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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年03月31日

『Foot!』Five Stories ~倉敷保雄【前編】~(2017年4月14日掲載)

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『Foot!』Five Stories ~倉敷保雄【前編】~

(2017年4月14日掲載)

『Foot!』で月曜から金曜までそれぞれMCを担当している5人のアナウンサーに、これまでの半生を振り返ってもらいつつ、どういう想いで今の仕事と向き合っているかを語っていただいています。五者五様の"オリジナルな生き方"を感じて戴ければ幸いです。

Q:お名前をお願いします。

A:倉敷保雄です。

Q:生年月日をお願いします。

A:1961年、昭和36年、劇場版『モスラ』が公開された年。そして3月11日という、まだちょっと重い日にちです。当年56歳です。

Q:Wikipediaを見ると出身地は千葉県になっていると思うんですけど、大阪にもお住まいでしたよね?お生まれになったのは千葉ですか?

A:いえ、生まれたのは大阪です。引っ越しを何度も繰り返して東京の後の千葉が比較的長かったので、千葉出身にしています。小学校から20歳ぐらいまでを千葉で過ごしたのです。

Q:結構いろいろな所にお住まいだったんですね。

A:母親は滋賀の水口出身で、おそらく井原正巳さんと同じ中学校だと思います。父はよく仕事を変えたので、母と出会った滋賀、京都、大阪など関西を点々としてから東京の下落合へ移り、そこから抽選で当選した千葉の公営住宅に移り住んだということですね。

Q:倉敷さんは関西弁ってまったく出ないですけど、関西にはいつ頃までいらっしゃったんですか?

A:なんちゃって関西弁なら話せますよ。大阪生まれですが、聞き馴染んだお国言葉は大阪弁ではなくて、母の故郷の近江弁なんです。母の実家は大家族だったので、夏休みになると親戚の子供たちは、みんなおばあちゃんの家に集まって過ごすのが10年以上続いていました。その時、耳に馴染んでいた印象的な言葉が近江弁だったという訳です。僕は関西に対して"好き"の度合いが強いので、言葉は自然に入ってきましたね。音感は良いんです。

就職してからは東北の言葉を覚えるのが面白くなって、ここは少し話が飛んでしまって申し訳ないのですけど(笑)、当時の首相だった竹下登さんが昭和63年から"ふるさと創生事業"という施策をやった訳です。その時にラジオカーに乗って、助成金が渡された福島県内のすべての市町村を回って「何に使いましたか?」と聞いて回る番組のリポーターを担当したんです。

福島県には"中通り""浜通り""会津地方"と大きく分けて3つの地域があって、それぞれに味わいのある言葉があるんですけど、もっと分けると"中通り"の中にも"県北""県中""県南"があって、ちょっとずつ言葉が違うんですね。二本松あたりから変わってくる、といった変化がとても面白くて、僕は片っ端から覚えていったんです。若者言葉やお年を召した方の言葉もイントネーションまで違っていて、これもまた片っ端から覚えました。そしてそれを使い分ける面白味を知ったんです。昔、アメリカの「サタデー・ナイト・ライブ」という有名なコメディ番組でエディ・マーフィーがやっていたように。

そういう言葉の使い分けは楽しいですね。ひとくちに東北弁と言っても実に様々、関西弁も同様に実に様々、北海道や九州、沖縄にも素敵な言葉がたくさんあります。言葉は生活環境や県民性を現わすもので、それは世界のどの国、どの地域にいっても当てはまるはずです。言語を覚える面白さというのは、そのままサッカーに直結しましたね。

Q:倉敷さんって今でも言語のニュアンスとかにこだわる部分があると思いますけど、そういう部分は子供の頃からあったんですか?

A:言葉遊びが好きなんです。昭和40年代のテレビブームの影響をモロに受けた世代ですからね。白黒からカラー放送へ移行する時代のテレビをメチャメチャ見ていたので、テレビ全盛期のタレントが生み出す言葉とか、ギャグや歌謡曲や劇伴といった音楽を含めた音感を愛しています。何よりもコマーシャルですよ。20秒の中に印象的な音楽とキャッチコピーがあって、覚えようとしなくても自然に染み込んでいった文化が今のスタイルに生きているんじゃないかなと思います。

Q:それこそ幼稚園の頃ぐらいからテレビをご覧になっていたんですか?

