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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年03月30日

『Foot!』Five Stories ~八塚浩【後編】~(2017年4月6日掲載)

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『Foot!』Five Stories ~八塚浩【後編】~

(2017年4月6日掲載)

『Foot!』で月曜から金曜までそれぞれMCを担当している5人のアナウンサーに、これまでの半生を振り返ってもらいつつ、どういう想いで今の仕事と向き合っているかを語っていただいています。五者五様の"オリジナルな生き方"を感じて戴ければ幸いです。

Q:1988年にラジオ福島を退社されていると思うんですけど、ここまでのお話を伺っていてもラジオ福島ではご自身の手応えのあるお仕事をされていた訳ですよね。

A 3年目か4年目ぐらいには手応えがありましたね。だから、その中で芽生えたのは「30歳を前に勝負したいな」という気持ちでした。自分でもう1回チャレンジするなら、人生で何回か転換期があるとしたら、「30歳はポイントだな」と思っていたので、29歳で区切りを付けたかったんです。1988年というのはまさに29歳の時期で、「ここで辞めるのがいいのかな」と思って、番組のスポンサーや会社の上司と相談をして、「そこかな」というのがありました。

Q:当然引き留められますよね。

A:引き留められましたけど、ウチの会社は『ホップ、ステップ、ジャンプ』の"ステップ"に当たるような会社だという感じがあって、先輩たちもそういう道を辿っていたので、僕だけがという訳ではなかったですからね。「もうちょっとやってみたら面白いよ。君は役職を取れると思うよ」とおっしゃってくださった方もいたんですけど、僕は役職にまったく興味がなかったんです(笑)

Q:当然やりたいことがあってフリーになられたと思うんですけど、その「やりたい」と思われたのは何だったんですか?

A:僕はやっぱりスポーツを全部やりたかったんです。それまでは本格的な番組としては競馬しかできなかったので、僕が小さい頃から本当に大好きだったスポーツに触れられるものならば、「もう1回イチからやってもいいのかな」という感じはあったんですよね。でも、自分が何をしようかは何も決めてなかったんです。だから「ゼロの状態でよく辞めたな」と今から考えれば思いますよね(笑)

Q:まずは"辞める"ということが先に立っていたんですね。

A:そうです。何もない状況で辞めた時に、僕が辞めたことをどこで知ったかは定かではないんですけど、関東U局の人たちがすぐにリアクションの電話をくれたんです。お会いしたことはほとんどないんですよ。でも、誰かから聞いたのか、チバテレビであったり、当時のテレビ埼玉であったり、TVKであったり、ありがたいことに連絡を戴いて。

競輪、競馬、競艇、オートという分野に関東U局が力を入れていた頃です。ただ、それ以外にも「高校野球もやってよ」「高校サッカーもやってよ」と言ってもらえて。嬉しかったなあ。それ以外にも「婦人バレーやってよ」「春高バレーやってよ」「ゲートボールどう?」「綱引きもあるよ」と山ほどいろいろな競技の名前が出てきて。おそらく地上波キー局が放送していないアマチュアスポーツを一生懸命放送していた時代だったから、僕は良い時に辞めて、良い時にお話を戴けたのかなと。それは嬉しかったですね。常にいろいろなスポーツの実況ができましたから。

Q:そうするとフリーになられてからは、すぐにスポーツ実況がメインのお仕事になっていったんですね。

A:最初に来ましたね。それ以外にも心配してくださった方がたくさんいて、ナレーションの仕事とかも戴いていましたけど、基本的には「スポーツで生きていけたらいいな」というのは芽生えてしまっていましたね。

Q:その頃はまだサッカーに特化されていた訳ではないですよね?

A:夢にも思っていない頃です。1988年の頃に「93年にJリーグができるかもよ」という噂はチラホラ入ってきていましたけど、それを目指して辞めた訳ではなかったですし、「5年後ってホントかな?」と。だって、まだワールドカップが夢のまた夢でしたから。あるいは地上波で流れる国内リーグがないんですから。

ただ、1991年が僕にとっての転機で、WOWOWが開局して、"セリエ"というものに出会って、「サッカーに特化しよう」と思ったのはそこだったんですよね。でも、それだけでは食べていけないんですよ。中継は週に1回ですから。食べられないんですけど、「自分のベースはこれだ」というのを見つけたんですよね。それまでの僕は毎年来る、例えば高校野球をやり、高校サッカーをやり、季節ごとにあったスポーツの中継をやっていた中で、あの『スーパーサッカー セリエA』だけは、僕にとって格別な仕事だったんです。

Q:それはどういう所が格別だったんですか?

