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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年03月29日

『Foot!』Five Stories ~八塚浩【前編】~(2017年4月5日掲載)

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『Foot!』Five Stories ~八塚浩【前編】~

(2017年4月5日掲載)

『Foot!』で月曜から金曜までそれぞれMCを担当している5人のアナウンサーに、これまでの半生を振り返ってもらいつつ、どういう想いで今の仕事と向き合っているかを語っていただいています。五者五様の"オリジナルな生き方"を感じて戴ければ幸いです。

Q:お名前をお願いします。

A:八塚浩です。

Q:生年月日もお願いします。

A:昭和331016日。西暦で言うと19581016日です。

Q:ご出身は千葉県ですね?

A:千葉県です。ただ、これは出身というだけで、本籍が千葉なんですけど、それまでの出身には愛媛と書いていたんです。父親が出身の今治という土地によっぽど思い入れがあったんでしょうね。本籍を愛媛からずっと移さなかったんです。だから、僕も本籍を書く時に父親に聞くと「愛媛だよ」と言うので、「ああ、愛媛なの?」って。それでもずっと千葉で育ったので、結婚後はずっと千葉が本籍なんですけどね。

Q:今少しお話が出ましたが、お父様のご職業を教えていただけますか?

A:父親は公務員です。四国の学生が東京の大学に入って、戦争も経ながら「ずっとこっちで住んでいこう」という時に、国家公務員上級試験というのがあったらしいんです。それを受けて入ったのが当時の郵政省だったと。ただ、今から思えば父親の兄も郵政省で、だいぶ兄からのアドバイスがあったんじゃないかと思うんですよね。いい兄だったらしいですし、末っ子だった父親はその兄を相当尊敬していたらしいんです。兄弟の中で同じ道を継いだのはただ1人でしたし。

今でもそうなのかもしれないですけど、当時の公務員は名簿を見ると人事異動がわかるんですよね。それで父親に人事異動があると、「頑張ってるじゃないか」なんて父親の兄から電話が掛かってくる様子を見ていましたね。

Q:郵政省というと"堅い"職業というイメージですよね。

A:マジメでした。几帳面という言葉がピッタリ来る感じで、どうしてこういう子供が生まれたのかと思うくらい(笑) 父親はマジメでした。今でも父親の日記は手元にあるんですけど、僕が生まれてからのことをずっと書いてあるものがあって、普通だったら人に見せるものではないんだから、ちょっとくらい字の乱れがあってもいいじゃないですか。ちゃんと、きちんと書いてあるんです。だから、そこに"公務員像"を見ますよね。

日記ごとに当時人気のあったシールが貼ってあったりとか、コラージュの仕方なんかもちゃんとしていて。その点では似ている所があって、僕もコラージュが好きなんですよ。あんなに正確には書かないですけど、メモを付ける時にも自分なりの遊び心が手伝って、今流行っているもののシールを貼ったり、行った旅行先のチケットを貼ってみたりとか、そういう部分は「父親の日記を見た影響もあるのかな」という気はしますね。

Q:何かを書かれたり、何かのメモを付けられたりするのがお好きですよね(笑)

A:大好きです。今のメモ帳はあまりにもヒドイので見せられないですけど(笑)、書くことは大好きです。

Q:中継の時にお持ちになっているノートを見ればわかりますよね(笑)

A:関係ないことがいっぱい書いてあるんですよ。「今日の新幹線の窓から見た景色はこうだった」とか(笑)、ちょっと挿絵も入れたりして。そういうことを書き留めたいんでしょうね。僕は文庫本を読んでいる時も、車窓から見た気に入った風景を絵で描いたりしますから。そういう行為が好きなんだと思います。後から見る訳ではないですし、それを「仕事に使おう」なんて思っていないんですけど、それが習慣になりましたね。

Q:お母様は専業主婦だったんですか?