A:幼稚園の頃に見ていたのは『ナショナルキッド』かな。これはナショナル(現在のパナソニック)がスポンサーになっていて、主人公の武器には懐中電灯そっくりの"エロルヤ光線銃"という名前が付いていました。徹底したタイアップとマーチャンダイジングです。『ウルトラマン』なら"タケダアワー"、『鉄人28号』などグリコの買い切り番組と同じく『ナショナルキッド』は、まさにナショナルの一社提供番組でした。宇宙からやってきた快男児が、地球の平和を守るために力を貸してくれる無敵の超人という内容で、ブラジルでもソフトが販売されているそうですが、まだチェックできていません。どなたかチェックしていただけたら幸いです(笑) キッドは僕の最初のヒーローなので、番組を映し出しているテレビの形ごと覚えています(笑)

Q:ちなみに幼稚園の頃はどういう子供だったんですか?

A:とても明るい子供だったんです。通っていたのは下落合の落合第三だったか第四幼稚園だと思うんですけど、なぜそこがあやふやになるかというと、僕は第三か第四かをかなりの年になるまで間違って覚えていたらしいんです。つまり、何という幼稚園として覚えていたかというと、"落合ライオン幼稚園"に自分は通っていたと思っていたんです(笑) ライオンだからきっと第四なんでしょうね。

友達もたくさんいたんです。楽しかったですよ。お蕎麦屋さんの友達がいて、その子の2階のお部屋には値段の高いレゴがあって、さらにレーシングカーのセットまであって。お米屋さんの友達と青果店の友達と一緒に遊びに行きました。それぞれ商店をやっている家の子供たちが仲のいい友達だったので、凄く楽しかったですね。

ところが住んでいたアパートが区画整理の対象地域になって引っ越すことになり、また転々とすることになる訳です。友達もどんどん変わってしまって......それは子供としても大変でした。明るくおしゃべりだった自分は、それから無口な少年になっていくんです。

Q:転校は大変ですよね。

A:短い間隔で繰り返されるとね。それでも急に現れた転校生が活躍したりする小説もあるじゃないですか。

Q:『風の又三郎』なんかそうですよね。

A:そうそう。それなら良かったんだけど、まったく目立たない人もいる訳で。そっちの典型だったと思います。たぶん今これだけおしゃべりになっているのは、その時の反動かなと(笑) だから、逆に小学校に上がったタイミングで、幼稚園の頃のようにおしゃべりな子供だったら、今の僕はないと思いますね(笑) そこから僕はテレビっ子でラジオっ子になっていくんです。

Q:そうすると小学校時代はインドア派だったんですか?

A:いえ、そうでもないです。"晴耕雨読"ってやつで。誰もが休み時間や放課後にはサッカーをやっている環境だったので、ボールは蹴っていました。もっとも同級生には後々インターハイに行くレベルの結構優秀な子がまとめていて、ヘタッピな僕は"人が足りない時要員"のレベルでした。だから、今エラそうにサッカーを喋っているのを当時の友人が見たら「どうしてそんなことになったんだろう?」と不思議に思うでしょうね(笑)

Q:サッカーチームにも入ってらっしゃったんですか?

A:いえいえ、レクリエーションレベルです。みんな楽しそうだったから僕も蹴っていました、ぐらいで。だから「今日は試合に出られなさそうだな」と思うと、スッと抜けて図書室へ行くか、野原で虫を捕っている少年でした。

Q:そうだ!昆虫大好きですもんね(笑)

A:千葉に越して良かったことは、ちょうど東京のベッドタウンとして住宅地が次々とできあがる頃だったので、あたりは原っぱしかなかったんです。見渡す限り原っぱ。森ではなくて原っぱで、奥の方に広大な水田があったんですよ。これがもう"里山"的な雰囲気がありまして、僕は小動物に親しみましたね。幸せな環境でした。虫をいっぱい捕ってきて、部屋に放す(笑) だから、ボールは蹴っていたけどキャリアを誇れるようなものはサッカーには何もなくて、僕は図書館にいるか、虫捕りをしている少年でした。