A:オーディションがありました。僕も何人かの候補の内の1人だったと思うんですけど、WOWOWにアナウンサーの方は3人いらっしゃった中で、「もう1人フリーランスが欲しい」ということになったらしく、「サッカーを愛してくれる人を選びたい」と。そこで選んでもらえたことが幸いでしたよね。これに関しては「本当に運が良かったな」と思いますし、感謝しているんですけど、フリーランスになって3年後でしたし、まだBSCSの時代が来るなんて想像もしていない時代でしたから。僕はその波に乗れたという時代の巡り合わせを感じますよね。凄くラッキーでした。

Q:当時はそもそもフリーランスでアナウンサーをやっていること自体が理解されにくい時代だった訳ですよね。

A:そんな人がいなかったですからね(笑) ましてやスポーツの世界には少なかったです。コンテンツの数もそこまで多くなかったですし。

Q:その自分が置かれている状況を分かち合える人がまったくいない訳ですよね。

A:僕は個人でやるしかなかったですから、そんなに気楽に相談はできなかったですよね。本当に近しくなった人には相談に乗ってもらったりしましたけど、そういう意味ではジャンルカ富樫さんがいらっしゃったというのは、僕にとってすごく大きかったですね。あの方はアナウンサーではないですけど、ブレーンでもありましたし、喋ってもいましたし、僕にとっては勇気付けられましたよね。

だから、何か相談事があると、まず富樫さんにぶつけてみて、「富樫さん、これでカルチョの魅力は伝わっているんでしょうか?」と聞いたら、「こうした方がいい」とかは言わない人なんですけど、「いいんじゃない」と言いながらも、「こっちの方がカルチョっぽいかもね」とか。そう考えると富樫さんは僕にとっての恩人ですね。

Q:凄く包容力があって、雰囲気のある方でしたからね。

A:フリーランスの立場をよくわかってくれる人だから、何かあっても「富樫さんがズッコケれば、自分もズッコケておけばいいのかな」みたいなね(笑) そう思うモノサシにはなりましたよね。

Q:やっぱりあのWOWOWのセリエA中継は日本でいう海外サッカー中継の走りじゃないですか。そういうことに携わられた自負みたいなものはお持ちですか?

A:無我夢中にやってきて、後を振り返ったら道ができていて良かったなとは思いますよね。もう無我夢中でしたから。何をやるにも11回試行錯誤の連続で、早い話が選手の呼び名から、ましてやセリエAの仕組みから、何もわからない中でやっていましたから。今みたいに雑誌がたくさんある訳ではないですし、想像して欲しいんですけど、まだインターネットのない時代です。何もない中でスタートすることの苦労というか、1ヶ月遅れの『グエリン・スポルティーボ』という雑誌を送ってもらって、それを見ながらみんなで頭を突き合わせて「これはこうしよう」という感じで番組を作っていってね。

その時のプロデューサーがイキのいい人で、「こうしよう!」となったらすぐにやっちゃう人だったから、「コーナーを作って、もっとカルチョを広めるためのネタをやろうよ」なんて言って、「イタリアにおけるカルチョをイタリア人はこう思っているよ」みたいに、今でも通用しそうなネタをやったりね。(コッツォリーノ・)アンジェロなんかは当時から協力してくれたけど、そういうのも含めながらね。

僕にとっては忘れられないエピソードがあって、富樫さんが「いずれみんなが何も見なくても『ミランの選手はこれ』と名前が挙がったり、トリノやナポリの選手の名前だってみんなが知ってる時代が来る」と言うんです。「ジャイアンツの選手は誰、ロッテの選手は誰、というのと同じように、あるいは野球以上に、ちびっこたちがそういう名前を頻繁に出すようになるから」と。「今遊んでいる子供たちはみんな野球帽をかぶっているでしょ。でも、この子供たちがいずれレアルやバルサのユニフォームを着ているのを目の当たりにするようになるから」ってね。「その時みんな驚くよ」って言うから、「富樫さん、そんな時代は僕らの目の黒い内は無理ですよ」と言っていたのに、何てことはなくて、その数年後には実現しましたからね。だから、あのカルチョを日本に伝えた役割というのは大きかったのかなと思いますよね。