A:そうです。父親が四国から出てきた時に、東京へ公務員である兄の下宿先に同居しに来た訳ですよ。そこは兄弟たちがたむろするような部屋だったらしいんですけど、そういう流れの中のどこかで出会ったんでしょう。母親は千葉県育ちなので。だから、戦後のドタバタの中で思春期を迎え、ドタバタの中で敗戦を迎え、ドタバタの中で恋愛が始まり、結婚して子供が生まれてという感じだったんでしょうね。

昭和33年というのは戦後と言っても、「えっ」と思うくらい近い所に終戦があったんですよ。だから、当時の話を父親や母親に聞いても、細かくは話してくれないんです。「大変だったよ。食べ物もなくて」なんて言うけれども、リアルに伝わるような話を聞くことはなかったですよね。

ただ、きっとあの世代の人たちというのは、いろいろなことに耐えながら家族を作って、新しい戦後を作ろうという気概が、僕ら以上にあったんでしょうね。今でも実家に残っている昔ながらの"たたずまい"を見ると、思い出しますよ。「この中でよく遊んだな」とか。あの頃の両親には感謝しています。大変だったはずですから。

Q:自分が親になってみて、初めてわかることって多いですよね。

A:多いですよね。「あえて叱ってくれたあの時は、こういう気持ちだったんだろうな」とかね。ただ、僕は「ひょっとすると良い時代に生まれたな」と思っていて、昭和33年ってまだテレビもなかったんですよ。でも、僕が小学生になった時にはテレビ局が開局していて、高学年になると少しずつ一般家庭にテレビが入ってくると。それまでは街頭テレビでしたけど、小さい僕にとっては記憶すらないんです。その中で一戸ずつテレビを持っている家が増えていって、「我が家にもテレビが来たぞ」と僕と弟、父親と母親とみんなで喜んで、食卓を囲んでテレビを見ていたと。

そのテレビが来たことで、僕にとって本当にありがたかったのは、もちろんお笑いやニュースも含めて様々なジャンルの番組があった中で、大好きなのはやっぱりスポーツだったんですよね。スポーツと言っても、のちに"スポ根もの"と言われるアニメーションです。当時の僕は小学校4年生か5年生くらいでしたけど、ほぼ全ジャンルのスポーツアニメがあったんです。

野球なら『巨人の星』があって、ボクシングだったら『あしたのジョー』があって、プロレスなら『アニマル1』があって、柔道なら『柔道一直線』、水泳なら『金メダルへのターン』というドラマが、剣道なら『おれは男だ!』というドラマもありましたし、ラグビーも今なら『スクールウォーズ』でしょうけど、当時は『でっかい太陽』というラグビードラマもあって、おおよそのスポーツを僕らはアニメやドラマで見ることができたんです。

Q:それは凄いですね!

A:だから、部活も『アタックNo,1』の影響でいきなり女子のバレーボール部員が増えたりしました。どのスポーツも当時の僕らにとってみれば、新しいものとしての魅力にあふれていたので、取っ掛かりやすかったですよね。スポーツへの心の入り方が全ジャンルに渡ったので、今の子供たち以上にオリンピックが大好きだったと思います。

僕らの時のオリンピックの過熱ぶりというのは、学校でその話題ばかりになるんですよ。札幌オリンピックで金・銀・銅を獲った時は、みんな真似する訳です。ハイジャンプをする時に服がパタパタパタとはためく感じとか(笑) ファイルの下敷きには妖精のようなジャネット・リンの写真を入れたりとかね。つまり、スポーツを愛するようになった原点にはオリンピックがあった、その前にスポ根のアニメやドラマがあったというのが、正直な所かな。

「良い時代だったんだなあ」と思いますよね。その少年期に得たスポーツへの想いは、なかなか消えるものではありません。僕が初めて週刊誌を買ったのも小学校4年生か5年生の頃かな。本屋さんで小学生が週刊誌なんて買える時代じゃなかった中で、『ベースボール・マガジン』を買ったんです。「今日の王貞治はこうだった」とか、そういうニュースの11つを見て、「ああ、雑誌って面白いな」と。

もともと新聞は大好きで、スポーツ欄を読むのも大好きだったんですけど、それを見ていた父親が「そんなに好きなら本屋に行こう」と。それで『ベースボール・マガジン』を買ってもらって読んだら、本当に事細かく書いてあって、子供心に「ああ、こうやって記録というのは作られて、こうやって書いていくものなんだ」と思いましたよね。将来そのジャンルで働こうなんてことは夢にも思っていないんですけど、家族で野球観戦にも行って、テレビも見ていた中で、雑誌という存在に触れたのも小学校から中学校に上がる頃でしたよね。

