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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年03月27日

『Foot!』Five Stories ~下田恒幸【前編】~(2017年3月15日掲載)

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『Foot!』Five Stories ~下田恒幸【前編】~

(2017年3月15日掲載)

『Foot!』で月曜から金曜までそれぞれMCを担当している5人のアナウンサーに、これまでの半生を振り返ってもらいつつ、どういう想いで今の仕事と向き合っているかを語っていただいています。五者五様の"オリジナルな生き方"を感じて戴ければ幸いです。

Q:まずはお名前をお願いします。

A:下田恒幸です。

Q:生年月日と出身地もお願いします。

A:1967年8月18日。東京都町田市生まれです。

Q:僕らはまさかの誕生日が一緒なんですよね(笑)

A:確かにそうですね(笑)

Q:最初にご両親のご職業から教えていただけますか?

A:父は富士通の社員で、母は専業主婦です。ただ、母も富士通に務めていて、職場結婚でした。父は定年まで勤め上げて、最後は嘱託で何年かやったかもしれないですけど、普通のサラリーマン家庭です。

Q:小さい頃はどういう子だったんですか?

A:落ち着きのない子だったんじゃないですかね(笑) 落ち着きがないのと、割と感情が表に出るタイプだったのかなと。遊ぶことに関しては活発だったと思います。幼稚園の時に図工みたいなことをやって、「紙をうまくバラして切りましょう」というような題材を与えられた時に、1つずつ切ればいいのに、外側の大枠だけ切っていったということは覚えています(笑) 「気持ちはわかるけどこうやろうね」というようなことを先生に言われた気がします。何でこんなことを覚えているんでしょうね(笑)

ただ、世代的にはベビーブームで、僕の1つ上は"丙午"なんです。東京オリンピックの前後からは子供がたくさんいた時代で、ずっと上り調子だった中で、1966年だけはそこに出産が来ないようにバースコントロールをした人が多かったはずなんです。その反動で子供がとにかく多かった世代で、ウチの実家のエリアには20世帯ぐらいが集まっていたんですけど、同級生が5人いたんです。そういう世代ですね。

Q:Wikipediaを拝見すると、小学校3年生でサンパウロに引っ越したという記述がありましたが(笑)、その前の1,2年の頃はどんな小学生だったんですか?

A:普通の小学生です(笑) 父親の影響で巨人は好きで、長嶋茂雄監督体制で最下位になった年の翌シーズンの選手名鑑を初めて買ってもらったんです。小学校の同級生の子の家に遊びに行った時に名鑑があって、「こんなのあるんだ!」と知ったので、父親にねだったら買ってきてくれて、そこから野球ファンになりました。

あとは剣道をやっていましたね。ウチのすぐそばの幼稚園にあった体育館みたいな所を使って、剣道教室を始めた人がいたんです。その話を聞いたウチの母と友達のお母さんで「剣道やらせる?」という話になったらしく、その友達と一緒に教室へ行きました。筋はたぶん良くなかったと思いますけど、結構楽しくて面白くて。剣道は稽古が終わった後に、正座しているとお茶が出るんですよ。そうすると"お茶請け"で、黒糖の麩菓子みたいな甘いお菓子があるじゃないですか。それを食べられるのが嬉しくて「剣道楽しいな」と(笑) 僕はやる気満々で続ける気も満々だったんですけど、そんなタイミングで父が転勤になったんです。他にも「字が上手い方がいいだろう」ということで、家の近くの書道教室にも通っていました。

Q:剣道と書道少年だったんですね。

A:書道はその流派の展覧会をやった時に、ちょっとした賞を獲ったことはあります。僕はそういう"最大瞬間風速"的なことはちょくちょくあって、小学1年の時は町田市の交通安全ポスターで表彰されたことがあります。ただ、その後の僕の美術的なセンスのなさが凄いんですよ(笑) 「おかしいなあ。あの時は賞を獲ったのになあ」って。だから"一発屋"ですね。何かものすごく取り柄がある訳ではなく、何かが一瞬飛び抜け掛けるけど、続かないみたいな感じの子供だったと思います(笑)

Q:巨人で好きな選手は誰だったんですか?

