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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年03月25日

『Foot!』Five Stories ~野村明弘【前編】~(2017年3月7日掲載)

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『Foot!』Five Stories ~野村明弘【前編】~

(2017年3月7日掲載)

『Foot!』で月曜から金曜までそれぞれMCを担当している5人のアナウンサーに、これまでの半生を振り返ってもらいつつ、どういう想いで今の仕事と向き合っているかを語っていただいています。五者五様の"オリジナルな生き方"を感じて戴ければ幸いです。

Q:お名前からお願いできますか?

A:野村明弘です。

Q:生年月日と出身地もお願いします。

A:1975年3月9日。出身地は東京都青梅市です。

Q:ご出身の青梅に対してはどういうイメージを持ってらっしゃいますか?

A:青梅は結構広いんですよ。東京の端っこで広くて、地域によって特徴が違うんですけど、 "青い梅"と書くくらいなので、ウチのあたりは梅の里として有名な所で、僕の小さい頃は観光客で土日は非常に混むような感じでした。ウチの庭にも梅の木が20本近くあったんです。

Q:ひょっとしておぼっちゃまですか?(笑)

A:いえ、みんなそうなんです。田舎なのでどの家も梅の木を植えて、自分の家で獲れた梅で梅干しを漬けて、みたいな感じなんです。青梅でも僕のウチの方は奥多摩町との境なので、秩父多摩甲斐国立公園内にあるんですよ。なので、高いビルなどを立ててはいけないんです。

Q:家が国立公園内にあるんですか?

A:そうなんです。地域全体が国立公園になっていて、勝手に開発してはいけないなど、色々と制限があるんですけど、そういった大自然の中で育っているんです。

Q:そうすると青梅に思い入れもありそうですね。

A:結構ありますね。僕のウチの周りは全部"野村"なんですよ(笑) さかのぼって行けば全員親戚だというくらい野村ばかりで、本家は江戸時代初期の400年以上前にその土地へ来ていたらしく、みんなそこの土地に思い入れがあるんですよね。今でも実家に行くと、年配の方々はみんな「アキちゃん、どうしてるの?」みたいになる感じで。青梅は好きですね。

Q:そうすると大自然の中で遊び回っていたという感じですか?

A:そうですね。家のすぐ裏は山ですし、杉を植林しているので、ちょうどこの時期は花粉の黄色い帯が山沿いに移動していくんです。花粉症の人はアレを見たら気絶しそうな勢いで(笑) 沢もあって、そこは「マムシが出るから行っちゃいけない」と言われていたんですけど、子供だからこっそり行きたいですし、そういう所にカニとかが集まるんですよ(笑)

そこから下流まで流れていくと沼があって、そこにはイモリやカエル、サンショウウオがいるので、こっそり行って水草のあるあたりに勢いよく手を突っ込むと、そういう生き物が獲れる訳です。

Q:完全な野生児ですね(笑)

A:野生児なんです(笑) 今のイメージと全然違うと思うんですけど、周りも皆がそうなので、どこに行っても山を駆け回ったりとか、生き物とのふれあいみたいな遊びが多かったですね。夏はそんな感じで、冬は東京なのに天然のスケートリンクがあるんです。昔冷蔵庫がなかった時に、氷を作るための"製氷池"みたいな人工池で、そこが冬にはスケートリンクとして開放されるので、そこに行ってスケートして、カップヌードルを食べると、これが寒いからメチャクチャ美味しいんですよ(笑)

Q:そのころから話すことは好きだったんですか?

A:好きだったんですけど、僕はもともと人見知りなんです。仲良くなるまで時間が掛かるタイプで、今でこそ人前に出る職業をやっていますけど、当時は隣の家のシンゴ君と遊びたいのに、よくある「シンゴくん、あそぼ~」が恥ずかしくて言えなくて、こっそり覗いていなかったら帰るみたいな(笑) かなりの人見知りでした。

Q:ちなみにご両親はお2人とも働いてらっしゃったんですか?