そういえばヘビも結構いて、怖い思い出があります。水田には水を引くための小さな用水路があるでしょう?そこに網を仕掛けて、バシャバシャと棒で追い込んでいくと、どじょうが結構捕れたんですね。半ズボン姿でヨイショとその用水路に両足を踏ん張るような格好で網を構えていたら、遠くから水の上を走るように、滑るように、ヘビが猛スピードでS字を描くように泳いできて(笑)

「あああっ!」と思った時には股間をスッとかすめていきました。縮みましたね。スレスレだったから。トラウマですよ。楳図かずお先生的な、一枚絵の光景だったと自分では記憶しているんです。恐怖の構図。あれがアオダイショウなのかマムシなのかはいまだにわからないですけど、一歩間違っていたら少年の将来は変わっていたかもしれない(笑)

Q:本はどういう系統のものを読んでらっしゃったんですか?

A:小学校の頃はポプラ社かな。推理小説系で『ルパン』『ホームズ』『少年探偵団』のような江戸川乱歩系から始まって、とにかく片っ端から読みましたね。近所の図書館に出かけて行って、大人が読むような本まで。最初は新聞に連載されているような四コマ漫画から読み始めて、その内に日本の焼き鳥文化に関係して、いかに寄生虫を駆除するようになったかとか、そういうのが面白くて(笑)

Q:小学生ですよね?(笑)

A:それは中学校時代だったかな?(笑) 推理小説と、あと夢中になったのは怪獣ですね。好きが高じてというか、それもサッカーが僕に与えてくれた出会いなんですけど、特撮映画作品を制作されている方々にサッカー好きな方って結構多いんですよ。それでサッカー中継をご覧になっていて、「この人の話の中に怪獣がよく出てくるから、もしかしたら好きなのかもしれない」と連絡を戴いて、そこからDVDのオーディオコメンタリーや映画のお手伝いなどいろいろなお仕事をさせていただけたんです。これはサッカーが僕にくれたプレゼントですよね。

Q:何がどう繋がるかわからないですよね。

A:わからない。でも、みんな繋がっている所がこの競技の凄い所ですよ。

Q:だって、その何十年後かにはホームズが隠遁した地に、ロケで行くことになるんですからね(笑)

(※2009年の『Foot!』イングランドロケで、倉敷さんはホームズ隠遁の地として知られるボーンマスを訪れた)

A:アレは嬉しかった。コスプレまでしたっけね。いつかシャーロック・ホームズの同好会に入るための論文を書くのにもとても良い経験になりました。いまだに将来やってみたいことや、将来なりたいものがいくつもあって困っています(笑) もう何年も実施されていないけど、ファーブルの検定試験も受けてみたいですし。円谷プロの"ウルトラ検定"は初年度に2級まで取ったんですけどね(笑)

Q:今ちょっとお話が出ましたけど、小学校くらいの頃に将来なりたかったものって何だったんですか?

A:小学校の頃は相撲がとても流行っていて、「自分だったらこういう力士になりたいな」と漠然と思っていた時期はありました。

Q:体格が良かったんですか?

A:いえ、ガリガリでしたね(笑) 高校3年の頃と身長は変わらないけど、体重は20キロ以上違うんです。そんなに痩せている自分を想像できないです。何か食べさせてあげたくなります(笑) なりたい職業は短い周期でコロコロ変わったんです。例えば「昆虫学者になってみたい」とかね。でも、それは思い出したようにぶり返すことがあって、例えば水生昆虫だけを研究する仕事をしてみたいと今でも思っていない訳ではないので(笑)、「諦めなければ何とかなるんじゃないか」と。今からでもなれるものはたくさんあると思います。

Q:それにしても力士っていうのはまったくイメージがなかったですね。

A:増位山太志郎さんのファンだったんですよ。三保ヶ関親方ですね。歌の上手いお相撲さんとしても知られていましたけど、"内掛け"などの技が上手くて。ちょっとクセのある人や物に昔から惹かれました。当時の自転車は五段変速ものでレバーを縦にスライドするものが流行っていたんですけど、ハンドルに設置された親指で変換できる変換器が付いているものもあったんです。それが欲しくてね。

Q:やっぱり人と違ったことがしたかったんですね(笑)