Q:本当にそう思います。

A:もう1つ大きかったのは1994年にスポーツアイでUEFAチャンピオンズリーグの中継が始まったことです。僕がカルチョを本当に愛して、これからやっていこうと思っている時に「こういうサッカーもあるんだ」と。ライターの杉山茂樹さんと一緒にやったんですけど、その杉山さんが「八塚さん、カルチョはほんの一部です。ブンデス、プレミアといろいろありますけど、チャンピオンズリーグこそがホンモノ中のホンモノですから」と。中継も何ヶ月遅れのものを、資料も何もない中でやる訳ですから。

僕がカルチョを初めて喋ったのはローマダービーだったんですけど、チャンピオンズリーグで初めて喋ったのはバイエルン・ミュンヘン対パリ・サンジェルマンです。パリにはジョージ・ウェアがいてね。「この選手は本当に凄いから」と言われて、「ああ、パリ・サンジェルマンにこんな選手がいたのか」とビックリするぐらいに予備知識が何もないんです。CSがどんどん幅広くコンテンツをやっていくことで、どんどんいろいろなことの"目"が広がっていきましたよね。

だから、僕はチャンピオンズリーグにも凄く感謝しています。僕が黎明期から欠かすことなく、それこそ自分が喋り始めたシーズンから1シーズンも欠かすことなく担当しているのは、セリエとJリーグとチャンピオンズリーグの3本立てなんですよね。それを思うと「この3つにはお世話になっているな」という想いはありますね。

Q:我々も相当お世話になっているんですけどね(笑)

A:そうですか(笑) ずっと途切れることなくやっていられるというのは嬉しいですよね。本当に嬉しいことです。

Q:今は『Foot!』でもセリエAのトピックスを紹介されていて、やっぱり八塚さんというとセリエAのイメージがかなり強いですけど、あのリーグへの思い入れは相当強いですか?

A:そうですね。僕はどこのリーグも好きなんですけど、見ている回数と歴史を知っているという意味では愛着が半端ないのはセリエですよね。好き嫌いよりも愛着の違いかなと。まるで初恋のような。初めて見た時の驚きと言ったらなかったんですから。オープニングVTRの扉が開いて、その時のオリンピコはローマ対ラツィオのローマダービーでしたけど、現地の映像が飛び込んできた時の腰が抜けんばかりの僕のショックたるや。発煙筒とその煙と揺らいでいるフラッグと。「何が起きているのだろう?」と。「ええっ?」と。僕の予備知識はそうじゃなかったんです。試合部分は何試合かのダイジェストを多少見ていましたけど、「あとは本番でやりましょう」という話でスタートしたから、あの映像を見た時のショックはあまりにも凄くてね。「これを僕は喋るんだなあ」と。

当時は富樫さんにしても奥寺(康彦)さんにしても、加茂(周)さんもそうですし、解説の方にいろいろなことをお聞きできたので楽しかったんですけど、あのショックたるやなかったですよね。それまでもいろいろなスポーツを喋って、それこそプロ野球も喋っていたんですけど、それとはまったく違っていました。「オレはどこに連れて行かれちゃったんだろう?」っていう。

最初の頃は現地のCGの出し方もわかっていなくて、いつの間にか出て、いつの間にか消えていたりしていましたし、そういうことも含めて、最初にやった中継はよく覚えていますよね。戸惑いの連続だったがゆえに、愛着の度合いが違います。2戦目はこうなって、3戦目はこうなって、4戦目はこうなってという、成長の過程を見て行きましたから。

Q:そうするとそのローマダービーは、八塚さんにとって海外サッカー中継の原風景なんですね。

A:そうですね。海外サッカーの扉を唐突にバッと開いた感じです。小出しに見ていたら良かったんでしょうけど、そういうものもほとんどなかったですから。ライブのサッカーを実況するという感覚が、当時の僕らにはまだないんですよ。それを目の前に突き出された時のショックったらないですよね。大げさではなく腰が抜けんばかりの戸惑いを覚えました。当時は30歳を超えていましたけど、初めて喋る人みたいにウブな気持ちになりましたよね。

Q:フリーのアナウンサーとして「これはやっていけるな」という手応えを掴まれたのは、いつぐらいからですか?