Q:野球全盛の時代ですよね。

A:当時フォームを絵にしてパラパラ漫画なんかもよく描いていたのを覚えています。「長嶋茂雄さんだったら脇はこういう風に空振りして」とか(笑) そういうマニアックな少年でしたけど、同じクラスのみんなが同じ話題で盛り上がりますからね。「村山はこうやって投げるだろ」「いやいや、足の上げ方はそうじゃない」「堀内は投げた後に帽子がこうなるんだぜ」みたいにみんなで真似しながら(笑) そういう時代でしたよね。

Q:そうすると、やはりいろいろなスポーツに触れていたとはいえ、野球が一番お好きだったんですね。

A:そうです。当時はいろいろなものがない中で、三角ベースで野球を始めたり、父親とキャッチボールをするのが楽しみだったり。『息子とキャッチボールをする』というのも当時のお父さんの夢としては一般的で、今ならサッカーが主流なんでしょうけど、とにかく空き地がそこら中にあって、すぐにみんなでラインを引いて、落ちている板きれや空き缶でホームやら、一塁やら、それぞれのベースを作ってね。結局1チーム分の道具が揃っていれば相手も使う訳だから、道具のない子にはみんなで貸し合って。

夜遅くまでみんなで遊ぶというのは野球しかなかったですね。また千葉県は結構野球どころだったので、僕らも今でいうクラブチーム、ちびっこ野球のチームに入っていました。小学校、中学校と学校でもやるんですけど、そういうクラブでも野球をやるんですよね。

Q:八塚さんもそういうチームに入ってらっしゃったんですか?

A:入っていました。僕は足が速くて、ずっと内野手をやっていました。「これでメシを食おう」までは思っていないですけど(笑)

Q:ポジションはどこだったんですか?

A:ショートです。でも、僕は晩年太ってね(笑)

Q:晩年って何の晩年ですか(笑)

A:会社員時代はすぐにキャッチャーとかやらされましたけど(笑)、少年時代は足が速かったので、他のクラブの監督が「アイツ上手いな」なんて言っている声が耳に入ってきた時は嬉しかったですし、頑張っちゃいましたよね。

Q:当時のテレビ中継は巨人が中心だった訳ですよね。

A:そうですね。僕はラジオ中継から入ったんです。ラジオが大好きで大好きで(笑) 小さなトランジスタラジオを父親に買ってもらって、友達みんなが道すがら「聞かせろよ」と言うんですけど、ちょうど家に帰るぐらいの時間にはもうナイターが始まっているんですよね。カレーの匂いがどこからか漂う夕暮れ時に、みんなで歩いて「今日の4番は誰だよ」「ピッチャーは誰だよ」なんて話してね。野球中継が好きでしたね。僕も巨人が好きでしたけど、中でも渋い選手が大好きで、土井(正三)だとか黒江(透修)だとか。

Q:時期的には小学生時代にV9が引っ掛かるくらいですよね。

A:そうですね。中学校に上がる頃に長嶋が引退するくらいです。長嶋が好きでしたから、いつも3番を付けたかったくらいで、のちに僕は名字のこともあって"8番"を付けるようになるんですけど(笑)、当時は投げるフォームも長嶋に似せたりしてね。エラーしても明るい感じで「オレか?」みたいな感じも真似していましたね。長嶋さんには憧れていました。郷土のヒーローですから。

Q:ちなみに小学校の頃になりたかった職業はありましたか?

A:ない(笑) ないですね。就職するなんて概念もなかったので、「このまま子供でいたいな」って(笑) 「一生これが続けばいいな」って。取り立てて何かに打ち込んでいる子供でもなかったですし、何かに秀でていた訳でもなかったんです。今から客観的に見るとね。

ただ、周りから「とにかく明るかったよ」とは言われました。「とにかく面白かったよ」と。「ああ、じゃあみんなそういう風に思っていたんだな」って。例えば「昨日のドリフ見た?」というのは自分だったんだろうなとは思います。当時のお笑いやドラマの物真似をしたり。でも、そういうのは多かったですけど、自分から何かを発信するタイプではなかったですね。例えば生徒会長をやったりとか、誰がどう見てもクラスの顔という存在ではなかったと思います。

恥ずかしがり屋の面もあった気がしますね。面白い子は他にもいたので、そういう子を乗せるために、一生懸命脇役として御膳立てをして、大いに盛り上げた感じはありました。自分から率先して何かをするという感じではなかったと、自分では分析しているんですけど、友達は「そんなことないよ」と言うんです(笑)