A:父は会社員です。医療機器もそうですし、木の年輪を調べたりするX線を扱っている会社で営業をしていました。それと同時にその会社の営業部門が保険の代理店もやっていたので、引退してからは保険の代理店をやっていました。母は主婦だったんですけど、医療事務と介護の資格を持っていたので、そういう所で働いたりもしていましたね。

Q:ご兄弟はいらっしゃるんですか?

A:弟が1人います。

Q:男兄弟で大自然があってみたいな感じだと、弟さんとも外で遊びまくっていた感じですか?

A:そうですね。僕よりも3つか4つ上のお兄さんから、ウチの弟ぐらいの子まで、6つか7つくらい離れている年齢の幅の人たちで、みんな一緒に遊んでいるような感じでした。ウチのすぐ下にあった多摩川の上流が、日本の名水百選に選ばれるくらいの所で、ヤマメとか釣れるんですよ。だから、釣りもみんなでよく行っていました。

小学校3年生か4年生くらいになったら釣りばかりで、その頃からフライフィッシングをやっていたんです(笑) ちょうどテレビで『釣りキチ三平』がやっていて、それともリンクしていましたね。それこそ都心の国際展示場か国際フォーラムでやっていた"釣り市"にも、片道2時間掛けてみんなで行ったりして、試供品などをたくさんもらって。小学生からしたら「コレ、タダでもらえるのかよ!」みたいなものがいっぱいあるんですよ(笑) そういう感じでしたね。

Q:小学校時代も基本的に外で遊んでいるような感じだったんですか?

A:そうですね。それこそサッカーで言うと青梅FCが有名だと思いますけど、東の"都会側"の地域はサッカーが盛んで、西の"田舎側"は野球なんですよ。僕が住んでいた地域は西だったので、みんなで野球をやっていました。小学校の時はちゃんとしたリトルリーグではなくて、各地域の子供会で必ず野球をやるというシステムがあったんです。毎週2回練習するんですけど、特にコーチが付く訳でもなく、下級生が上級生に教わりながら、遊び感覚でやっていました。広場も多かったですし、今みたいな規制もなかったので、いくらでも使えるということもあって、野球は本当にやっていましたね。

一番野球で覚えているのは、たぶん子供会の会費から、その日の練習担当のお母さんが月に1,2回アイスを買ってきてくれるんですよ。ウチは母が厳しくて、なかなか甘いものを食べられなかったんですけど、その時は食べられる訳です(笑) だいたい人数ピッタリに買ってくると、途中から来た子の分が足りなくなったりするので、何個か多く買ってきてくれるんですよ。それを狙っていたので、いまだにアイスを食べるスピードは相当速いです(笑)

Q:どうでもいい話を(笑)

A:だから、人には負けないものと言ったら、アイスを食べるスピードなら誰にも負けないです(笑)

Q:お母様は食に関してかなり厳しい方だったんですね。

A:そうですね。コーラも小学校4年ぐらいまで飲んだことがなかったですけど、それこそシンゴ君の家で出してもらって(笑)、衝撃を受けましたよ。あとは人前での礼儀にも凄く厳しくて、逆に田舎だから周囲は良い意味でほんわかしている感じだったんですけど、ウチは買い食いがダメだったんです。

でも、小学校の4年生か5年生くらいの時かなあ。夏は毎日行っていたような市民プールの近くに駄菓子屋さんがあったので、みんな色々買うじゃないですか。「ああ、オレもちょっと買おうかなあ」と思ってお菓子を買って、帰りのバスが来たので食べながら乗ったら、ちょうど母親が乗っていたんです(笑)

Q:怖いですねえ(笑)

A:その時に"角"が見えましたね。「鬼っているんだ...」って(笑) バスの中では友達もいるので「○○ちゃん、こんにちは」みたいな感じだったんですけど、「コレはヤベーぞ。コレはヤベーぞ」と思いながら家に帰った瞬間に、ですよね(笑) アレはいまだに忘れられないです。

Q:小さい頃になりたかった職業ってありますか?

