結構楽しいですか?
A:まあ、入れば(笑)
Q:そりゃそうですね(笑) ファーストステージの松本戦(第5節 〇3-1)のゴールは先ほどおっしゃったみたいに、去年だったらあそこまで飛び込んでいくことはほとんどなかったと思うんですけど、あのゴールに関してはいかがですか?
A:スカウティングの段階から、松本のウイングバックと3バックのサイドの選手の間が空くという情報はあったので、「チャンスがあればそこを」というのは言われていましたし、あれはもうそこに入って行く時間があったというのがまずチームとして1つと、良いボールが入ってきたということですね。「そこが空くよ」というイメージがあったから自然とあそこに入って行けたのはありますし、チーム全体で押し込んで行ければ、インサイドをやっている自分だったりもう1人の選手があそこまで絡む時間があると。縦に速いとなかなかそこに絡んでいく時間がないので、あれはチームとしてもやろうとしていることがゴールシーンだけじゃなくて、色々な場面で出たゴールだと思いますね。
Q:ボールが1回下がってキム・チャンス選手がクロスを上げる前にはファジーなポジションを取っていて、マーカーは田中隼磨選手だったと思いますが、1回ファーに釣ってニアに入って行く動きはストライカーみたいでしたね。
A:あそこは前で競っているのが飯田(真輝)とかたぶん強い選手だから、隼磨くんもある程度任せちゃうと。そういうのもありますし、そこを越えればチャンスかなというのがあったので。でも、本当にスカウティングで言われていたような所が空いていたというのが一番大きなことでしたし、そこが頭にあったからあのスペースを見つけられました。先に入っちゃうと不利な部分も多いので、あのチャンスのボールが届かないなと思ったらたぶんあそこまで入っていないですし、上がった瞬間に「ああ、行ける」という感触があったから入って行ったので、ああいうのを増やしたいなとは思いますけど、今年はアレぐらいしかなかったですね(笑)
Q:点差のシチュエーションとかガッツポーズの気合いの入り方で、会心のゴールだったのかなという印象を受けました。
A:ACLとの連戦でしたし、なかなかファーストステージはチームとして結果が出ていない中で、「J2から昇格してきたチームに対して負けられない」のというのもありました。その中で入り自体は松本のやりたいことが結構多く出ていて、失点していてもおかしくないような場面があった中で、自分たちが先手を取れるゴールになったのは凄くチームにとっても大きかったと思うし、あのゴールでみんながスッキリできたというのもあったと思うので、そういう意味ではチームに弾みを与えられるゴールになったのは良かったなとは思います。
Q:今シーズンのレイソルを見ている中で、プレーの幅も含めて一番チームで成長したのが大谷選手なんじゃないかと個人的には思っているのですが、ご自身の中でこの1シーズンで自分が成長したなというような感覚はありますか?
A:自分だとあまりわからないですね。でも、初めて触れるサッカーでしたし、練習も初めてやる練習も多かったので、間違いなく自分の幅は広がったと思いますし、「ああ、こういう考え方もあるのか」というのはタツさん(吉田達磨監督)から凄く学んだことはあるので、そういう意味では選手としての幅は少しは広がったのかなとは思います。でも、やっぱり今のポジションをやっていても自分にできることとできないことがあるから、良くない時というのは自分のできることの範囲をちょっと超えようとしてしまっているかなと。
僕はあまり長い距離を走るタイプではないし、それをガンガン本数を繰り返して、ディフェンスラインの裏に入ってというのを繰り返すタイプではないけど、なかなかチームがうまく行かないと、どうしても「何とかしよう」「何とかしよう」となって、そこのランニングが増えてしまって。というよりも、アンカーの選手に寄って、どんどんボールに触って、ちょっとずつ相手を動かして自分たちの時間を長くするとか、そういう所のメリハリが何試合も何試合もこなしていく内に自分の中でも凄く付いてきたかなとは思うので、本当に新しいサッカーに触れられて、僕自身は凄く感謝していますけどね。
Q:逆に新しいサッカーに触れたことで、自分のやれることの範囲がより把握できた感じですか?