A:きっと誰にでもそういう所はあって、それを継続しているか、そしてそれが人の目に触れるかという違いだと思いますけどね。そういう意味でこの先の自分のキャリアについてもまだ興味があります。もういい加減、いい齢なのにね。「平凡な自分にサッカーがどんな出会いをまたもたらすのかな?」と。サッカーがなかったら今とはまったく違った出会いの連続だったでしょう。プレーヤーではない自分がこれだけサッカーに関われたのは、この時代に生まれた幸福です。サッカーという競技があったこと、それとJリーグができたこと、この2つは噛みしめるような幸せです。だから、Jリーグに恩返しをしたいんです。

Q:これは外せない要素だと思うんですけど、中日ドラゴンズがお好きで、それこそバートとかミラーの頃からご覧になっているんですよね?

A:バート、ミラー、一枝(修平)ですよね。

Q:そうすると70年代の前半だと思うんですけど、その頃は小学校の高学年ぐらいですよね。

A:そこは"1974年"というキーワードで括れるんですけど、74年というのは相当いろいろと面白かった年なんです。ワールドカップもありましたし、映画も音楽も芸能もあらゆるものが何だかとても面白かったんです。ジャイアンツの連覇もV9で止まりました。実は野球は多くの子供がそうであるように、僕もジャイアンツから入って、そこから「大洋ホエールズもちょっといいな」と思っていた時期を経て、星野仙一さんがジャイアンツに「負けるものか」と立ち向かう姿にシビレてドラゴンズファンになったんです。74年前後のドラゴンズはメンバーが個性的で格好良かったんです。

稲葉光雄さんのピッチングフォームがとても好きで、よく真似しました。僕はアンダースローのピッチャーが大好きなのですが、ドラゴンズには三沢淳さんがいましたね。左のスリークォーターの松本幸行さんは投球の間隔がおそろしく短いんです。"ミラクル投法"って言われていたんですけど、それこそ5球投げるのに1分掛からないような小気味良く投げるピッチャーで、「これは面白いな」と思いました。今では一人もいませんからね。

リードオフマンがセカンドの高木守道さんで、とにかく守備がうまくて「バックトスが美しい」って見惚れました。やっぱり競技の美しさとか、ピッチングにせよ、バッティングにせよ、守備にせよ、フォームがスタイリッシュという所で、当時のドラゴンズの選手たちが素敵だったのが心に響いたんですね。

Q:谷沢健一さんもいい選手でしたよね。

A:当時は千葉に住んでいたので、"ヤザワスポーツ"まで買い物に行きましたよ。銚子商業高校が土屋正勝投手で甲子園優勝をした年が74年。みんなが銚子商業の歌を歌えました。短かったので。土屋投手の"華"は、こどもの日に王貞治選手を三球三振にしたことがあるということだと記憶しているんですけどね(笑)

Q:とんでもないエピソードが出てきましたね(笑)

A:あの頃は夢中だったので、ドラゴンズのマークをデザイン画のように描いてみたり。子供ってそういうものですよね。

Q:今のお話を聞くと愛知にはまったく住んでいなかったと思うんですけど、中日ドラゴンズがお好きだったんですね。

A:そうですね。ドラゴンズの中継がしたくて、就職活動の時に名古屋の放送局を真剣に受けるんですが、1年で2度最終試験で落ちているんです(笑)

Q:1年で2度最終試験で落ちるなんてあるんですか?

A:あるんです。夏に青田買いのような試験が一度あって、スポーツ部長の方が「絶対に採るから」と呼んでくれたんですけど、社長試験の前くらいに「地元の子を採ることになったからすまない」と言われて「そうか。残念だったな」と諦めたんです。

ただ、秋に「どうしてもスポーツを話せるヤツが欲しい」ということになったらしく、もう1回声が掛かったんですね。その時にも「絶対採るから」と言われたんですけど、また社長面談で落ちて、その時も結局地元の人が採用されたと後から聞きました(笑) 悔しかったですけど、そこに行っていたらまた違う人生になったのかなという気もしますね。でも、その頃はドラゴンズの登録されていた選手名と背番号は全部言えましたよ。

Q:その頃は80年代前半ですよね。モッカとか宇野勝とかの時代ですよね。

A:ケン・モッカと宇野勝の三遊間で失策王を争ったという(笑) 僕はJリーグで初めて喋った試合も、三ツ沢でやった横浜マリノス対名古屋グランパスなんですよ。

Q:名古屋に縁があるんですねえ。中学生の時は部活に入られていたんですか?