A:2つあって、消防士とバキュームカーの人です。ウチは田舎だったので、トイレが水洗ではなくて汲み取り式なんですよ。だから、定期的に汲み取りに来てくれるんですけど、その汲み取りの人が凄くカッコよくて、いつも来るのが楽しみで、近くまで車が来ただけで「あ、来た来た!」みたいな。母に頼んで縁側にお茶を出してもらって、ウチに来たら必ず一緒にお茶を飲んでいましたね。

1ヶ月に1回くらいのペースなんですけど、その真似をしてホースを持って駆け回って(笑) きっとホースが好きだったんでしょうね。それで頭にバケツをかぶって、消防士の真似もしたり。この間、初めて上の息子を連れて"出初め式"に行ったんですけど、僕の方が「おおっ!」ってなっていました(笑)

Q:そうなると小学校時代は運動的には野球だった訳ですね。

A:好きだったのは野球選手でしたね。ウチの地域は所沢が近いので、割とみんな『西武ライオンズ友の会』に入っているんですよ。僕が小学校高学年だった頃は森(祇晶)監督時代で、清原(和博)選手がいて工藤(公康)選手がいてと一番強かった頃なので、その時はみんな西武ファンでした。僕も西武の帽子をかぶって、1年中半ズボンで学校に行っていました(笑) ただ、当時はちょうどキャプテン翼が相当流行り出したので、サッカーというよりは"キャプテン翼"ごっこもやっていた感じですね。

Q:西武で一番好きだったのは誰だったんですか?

A:秋山(幸二)選手ですかね。でも、元々は巨人が好きで、中でも松本(匡史)選手が好きだったんですよ。

Q:青い稲妻ですね(笑)

A:そうそう。篠塚(利夫 ※のちに和典)選手も好きで、そこで野球を始めているので、僕は小学生なのにずっと木製バットだったんです。でも、当時金属バットの方が飛ぶって誰も教えてくれないので、ずっと木製を使っていて、今から考えれば「何で誰も教えてくれなかったんだろう?」って思いますよね(笑) ただ、結構ヒットは打っていたので、金属バットだったらもっと活躍できたんじゃないかなと思っています(笑)

Q:ちなみにポジションはどこだったんですか?

A:小学校の時はピッチャーです。あとは外野かファーストという感じですね。僕は運動神経があまり良くないんですけど、野球は小さい頃から大好きだったので、結構練習したんですよ。だから、他のスポーツよりはそこそこチーム内でも認められていたんです。でも、難しさもあって、選手選考も大人じゃないんです。子供のガキ大将みたいな子がキャプテンに任命されて、そうするとあまり練習も来ていないような、ちょっといたずらっ子みたいな子がレギュラーになるんですよ。

それでも当時の人見知りだった僕は何も言えなくて、周りの子が「何でアキちゃんがレギュラーじゃないの?」って言ってきたりとか(笑) 唯一できるスポーツが野球で、他のスポーツではなかなかこの業界の人で味わったことがないと思いますけど、"トリトリ"で最後に残るというのを味わっています。

Q:"トリトリ"?

A:チームを決めるのに、運動神経の良いA君とB君がいて、じゃんけんで勝った方からドラフトみたいにチームメイトを選んでいくんですよ。それを"トリトリ"と言っていたんですけど、それで最後まで残っちゃうんです(笑) 野球は良かったですけど、サッカーの時とかはそんな感じで、だいたいゴールキーパーかディフェンスをやらされるみたいな。あのトラウマは結構残っていますね。

他にサッカーで覚えているのは、体育の授業でスローインになった時、サッカーをやっている子に「マイボー!」って言われたんです。でも、「マイボー」の意味がわからないんですよ。何を言っているのかわからないので、とりあえず一番空いている選手にボールを投げたら、「だから"マイボー"って言ってるだろ!」みたいに強く言われて(笑) あれも覚えてますねえ。"MY BALL"だから、「オレによこせ」ってことなんですけどね(笑)

Q:中学校も地元の中学校ですか?

A:そうです。僕の頃の3年生の先輩は女性が地面に付きそうなロングスカートと、ひざ上10センチくらいのミニスカートの人が両方いる感じの世代で、男性は大半が"ボンタン"(※"不良"スタイルの象徴として知られる変形学生服のズボン)みたいな感じだったので、「部活に入ってしまうとみんなに流されるから、部活には入らないで勉強しなさい」と親に言われたことに反発して(笑)、中学も野球部に入りました。

Q:中学校だと高校受験もあって、勉強もしなくてはいけなくなっていくと思いますけど、部活と勉強と遊びの比率はどんな感じだったんですか?