A:そうですね。ある程度ネルシーニョ監督の時はみんなそれぞれが決まっているというか、その中で最大限のパワーをみんなが出していくということが多かったので。でも、今のタツさんは「こういうやり方もあるし、こういうやり方もあるし」と。そこでボールを持っている選手の判断や決断を非常に大事にしているので、周りがそれに対する選択肢をどれだけ与えてあげられるか、予測して引き出してあげるかという所なので、そういう意味では非常にためになったなと思いますし、自由なことが多い分、その中でうまく自分の中で折り合いを付けて行かないといけないなというのもある中で、凄く自分の中ではより明確にはなったかなと。やっぱりこのポジションにおいても俺と武富(孝介)は違うし、クリ(栗澤僚一)も違うし、中川(寛斗)だって(小林)祐介も違うし、それはそこに入った選手がその特徴を違った色でチームに出していけばいいので、そういう意味では凄く明確になったかなとは思いますけどね。
Q:プロサッカー選手にとっても30歳というのは転機を迎える人が多い年齢で、このタイミングでこういうサッカーに出会えたということは、良いタイミングだったなという感じはありますか?
A:30歳だからとは思わないですけど、自分のサッカー人生の中で触れられたことは良かったなと思いますけどね。これが20歳でもそう思ったと思うし、この後に2年後や3年後に触れても「良かったな」と思うだろうし、あまり年齢は関係ないかなと。ただ、触れて来なかったものに触れられたことは凄く良かったなとは思います。
Q:やっぱり常に新しいことや新しいものを採り入れたいとか、触れたいという想いは尽きないものですか?
A:そうですね。そんなに強くはないけど(笑)、やっぱり「色々なことにチャレンジしたいな」とは思うし、プロでいられる時間というのはそんなに長くないし、毎日の練習時間もそんなに長い訳ではないので、その中で色々なことを自分ができるようになればなとは思います。やっぱり歳を重ねるごとに上手くなりたいというか、「もっと成長したいな」という想いもどんどん強くなっているので、それはやっぱり若い選手を見て学んだり、聞いて学んだりとかもあるし、そのへんは昔よりも強くはなっているのかなとは思いますね。
Q:端から見ると凄く良い歳の重ね方をしているように見えるんですけど、それは自分ではあまりわからないものですか?
A:あまりというか、全然わからないです(笑) なんか若い選手が増えて「歳取ったな」という現実を突き付けられるぐらいしかわからないです(笑)
Q:どういう時に「歳取ったな」って感じるんですか?
A:やっぱり日々思いますよ。レイソルは若い選手が特に多いし、ユースとかから選手が練習に来ると「そんな下?」みたいな(笑) 年齢的に。そういうのは凄く思いますけどね。一回り下とか出てきているので。自分が入った時の一回り上なんて「マジ、オッサンだな」とか思っていたから、「そう思われてるんだろうな」って思ってます(笑) しかも、だいたいそういう子とキャンプで同じ部屋になるから「何を話せばいいんだ」って思いますけど(笑)、そういう若い選手の考えとか、今年で言えばアカデミーから上がってきた選手たちはこのサッカーに凄く長く触れているから、彼らの方が良く知っているし、彼らから話を聞くことで理解が早まった部分も僕だけではなくてみんなあったと思うので、そういう意味では凄く若い選手からも勉強させてもらっているなとは思います。
Q:逆にピッチ面ではそんなに歳を感じないというのもありますか?
A:そうですね。そこはまだあまりないです。みんなに「30歳になったらガクッと来るよ」という風に脅されていたけど、プレースタイル的にあまりそういうタイプではないのかなと(笑) スピードが急になくなるとか、キレがメッチャなくなるとか、そこで勝負をしていた選手ではないから、それは感じないですね。
Q:今年とうとう日本代表のラージグループに入ったと思いますが、そのこと自体は大谷選手に何か影響を与えましたか?
A:いや...(笑) 最初言われた時も「何のこと?」と思いましたけどね。「何の代表?」と思いました(笑) あまり色々なことを意識するタイプでもないのでアレですけど、周りの人からも凄く言われましたし、自分がこの歳になっても見てもらえているというか、そういう所で評価をしてもらえたというのは、単純に上を目指す刺激にもなったので良かったというか、新しいモチベーションや刺激をもらえたなとは思います。でも、レイソルにはもっと若い選手もいるので、そういう選手がたくさん呼ばれるようなチームに、常にその大きなグループに何人もの選手が入るようなチームになれたらと思います。
Q:ここからはキャリアの話をお聞きしたいと思います。サッカーを始めたのは初石少年サッカークラブということですが、どういうチームだったんですか?
A:本当に小学校のよくあるチームでした。流山にチーム自体は6つか7つくらいしかなくて、近くの2つの学校で選手を集めたようなチームが土日に練習して試合してというような、決して大きなクラブチームではなかったし、教わっていたのも友達のお父さんとか、本当によくある感じでしたけどね。
Q:いつから始めたんですか?