AJリーグを担当してからですかね。93年に開幕した頃は、まだまだ中継もいろいろな変遷があった頃で、解説者のいない一人喋りの時代もありましたけど、その中で「僕はこれで行きたいな」と。手応えというよりも、「行きたいな」と。Jリーグが始まって、「もう僕はサッカーでメシを食う」という覚悟を決めましたね。

当時も例えば夏になれば高校野球とか、他の仕事もやっていたんですけど、少なくとも「軸としてはサッカーだ」と。僕はフリーランスになって初めてやったナレーションはNHKのスポーツニュースで、それは今でも続いている仕事の1つなんですけど、それとのバランスをいつも見ていたんですよね。仕事が雑にならないようにするために、ナレーションをきちんとやって、丁寧に実況もやってと、自分の中で両方ともできるという想いを持ってね。

「アナウンサーはフルコースだよ」と言ってくれた先輩がいたんですけど、なるべく自分の持ち味を1つの"色"に固定するんじゃなくて、「サッカーで行こう」という覚悟はあるんですけど、「サッカーだけじゃない所もありますよ」という部分は自分の中で工夫しましたよね。

Q:今はフリーのアナウンサーの方も増えてきていますけど、そういう状況に関してはどういう風にご覧になってらっしゃいますか?

A:今の方がはるかに状況はいいですよね。先人もたくさんいますし、コンテンツもたくさんありますから。今はマイナー競技にもスポットが当たっているから、凄くやりがいがありますよね。フリーのアナウンサーがオリンピックを喋るなんて、昔だったら到底考えられないことですよ。でも、今では当たり前にできるじゃないですか。放送しているメディアがフリーランスの実況を起用するメディアならば。

昔はオリンピックを喋るということは、局アナの中でも選ばれた人しかできないという意識が僕の中にはずっとあったので、今の若い人たちを見ていると「良い時に生まれたね」とは声を掛けたくなりますね。「うらやましいな」と。

Q:八塚さんは特にサッカー界においては、このフリーのアナウンサーというジャンルを切り開いた第一人者だと思いますが、今こういう立場になられて、改めて思われることはありますか?

A:特にないよね(笑) でも、今の人がうらやましい。僕も今の時代に生まれて、もう1回だけ30歳に戻ってやれと言われたら... キツいかなあ。そのへんは微妙だな(笑) 同じ道を辿れるかどうかはわからないですけど、今は夢がありますよね。「うらやましいな」と思いますよ。

ただ、僕たちの時代も良かったですけどね。あとは何せワールドカップという舞台を担当できましたから。まず日本代表が出るということもさることながら、それを喋ることができる時代がこんなに早く来るとは思っていなかったですからね。それは凄く嬉しかったです。僕は海外中継で忘れられないのは95年で、初めて海外中継として喋った会場はウェンブリーなんですよ

Q:アンブロカップですね。

A:そうです。96年にユーロがあって、これがイングランド大会だったんですけど、その大会はWOWOWで全試合生中継すると。そういうこともあったので、95年のアンブロカップも「中継をやりましょう」と。僕は現地に行くことができたんですけど、まず日本代表の中継ができて、しかも海外中継と、どちらも初めてのことでしたし、しかも昔のウェンブリーでできたと。今とは全然違って、ツインタワーがあって、聖地の中の聖地と言われていたスタジアムで喋ることができたのはラッキーだったなと思いますよね。

Q:井原(正巳)さんがバックヘッドを決めて、柱谷(哲二)さんがハンドしたのがイングランド戦ですよね(笑)

A:そうそう。後で井原さんに聞いても、柱谷さんに聞いても、死ぬほど悔しがっていましたからね。「イングランドに勝てたかもしれないのに。あれは本当に悔しかった」って。僕にしてみれば本当に忘れられない出来事です。あれからワールドカップの中継があって、ユーロの中継もありましたけど、あの95年のアンブロカップほどいろいろと学べた海外中継はなかったですね。「現地ではこうやって資料を集めているんだ」とか、「放送ブースはこうなっていて、こんなにお隣さん同士でやるんだ」とかも初めて知りましたから。