A:1年生の時はまんべんなくという形だったと思いますけど、3年生の時はほぼ遊んでいた記憶はないです。勉強しているか、部活をやっているかでした。僕は勉強があまり好きではなかったので、高校は大学の付属に行ってしまえば、勉強しなくてもそのままエスカレーターで大学に行けると聞いてからは、とにかく3年生の時だけ毎日睡眠時間も3,4時間ぐらいで、深夜2時まで勉強して、朝の6時に起きる生活を送っていました。部活を引退してからの半年ぐらいだけですけど、人生であの時だけは本当に勉強しました。

僕は語学力とか読解力とか、まとめる力はそこまでなくて、暗記しかできなかったんです。ただ、数学だけはできたので、そこで点を取って、英語や国語は過去問をひたすら解いて暗記するという感じで、あとで実になる勉強というよりは、高校に受かるための勉強をしていた感じですよね。その頃、田舎だった僕の地域ではスポーツができる生徒か不良しかモテないので、僕は全然モテなかったんです(笑) でも、少年マガジンで『BOYS BE...』という漫画が流行っていて、それを読むと、どうやら「都会では勉強のできる人がモテるらしい」と思い込んで、「都会の共学の学校に行けば、僕の人生は変わるんじゃないか?」と(笑)

Q:『BOYS BE...』とか懐かしすぎますね(笑)

A:だから、本当は成蹊とか成城とか青山学院とか、共学の付属高校でバラ色のスクールライフを送るという、勝手な想像をしていたんですけど、だいたいそういう学校の受験は英語の比率が高いんですよ。塾の先生に相談したら「オマエは英語がそこまでではないから難しい」と言われた中で、内申点は良かったので「法政一高なら推薦が取れるんじゃないか」と。

ただ、法政一高って男子校なんです(笑) 僕は「えっ、男子校でしょ?」って。だって、「今までモテなかった人生をそこで巻き返すために勉強も頑張ってきて、そこで共学に行って人生を変えようとしているんだから」と。「せっかくスポーツでも不良でもない要素でモテる要素をマンガで学んだのに」って(笑) でも、バラ色の共学の方がもちろん良かったんですけど、それよりも「もう勉強しなくていいという方がまだいいかな」と思ったんです。

僕が「自分ってツイてるな」と思ったのは、法政二高や明治大学の付属校も受けているんですけど、全部落ちているんですよ。ただ、法政一高の試験だけ神が降りてきたかのように、ほとんどわかる問題ばかりだったので、第一志望だけ受かっているんです(笑)

Q:そして男子校生活が始まると。

A:そうですね。法政一高は私服なんですけど、どうも入学式は中学の制服で行くということを聞いていて、僕はカッコいいと思っていた"ボンタン"で行った訳ですよ。そうしたらもう都会には"ボンタン"の文化はない訳です(笑) 1人だけ僕より太い"ボンタン"の子がいて、「よかった。1人いた!」みたいな(笑) 他のみんなは当然ストレートのズボンで、学ランの下にセーターとかトレーナーを着て、第1ボタンを開けるような、僕の知らない世界がそこにはあったんです。

それから1週間くらいすると、みんな私服を着てくるようになった中で、杉並に住んでいた同級生がセーターを肩に掛けて登校してきたんです。当時は"キレカジ"が流行っていて、チノパンに『ラルフローレン』のボタンダウンのシャツに、『ラルフローレン』のVネックのセーターを着るような感じで、もう僕にはその子に"後光"が差しているように見えたんです(笑) 部屋に入ってきた瞬間に「都会ってスゲー!」って。僕は英字新聞のプリントのシャツとか着ていたのに。しかも財布も英字新聞柄でしたからね(笑)

Q:どんだけ英字新聞が好きなんですか(笑)

A:ホントですよね(笑) のちのちロンドンに留学することになりますけど、その時に感じたギャップよりも東京都下の青梅と"東京都内"のギャップは凄かったですね。

Q:法政一高はどちらにある高校なんですか?