Q:八塚さんって僕の知り合いの中ではたぶん一番面白い人ですけど(笑)、その分だけというか、人に気を遣ってらっしゃる部分も大きいですよね。

A:やっぱり自分と喋っていて、つまらなそうな顔をされると悲しくなるじゃないですか(笑)どんなにおとなしい子でも、「自分が話せば笑顔にさせられる」という想いは、子供の頃からありましたね。「明るい気持ちにさせてあげたいな」って。そういう所は当時から自分なりに感じていた部分でもあります。

これは後年役に立ちましたよね。自分で意識しなくても、そういうことができるようになっていたので、何の苦労もなく、人の懐に入れますよね。それは選手へのインタビューの際にも生かそうとしている感覚です。ただ、僕が一番心掛けているのは、「人の心にズカズカと土足で入るのだけはやめよう」ということです。ある程度の距離感は保ちたいですから。だから、ずけずけと呼び捨てにしたり、ニックネームで呼ぶなんてことはちょっと苦手なんです。

Q:だって、八塚さんってほとんどの人に敬語で話されますからね。

A:それが僕の中での"流儀"なんです。あの人との距離感は近いけど、あの人とは遠いというのでは申し訳ないので。全部同じ呼び方でリスペクトして、「全部同じ距離感で行きます」という所はありますよね。

Q:ちなみに小中学校の頃は、いわゆる部活には入っていたんですか?

A:野球。でも、盛んだったのはクラブチームの方ですよね。僕の小中学生時代はご存知の通りの大ベビーブームで、中学校の時は同じ学年に14クラスありましたから(笑) もはや部活どうこうではないんですよね。のちに3校に分校になるんですけど、それぐらい1ヶ所に固まっちゃったもんだから、遠くの僕らもそこまで通っていましたから。

運動会や修学旅行なんてそれは大変でしたよ。修学旅行もバス12台とか、運動会も7色対抗リレーとかいって、「薄紫色チームが勝ちました」とか言われても、「薄紫色ってどんな色だよ」と(笑)運動神経は良かったんです。足も速かったですし。唯一苦手だったのは器械体操かな。特に鉄棒は苦手でしたね。要領とか理屈がわからなかったんです。

あと、格闘技が好きで、当時の日本にはボクシングの世界チャンピオンがたくさんいたんです。藤猛とかファイティング原田とか大場政夫とか。ある時期は僕もボクシングをやっていましたからね。今思えば何でもかんでも体験できたというのは、良い時代を過ごしたと思います。そこでスポーツマインドというものが作られたと思いますしね。

Q:小学校とか中学校の頃ってスポーツができる子はモテるじゃないですか。八塚さんもモテました?

A:モテなかったなあ(笑) 僕はそういう所はものすごく奥手だったのかなあ。今でもちょっとそういう所はあるんですけど。

Q:そうですかね?(笑)

A:まあまあ(笑)自分はどちらかというと「好きだよ」とか言えないタイプでね(笑) いつも話しているだけで楽しくて、それで消化されちゃうんですよね。「ただ面白くて話しやすい」という平凡な少年だったと思います。

Q:そういう人って大人になってから人気が出るパターンもありますよね。

A:意外とね。だから、もしお子さんでこの文章を読んでくれる子がいたら是非「20年後は逆転しているよ」とか「30年後には君の持ち味が出るはずだよ」とか言ってあげたくなりますよね(笑) 人生には2回か3回くらいの転換期があるから。

Q:高校生活に関してはいかがでしたか?

A:高校自体は私立の学校でした。でも、僕は学校の近くの映画館によく通っていました。何人かの仲間と映画を見に行っていたんですけど、その連中と付き合っていた時間は今でも宝物ですね。そこで初めて東京の子に出会った訳です。「こんなヤツらがいるんだ」と。少なくとも今まで知っていた地元の友達とは全然違っていて、そこは大きなカルチャーショックでしたね。ただ、そんな彼らとも共通の話題はスポーツとお笑いでした。