A:小学校1年です。
Q:最初からサッカーは楽しかったですか?
A:元々野球もやりたかったというか、父親とよく東京ドームに試合を見に行っていたし、家の近所のお兄ちゃんとかとは野球もサッカーも両方やっていて、野球のチームも見学に行ったんですよ。でも、野球の方は小3か小4くらいからしか試合ができないからという中で、サッカーは小1同士でも試合ができるということで、結果的にサッカーを選んだんですよね。もし小1から野球も試合ができていたらそっちを選んでいたかもしれないし、そこはたまたまですね(笑) その後も友達と遊びで野球はしてましたよ。中学校の頃とかも野球部のノックを受けたりとかしてましたし(笑)
Q:初石少年サッカークラブでプレーをしながら、流山FCでも活動していたということですか?
A:小4くらいから流山の選抜チームがあって、そこでやっていました。あとは僕が小4の時に1個上を教えていた人が、その後にレスチ(ヴェルディSSレスチ)を創る人なんですよ。その人が葛飾の奥戸の陸上競技場でセレソンというレスチの前身のチームを教えていて、そこに流山の子たちが練習に行ったりもしていたので、結構ちゃんとサッカーをやる環境が高学年になった時には整っていましたね。
流山FCでもやっているし、平日は学校が終わってから奥戸に行って試合をしたりとか、月に1回か2回くらいは近くの小学校の体育館でフットサルをやったりとか、多くボールに触れる機会があったのは自分にとって凄く良かったなと思います。奥戸に行くのはちょっと遠くて、みんなで行かなきゃいけなかったので、送り迎えをしてくれた親には感謝していますし、そういう環境を与えてくれた方やチームには物凄く恵まれていました。それがあったから同い年だけじゃなくて、年上の選手とやる機会も多かったし、それは凄くためにはなりましたね。
Q:最初のレイソルとの接点というのはどういう形だったんですか?
A:レイソルは流山FCがよく練習試合をしてたんです。隣町だから(笑) 僕の1個上の代の時に初めて全少でレイソルが優勝したんですよ。僕と同い年のタツさんの弟が最後に決勝点を入れて。小学5年の時に。
Q:タツさんの弟って、達磨さんの弟ですか?
A:そうです。それでレイソルが初めて優勝したんですけど、小5と小6の頃はレイソルと練習試合をよくやっていたので、そういう部分でレイソルの人に見てもらっていたのもあるし、まだあまりクラブチームに行くというのが主流じゃなかったから、普通に選抜チームが強かったですからね。松戸FCに大久保裕樹(松本)がいたり、原一樹(北九州)がいたり(笑) そういうのが結構多かったから、千葉県のサッカー自体が盛んだったのかなと思いますね。レイソルだけが特別みたいな今のような状況ではまったくなかったので、流山FCでもレイソルとはそこそこ良い勝負をしてましたし。そういうのがレイソルを意識するようになったスタートですね。
Q:実際にレイソルへ入ったのはいつですか?
A:小6の終わりです。セレクションで。
Q:もう大会とかも全部終わってますよね。そんなタイミングで入れるんですね(笑)
A:ホントですよね(笑) 実際に入るのは中1からなんですけど、家も近かったですし、練習に来れる環境だったから。
Q:保育園の"プレ保育"みたいな?(笑)
A:そうそう(笑) そういう感じで行ったりしていました。
Q:ジュニアユース時代は大会での結果という意味ではどうだったんですか?
A:いや、普通かな。全国でもベスト16とかベスト8とか。まだレイソル自体もユースが結果を出しているとか、ジュニアユースがこの年代でメチャメチャ強いとか、そういう感じではなかったですね。小学生が一番強いみたいな感じでした(笑) 「ちょっとレイソルの小学生強いぞ」みたいになってきたぐらいの所だったので、あまり全国レベルの大会で上位に行くような感じではなかったですね。
Q:ジュニアユースの時の監督はどなただったんですか?
A:今は熊本にいる清川(浩行)さんです。2,3年の時が清川さんで、1年の時は2,3ヶ月に1回くらい監督が替わるような感じでした。今みたいに一貫していなかったので、監督がやるサッカーをみんながやる感じで。でも、そういうのも今思えば良かったと思います。色々な監督の下で、色々なシステムや色々なサッカーに触れたことは良かったのかなと思いますけど、確かに1年の時は3,4人くらいの監督がいましたね。『北京の太陽』って人もいましたよ。
Q:『北京の太陽』?