A:吉祥寺です。当時の法政一高は、高校生が読む雑誌の『オシャレな高校ランキング』にも出てくるような学校で、女子高生がウチのスポーツバッグを持ちたいみたいな。そもそも私服の学校なので、みんなどんどんオシャレになっていきますし、見た目も大学生みたいな感じなんですよね。

Q:そうすると青梅から出てきた少年も、何となく都会に染まっていった感じですか?

A:そうですね。青梅にはカラオケボックスの文化がなかったので、カラオケに行ったことがなかったんです。でも、周りは普通に行っている子が多くて、まだ入学してから1週間も経っていない頃に「カラオケ行こう!」となって、「えっ、カラオケ?」と思いながら、ボウリング場に併設されていたカラオケに行ったら、隣の部屋で歌っていた女子大生のお姉さんたちが、ちょうど自分たちの時間が終わっていたんですよね。

ウチのグループにも積極的に声を掛けられる子がいて、「終わったの?一緒に歌おうよ」と声を掛けたら、お姉さんたちが部屋に入ってきたんです。そうしたら狭いから、椅子に座っていた僕の膝の上にお姉さんが座ったんです!もう死にそうになりました(笑) 今までの青梅の生活と違い過ぎて「何だ、コレ!」みたいになってましたね(笑)

Q:まだギリギリ"ボンタン"ぐらいですからね(笑)

A:ホントです。でも、徐々に同じ中学の子で女子高とかに行っている友達と連絡を取って、7対7ぐらいのボウリング大会で親交を深めるみたいな感じで、男子校だったのに思ったより女の子と出会う機会は少なくなかったんです(笑) そういう機会を経て、もともと人見知りだったのに、逆に盛り上げ役をやる感じが面白くなっていったんですよね。そこで急にキャラが変わりました。

Q:いわゆる"高校デビュー"ってヤツですね(笑)

A:完全な"高校デビュー"でした(笑)

Q:そうすると当然大学も試験はなかった訳ですよね?

A:なかったです。普段の試験の結果で決まるので、成績の高い順に行きたい学部を選べるというシステムでした。

Q:社会学部ですよね?

A:はい。僕はもう高校3年生くらいの頃からマスコミに行きたかったんです。何の根拠があってかわからないですけど、「マスコミに向いてるんじゃない?」みたいに先生にも言われることが多くて、そういうことを勉強できるのが社会学部だと聞いたので、「じゃあそこに行こうかな」と。あとは漫画とかを読んでいると、かわいい子とバッタリ出会ったりするじゃないですか。「ああいう子とどうやったら出会うんだろう?」と考えた時に、僕は閃いたんです。「そうだ。オレがあそこに行けばいいんだ」と。

Q:どこですか?

A:テレビの中です(笑) 「そうだ!」と。「でも、タレントにはなれないし、ああいう人たちは選ばれた人たちだからな」と思っていた時に、付属校なので学部の説明会があって、

全部の学部を回るんですよ。その中で社会学部に行ったら、「ウチの学部は昨シーズン、これだけアナウンサーを輩出しています」という説明があったんです。しかも地方局への就職が決まった先輩方が色々と話してくれる訳ですよ。「この手があった!」と(笑) サラリーマンで安定していて、なおかつテレビに出られると。そこで初めて"アナウンサー"というものを意識しました。かなり不純な動機ですけどね(笑)

Q:そうすると大学生活はアナウンサーになるということを念頭に置いて過ごしていた訳ですね。

A:そうです。周りの先輩にそういう方もいたので、色々と聞くことができていった中で、自分はスポーツが好きだったので、「そうか。スポーツの実況もあるんだ」ということにも気付きました。最初はアナウンサーと言ったら、バラエティやニュースのイメージしかなかったので、例えばフジテレビの『カボスケ』という番組に佐野瑞樹アナウンサーが出ていて、「アレって楽しそうだな」と思ったりしていたんですけど、自分はスポーツが好きだからそんな感じじゃないなと。取っ掛かりはそういう所ですよね。

Q:アナウンサーの就職活動ってちょっと特殊じゃないですか。いつ頃から就職活動を始めたんですか?