これからフリーになりたい方や目指している方は、"中"と"外"の両方に慣れておいた方が良いですからね。Jリーグはほぼほぼ現地に行きますけど、海外中継はほとんどブースの中で喋るじゃないですか。そう考えると両方やっておくことは大事で、資料の集め方や喋るテンポとかもそうですし、様々なトラブルに自分の心を折られないようなメンタリティの強さというのも、何かしらの機会に鍛えておくといいですよね。

アナウンサーという稼業は、おそらく僕だけじゃないと思うんですけど、とてもナーバスなんです。ちょっと耳に雑音や別の声が入っただけで、もう心が波立っちゃうんです。そうなった時点でプロとしてはダメなので、そういうことに慣れるためには、いかにスタッフとのコミュニケーションを取るかも大事ですよね。ルーティンというのは大事にした方がいいと思います。

僕は中継の前にこうして、ああして、という部分はずっと変えていないです。形式上なんですけど、同じことをやって、同じスタンスでいないと、自分の気持ちが収まらないというか。イチロー選手も「あんなことやらなくてもヒットを打てるだろうに」と思うのに、必ずストレッチをやって、腕をまくって、もう1回円を描いて、もう1回バッターボックスに入り直すと。アレを見ていると「ああ、こういうことは大事だなあ」と思いますよね。

Q:先ほどおっしゃった「トラブルに対処する」ということで考えると、僕が八塚さんとのJリーグ中継で一番印象に残っているのは、日立台で雷雨が来て、突然キックオフが1時間遅れたことがあったじゃないですか。

A:ありましたねえ(笑)

Q:ほぼほぼ起きないことだと思うんですけど、キックオフ予定の15分くらい前に「遅れます」と。放送自体もその情報が入ったのが直前過ぎて、他のプログラムで対応できなかったので、僕は「スタジアムの画を見せて、"キックオフが遅れています"というテロップを出す形を採ろう」と思っていたのに、八塚さんが自ら提案してくださって、玉乃(淳)くんと1時間お話してくださったじゃないですか。僕は本当に八塚さんに感謝しているんですけど、あれってやっぱり印象深い出来事でしたか?

A:印象深いです。僕はああしたかったんですよね。もちろん楽しい話になるという自信もあったんですけど、僕はあそこは本当に喋りたかったんです。テンションも上がっていましたし、ある意味で「これは試合前の良い"前段"になるな」という自信がありましたから。案の定、玉乃氏の話も高木聖佳さんの情報の入れ方も含めて、1つの番組ができたんじゃないかなと思いますよね。

逆に言うとああいうことがやりたかったんです。僕は中継が始まる前に1時間ぐらい喋りたいんですよ(笑) 面白いものでアナウンサーというのは、喋ることに関して苦にならないんです。1時間ぐらいなら。ただ、聞いている方がどう思うかという問題だけであって。アレは印象に残りましたね。試合の内容よりもそっちを覚えているくらいで。

Q:申し訳ないですけど、試合のスコアは覚えていないです(笑)

A:あれがライブ感ですよね。

Q:ちょっとラジオ的な感じもあって、僕はあそこに八塚さんのルーツを見た気がしました。

A:"ラジオ的"と言われるのは嬉しいんですよね。僕はラジオ局を辞めてフリーランスになって、テレビの方と話している時に「八塚さん、"ラジオ的"になっちゃうんだよね」と言われることを凄くマイナスに感じていたんです。「じゃあテレビのアナウンサーってどうしたらいいんですか?」と言ったら、「もう少し言葉数を少なく」とか顔や目線がどうという技術論になるんです。僕はいつか自分が本当に認知されるようになって、ある意味でのメジャーになったならば、「『これもアリだね』と言われるようなスタイルができたらいいな」と思っていたんですよね。

その意味で言うと、実況中継は顔も出ないですし、そのスタイルが許されるものでもあるじゃないですか。それゆえにテレビの持っているものよりも、さらに"ラジオ的"な、もっとおかしくて、もっと痒い所に手が届いて、もっと意味のあるようなことをやりたかったんです。のちに『おやじ会』をやっていて「面白いですね」と言っていただけるのも、そういう所が認められたのかなと。だから、あの日立台での1時間は楽しかったですね。「できるなら全部アレでいいんじゃないか」って(笑)

Q:八塚さんは実況をする上で心掛けてらっしゃることって、どういうことがありますか?

