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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年03月26日

『Foot!』Five Stories ~野村明弘【後編】~(2017年3月7日掲載)

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『Foot!』Five Stories ~野村明弘【後編】~

(2017年3月7日掲載)

『Foot!』で月曜から金曜までそれぞれMCを担当している5人のアナウンサーに、これまでの半生を振り返ってもらいつつ、どういう想いで今の仕事と向き合っているかを語っていただいています。五者五様の"オリジナルな生き方"を感じて戴ければ幸いです。

Q:98年の4月に長崎文化放送に入社される訳ですね。最初はどういうお仕事をされていたんですか?

A:東京で言うと社会部の記者で、地方で言うと県警担当で"サツ担"というヤツです。まず新人の新聞記者がやる仕事で、県警記者クラブに朝から行って、1課、2課とあいさつしながら回って、「今日は何かありますか?」と聞きながら、広報担当の副署長が全部の署に「昨日の夜から今朝まで何かありましたか?」と電話するので、それをチェックさせてもらったり、事件や事故があったら夜中でもポケベルが鳴るので、警察署に電話してからその現場に行って、原稿を書いて、という感じで、アナウンサーというよりは記者ですね。大きな事件が起これば、早朝と深夜は警察の幹部の家の前で待って、情報を聞くという、俗に言う"夜討ち朝駆け"もしていました。

Q:それで現場からリポートして、みたいな感じですか?

A:リポートもしますけど、リポートがなくても1日に何ヶ所も取材に行って、自分で原稿を書くんです。98パーセントが記者の仕事で、残りの2パーセントがアナウンサーの仕事という感じですかね。だから、5月くらいに"初鳴き"というアナウンサーデビューをしているんですけど、アナウンサーの仕事はドラマの後にある3分間ぐらいのニュースがあるじゃないですか。あれぐらいなんですよ。それも「今日の昼に自分で行ってきました」みたいな原稿を読んだりとか。

ただ、テレビ朝日系列だったので、夏になると高校野球の実況があって、1年目から喋らせてもらいました。1回戦から全試合を中継していたので、10試合ぐらい喋らせてもらって。スポーツ実況はその時期の高校野球だけですかね。あとはサッカーだと中学の高円宮杯県大会の決勝です。僕が生まれて初めて喋ったサッカーの試合に出ていたのが渡邉千真選手(神戸)で、解説が小嶺監督(小嶺忠敏・長崎総科大附属高校監督)です(笑)

Q:それは凄い!

A:デビュー戦の解説が小嶺さんだったんです。インタビュアーとしてのデビューは、それこそお兄さんの渡邉大剛選手(讃岐)とか兵藤慎剛選手(札幌)の代なんですよ。ピッチリポーターみたいな形で。ただ、元々取材はしていたので大久保嘉人選手(FC東京)の選手権優勝の時も、国立競技場のゴール裏でインタビューをしました。余談ですけど、その時に『スーパーサッカー』に出始めた頃の白石美帆さんがいらっしゃって、「ああ、世の中にこんなかわいい人がいるんだ!」と衝撃を受けたのは覚えています。(笑)

Q:それでも当時の仕事は、思い描いていたアナウンサーの仕事とはだいぶ違いますよね。

A:思い描いていたものとは全然違いましたけど、長崎に行く前に"平成新局"という平成になってからできたテレビ朝日系列の局は「ほぼ記者の仕事からだよ」というのは聞いていたので、僕は一応理解して行ったんです。ただ、知らないで来た人だったら「え?アナウンサーの仕事じゃないよね...」という感じだったかもしれないです。でも、僕はそれが今に生きているというか、テレビの映像を編集する勉強にもなりましたし、画をどういう風に繋いでいくかとか、そういうことも含めてですよね。サッカーや野球の原稿も書くので、どういう風に書けばゲームを1分でまとめられるかとか、そういう勉強にはなったと思うんです。

アナウンサーでは経験できないこともたくさんあって、当時僕は小泉(純一郎)首相のインタビューもしていますし、海苔の不作で諫早湾干拓問題が話題になった時に、農水省を取材するための東京出張も多くて、ニュースステーションも取り上げてくれていたので、そういうスタッフの方々と国の施策の問題点について色々と取材したりできましたし、あとは北朝鮮にも行けましたしね。

Q:僕はその北朝鮮に行ったお話を聞きたいと思っていました。2002年に行かれたんですよね?

A:そうです。日韓でワールドカップをやっている時ですよ。だから、僕はあのワールドカップのグループステージを生で見ていないんです(笑) 電話で日本の結果を聞いたんですから(笑)

Q:どういう状況で北朝鮮へ行くことになったんですか?