A:1週間だけ卓球部に入っていました。『幻の卓球部員』だったんです。

Q:ずいぶんカッコよく言いましたね(笑)

A:ボールの大きさが合わなくてね(笑) だから、パチンコも含めて野球ボールより小さなものには夢中にならないですね。ある程度ボールが大きい方が好きなんでしょう(笑) バスケットボールは好きでしたけど。

Q:中学生の頃って性格はまた変わっていったんですか?

A:部活に前のめりになっている少年でもなくて、深く深く潜行していた中学時代という気がします。例えばその頃は"BCL"(ブロードキャスティングリスナー)が流行っていて、国内外のラジオ放送を聞いて"受信報告書"を局に送ると、"ベリカード"という「あなたはこの放送を聞いたことを確認しました」という受信確認証でもあるポストカードがもらえたんです。それに熱心だったかな。

当時は高性能ラジオも話題で、ソニーの"スカイセンサー"とナショナルの"クーガ115"が高嶺の花でした。僕は海外放送よりも日本の中波放送に夢中で、当時人気絶頂だったキャンディーズのローカル番組を探して聞いたり、それをいかにノイズの少ない状態で録音して手元に残すかを考えたり(笑)、高品質のカセットレコーダーを買うためにバイトを始めたり、ついでにギターを弾いて録音してみたりとか、趣味を次々に枝分かれさせていった時代でしたね。

Q:結果的にはラジオのお仕事をすることになる訳ですけど、そうすると中学生時代にラジオへの造詣をいろいろな意味で深められたんですね。

A:ラジオは友達でした。内向的で、怖がりでしたから、「自分が眠れないで鬱々と何かを考えているこの時間も明るい話をしてくれる人がいる」という深夜放送はとても身近な存在で、DJたちの声は福音でした。その頃のパーソナリティは僕の憧れであり、放送局はホームスタジアムのような存在であり、その頃に録音した番組は宝物です。

当時とても好きだったラジオパーソナリティにかぜ耕二さんという構成作家で作詞家の方がいらっしゃるんですけど、かぜさんはいつもマイクの前では「こう例えたらわかってくれるかな」というアプローチをされるんですね。著書の中でも、パーソナリティを生業にするものにたくさんのヒントを下さっていて、例えば「すべての手紙に目を通さなくてはいけないか?」というと、彼は「ノー」だと教えてくれたんです。「デリケートな放送を心掛けるのであれば、目を通してはいけない手紙が存在する」と。

ただ、貶めるだけ、誹謗中傷だけのものもあって、それを読んで消耗することは、楽しい放送をする上で疲労消耗するだけだから、そういう大きな振り分けだけはディレクターに頼んでいる、という昭和に書かれた著書が今の僕にもとても参考になるんです。消耗してはいけない、そのためにスタッフとどう向き合うか、スタッフとどう協力して、どのような風な助け方をしてもらって、逆にスタッフをどう労わるか。70年代のラジオからはたくさんのことを教わっています。

Q:そうすると改めて振り返ってみて、当時興味を持っていたことが今の仕事に生きているという感じですよね。

A:そうですね。ただ、サッカーの中継において「アナウンサーはパーソナリティをどれだけ出していいのか?」ということは考えました。日本はアナウンサーという職業に対する先入観が強いんです。また「ラジオ的に話してもいいのか?」ということにも多少迷いがありました。

参考になったのは、その頃にラジオでサッカー中継を始めていたニッポン放送のアナウンサーが、フジテレビでもラジオと同じように喋ってくれたことでした。一人の視聴者として「ああ、これはアリなんだな」と確認できました。更にアルゼンチンサッカーにおいて、コメンテーターが喋ったことを翻訳して文字にしてくれたディレクターがいたんです。「海外サッカーを担当する上で参考にして欲しい」と。それを見た時に「ああ、こんなに私的で詩的なことを言っているのか」「ここまで突っ込んでいるのか」と目からうろこが落ちる気持ちでした。そこがスタートで、今に至る訳です。

当然フリーですから、「他との差別化をしたい」という気持ちもあります。「他の人が誰もやっていないだろう」とお叱りを受けることは早くからあったんですけど(笑)、「同じことをやっていてフリーは食べていけませんよ」と言い返したい気持ちもあるんですよね。それからもいろいろな人の意見を聞きながら、ルールを決めていったんです。

最も大切なルールは「プレーについて悪く言うことはあるかもしれないけど、人格について決め付けるのはタブー」ということですね。「人を傷つけない放送であれば何でもアリだ」と僕は考えていて、そういう約束事と積極的な演出は僕が学生時代に聞いていたラジオの中に手本があるということです。

Q:高校はどちらだったんですか?