A:実際に試験が始まるのは3年の1月や2月からなんですけど、ウチの大学には『自主マスコミ講座』というのがあって、要は教授や職員の方々が自主的に開いてくれる、マスコミを目指す人たち向けの講座にアナウンサーコースもあったんです。先輩では小島奈津子さん(フジテレビ)や、後輩ではNHKの9時のニュースに出ている鈴木奈穂子さんや、ああいう方々を輩出しているんですけど、試験制で受かったら入れるという形で、そういう活動をしていました。

その試験は春と秋にあって、まず春の面接を受けた時に、当時の僕はモード系みたいなファッションで、"ルパン三世"みたいなもみあげをしていて、そのまま行ったら落ちたんです。それで先生に「落ちた人は理由を聞きに来てください」と言われて、稲増(龍夫)先生という有名な教授に聞きに行ったら、「僕は雰囲気がアナウンサーっぽいし、良いと思って推したんだけど、『なんだ、あのもみあげは』って言っていた人がいたから落ちたのかな」と言われて。僕は"もみあげ"で落ちたんですよ(笑)

Q:そんなことあるんですか(笑)

A:それで秋の試験には"もみあげ"を切ってようやく受かりました。あとは自主マスコミ講座の講師をされていて、当時日本テレビのアナウンサーだった若林健治さんというプロレス実況で有名な方のお師匠さんに山本勇さんという方がいらっしゃって、その方が主宰されていたアナウンサーになるための私塾にも若林さんの推薦で入れてもらえることになりましたし、アナウンスアカデミーにも通っていたので、3つのスクールを並行していました。

Q:かなり本気で「アナウンサーになりたい!」という感じだったんですね。

A:その頃はアナウンサー以外の選択肢が自分の中になかったんです。実は、僕は1年目の就職試験で全部落ちているんです。それでも自主留年して、2年目の就職活動で長崎の放送局に受かって、そこへ行くことになるんですけど、アナウンサー以外は考えられなかったですね。

Q:1年目はどのくらいの局を受けられたんですか?

A:たぶん40社ぐらいは受けました。最終試験で落ちることも多々ありましたね。その頃によく言われたのが、「技術とか雰囲気は問題ないけど、あとは"人"だ」と。結局「作っている」と。最終面接をされる方たちは年配の方ばかりじゃないですか。「そういう方たちの前では作っていてもすぐにバレるし、カッコつけていても受からないよ」とも言われました。でも、確かに最後に受かった所の面接も、自分でうまく行ったとは全然思わなかったんですよ。たぶん本音で話せたのかもしれないですね。

Q:2年目も同じくらいの数の局を受けられたんですか?

A:2年目もそれくらい受けたかなあ。2年目は1年目以上に最終試験まで残って、ことごとく落ちていたんですけど、アナウンサー試験ってきっとどの局も見る目は同じなんでしょうね。だいたい最終試験まで残る人はどの局でも一緒なんですよ。そうすると一緒だった人がどんどん受かっていく訳です。誰かが受かったら、"ユースからの昇格"みたいな感じで新たな人が加わって、その人が受かってしまったりして。だから、友達の数は増えていくんです。「ああ、またオマエか」と(笑)

Q:だんだん競っていた仲間が受かっていくと、きっと焦っていきますよね。

A:焦りましたね。2年目も時間が掛かって、内定が出たのは10月か11月だったので、ほとんどの人は決まっていて、「もうダメかな...」と思った頃に決まりました。でも、最終試験まで行くと地方局も現地で試験をやるので、各局に夜行バスで行くんですけど、現地でそこの名物を食べたりするじゃないですか。それは楽しかったですし、法政のマスコミ講座の縦の繋がりがあるので、どこへ行っても先輩がいるんです。それで連絡したら、先輩の家に泊めてもらえて宿代が浮きますし、美味しいものはおごってもらえると。そういう流れがあったので、それこそJリーグで実況されている方の中にも、泊めてもらったり、食事を一緒にさせていただいたりした方々も結構いるんです(笑)

(後編に続く)

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