Q:八塚さんとお話させていただいていると、映画の話題はよく出てきますよね。

A:高校時代が原点ですね。それまでは興味もなかったですから。当時は"フォーク"も大好きで、もう時効なのかもしれないですけど(笑)、授業をサボって中津川のフォークジャンボリーに行っちゃったこともありました。「こんなメンバーで1日中やるんだよ!ヤッチャン、行かない?」「いや、このまま学校行かないのはヤバくないか?」「今行かないでいつ行くんだよ!」みたいな話になって、行っちゃったんですよ(笑)

あの頃の自分はただただ"漂流"していた感じで、自分から何かを率先してやったような記憶はないんですよね。だから友達からいろいろなことを学んだんです。他の学校の学食を食べに行ったりとか。「そんなことできるの?」と聞いたら「できるよ」と。そこから今度は大学の学食にも行ったりして、「大学生ってこんな感じなんだ。大人だなあ」みたいな。だから、喫茶店というものを知ったのもその頃ですし、当時はジャズが良く流れていましたけど、薄暗い店内にいろいろな人がいて、僕はそこに大人のカルチャーを感じたんですよね。周囲は本を読んでいたり、女の子と語り合っていたり。そんな中でダメな高校生4人組が「カフェオレください」とか言いながらそこに座って(笑)

周りに"大人"を感じていましたね。「一刻も早くこういう世界に入りたいな」と。それは夢でも何でもなくて、その時に自分の置かれていた「まだまだ子供なんだ」とか「親の庇護の下に生きているんだ」という状況から、「早く大人の土俵へ行きたいな」というのはいつも思っていました。

Q:そんな高校生だったんですね。

A:煮詰まっていたんでしょうね。だから、おかげで本も相当読みました。本が好きな仲間がいて「ヤッチャン、これ面白いよ」と次々に貸してくれると、「これ面白いな」となって、「こんなボロボロの本、どこで買ったの?」「古本屋だよ」と。僕は古本屋すら知らなかったんです。それで学校の帰りに御茶ノ水で電車を降りて、ニコライ堂を見ながら坂道を下っていくと、そこは全部古本屋で。ひなびた本が10円で売っていたり。だから、高校時代の友人には今になって感謝していますね。「良い友達に出会ったな」と。いろいろなことを教わりました。

Q:大学は立教大学法学部ですね。どうしてこの大学のこの学部だったんですか?

A:キャンパスを見た中で一番フィット感はありましたね。「カワイイ子がいるな」というのと「キャンパスが素敵だな」というのと。何より当時の僕は法学部しか受けなかったんですけど、「法律を学んでみたいな」という気持ちが強かったんです。「もし仮にここで法律を学ばなかったら、一生法律というものに接しないで終わっちゃうのかな」と思った時があって、そこも友達との会話の中で「学部選びってどうする?」という話になった時に、「学校でやるということは、将来のために役に立つからやるんだ」という派と、「今やっておかないと一生やらないからやっておく」という派の2つに分かれて、僕は少数派だった後者に賛成したんです。

そこで「法律を知らずに、僕らはどう生きたらいいのかを学ばずに終わるのもちょっと嫌だな」と思って、「じゃあ法学部に行って法律を学ぼう」と。社会の仕組みの中で「どういうことが犯罪で、どういう刑罰があるのかを把握しておけば得になるかな」と、それだけは思ったんですよね。その中の1校が立教の法学部だったという訳です。

Q:僕も法学部なんですけど、そういう理由で法学部を選ぶ人はなかなか聞いたことがないですね。

A:僕は大正解だったと思っています。今の仕事には何も役に立っていないですけど(笑)、そこでゼミで交わした言葉も覚えていますし、自分でレジュメを書いて発表するような、今でいうプレゼンみたいなやり方を、僕はゼミの仲間や先輩から学んだ所はありますね。

"解釈"っていうのは自分の意見や人の意見を一番出せる所じゃないですか。憲法91つとっても。その意味で言ったら、「僕は随分考え方として良いものを教わったな」と。「論理というのはこういうものなんだな」と。「人を納得させるには力量というものが試されるんだな」ということを感じました。でも、世の中に出てからは一向に役に立たなかったですけどね(笑)

Q:確かに役に立っている実感はないですよね(笑)

A:僕が今でも感謝しているのは、ゼミの先生だった高畠通敏という先生で、僕にとっては恩人で、もうお亡くなりになったんですけど、五木寛之との対談なんかを読むと「高畠さん凄いな」と思う時があって、政治学でもちょっと違うタイプの政治学でしたね。今こそサブカルチャーと言って様々な切り口がありますけど、僕は高畠さんからものの見方や書き方、しゃべり方の切り口を教わりました。"トレンド"なんて言葉は高畠さんから初めて聞きましたし、「切り口はどこからがユニークなのか」なんてことを教えてくれました。