A:時期的には拉致問題が明るみに出る直前だったんです。それで当時の朝鮮総連の長崎のトップの人が、里帰りを年に1回みんなでするということで、現地に問い合わせたら、そこに「メディアも連れてきていい」と。「北朝鮮のことはあまり知られていないので、是非紹介してもらいたい」と。そこには議員の方々も絡んでいて、長崎県議会の超党派で北朝鮮との親睦を深める会を結成して、それで現地に行くのに「1社1名ずつ同行していいですよ」という形になったんです。

僕は市政担当だったんですけど、たまたま県政担当のトップの人が新婚旅行でヨーロッパに行きたいと。ただ、パスポートに北朝鮮のスタンプを押されると入国しづらくなるから、行きたくないと言い出したんですよ(笑) 僕は何でもやるタイプだったので、当時の部長が「明弘がいいんじゃないか?」と言ってくれて、一生に一度行けるかいけないかの国なので、「僕、行きたいです」と。それでカメラマン兼レポーター兼記者として、1人でデジカムを持って行くことになったんです。

Q:確かに人生で1回も行けない人の方が多い国ですよね。

A:そうですよね。ビザが日本で取れないので、一泊した北京の北朝鮮大使館でビザを取って、平壌に入ったんです。結局団体のビザだったのでパスポートにスタンプは押されませんでした(笑)

Q:実際の北朝鮮はいかがでしたか?

A:「きっと戦前の日本ってこうだったんだろうな」というイメージです。北朝鮮の皆さんは、話す内容や思想がすべて一緒だなあと感じました。あと、僕は国立競技場みたいな所で、10万人のマスゲームを見る機会があったんです。バックスタンド側はパネルみたいなものをパッ、パッと変えていくと、大きな絵がどんどん変わっていくんですよ。ピッチでは一糸乱れぬ踊りを披露していて、「これは強烈だな」という感じでしたね。

テレビも内容は"モチベーションビデオ"みたいな感じで、アナウンサーの方が独特の抑揚で喋っていて。それで携帯やパソコンは違う所に預けていたので、電話する時も後ろに監視する人が付いている中で電話するんですけど、その固定電話で「日本勝った?勝った!やった!」みたいな(笑) そんな感じでしたね。

Q:それを20代で経験できるというのは、相当貴重な経験ですよね。

A:そうですね。だから、普通は入社3ヶ月で実況なんてできないですけど、ウチは人がそこまでいなかったので、入社3ヶ月でいきなり高校野球を10試合も実況させてもらえましたし、それこそ入社してから3日間ぐらい各部署を研修で回るじゃないですか。それで報道制作部に配属になって、「今日は取材があるから先輩に付いて行け」と言われて、付いて行った次の日には「もう1人で行ってきて」でしたから(笑) 「え?どうするんですか?」と。それぐらい何でもやらせてもらえる感じだったので、新しいことをやるというよりは、こなすことで数年間は毎日必死でしたけど、その代わりに色々なことがどんどん身に付いていきました。

逆に若い内にしかできないようなことでしたし、今も「忙しいね」って言われるんですけど、あの時があまりにも忙しかったので、当時に比べたら全然大変じゃないと言えるぐらいの感じですよね。朝6時に出社して、夜の10時か11時まで仕事をして、毎日先輩たちと飲みに行っていたんです。朝の2時か3時まで毎日飲んで、僕は朝6時に警察へ行かなくてはいけないので、毎日がその生活という日々を半年続けたら8キロぐらい痩せました。

Q:それはなかなかですね。

A:でも、その経験が生きたこともたくさんあって、先ほど話した『山本勉強会』が先輩との連絡を重視する会で、ウチの石原(敬士・フットメディア)ともそこで知り合ったんですけど、地方局の先輩アナウンサーに「今回最終まで残りました」「受かりました」「ダメでした」という報告を毎回していましたし、先輩へのお酒の注ぎ方も学んでいたこともあってか、「オマエ、ちゃんとしてるな」みたいに言ってもらえましたね。それもあって、先輩方に気に入ってもらえたり、かわいがってもらえたりしましたし、色々な所に連れて行ってもらえたりしたので、それは良かったですね。

やっぱり先輩も忙しいので、なかなか本音は言ってもらえないじゃないですか。でも、飲みに行った時に「あそこはこうした方がいいんじゃないか?」とか「あれは良かったよ」とか、そういうことを本音で言ってくれるんですよね。それも最後までお酒に付き合ったから教えてもらえる感じで。だから、毎日最後まで付いていきました。ちなみに、1年目は一銭も払っていないです。全部おごってもらっていました。

Q:先輩の方々に恵まれたんですね。

A:はい。新人の頃っていきなり「取材に行け」と言われても、1人で行く訳ではなくて、カメラマンと行く訳ですよ。だから、カメラマンの方々に色々教えていただいた感じもあります。それで最初は「はい... はい...」と言われるがままに動いていたのが、少しずつ意見を言えるようになって、4年ぐらい経ったら「僕はこう思います」と言えるようになりました。他の局だったらもうちょっと時間が掛かったかもしれないですけど、そこは結構短期間でしたね。ウチの局を出た方々は色々な方面で活躍されているんですよ。「鍛えられるんだなあ」って。精神的にも(笑)

Q:2003年の9月に退社されていますよね。それはだんだん退社の意思が出てきたんですか?それともパッと短期間で決断して退社されたんですか?