A:僕は昔も今も変わらないんですけど、本当に"臨場感"だけ。「僕の声を聞いた時に『ここの会場に行ってみたいなあ』と思わせるような吸引力があるといいな」と思っているんですよね。僕はとにかく驚きの声とか、「ウッ」と声が詰まったりとか、「ええ?」という声が出てしまったり、「おお!」と言ってもいいと思っているんです。とにかく臨場感を損なわないこと、それだけができたら7割は成功のような気がしますね。「何かを大事に」というのはそこまでないんです。

Q:"臨場感"を伝えるということもそんなに簡単なことではないですよね。

A:そこの工夫なんですよね。それは何かと言ったら解説者の巻き込み方なんです。解説者がその場の空気にそぐわないことを話し出してしまった時は、やはり引き出した方が悪いと思うんです。そこに持って行った実況者の腕がそうさせてしまったと思う時があって。理想的には一緒に声を上げてハモってしまったり(笑) 「見入ってるね、この2人」というのが絵面でわかるように、まるで2人が身を乗り出している絵面が浮かぶような、そんな中継になったら吸引力がありますよね。

ただ、サッカーは90分の中で単調な時間の方が長いスポーツで、そこでのやり取りがうまくできないと視聴者は離れるじゃないですか。渋滞した流れの中で、どう引き込んでいくかというのは結構こだわりますけど、「難しいな」と思いますね。サッカーでも前からハメに行って、うまく行く時とうまく行かない時があるように、喋りもハメに行って「伏線が効いたね」という時もあるんですよね。ただ、ハメに行くことをしないといけないのかなとは思っています。

Q:わかる気がします。

A:あと僕は意外とこれがないがしろにされているような気がするんですけど、人は何で聞いてくれるのかなと言うと"快感"なんですよ。僕の中での分析ではリズムとかスピードとか声質とか、高い音、低い音、普通の音の使い分けとか、もっと言えば「この人の声を聞いていると本当に心地良いわ」というアルファ波みたいな、それをいかに自分の土俵で出すかなんですよね。

これに関しては人それぞれです。解釈も違うので、言い回しも違ってきますしね。でも、人にそれが"快感"として伝わるかどうかが最後の勝負なのかなと。僕の実況を好きだと言ってくれている人は"快感"を感じてくれているんですよね。「この声を聞いているだけで安心する」とか。つまり内容もそうなんですけど、そこでのスキルというのもものすごく問われると思います。良いことを言っても素人喋りになってしまうと、結局聞いている人の耳には届かないんですよ。でも、自分の中で人の心地良さというのは測れないので、いつもそれを感じるんですよね。「自分の声とこの感じで、人は心地良く聞いてるかな?」って。

僕は視聴者の方の選択肢として「カードが面白い」「解説者が面白い」「実況アナが面白い」と様々にあるんでしょうけど、ひょっとしたら「耳に心地良い」というのも入ってくるんじゃないかなと。そこは大事にしたいと思っています。

Q:フリーの方って当然生き残っていく上で、"自分の色"があるじゃないですか。でも、先ほども少し話しましたけど、八塚さんって良い意味で"自分の色"をそこまで出さないで、解説者とうまくシンクロしていくタイプだと思うんですね。そういう部分は元々あったものですか?それとも後々獲得していったものですか?

A:案外自分の本性なのかもしれないですね。一歩引く感じというか。別に自分で習得した訳ではないですし、僕が一視聴者だったら「こうなったらいいのにな」というものに、なるべく近似値として近付けようとはしていますけどね。過剰な演出はいらないんです。

あと僕はやっぱり解説者のことを一番考えますよね。僕がその時に組む解説者とのユニットは、漫才でいうならば"コラボ"なんだと。誰との"コラボ"でもみんなが面白く笑える漫才の方は腕達者じゃないですか。相方が変わってしまうとダメだとか、シチュエーションが変わってしまっては喋れないとか、そういうことではなくて、僕はいかなる時でも、いかなる所でも、いかなる人と喋っても、いかなる試合でも、変わらない気持ちで行きたいなというのはありますよね。

そこに関しては試合前から始まっていて、「この解説者の方とどうやってコミュニケーションを取るか」もそうですし、そこはスタッフ全員を巻き込んで「行こうよ!」という感じにさせる雰囲気作りですよね。そこはずっと試行錯誤です。

Q:フリーのアナウンサー、しかもサッカーをメインで話されている方の中で、八塚さんは当然誰もが認める位置にいらっしゃって、年齢も58歳ですよね。そういう中で今のご自身が置かれている状況に関しては、どういう風に捉えてらっしゃいますか?