A:船橋西高校です。今は合併して名前が変わっちゃったんですよ。当時は学校ができて2年目の新設校だったので、僕は2期生なんです。先輩が1学年しかいなくて、学校の敷地も池か沼かを埋め立てて造ったんですよ。だから、1年も経つと「校舎がちょっと沈んでしまったね」という面白い学校で(笑) 周りも自然の豊かな所だったので、「今日の体育の授業はローラー引きです」「え?また?生徒に労働力を強いているだけじゃないか」と思いながら(笑)

のどかな環境だったので、校長先生を交えて近隣をオリエンテーリングみたいに散策したこともありました。僕はたまたま校長の隣にいたんですけど、「この草の名は」「この木の種類は」「この地域はこういうものが採れる」と、やたらと雑学に詳しい人でした。「ああ、この校長先生は面白いな」と思っていたら、その半年後ぐらいにちょっとした不祥事が発覚して、校長先生は辞めてしまったんです(笑) その間にも埋め立て地に建てた校舎がだんだん沈んで行って、1階のドアが開かなくなっていったりとか(笑) まあ良い学校で面白かったですよ。

Q:大学は東洋大学社会学部ですね。なぜ東洋大学で、なぜ社会学部だったのでしょうか?

A:「金は出してやるからオマエ大学行かないか?俺は行けなかったからさ」という父親の一言で、公務員になるのをやめました。公務員を希望していたのは「午後5時からは自分の好きなことができるだろう」と安易に思っていたからです(笑) ただ、大学進学に当たっては、親が言い出してくれたことではありましたけど、そんなに負担は掛けたくなかった中で、受験の1ヶ月前から国公立を受けるための5教科を勉強するのは完全に無理な訳です。もう12月になっていましたから(笑)

「さあ、どうしよう」と。「ここから歴史を勉強する時間はないけれど、政経・倫理なら新聞を読んでいれば何とかなるだろう」という考え方で、そこだけガッツリ勉強しました。東洋大学は当時の私立大学の中では比較的学費が安かったんです。文学部への興味は全然なかったですし、経営や法律も全然惹かれなくて、そんな時に「あ、変わったのがある!」と思ったのが社会学部で、偏差値的にもトントンくらいだったので、「これはもしかしたら行けるんじゃないか」と(笑) 浪人は覚悟していたんですけど。

Q:受かっちゃったんですね(笑)

A:「浪人したら早稲田を目指そうかな」なんて思っていたんですけど、浪人するより入学した方がお金は掛からないですものね。ただ、大学1年生の春に受けたカルチャーショックは凄かったです。自分がマジメだとは思っていなかったですけど、せいぜい喫茶店に寄って帰る程度が関の山だった高校生にとって、みんなタバコはブカブカ、酒はガバガバ、「わあ、大学生ってくだらない」が第一印象で。

でも、まあ「吸ってみますか」「麻雀も並べてみますか」で、だらしない学生生活が始まる訳です。そして、キャンパスを歩けば「我が同好会へ来たれ!」と体育系の人たちが新入生を熱心に誘ってくるんですよ。「オッス!空手部だ」「少林寺拳法部だ」って。相当に熱心な勧誘を受けて、「困ったなあ、肉体派じゃないもんな」と思っていた時に、たまたま目の前にチャラそうな"アナウンス研究会"の勧誘ブースがあったので、「僕、ここに入ったんです」と言って体育系を諦めさせたら、本当にそこに入れられちゃって(笑) いきなり「テキストを買いなさい。500円」「え?お金取るんですか?」「このアナウンス教本テキストを昼練の時に毎回持ってくるように」「え?昼練って何ですか?ここも体育系なんですか?」「発声練習とかやるの」「うーん、やっぱり練習するんだ...」みたいなやりとりをしましたね。