A:元々自分は拾ってもらった感覚があったので、真剣に「ここに骨を埋めよう」と思っていました。面接でもそう言いましたし、その覚悟で行ったんですけど、だんだん色々なことができるようになってくると、僕がいた局にはそれ以上のスポーツ中継がなかったんです。高校野球は毎年やらせてもらいましたけど、サッカーはまだプロがなかったですし、ニュースステーションの中継もやりましたし、番組のMCもやって、4年目ぐらいからはニュースキャスターもやって、やれることは全部やってしまったように思ったんです。

ちょうどその頃にあまりにも忙しかったので、いつも家に帰るのが"午前様"で、僕はケーブルテレビに入っていたんですけど、実はそこがちゃんとしたサッカーとの出会いだったんですよ。正直野球で育っているので、「サッカーは点が入らないしな」という想いもあった中で、そこで見たのがJ SPORTSのプレミアリーグなんです。ちょうど家に帰ってきた頃がキックオフの時間ぐらいなんですよ。「何だ、コレは?」と。「僕の知っているサッカーのイメージとは違うぞ」となって、そこからプレミアを凄く見るようになったんです。

Q:確かに当時からプレミアは24時キックオフが多かったですよね。

A:そうですよね。元々「骨を埋めよう」と思って長崎に行ったんですけど、心のどこかで東京に戻りたい想いもあって、やれることを模索していた中で、「サッカーを勉強したらもう1回イチから東京でやれないかな」と考え出した時に、ちょうどウチの部署の部長が、あとで聞くと自分が奥さんに言われて旅行に行くために休みを取りたかったかららしいんですけど(笑)、「全員交替で9連休を取れ」ということになったんです。

それまで連休なんて、せいぜい3連休ぐらいで東京に戻るしかなかったので、一度もプライベートで海外なんて行っていなかったんですけど、そこで9連休が取れて、弟もロンドンに留学していたので、「ちょっと行ってみようかな」と思って、ロンドンとパリに1人で行ったんです。

Q:テレビ局はなかなか連休が取れないですからね。

A:当時はチケットの取り方もよくわかっていなかったので、スタジアムでサッカーは見ていないんですけど、ちょうど小野伸二選手がフェイエノールトで出ていたUEFAカップの決勝をロンドンのパブで弟と見たりして、「ああ、こういう文化があるんだ」とも思いましたし、「あれ?これなら住めるかも」と。「ここに住んだら生でサッカーを見に行きまくれるし、今までサッカーの試合も1,2試合しか喋っていないけど、ちょっと違ったことになるんじゃないかな」と考えて、その旅行中に「ここからの1年間でお金を貯めて留学しよう!」と思ったんです。

Q:そういうことだったんですね。

A:そこから車も手放し、毎日先輩と飲みに行っていた生活から、会社帰りにスーパーが閉まる直前の半額セールで刺身を買って、"ほか弁"でゴハンだけ買うみたいな節約生活が始まり(笑)、1年間で結構お金が貯まったので、そこで留学することになりました。たぶん自分が求めていたものと、色々なことのタイミングがちょうど良くて、リンクしてしまったんですよね。

Q:退社してすぐにロンドンへ行かれたんですか?

A:局に迷惑を掛けたくなかったので、かなり早い段階で会社に意思は伝えました。9月から向こうの学校が始まることもあって、3月には「僕の代わりを採ってください」と上司に話しました。休みが少なかったので有休もそうとう溜まっていて、それを計算すると6月くらいで出社は終わる算段だったんですけど(笑)、「さすがにそれは難しいだろう」と思っていたら、局としては、高校野球があったので「8月まではやって欲しい」と。

でも、凄く上司に恵まれました。局長の提案で、有休を買い取ってくれたんです。他の部署からは「前例がない」と言われたらしいんですけど、「いや、こっちが無理を言って残ってもらっているんだから、全部お金に換えてやってくれ」と言ってくださって。辞めることを切り出す時も部長から「何か言われるかな?」と思っていたら、「おお、俺も独身だったらそういうことをやりたいから、是非やった方がいい」と言って背中を押してくださいましたし、本当に周りに恵まれたんですよね。

円満退社でしたし、先輩たちと今でも良い付き合いをさせてもらっているので、いまだに夏は高校野球の実況や取材の手伝いで長崎に呼んでもらっています。夜は色々な先輩たちとかわるがわる飲みに行くような毎日です(笑) 今年の夏も既に長崎へ行くことが決まっています。本当は手伝いなんて、もういらないかもしれないのですが(笑)

Q:ありがたいことですよね。

A:僕が本当に思うのは、人と出会う運がものすごく良くて、それに助けられているということです。小さい時から実力は全然なかったのに、人に引っ張ってもらっている部分が凄く大きくて、ウチの西岡と後々出会うこともそうなんですけどね。