A:楊さんという中国人の方で。楊朝輝さん。
Q:向こうで活躍していた方ですか?
A:たぶん。その活躍を僕たちは知らないですけど(笑)、中国代表だったらしくて『北京の太陽』と呼ばれていて、中国に行くとスゲーっていうのは聞いてました。本当にガチで中1相手にサッカーをやるので、えげつなかったですけどね(笑) メッチャ晴れてる日に体育館でフットサルをやったり、メッチャ雨の日に人工芝で凄い離れた距離からボールにスライディングさせられたりとか(笑) 「雨の日こそ体育館じゃないの?」みたいな。凄く面白かったですけどね。
Q:当然プレーを実践して見せてくれたりしたと思いますけど、やっぱり上手かったですか?
A:上手かったです。確かフォワードだったらしくて、シュートとか強かったですね。たぶん代表だった選手だと思いますよ。そういう風に聞いていたので。
Q:当時は高校サッカーの方が全盛の時代でしたし、千葉にも強豪校が多い中で、ジュニアユースからユースに上がる時点で迷いはなかったですか?
A:そうですね。ユースに上がれることになっていたので、「高校も良いな」とは思いましたけど、そこのチョイスはあまり迷わなかったですね。
Q:「良いな」というのは高校選手権に対してですか?
A:そうですね。でも、こっちでやっていれば芝生でできるし、当時はサテライトがあったのでチャンスがあれば練習に呼んでもらえて、サテライトリーグにも出してもらえて、そういう意味ではそっちの方がプロに近いかなと。当時は高校からプロに行く人も多かったですけど、少しずつユースからプロに行く人たちも増えてきていたので、プロが身近な環境でできるというのは凄くポジティブだなと思いましたけどね。
Q:そうすると中学から高校に上がる時に、プロというのは明確な目標として捉えていたということですね。
A:いや、漠然とですね。サテライトの練習に参加したりとか、サテライトリーグに出してもらえるようになってから、より明確になった感じです。中学生くらいだったら「サテライトに行けるのっていいな」くらいで。でも、僕と同い年には中3でサテライトリーグに呼ばれたヤツもいたんですよ。本当はユースの選手が呼ばれていたんですけど、そのポジションがみんなケガ、ケガ、ケガみたいな感じでいなくなって、代わりに呼ばれた感じで。帰ってきてから「砂川怖えーよ」みたいなこと言ってましたけど(笑)、そういう環境にいればそういう可能性もあるというのが、早い段階で見られたのは良かったと思います。
Q:ユースの3年間というのはいかがでしたか?
A:まあ...普通(笑)
Q:普通(笑)
A:高1から試合には出させてもらってましたし、サテライトの練習にも行かせてもらってましたけど、高1の時はクラブユースで3位かな。それで当時の全日本ユースに出たりとか。そういう意味では高1の時が成績は一番良かったですね。だから、ドゥー(近藤直也)とかウノ(宇野沢祐次・長野)の代は決定戦で負けてクラブユースに出てないですし。その代わりにJユースでは3位でしたけど、そんな感じでしたね。
Q:あまり大会の結果にこだわるような雰囲気でもなかったという感じですか?
A:やっぱり1人でもトップに行ければという感じだったと思います。今みたいに3年生がいっぱい出るとか、そういうのがなかったなと。年々3年生が減っていって、だいたい各年代から3、4人ずつくらい試合に出るような感じで、僕が高3の時も高1が3、4人ぐらい出ていて、同じ代もやっぱり3人か4人しか出てないんですよ。僕が高3の時のJユースなんて中3の貴之(船山貴之・川崎)とか出ていたから、なかなか強い体制を組みづらかったのかなと。優勝するようなチームを見るとやっぱり3年生が主力を占めていたし、当時のレイソルはそういうチームとは違っていたと思いますね。
Q:当時はユースより高校の方が全盛というのは国体のメンバーを見ても明らかで、大谷選手が高3の時の千葉県選抜はユース勢も大谷選手1人だけで、あとは全員高体連勢だったと思いますけど、あの国体で全国優勝したというのは良い想い出ですか?