A:ぶっちゃけて言うと、例えば「家のローンもあるし、まだ子供も小さいし、この仕事を失敗したら...」なんてことを思っていた頃は、やっぱりどこかに縛られた部分があったんですよね。守りとまではいかないですけど、この枠を踏み出したら今まで築き上げてきたものがなくなって、「明日から何もなしよ」と言われることを恐れていた部分があったんですけど、僕はある時期から、「こうしないと自分らしくないな」とか「こうしてこそ自分の色だな」というような気持ちがなくなったんです。

ローンや子供のこととかがバックボーン的になくなってきて、自分の中では仕事であるのか、遊びであるのか、趣味であるのか、生きがいであるのか、という境目がなくなってしまったんですよね。「僕はいつまで行けるんだろうか?」「どこまで自分の声が出るんだろうか?」「自分の感性はどこまで豊かであるんだろうか?」と。そして「この良い仲間といつまで仕事ができるんだろうか?」と。「どこまで行ける?」「どこまで行ける?」という11つの積み重ねになってきて、今までのように「明日以降のためにかっちりここは抑えて」みたいな感覚はなくなってしまったんです。

だから、仕事に対して「これもあれも」というのは少しずつ薄れてきて、「このスタッフとどこまで行けるかな?」だったり、もし新しいスタッフが入ったら「この人と僕の感性はまだ合うんだろうか?」とか。特に今は様々にメディアも変わってきて、もちろん世代交代もあって、今まで若い若いと思っていたスタッフも年を重ねてきているじゃないですか。そういうことも含めて、いろいろと感じることはありますよね。

Q:間違いないです。

A:あとは声を保つこと、健康を保つこともそうですし、この感情の高まりをあとどれくらい感じることができるか、ということが楽しみです。ただ、それも仕事がなくなれば終わりなんですよ。

フリーランスが覚悟しなくてはいけないことは、自分で仕事を選ぶ訳じゃないんです。向こうが選んでくれるからこそ、僕らはフリーランスなんですよ。向こうが選ばなくなったら、自分のアナウンス生命はそこで終わりなんです。そこは自分で決められることではないですし、その中で自分がどういうスタンスでいるべきかと言ったら、僕は"遊び"と言ったら変なんですけど、「これが楽しいよね」「これが生きがいだよね」という、自分の中での快楽を求めている所はありますね。「ここはもう楽しもうよ」という。

だから、今の僕は中継をものすごく楽しみにして喋っているんです。今までみたいな「ああしよう」「こうしよう」みたいなものはもう降ろしちゃっていて、「一緒にエンジョイしませんか?」という、そんな感じになっているんです。でも、それが悪いとも思わないんですよ。僕は昔の放送も見ることがありますし、今の放送も見るんですけど、「ああ、今の方が肩の力が抜けてるな」なんて思う時もあれば、「昔の声の方がハリがあるな」なんて思ったりもしますしね。幸いなことに僕はあまり声が変わっていないんですけど、こればかりは明日になったらどうなっているかわからないんですよね(笑) それはいつも感じます。

Q:辿り着いた今の境地は、自分が想像していたよりも楽しいものだったんですね。

A:楽しいものだった。僕はいつも考えていたんです。40歳というのが1つのメドだったんですけど、40歳、45歳、50歳、55歳と来る中で、「5歳ずつ見る風景が違うのかな」と思っていたら、やっぱり違いました。少しずつ違ってきた。50歳と55歳は違いましたね。

人はどう解釈するのかわからないですけど、どんどんどんどん"遊び心"が増えていくというのは何なんだろうね。何なんだろう。吹っ切れるよね。だから、今の若い世代の人たちを見ると声を掛けたくなりますよ。「今は辛いだろうな。40歳だもんな。でも、あと5年経ったらまったく見えてくる風景が違うし、50歳になったらもう今の顔はしていないと思うよ」と、深刻な表情を浮かべている後輩たちにはついつい言いたくなります。「絶対に時が解決するから」と。

Q:これを最後の質問にさせてください。あえてザックリとお聞きしたいんですけど、夢ってありますか?