Q:こういうお仕事をされてらっしゃる方って、ご本人の人徳があってというのはもちろんですけど、そういう風におっしゃる方が凄く多いと思います。

A:そうかもしれないですね。長崎時代はアクの強い人が多かったんです。でも、ちゃんと怒ってくれたり、意見を言ってくれるので、僕はそういう人が好きでした。それこそ原稿を破り捨てられたこともありましたし、「東京帰れ!」「いや、やらせてください」みたいなこともありましたし、レポートがうまくできなかった時は佐世保のアーケードのど真ん中でメッチャ怒られて、通行人の方に「あ、テレビ出てる人が怒られてる!」みたいなこともあって(笑)

でも、そういう方々が「凄いな」と思うのは、怒るんですけど「失敗した時は全部オレが責任を取るから」と言ってくれる先輩たちだったので、自由にやらせてもらえたんですよね。それは大きかったです。

Q:そんな環境からロンドンへ1人で飛び出す訳ですけど、英語のベースとかはあったんですか?

A:ゼロです。僕、英語がダメだったってさっきお話しましたよね?(笑)

Q:そうでした(笑)

A:法政一高でも英会話のクラスは一番下のレベルのクラスでしたし、本当に『アイ・ハブ・ア・ペン』の世界ですよ。留学しようと思った時に、週に1回英会話の個人レッスンは受けましたけど、ベースがゼロですからね。大学受験もしていないので、単語を知りませんし、空港からホームステイ先に行く道すがらの地下鉄で、迎えに来てくれた弟に「アレ、『はじめまして』って英語で何て言うんだっけ?」って聞きましたからね(笑)

Q:なかなかですね(笑)

A:なかなかですよね(笑)

Q:よく行きましたね(笑)

A:よく行きましたよね(笑) まあ独身でしたし、「誰にも迷惑は掛からないかな」と思ったので。

Q:言葉はそんな感じだったとしても、向こうに行って早い段階で「来て良かったな」とは思いました?

A:思いましたね。全然環境が違いましたけど、僕にとっては長崎も日本の中での"異国"だったので、長崎時代の最初の方が"異国感"がありました。逆に東京とロンドンは似ていて、生活する上での違和感はありませんでした。チケットが取れる時はとにかくサッカーを見ていましたし、どんどん新しい発見もあって、「積極的に行こう」という想いもあったので、全然英語はできなかったですけど、「何だ、この訳わからないけどとにかく喋るヤツは?」みたいな感じのキャラでどんどん行っていたこともあって、語学学校の先生にも気に入ってもらえたんですよね。そういう意味では溶け込ませてもらいました。

男性とはサッカーの話をすれば、だいたい打ち解けますよね。ブラジル人の友達なんてジーコの話を振れば、82年ワールドカップの話をずっと喋っていますから(笑) 普通にパブで会った人も、例えば「ポーツマス出身だ」と聞いて、こちらが「ポンピーか」「ヤクブか」みたいに話せば、「おお、何で日本人のオマエが知ってんだ?」みたいな話になりますしね。

Q:基本は語学学校に通ってらっしゃったんですよね。

A:そうです。そうしないとビザが取れないので、午前中は語学学校に行って、午後は遊びながら、平日は夜にチャンピオンズリーグやカップ戦があれば見に行っていました。本当はアーセナルが見たかったんですけど、ハイバリーが小さ過ぎてチケットがほとんど取れなかったんです。

当時はフラムに稲本潤一選手がいて、向こうに行った時はまだQPRのロフタス・ロードを使っていたんですけど、普通にネットでチケットが買えましたし、チェルシーもアブラモビッチ体制の1年目、ラニエリ監督の最後の年だったので、会員になれば普通にチケットが入手できました。チェルシーとフラムを中心に、ホームはもちろん、アウェイのチケットも買って、アウェイのバスツアーでニューカッスルまで行きが7時間、帰りも7時間の往復で見に行ったりとか、エヴァートンやサウサンプトンにも行ったりしましたね。

Q:もうサッカー三昧という感じですね。

A:サッカー三昧でしたね。「飛行機がこんなに安いのか」ということにもビックリして、ミラノやバルセロナなら冬は往復で5000円ぐらいなんですよ。夏は高いんですけど、逆にサッカーはやっていないので。だから、それこそチャンピオンズリーグでミランがデポルティーボにボコボコにされる前にミラノでやったホームゲームとか(笑)、モナコがチャンピオンズリーグで準優勝した時のモナコホームのチェルシー戦とか、決勝のモナコ×ポルトも行きましたしね。

ミランとデポルティーボを見に行った時は、直前の週末からイタリアに行っていて、ローマダービーも見たんです。その時のローマダービーはハーフタイムに暴動が起こって、試合が中止になったんですけど、生まれて初めて催涙ガスを浴びましたし、後ろを見たら鉄パイプで機動隊とやり合っている人もいて(笑) それでイタリア語でのアナウンスを英語で訳してくれた人が「『ピッチを通って逃げろ』って言ってるぞ」と。その時にゴールポストの横で記念撮影しました(笑) なかなかオリンピコのピッチなんて行けないじゃないですか。