「それは本で読んだことでしょ?どうして君の切り口から分析しないの?」と。「なぜ君は今食べているもの、今着ているもの、今やっていることに対して、君なりの"トレンド"を発信しないの?」というようなことを凄く突き詰めてくれた人だったんです。おかげで僕らは随分議論好きになりました。自分なりのものを発信するということを工夫する"芽"ができたのはその頃ですよね。法学部で良かったと思うのはそこです。法律を覚えようともしなかったですし、資格試験も受けていないですけど、そのやり取りだけが興味がありましたよね。でも、その頃の僕は今の道なんて何にも考えていなかったですけど。

Q:大学の時の生活の中心は何だったんですか?

A:これはね、笑われるかもしれないけど、自分では"漂流"と呼んでいたことで(笑)、大学に行く、大学の周りには行くけど、授業には当然出ないんです。池袋の街に行く、渋谷に行く、目白に行く、高田馬場に行く、新宿に行く、これの繰り返しです。何をやったかと言われても、何もやっていないんです。

ただ雑誌を見て、本を見て、映画を見て、食べ物を食べて、遠出の旅行の計画をして。ゼミの友達とただただ時間を浪費した感じですね。それが今に生きているか生きていないかと言われたら、確実に生きていないに一票を投じますよ(笑)

Q:でも、楽しかったんですよね?

A:とてつもなく楽しかった。このまま終わればいいと思っていたよね(笑) それが3年生くらいになってくると、どんどん就職の話が出てきて、仲間が1人ずつ欠けていくんですよ。みんな就職セミナーとかに行き出したり、就職課に相談に行き出したりしていたんですけど、僕は何もしなかったんですよね。自分が「就職活動に向いていない」と思ったんです。そこではたと閃いたのが"メディア"なんですよね。

書くことが好きだったので。ゼミで何が好きだったかと言ったら、書いたものを自分で発表することだったんです。自分で文章を書いて、自分でまとめることに喜びを感じていて、そこでみんなに笑ってもらうことだけを目指して書いたものを、先生に「面白いね」と言ってもらえてね。「じゃあこの"ちあきなおみ論"はそのままウケるんですか?」「ウケると思うよ。時代が認めるかどうかは別にして、ストックしろ。君の視点は面白いと思うよ」と言ってもらえた時に、「ああ、書くことってこんなに面白いんだ」と。

だから、一生書くということに特化できるものならば、「トップランナーにならなくても、ラストランナーとして食い付いていくにはいいのかな」とは思いましたね。それが一般企業に関して、僕が就職活動しなかった理由です。みんなは心配していましたけどね(笑)

Q:Wikipediaに書いてあったんですけど、アルバイトでお笑いの台本とかを書いてらっしゃったんですよね?(笑) それは大学の時ですか?

A:大学の時です。売れていないコメディアンがコントをやるような劇場で、"学生さん"と呼ばれる僕らアルバイトが41組になって、コントの原稿を提出すると、コメディアンたちがうまく味付けをして演じるんです。僕らにしてみれば、それを演じてくれるのが凄く嬉しくてね。僕のコントは仲間内で評価が高くて(笑)

当時もコント番組が大好きで、テレビを見るとクレイジーキャッツの全盛期でしたから、彼らは爆発的な人気を誇っていたんですよ。のちにクレイジーキャッツの後ろには青島幸雄がいて、ほとんどのコントを書いていましたと。てんぷくトリオの後ろには井上ひさしがいましたとか、永六輔、大橋巨泉、前田武彦という存在も知っていく中で、歌番組もお笑い番組にも総じて放送作家というのがいて、表に出ている彼らはアドリブで喋っているんじゃなくて、台本があったというのを知ったんです。それで裏でそういうものを書いている人たちに憧れました。僕が初めて「書きたい」ということに興味を持ったのはそこですよね。

Q:そうすると元々メディアに興味を持ったのは、"話す"ということよりも"書く"ということだったんですね。

A:そうです。当時の僕の感覚で行くと、無口な男だったと思います。仲間に言わせれば「そんなことないよ。喋ってたよ」と言うんですけど。

Q:僕もそう思います(笑)

A:そうなのかなあ(笑) 自分の中でもあまり「自分が自分が」というのはないんですよ。今も話を聞かれていると、どこか恥ずかしい部分がありますよね。

Q:でも、確かに八塚さんは自分を前面に出すタイプではないですよね。そんな大学生が、そこからラジオ福島に入られる訳ですけど、そのあたりの経緯をお聞かせいただけますか?