A:楽しかったですね。とにかく楽しかったです(笑) 千葉県は練習にも力を入れていましたし、僕は高校が流経(流通経済大柏)だったので、同級生も一緒に3人か4人は国体選抜に入っていたから、学校から練習にみんなで行くのも楽しかったし、他の市船(市立船橋)とかから来ている選手も基本的にはだいたい中学生の頃からみんな知っているから、何か"ブカツ"的な感じで(笑) 僕は"ブカツ"をやってこなかったから、そこは楽しかったですね。だから1人だけユースというのは全然感じなかったです。
Q:あのチームからプロに行った選手も10人くらいいて、チームとしても非常に強かったですよね?
A:学校自体も八千代、市船、流経、習志野、渋幕(渋谷幕張)だから本当に5つくらいで、結構みんな千葉の人間だったから中学校のトレセンとかで知っていたので、仲も良くてチームワークも良かったし、スタッフを含めて雰囲気は物凄く良かったですね。今もたまに当時の国体のスタッフが練習を見に来てくれて、話したりしても「凄く雰囲気が良かったよね」という話になるから、凄く楽しかったです。だって、FC東京と良い勝負してましたからね。90分のゲームでトップチームは前半しか出てなかったですけど、その前半だけで2-2とか。ケリーとかいた時のチームに同点で、後半向こうが若手に替えたら3-0ぐらいでウチらが勝ったり、ジェフのサテライトとやって同点とか、結構プロとも良い勝負をしていました。プロに行きそうな選手も多かったから、厳しい競争はあったけどレベルが高くて楽しかったですね。
Q:そのチームメイトの一部が国体の数ヶ月後に高校選手権で優勝しましたけど、そこはうらやましかったですか?
A:うらやましかったですね。というか、国立に見に行ってました。アイツらが「見に来いよ」って言うから行きましたけど、「コレ、チケット買えないんじゃね?」ぐらいに列ができていて、結局立ち見で。でも、単純に「スゲーな」と思いました。市船が選手権で優勝して、大会が終わってから大久保と普通に遊んだ時に、アイツがかなり時間に遅れてきたんですけど、「電車でファンに囲まれて大変だったんだよ」みたいなこと言ってて。「コイツら凄いな」って(笑) 「選手権人気凄いな」って思いましたね。そこは高校サッカーの特権ですよね。確かにうらやましかったですけど、まあ「国体で優勝したからいいかな」って(笑) でも、みんなまだまだ現役でやっていますし、今でもみんながプレーしているのを見ると刺激になりますし、レベルは本当に高かったんだなと思いますね。
Q:そういう時期も経てトップチームに昇格されて、もう10年以上もそのトップチームでプレーされていると思いますし、キャプテンもかなり長い間務めてきていますが、トップチームに上がった頃に自分が思い描いていた30歳の姿と、実際の今の姿にギャップってありますか?
A:だいぶあります。でも、そんなに先のことはイメージしていなかったですね。今と移籍のルールも違うし、毎年1年契約でやっていた中で、18歳で入ってすぐに退団することってないじゃないですか。だいたい2,3年は見てくれますけど、1年目とかは「来年の契約はないんじゃないか」とか、そういう契約更新の不安とか、本当に1年1年結果を出していかなくてはいけないというプレッシャーは凄くあったから、10年後のことなんて当時は考えてなかったです。
Q:気付いたらここまで来ていたという感じですか?
A:そうですね。こんなに自分がサッカーをやるとは思わなかったし、「2、3年で辞めてるかもな」と思っていたので、逆にそういう風に思うくらい厳しい世界だなと。自分がユースの時にサテライトでお世話になっていた人たちが、昇格した時に8人くらいレイソルからいなくなりましたからね。それが若手と言われるような選手たちだったから、そういう厳しい現実を見ることになったし、1年目が終わった時も別に試合に出ているから次の年も契約してもらえる訳でもないし、そういう意味ではプロの厳しさを知りました。
今はみんなの契約年数が違って、契約満了や退団がぼんやりしている感じですけど、当時はハッキリわかっていましたし、契約書に"ゼロ"って書いてある時代ですからね。今みたいに代理人の人がいて「来年どうかわからないよ」という中で色々動けるような時代じゃないから、本当に11月末とかに会社に行って封筒をもらって、開けて中を見て「ハア~」みたいな感じですから、そこで身を持ってプロの厳しさを感じられたのは、自分にとって良かったなと思います。だからこそ1試合1試合、1日1日を大事にしないといけないし、今でも自分がゲームの中でダメだったら替えられると思ってやっているし、そこはそういう経験があったからだと思いますね。
Q:まだ大谷選手が20歳くらいで髪の色も派手だった頃に(笑)、確かちばぎんカップのミックスゾーンでメディア対応を終えて、当時のメディアトレーナーの方に「いやあ、言われた通りに喋りましたよ」って言っていたのが凄く印象的だったんです(笑) でも、今はミックスゾーンに行けば誰もが大谷選手の話を聞きに来るし、大谷選手も理路整然と喋っているんですけど、僕の中では正直あの金髪の青年と今の大谷選手が結び付かない所もあって。それってどうやって変わっていったんですか?