Q:貴重な経験ですねえ(笑)

A:ユーロもポルトガルまで行って、チケットは1試合分しか持っていなかったんですけど、結局6試合見られたのかな。『I need a ticket』と書いた紙を持って歩くと、みんな安く譲ってくれるんですよ。それでチケットを持っていなくても、行ったら何とかなるかなと。

最初はドイツもバイエルン×レアル・マドリーとシュトゥットガルト×チェルシーのチャンピオンズリーグ2試合のチケットを、ドイツにいた日本人の方にお願いして確保したんですけど、ユースホステルに行ったら学生の卒業旅行などで来ていた日本人の人がたくさんいて、「野村さん、そんなことしなくても、スタジアム前で誰かが定価以下で譲ってくれますよ」と聞いて、「ああ、そうなんだ」ということを知ってから、わざわざチケットを持って行かなくても見れるんだと。

Q:子供の頃から考えると、メッチャ逞しい青年になりましたね。

A:ホントですね。結構色々な出会いもあって、いまだに付き合いがあるんですけど、現地で知り合った1人が湘南ベルマーレにいる白石(通史)コーチです。小野選手のいたフェイエノールトがロッテルダムでやったローダ戦と、オランダ×フランスの親善試合を見に行った時に、ロッテルダムで泊まったユースホステルで、日本人同士ということで二段ベッドの上と下に入れてくれたんでしょうね。日本人っぽい方でメモを取っている方がいて、パッてそのメモを見たらフォーメーションを書いているんですよ。練習内容も日本語で書いてあって、「あ、この人はサッカー関係者だ」と思って、「日本人の方ですか?」と声を掛けたら、「筑波の大学院生でケルン体育大学に留学しているんです」と。「今フェイエノールトの練習がいいと聞いて、何日間か見させてもらっているんです」と。そこで知り合いました。

それこそ人気カードでチケットをあきらめていたバルセロナ×チェルシーは、白石さんがエスパニョールの育成でコーチをされていた日本人の方と繋がっていて、その方に2枚チケットを買ってもらって、2人で見に行ったりしました。様々な場所でサッカーを通じて、色々な人に出会いました。それこそイタリアのユースホステルでは、ロベルト・バッジョのラストシーズンに、1年間掛けてブレシアを全試合追い掛けている日本人の人にも会いました(笑) 「バッジョの最後を見届けるんです」と。「サッカー好きにも上には上がいるな」と思いましたね。

Q:人生懸けちゃってますよね。

A:僕らの視聴者はそういう方じゃないですか。だから、そういう方々に会っているので、「生半可な仕事はできないな」と今でも思いますよね。

Q:そんな中で2004年の1月に西岡(明彦・『Foot!MONDAY』MC)さんから突然メールが来るんですよね?(笑)

A:そうだ(笑) そうなんですよ。色々あっていったん正月に帰国したタイミングで、メールをチェックしたら「西岡明彦です」ってメールが届いていたんです。「えっ?」って。

Q:面識はなかったんですよね?

A:面識はなかったですけど、当然僕は知っている訳じゃないですか。当時『プレミアシップマガジン』という雑誌があって、必ず冒頭にコラムを書いていたのも読んでいましたしね。そういえば話し忘れていましたけど、留学する前の年のことで、ロンドンへ行こうと決めた2,3ヶ月後に『プレミアシップマガジン』を読んでいたら、ウチの社長(※西岡さん)が「サッカーが好きで、局アナを辞めてロンドンへ行った」というコラムを書いていたんです。それを読んで「ああ、やっぱり自分が考えるようなことは、もう考えていた人がいたんだ」と(笑) 「先にいた!」と思って。でも、「こういう道もあるし、帰国してからやっている人がいるんだ」と。もう道を切り開いている方がいるので「うまく行けばこの道もあるかな」と思ってロンドンへ行っていたら、その西岡明彦さんからメールが来たんですよ。

それは僕の先輩の石原が紹介してくれていたらしくて、先に言ってくれれば良かったのに、あの人は僕に言うのを忘れていたんです(笑) こっちは急にメールが届いたので「ええ??」みたいになったんですけど、「石原氏からお話を聞きました。サッカーが好きでロンドンへ行かれているそうですね。ちょうどフットメディアという会社を立ち上げるので、協力してもらえませんか?」という文面で、「マジか!あの西岡さんが!」と。そこからがウチの西岡との繋がりですね。

Q:なかなか運命的な感じですね(笑)