A:書く仕事と言ったら、週刊誌か出版社か新聞しか知らなかったので、そういう会社を受けようと思っていたんですけど、新聞社が主催していたセミナーみたいなものに行った時に面接があったんですね。その時に面接官をされていた重役の方が放送局から出向でいらっしゃっていた方で、その方が「キミ、面白いね」と言ってくれたんです。今でもよく覚えているんですけど、「キミは話が本当に面白い」と。僕は「面白い」と褒められたのは、その時が初めてだったんです。仲間内では褒め合ったりしないですし、学校の先生も「面白い」と褒めはしないですから。「今までのやり取りで、そう感じられましたか?嬉しいです」と言ったら、「実はアナウンサーという道もあるんだよ」と。「制作も含めて"放送局"という媒体もあるんだよ」と教えてもらったんです。

そこで「そうか。そういう幅もあるんだ」と。「放送局はアナウンス研究会や放送研究会の人じゃないと入れないと思っていました」と言ったら、「そうじゃないよ。採る人数が少ないから、入ったら局が大事にイチから教えてくれるから。彼らが欲しいのは"原石"だから。初めから加工された小さなものよりも、磨けば面白い"原石"が欲しいんだよ」と言われた時に、僕は「それは良かった」と。そこから「アナウンサーというのも面白いのかな」と思ったんですよね。

Q:"原石"の話は素敵ですね。

A:それでアナウンス学校を紹介されて行き始めたんです。1つはマスコミセミナーという学校と、もう1つはアナウンスアカデミーで、そこがようやく僕がこの道に舵を切った瞬間ですよね。それまではそういう発想はなかったですから。

これが不思議なんですけど、僕はアナウンサーを目指している仲間の中では場違いだった訳です。発声もしたことがなかったですし。ただ、運良く僕はいくつかの放送局の試験に通っていたんです。それで他の会社の試験も進行していきながら、ラジオ福島から「筆記試験が通ったので会社に来てください」と言われて、福島まで行って試験を受けたら受かっちゃったんです。全国で一番最初に受かっちゃったんですよ(笑)

のちにある研修で、先ほど話したセミナーで面接官をされていた重役の方と再会して、「僕はあの一言でアナウンサーになっちゃいましたよ」と伝えたら、「そうか!アレは結構みんなに言っていた言葉なんだ」と言われてね(笑) 「そんなもんだったのか」と。僕の人生を変えた一言だったのにね。「『キミ、面白いね』と言われたあの一言でこっちに来ちゃいました」と言ったら、「そう。それはそれは良かったね」と(笑)

でも、あの時のことは覚えてくださっていましたけどね。「キミは印象に残ったよ」と。あの「面白いよ」の一言が自分を救ってくれた訳ですから。だから、僕はアナウンサーを目指す人には「面白いよ」と言うようにしているんです。本当に面白い時はですよ。お世辞でも何でもなく。言われた時の気持ちがわかるんですよね。

Q:そういう経緯なんですね。

A:ある意味ではド素人同然の自分に目を付けてくれるなんて、何をもって評価してくれたのかなと。のちに自分の中では何となく気付いた所もあるんですけどね。決して原稿読みではなかったはずです(笑)

Q:もちろん僕はアナウンサーが本職ではないですけど、そんな原稿読みみたいな所での差ってそんなに出ないですよね?

A:そう思います。プロはみんな上手いので、あとは好きか嫌いかですよね。ある程度のレベルがあったら、あとは好みの問題で、上手い下手ではないと思います。

Q:そういう意味でも八塚さんは、人の気をパッと惹くモノを持ってらっしゃいますよね。

A:そうだと嬉しいですよね。そこは今まで自分が生きてきて、興味を持ったものにうまく共鳴してもらえる部分ですよね。「ああ、独りよがりじゃなかったのかな。良かったな」というか。

Q:実際に入社されたラジオ福島はいかがでしたか?