ただ、結果としてここに入会したことは正解だったんです。後から知ったんですけど、東洋大学アナウンス研究会というのは、当時は毎年必ずアナウンサーを輩出している名門研究会だったんです。OBも多くて、マルちゃんの『赤いきつね』で武田鉄矢さんがCMを始められた頃のディレクターの方もOBだそうですし、とにかく必ず毎年局アナを誕生させ続けた、伝統ある研究会だったんです。僕が入部した時にはもう故障して使えなくなっていましたけど、地下にある部室に専門的な放送設備を持っていて、学園祭の時には放送局で学んだOB直伝のノウハウでCMを作ったり、ラジオドラマを作ったり。「凄いな」と思ったのは、僕がラジオ福島に入ってから驚くことはほぼなかったということですね。

Q:ほとんどはアナウンス研究会で学んでいたことだったんですね。

A:サンプルのレコード盤もOBからたくさん戴いていたので、新曲も古典も聞き放題でした。様々なジャンルのレコードジャケットもかなりたくさん見ることができて、音楽の歴史に対しての興味が広がりましたね。気軽にたくさんの曲を聴くことができたというのも、とてもプラスだった訳です。ただ、そこで学んだ肝心の発声は、あまり役には立たなかったと思いますけど(笑)

Q:ある意味でのカルチャーを学べたということでしょうか?

A:そう。地方のラジオ局に行く前の勉強としては、バックボーンとして、知識として、まさに専門学校的な、完璧な場所だったということです。

Q:そうすると、大学に入る時からアナウンサーになりたかった訳ではないんですね。

A:そういう気持ちはゼロでしたね。高校時代も一応放送部にはいたんですけど、放送部に入った理由は、朝礼の時に立たなくていいんですね(笑) 1年生の時にその旨味を覚えて、それで「これはいいや」と思って常に放送部に入っていました。

校舎内でのお知らせアナウンスも担当していたので、他人から初めて聞きやすい声だと言われて「そうなのかな?」と思いましたが、本人はアナウンサーになる気などまったくないまま進学し、体育会系の勧誘部員に追われるようにして飛び込んだのがアナウンス研究会。するとそこには伝統があり、「進路を考えなければ」という大学3年の頃になってから、この伝統に乗っかって「自分も放送局に入れないかな」と考え始めた訳です。

Q:それはアナウンサーとしてですか?

A:いえ、ラジオ局のディレクターになりたかったんです。今でも制作志向です。人と相談しながら何かを作っていくのが好きなので。ただ、「放送局の一般職を目指すとなると筆記試験は受からないのではないか?」「アナウンサー試験で受けた方が、サークル活動のメリットもあるのではないかしら?」と考えて進んで行ったアナウンサー道なんですね。

恵比寿に『東京アナウンスアカデミー』というアナウンサー専門学校があって、サークルの先輩諸氏もみんな通っていたので、「そこに行くべきなのだろうな」と考えました。ここでは恩師との出会い、大切な友達との出会いもあって、通う内にもうまるっきり考えが変わってしまったんですね。つまり「ディレクターではなく、アナウンサーになりたい」と本気で願うようになりました。

ひとつは本気で目指す友人たちの情熱に触れたこと。ひとつは今は故人となった恩人の、すべてを包むような生徒たちへの愛情に触れたこと。そして、時代の変化もありました。当時はフジテレビ黄金期で、『オレたちひょうきん族』に代表されるパワーで、良くも悪くも"アナウンサー"という額縁が外され始めた時期だったんです。アナウンサーの多様化、可能性を広めると同時に、アナウンサーだからこそできることも逆になくなってきた時代でした。

例えばニュース読みに代表されていたアナウンサーの"聖域"が侵されてきた時期だったと思うんです。アナウンサーと一般の人の違いというのは、限られた時間の中でそれがこなせるかどうかということだけなんです。ニュースは時間を掛ければ誰だって読めます。もちろんその中にはテクニックとか、発音の正しさなどはありますけど、時間を掛けて練習すればニュースは誰でも読めます。アナウンサーのこだわりは3分間の原稿を、3分間にちゃんと収めて話せるか、アクシデントに対応できるか、という所に尽きる訳です。「自分がこだわりたい、アナウンサーにしかできない"聖域"はどこだろう?」と考えてみたら、それはもうスポーツ中継しか思い付かなかったんですね。それからスポーツ中継のアナウンサーを志す方向に変わったんです。そこは大きかったですね。

Q:それは就職試験を受けるぐらいのタイミングですか?