A:それでアーセナルが無敗優勝した2003-04シーズンの、ホワイト・ハート・レインで優勝を決めることになるゲームを現地実況するということで、ウチの社長がロンドンに来た訳です。解説は柱谷幸一さんで、「じゃあここで会いましょう」ということで、彼らがスタンフォード・ブリッジに隣接しているチェルシー・ヴィレッジというホテルに泊まっていたので、そこのロビーで「はじめまして」ですよね。「メールや電話ではどうも」と。

ちょうどその日にスタンフォード・ブリッジのスタジアムツアーに行くというので、僕も一緒に行って、ガイドの方の話を「こういうこと言ってますよ」と訳したりして。その頃のプレミアリーグはスカパーがやっていて、J SPORTSはリーグカップとかを放送していましたよね。その資料作成のお手伝いで、向こうの新聞を翻訳して、みたいなことをやらせてもらっていたんです。

Q:その出会いが何より大きいですよね。

A:間違いないです。まずはこの業界に入り込むことが大変じゃないですか。そこを先輩に繋いでもらったというか、西岡明彦に出会っていなかったら、今の僕はないですから。

Q:帰国されたのは2005年のいつ頃ですか?

A:5月の終わりか、6月の頭ですね。本当は9月ぐらいのもうちょっと遅い帰国を予定していたんです。向こうに行った1年目はサッカーを見まくっていたんですけど、自分にはプレー経験もないので「これだけじゃ深まらないな」と思っていた中で、FAインターナショナルライセンスという"UEFA B"ぐらいのライセンスは一般の人でも受けられるということを知ったんです。

そこで「中に入って勉強させてもらったら違うかな」と思って、日本からも何人かコーチ留学で来ている人たちに混じって、資格取得にトライしていた中で、本当は9月に最終的な試験があったので、そこまではいようと思っていたんですけど、『イスタンブールの奇跡』があった2004-05シーズンのチャンピオンズリーグ決勝のチケットが当たってしまったんです。すると、ウチの社長がイスタンブールへ実況で来ると。その時に「日本へ帰って来た時に紹介するより、現地で紹介する方がいいから、プロデューサーの方々を紹介するよ」と言われて、イスタンブールでスカパーのプロデューサーに「はじめまして」と。粕谷(秀樹)さんにも「はじめまして」と(笑) そしてあのゲームをスタジアムで見ることになるという訳です。

アレは本当にラッキーでしたね。だいたい僕はヨーロッパで90試合近くの試合をスタジアムで見てきた中で、帰国前に最後に見た試合がアレだったんですけど、それがあんなゲームだったので。

Q:最高過ぎますね。

A:そうですね。そこでフットボールの凄さを感じたのは、ハーフタイムで3-0だったじゃないですか。あの時はスタジアムが街中から遠くて、みんな帰れなかったんです。僕はリヴァプールファンの近くにいたので、ちょうど全部のゴールが入った側で見ていたんですけど、リヴァプールファンも「帰りたいけど、帰る術がないから最後までいるか」というテンションだったんです。

それが3-3になって、PKで勝ってしまったじゃないですか。その時に「ああ、人間って嬉しさを超越するとこうなるんだ」って思ったのが、周りのリヴァプールファンがみんな、長野オリンピックの時に金メダルを獲ったスキーの原田(雅彦)さんのような感じになっているんですよ。泣いているのか、叫んでいるのかわからないような。僕も感動はしていましたけど、ちょっと冷静にそこを俯瞰で見た時に「フットボールはこんなにも人の心を掴むんだ」と。それと同時に「この人たちは一生このチームに付いて行くな」と思ったんですよね。

Q:うらやましい体験です。

A:その時にプロデューサーの方から、「9月だとシーズンが始まっているので、もしできるのならシーズン開幕と同時にやって欲しい」と。「今までそういう制度はなかったけど、オーディションをやる機会を設けるので、帰ってきて欲しい」と言われたんです。実はその頃の自分は3LDKのマンションを借りて、自分はリビングに住んで、3つのベッドルームをみんなに貸すという大屋さんみたいなことをやっていたので、「どうしよう?」と思ったんですけど、人生って不思議なものでたまたま一部屋空いていた所の広告を出していたら、ちょうどイスタンブールから帰って来たロンドンの空港で、日本人の方から電話が掛かってきたんです。

「部屋を借りたいと思っているんですけど」と。「一部屋空いてます」「ああ、一部屋なんですか。できれば全部借りたいんですけど」と。「えっ、マジか!!」と(笑) その時に住んでいたのは学生たちで、たぶんあと3ヶ月ぐらいで部屋を出るはずだったので、そのことも伝えて「最終的に全部の部屋に住めるという形でもいいですか?」と聞いたら「問題ないです」と。それでそのまま部屋を引き継いでもらって、もうイスタンブールから10日後には日本にいました。

Q:人生はタイミングですね。

A:それこそスカパーのオーディションに何とか合格したタイミングで、中村俊輔選手がスコットランドのセルティックに移籍したんですよ。それで英語で情報収集できるということで、「自分で資料は作れます」と。それで「じゃあスコットランドから喋ってみますか」ということで、スカパーでの実況がスタートしました。そこで認めてもらえたみたいでプレミアのオファー、チャンピオンズリーグのオファーを戴いてという感じになり、その3つを喋るようになったんですよね。当時はサッカー中継も"バブル"でしたから。

Q:いわば西岡さんは今の野村さんを形成している1つのキーファクターだと思うんですけど、完全なフリーにはならずにフットメディアに所属されているのは理由があったりしますか?