A:「自分が追い付くには到底難しいのかな」という先輩の力量はありましたね。ただ、幸いなことにテレビじゃないので、「ルックスじゃない」というのが自分の中の拠り所としてあったんです。ラジオであったことが自分にとってはアドバンテージでした。

それから11つ言えることは、会社自体の"回転"が速くて、力量以前に自分へ仕事が回ってくるのがローカル局の良さかなというのもありましたし、何より最大のアドバンテージだと思ったのは、小さな局ゆえに取材、原稿書き、自分でアナウンス、編集までできるんです。つまり、自分にとってのメリットである取材と企画ができることで、自分の中で「そこで勝負できるかな」と思えたことはアドバンテージでしたね。

例えば大きな局に入って、読み手だけの僕となったらアドバンテージなんてほとんどなかったはずですけど、まず企画をして、自分で取材に行けて、なおかつ原稿に起こして、自分で発信したものを自分で編集までできるのはありがたかったです。「このパッケージならば、ひょっとしたらこの土俵ならば何とかなるぞ」と思いました。そこの部分に関しては野心があったよね。

Q:その手応えは早い段階であったんですか?

A:すぐありました。すぐに原稿を書かせてもらったら、「オマエの原稿は面白いな」と。だから、番組とは別に自分が担当していないものまで「コレ原稿にしてくれない?」と相談されたりとか。その力量は小さな局ゆえに、すぐ察知してくれましたよね。「アイツには企画と原稿の良さと取材力はあります。ただ、"読み"がね...」みたいな感じだったんじゃないかなと(笑) すぐに番組も持てましたし。

ラジオ局のありがたい所は全部できるんです。報道、バラエティ、スポーツと。スポーツでやっていたのは競馬実況で、これはある意味でベースになるんですけど、例えば高校野球や高校サッカーはスポンサーが取れないと速報で終わっちゃったりとか、「全部を実況します」という訳にはいかないんですよね。あとは当時は深夜放送枠というのがあって、僕は夜の長い時間帯に番組を持たせてもらって、自分で言うのもアレですが、これが結構な人気だったんですよ。そこでならば自分のコラム的な内容の話をたっぷりと喋れる訳じゃないですか。当時は深夜放送が大人気だった頃で、"夜のアニキ"だとか言われたりしていたんですよ(笑)

Q:"夜のアニキ"なんてカッコいいですね(笑)

A:「八塚さんに相談したいのは恋の悩みです」なんてリスナーに言われると、「そうか。オレに恋の悩みを聞きたいのか。このオレにな」なんて言いながら喋っちゃうような(笑) そういうのも嫌いじゃなかったから。電話リクエストなんかは得意中の得意で、いろいろな人から来るリクエストの電話を聞いていても、曲なんか掛けずにずっと話しちゃったりして(笑)

ゲストで来る歌手の人と話すことなんかも含めて、そういうのが好きでしたね。外回りも大好きで、イベントごとも大好きだったので、率先してやりましたよね。だから、当時はスポーツに特化している部分はなかったです。

Q:『八塚浩を見守る会』というファンクラブがあったって聞いたんですけど(笑)

A:すぐできたんです。当時はミニコミ誌がブームで、地域別にいろいろなミニコミ誌が出るんです。そことコラボした番組を作った時に、僕のコラムのコーナーがあったんです。それが結構な人気で、「書籍化しませんか?」なんて言われて冊子にもなったんですけど、それも含めてリスナーの方々が見守ってくれたんですよね。

もともとの母体は『青春キャンパス』という番組があって、文化放送で谷村新司さんがやっていたんですけど、"青春キャンパスリーダー"という名前で、福島のリーダーとして谷村さんと喋ったりしていたんです。「こんなことが福島で盛り上がっています」というような内容で。そんなこんなで全国中から"青春キャンパスリーダー"が東京に集まって大会を開いたんですけど、そこで表彰されたことがあったんです(笑)

そういう環境もあった中で「ひょっとしてフリーランスでも行けるのかな?」なんてちょっと思ったこともありました。でも、入社2年目ぐらいでしたから、まだそこまでは真剣に考えなかったですけどね。同じ土俵の上に立ってみて、「ここからはキャラクター勝負なのかな」ということをちょっと感じた瞬間ではありましたよね。

(後編に続く)

取材、文:土屋雅史

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