A:夢かあ... もう目標みたいな夢ってないんですよね。ありきたりなんですけど、だんだん11日が本当に大切になって、僕は本当に綺麗事じゃなくて、いつも感謝で終わるんです。それは宗教的な意味ではないですし、「誰に感謝しています」ということではなくて、自分が健康に生きて、健康な思考能力を持って、今日もスタッフと健康的に笑うことができて、「明日もよろしくね」と言いながら番組が終わって、別れることができる、このことだけが「ずっと続けばいいな」というのが夢かな。

「これ以上のことって何があるの?」というくらい、僕にとってみれば今の状況はこの上なくいいんですよ。逆に「これ以上のことを望んじゃいけないな」と。スタッフ11人をとっても、11つが別れになって、出会いになって、「あの人どうしているかな?」と思っていた人にひょんな所で会って、「なんか面白いことない?」と例の調子で会話が始まって、「こうこうです」なんて話してくれることが楽しかったり。この繰り返しが、これからの人生は繰り返されるんでしょうね。

Q:そうなんでしょうね。

A:ただ、企画でこういう話があるでしょう。「あなたが最後に食べたいものは何ですか?」「あなたが最後に聞きたい曲は何ですか?」とかあるじゃないですか。僕は「『八塚さん、最後に実況したいのは何ですか?』と聞かれたら何て答えるんだろう?」と思う時があるんです。

いずれ来るんですよ。いわゆる自分の実況のラストゲームが。「果たしてそれは何なんだろう?」というのが楽しみなんです。それは逆に言えば寿命の終わりと一緒で、いつ自分の目の前の視界がラストシーンになるのかというのと一緒じゃないですか。「僕は何が最後の実況中継になるんだろうなあ?」と思っているんですよね。

今までの出会いから考えると、意外なものが来る気もしているんです。サッカーじゃないかもね(笑) 「おいおい、オレはあれだけ頑張ってきたサッカーじゃなくて、この競技で終わっちゃったのかい!」みたいな(笑) それを僕は凄く楽しみにしているんです。

(この項終了)

【土屋から見た八塚浩さん】

本文でも書いていますが、僕の知っているサッカー関係者、いや、知っている全人類の中でも、一番面白い人が八塚さんじゃないかなと。「なんか面白いことあったぁ?」って感じで控え室に入ってきて、スタッフがひねり出した話を聞いた後に、結局八塚さんが一番面白い話をして場をかっさらっていく経験を何度したことか(笑)

でも、そういう場の空気の作り方も含めて、他の出演者やスタッフまでも含めて、とにかく繊細に気を遣ってくださるのが八塚さんだという想いも、僕の中にはあります。それは一緒に仕事をしていく仲間たちへのリスペクトと言い換えられるかもしれません。これも本文中でご紹介していますが、基本的に誰と話すのも敬語というスタンスも、その現れなのかなあと。

だから、八塚さんに質問されると、みんなそれに応えようと必死になっちゃうんですよ。あるJリーグ中継の時に、放送席からバックスタンドの向こうに見える山の名前を知りたいと、八塚さんがおっしゃったことがあって。スタッフみんなでホームチームの広報さんとか、地元のメディア関係者の方とか、いろいろな人に尋ねまくって、ようやく中継開始の直前に判明してお伝えしたのに、放送では1回もその話に触れないという(笑) それでも、「まあしょうがないか」って思わされちゃうんですよねえ。

八塚さんと言えば"鉄人"という異名もあるように、とにかくタフ。いろいろなものに興味があって、いろいろな人に興味があって、とにかくバイタリティの塊。今年で62歳。普通の会社で考えればもう定年を超えている年齢ですけど、八塚さんには生涯現役で、サッカー界をあの美声で牽引し続けて頂いて、僕らの進むべき道を圧倒的な明るさで照らし続けて欲しいなと、心から願っています。

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