A:僕は1人ではやっていけないと思うのと、やっぱりウチの社長を尊敬していますね。理想というか、自分が真似をしたいということではなくて、「こうできるのは凄いな」という部分があるんです。僕もそうですけど、アナウンサーってどうしても喋りたくなってしまうんですよ。でも、ウチの社長は黙ることが上手い人なんです。これは他にいないんですよ。

黙る勇気というのは大事で、ウチの社長は言葉は少ないですけど、かと言って物足りなくは感じないんです。言葉の選び方や要点の掴み方が上手くて、その出すタイミングも絶妙なので、変に説明をしなくても済むというか。ああいう風にはなれないけど、ああいう風に肝が据わっていたり、自分のサッカー観が持てるようになったらいいなというのがあるんですよね。

Q:わかる気がします。

A:僕はフランク・ランパードがマイ・フェイバリット・プレーヤーなんですけど、2007-08シーズンのチャンピオンズリーグ準決勝のことです。ランパードのお母さんが亡くなった直後のリヴァプールとのセカンドレグで、あの時の社長の実況が忘れられないんです。

延長戦でランパードがPKを蹴る時に、凄く緊張していたのか唇を舐めているんですよ。その時に普通だったらもう1回おさらいします。お母さんのこととか。でも、全然言わないと。それでゴールが決まって、走り出したランパードが腕に付けていた喪章を取って、キスしながらしゃがみ込んで泣いていたんですけど、その時にずっと無言だった社長が一言、「泣いています」と。直後にカメラがランパードシニアを映した時も一言、「お父さんです」と。それだけです。

でも、それだけで十分なんですよね。逆にみんながそれぞれの想いで見られるじゃないですか。横にいた解説の川勝良一さんも泣かれていたらしく、全然言葉を挟まないんですけど、それでいいんですよね。そこは実況者にとって、まさに自分の喋り手としても見せ場だと思うので、みんな喋ると思うんですよ。でも、ウチの社長にそれを言った時に、逆に「俺なんかより現地のディレクターが凄い」と言っていました。「だってあの試合、あの瞬間までランパードシニアは1回も抜かれてないよ」と。

普通そこは撮りに行くじゃないですか。でも、あくまでサッカーの試合であって、チェルシーにとって初めてのチャンピオンズリーグ決勝進出が掛かっている大事な試合で、あくまで『This Game』な訳ですけど、延長に入らずに試合が終わっていたら、ランパードシニアは一度も抜かれなかったかもしれないですよね。「延長まで引っ張って、あそこでスイッチングするのが凄い」と。

Q:その発言が凄いですよね。

A:凄いんです。社長は謙虚な所も凄い(笑) 自分は結構喋ってしまうんですけど(笑)、本当は僕はイングランドで現地で見ていた時の感覚で喋りたいんです。だから、毎年自費で行ってでも観客席で見たいというのは、自分で見ていた時の空気感を忘れたくないというか、後ろでボールを回している時は最近のゴシップネタなんかを話しながら、それでもチャンスになって来た時に意識がピッチヘ向き出して、アタッキングサードに入ったら立ち上がって固唾を飲むみたいな。その感覚からズレてしまうと、視聴者の方の感覚からもズレてしまうと思うんですよね。

その感覚にいかに近付けるかもそうですし、その感覚も年々変わっていくでしょうし、たぶんたくさん喋る民族に比べると、イギリスの人たちはヨーロッパの中で一番ぐらいに喋らない人たちだと思うので、日本人の感覚に近いと思うんですよ。あの感じを忘れないようにしたいなと。現地の空気感をお茶の間に届けたいというのが一番の理想です。

Q:その理想の実況を100という数字で数値化したら、今の自分の実況はどのくらいの数値まで来ていると思いますか?

A:いやあ、正直に言うと20とか30だと思います。やっぱり「こうやろう」と思うものはあるんですけど、体の中に染み付いてしまっているものもあるので、もっとゆっくり話さないといけないのに、ノってきてしまうと逆に自分のペースになってしまうんですよね。現地でやるとその会場の空気感を感じながらやれるので、また違うと思うんですけど、オフチューブでやる時は会場の空気感がわからないので、自分の空気感になってしまうというか。

Q:僕は今たまたま数値でお聞きしましたけど、理想に近付きたいという作業はきっと一生続くことですよね。

A:以前金子勝彦さんが「これが完璧だと思うことは絶対にない」とお話されていましたけど、やっぱりアナウンサーはみんなそう思うはずですよ。何が正解というものもないので、ある意味みんなが正解ですし、そこは好みやポリシーの問題もありますし、それをきっとこれからも追求し続けるんでしょうね。