A:当時のメディアチームにメディアトレーニングというのは本当によくやってもらったので、メディアトレーナーの方には本当に感謝しています。人の目を見て話すとか、ごくごく本当に当たり前のことですけど、そういうインタビューの受け答えから何から何まで若い時に教えてもらえたのは良かったですね。でも、キャプテンもやって、喋る機会が増えたのが一番だと思います。できればパーティーとかでも人前では喋りたくないですよ(笑) あれだけ20数人も選手がいて、「別にオレじゃなくても」って思いますけど(笑)、立場上そうは行かないし。
でも、イシさん(石﨑信弘元監督)の時に「キャプテンをやれ」って言われてキャプテンをやって、チームの代表として前に出なくてはいけないし、チームの代表として話さなくてはいけないとなった時からやっぱり変わった所はあります。そこで金髪も止めようと思ったし、自分がそういうイメージで見られたら、チームがそういうイメージで見られる可能性もあるし、そのへんは本当にイシさんのおかげだなと思いますけど、まあ今でもできれば喋りたくないですよ(笑) そんなに言葉のレパートリーもないし、できればどんどんそういう場は違う人に渡していきたいけど(笑)、それで凄く勉強させてもらったのもあるので感謝していますね。
Q:ミックスゾーンに入ると「こういう自分でいなくてはいけない」というスイッチが入る感じですか?
A:いや、それはないですけど、話す内容は意識しています。自分がキャプテンをやっていなければ、好き勝手とは言わないまでも思ったことを言っても記事にならなかったりしますけど、キャプテンである以上は好き勝手は言えないですよね(笑) ちゃんと考えなくてはいけないし、そのへんは多少意識してますけどね。「本当はこういう言い方をしたかった」だったり、「こういうことを言いたいけど言うべきじゃないな」とか、自分の発言の大きさとか立場というのは十分わかっているから、そこはあえて止めている部分もあります。でも、言わなきゃいけないことはあえて言わないといけないし、そのへんは考えているかもしれないですね。まあ、皆さんから話を聞かれる内が華だとも思ってます(笑)
Q:最後の質問です。これからの夢ってありますか?
A:これからですか... うーん、でも身近な夢であればやっぱりACLは獲りたい。獲りたいなって思うし、本当にあと何年現役でやるのかというのもまったく想像が付かないので、1つでもタイトルを多く獲りたいなというのは、この5年10年の間の夢だと思いますし、その先は何をしているかわからないですけど、世界一周とかしたいかな(笑)
Q:本当の純粋な夢ですね(笑)
A:実際は難しいと思うけど、純粋にサッカーを抜きにして考えたら世界を見たいなと思います。
Q:行ってみたい国とかあるんですか?
A:いや、特にないです(笑) ああ、でも南米とか行ってみたいですね。行って、そういう所でサッカーを見たいなと思います。前は大津(祐樹)の所に行ってサッカーを見たりしたけど、どうしてもシーズンも休みも合わなかったりするので難しいですよね。ただ、やっぱりACLでもアウェイに行くと雰囲気も違うし、普段は試合前の散歩とか全然しないのに、ACLでアウェイに行くと結構「散歩とかしたいな」って思うから(笑)、そのへんもあって世界一周してサッカーを見たいなと思いますね。
Q:でも、やっぱりそこにサッカーは絡んでくるんですね(笑)
A:そうですね。サッカー以外の興味もあるけど、サッカーを見られる環境がある所では見たいなと思うし、休みがあればヨーロッパも行きたいし、この先にサッカーを辞めた後とかに、そういう時間や機会を持てたらいいなと思います。でも、そうなったら働かなきゃいけないかな(笑)
【プロフィール】
柏のジュニアユース、ユースを経て、2003年にトップチーム昇格。いきなりルーキーイヤーの開幕戦でJリーグデビューを飾ると、それから13シーズンに渡って中心選手としてチームを支え続けている。また、2008年からはキャプテンに就任。今や誰もが認める柏の闘将。
※所属チームを含めた情報は、当時のものをそのまま掲載しています。
ご了承ください。
取材、文:土屋雅史
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