A:そう。大学4年ぐらいの頃ですね。ただ、「スポーツで」と思って受けていた会社には受からず、僕はその年の最後にあるFM局から推薦を受けて、「入れるよ。上も『来てくれ』と話しているから」と言われて、「スポーツアナウンサーにはなれず、FM局で音楽番組をやるんだな」と思っていたんです。それで、その局にお世話になろうと思っていた時に大学から通知が来て、「君は卒業できませんよ」「エッ?」というね(笑)

Q:留年ですか?

A:はい(笑) 僕は勝手に「卒業できるだろう」と思っていて、ほとんど大学に行かなかったんです。「一般科目なんて卒業が決まればどうにでもなるだろう」と思っていて、美術しか取っていなかったんです。そうしたら、その美術の先生は僕が気付いた時には海外に留学に行ってしまっていて、もはや日本にいなかったんですよ。

一応相談に行ったんですけど「単位取得は不可能です」と言われて、「つまりこれは留年ということでしょうか?」「留年です」と(笑) 「就職が決まっているんですけど...」「1年待ってもらうか、中退という形でお話されてはいかがでしょうか?」と言われて、会社側に聞いたら「卒業という形でないと入れないんです」ということになり、「申し訳ありませんでした」と会社に謝って、僕は"大学5年生"を始めることになる訳です。

Q:そこは相当な人生の分岐点ですね。

A:そうなんです。僕の人生でサッカーの話が始まるのはまだまだ先のことです(笑) あらためて僕は「スポーツアナウンサーになりたかったんだな」と気付く訳です。元々焼鳥屋の屋台から流れているラジオ実況が好きで、「いつかトランジスタラジオから流れて来る実況をする人になりたいな」と感じていたことを思い出したんです。夕焼けの風景の中で、ガラガラと屋台を引いて商売をしている焼鳥屋さんの屋台から、自分の声が闇に溶け込んでいくのって何かロマンチックな気がして、「ああ、この風景こそが自分の望んでいたものではないだろうか」と感じて、いよいよ猛烈に「野球中継がやりたいな」と思ったんです。そこで野球中継のアナウンサーになるための努力をイチから始める訳です。

当時の自分の喋りは鼻に付くほど青臭くて、とにかくふわふわした声が嫌いで、「まず声を潰す所から始めよう」とのどが焼けるようなお酒を飲みまくったり、タバコを吸いまくったり。それぐらい自分の声が嫌いだったんです。カセットで録った自分の声を聞いて、「気取ったような、生意気な喋りをしているな」と思ったんですね。そこから東都野球と六大学野球をやっている神宮球場に通うんです。

火・水・土・日と試合がある日は朝から行って、1日に2試合や3試合を1回から9回まで全部喋ってました。その"喋った"内容を自分で聞き返し、直し、先生を見つけてはアドバイスをもらいながら、少しずつ、ベイビーステップだけど、「前に進もう」と勉強をして、ある程度自信ができたんです。それでもなかなか試験に受かることはできませんでしたが、ラジオ福島から採用通知をもらえました。ところがそこに野球中継はなかった(笑) 「何と神は試練を与えるのでしょうか」と。

でも、今考えると「オマエは野球じゃないんだよ」と言われていたような気もする訳です。僕がサッカーに行き着くまでの回り道はラジオ福島時代も、そこを辞めてからも続くんですけどね。

Q:ちなみにラジオ福島から内定をもらうまでは、アナウンスのできる会社しか受けていなかったんですか?

A:ラジオ中継への憧れですから、アナウンサー職で、そしてラジオがある局だけを6局か7局。受験できる会社は少なく、「2年間の就職浪人はさすがにまずい」と思っていましたから真剣でしたね。テレビ単営局は1つも受けなかったです。ですから、今の自分がこんなにテレビを中心に仕事をするなんて夢にも思いませんでした。

(後編に続く)

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