この世界は奥深過ぎるんです。たぶん年間で200試合は喋っているので、今までに2000試合近くは喋っていると思いますし、試合数で言えば10000試合近くは見ているはずなんです。でも、わからないです(笑) 10000試合見てもわからないです。奥が深過ぎて、そんなものじゃないんだなと。逆にわかったからといって、それを言ってはいけないとも思いますし。わかった体になってしまうのも怖いんですけど、勉強していながらも謙虚な気持ちを失わずに、わかってはいるんだけれども、自分では言わずに、解説者の方の良いコメントを引き出すのが理想だと思うんですね。そういう所に行くためには、もっとサッカーを勉強しなくてはいけないですし、もっと見なくてはいけないですし、歴史ももっとさかのぼって知らなくてはいけないですよね。

ただ、今はありがたいことに日々の実況の数も増えてきて、その中でどう1つ1つの中継と向き合っていくかという葛藤はあります。知れば知るほど怖くなります。最初の内はわからなかったから自由に喋ることができたんですけど、この世界は深過ぎるので「違ったことは言えない」ということも何となくわかってきますし、そうなってくると恐怖感はあります。

ただ、最初の方の話からすると"トリトリ"で残ってしまうような実況者って僕しかいないと思うんですよ(笑) 実況のみなさんはどちらかと言うと、クラスの中でのヒーローや部活のキャプテンタイプがやってらっしゃると思いますし、解説のみなさんは日の丸を背負っていた方や、サッカーの世界で成功された方じゃないですか。でも、そういう方々にはないような経験をしている部分のプラスが僕にはあるかなと思っていて、他の方が見えない視点があるかもしれないので、そういう所を出していけたらなという風に思っています。

Q:これを最後の質問にしたいと思います。あえてザックリとお聞きしたいんですけど、夢ってありますか?

A:あります。これは最初からずっとそうなんですけど、日本が優勝するワールドカップの決勝で実況をしたいです。それは最終的な部分で、まず僕はチャンピオンズリーグの現地決勝を中継したこともないので、リヴァプールのイスタンブールの奇跡などの決勝を見て、感動を与えてもらった、その決勝の舞台に立ちたいというのが第一の夢で、最終的な夢はやっぱりワールドカップの決勝で日本が優勝する瞬間を実況すると。夢だからいくら大きなことを言ってもいいですよね(笑)

Q:そこに自分が近付いてきている感覚はありますか?

A:特にワールドカップの決勝に関しては正直まったくないです。今のままでは完全に無理だと思っています。そこは思っていたよりもずっと遠かったですね。それこそ『Foot!』の他の日のMCをされている4人の方よりも「野村でOK」とならなければ、実現しない訳ですよ。まあ遠いです(笑) それを実現するためには、先程から言っている「こういう風にしたい」ということが、全部できるようにならないと辿り着かないと思うんです。完璧はないにしても、それに近いことをずっとやっていかないと辿り着けない所なので、今はまったく見えないですね。「あそこにあるかな」と思った山が幻だったみたいな。「ああ、これじゃなかったんだ」みたいな感じですかね(笑)。とにかく、日々精進あるのみです。

(この項終了)

【土屋から見た野村明弘さん】

僕は野村さんの"日本帰国後"の実況デビュー戦に立ち会っているんです。2005年のインターハイ。帰国したばかりで、我々が行った「Foot!」の高校取材ロケにも志願して同行されて、かなりの気合を感じる中で臨まれた実況だったんですけど、正直上手く行ったとは言いにくく。失礼ながら「ああ、この人これからどうなっていくんだろうなあ...」と。

でも、それから地道に少しずつ実績を積み上げて、少しずつ仕事の幅を広げて、ある意味でこのインタビューに答えてくださった他の4人の先輩たちと肩を並べる(この表現、嫌がるでしょうけど・笑)ぐらいまでの位置まで到達されたのは、本当にご本人の努力の賜物なんですよね。あの15年前の夏を知っているからこそ、余計にそう感じます。

野村さん、先日のある中継で"しゃっくり"が止まらなくなったじゃないですか。Twitterでも結構イジられてましたけど、実況の現場や番組収録の現場でもイジられるんですよ(笑) それってやっぱり野村さんの人徳だなって。みんなついつい野村さんに話し掛けたくなっちゃうんですよ。色々な意味でいつも周囲に人の輪ができる人だなあって、改めて。

実は今年で45歳。サッカー実況界では若手というイメージもあるかもしれませんが、もはやキャリア的にも中堅というカテゴリーではなくなりつつある所。その上で改めて「ワールドカップの決勝」という"山"が、この3年でより見えてきたのかどうかは聞いてみたいですね。もしかしたら、野村さんは当時考えていたのとは違う頂上を目指して、違う"山"を登り始めているんじゃないかなと。僕は何となくそう思っています。

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