A:王貞治選手です。王さんのサインを真似して書きましたよ。当時の『小学1年生』や『小学2年生』という本は、子供たちのトレンドというかマストアイテムで、みんな買っていたんです。そこに王さんの伝記漫画が描いてあって、「王のサインはこう書く」みたいに、ご丁寧に書き順まで書いてあって(笑) それをみんなで書いていた時代です。長嶋さんはもう監督でしたし、僕が野球を認識した時は王さんがいて、柴田(勲)、高田(繁)、張本(勲)がいて、堀内(恒夫)がエースで、新浦(壽夫)がいて、という感じですよね。

Q:ちょうどV9が終わった頃ですよね?

A:そうです。長嶋巨人のリーグ戦V1とV2がちゃんと見始めたタイミングでした。両方とも阪急に日本シリーズで負けるんですけど、その時の日本シリーズは学校から帰ってきて見ていましたね。「山田(久志)憎し」「足立(光宏)打てない」みたいな(笑) その時代ですよね。

Q:野球はやろうという感じではなかったんですね。

A:遊びレベルではやっていましたけど、野球チームに入る訳ではなかったです。でも、"できた風"に見せたがる子だったので、すぐ仕切りたがるんですよ。仕切っている割にそれほど運動神経は良くないんですけど、ピッチャーをやりたがったり。ただ、小学校3年生ぐらいの頃に同級生でメチャメチャ球の速い子がいて、その子を見て「自分には無理!」と思ったので、「野球はやらなくていいかな」と感じた覚えはあります。

Q:小学校3年生の時にサンパウロへ行かれるのは、完全にお父さんの転勤ですよね?

A:そうです。2学期いっぱいまで日本にいて、3学期の頭からブラジルの日本人学校に編入しました。

Q:最初「ブラジルに行く」と聞いた時は、どう思ったんですか?

A:ビックリしますよね。当時は今と比べてもほとんど情報がなくて、「治安とか大丈夫なの?」という話にもなりますし、学校でもみんなに脅されたりしていたので、ずっと不安でしたよ。そもそも近代都市というイメージがなくて、サンパウロがどんな場所かもわからないですし、"ジャングルがあって"とか、そういうイメージで行ったらメチャメチャ都会でした(笑) 当時は4年間ブラジルに行くことが決まっていたので、父親的には1人だと大変なので、「家族に来て欲しい」という気持ちがあったのではないかなと思います。

Q:実際に最初に行った時にサンパウロでの生活はいかがでしたか?

A:僕は意外と平気でした。むしろ楽しいというか、何でも見るものが初めてでしたし。ただ、転校して行っているので、そういう不安感はあったと思います。給食もないので、母は4年間毎日お弁当を作るのは大変だったんじゃないでしょうか。そういう所が変わりましたよね。でも、「日本に早く帰りたいな」というような感じはなかったはずです。ブラジル時代にマイナスイメージはないんですよね。

Q:じゃあ基本的には楽しい毎日という感じだったんですね。

A:何しろ僕の人生を変えたのはブラジルですからね。ブラジルに行っていなかったら、たぶんこんなにサッカーにも向き合っていないですし、アナウンサーにもなっていない可能性が高いので、あそこに行ったことは色々な意味で僕の人生の転機だと思います。

Q:パッと思い出すブラジル時代の思い出ってありますか?

A:何だろうなあ。でも、あれだけ野球が好きだったのに、こんなにサッカーを好きになれるのかというのはありますよね(笑) あとは色々なものが新鮮で、例えばサンパウロの日本人学校は校舎がクラスごとにバラバラなんです。日本だったら1つの建物の中に教室があるじゃないですか。サンパウロの校舎はキャンプ地のロッジみたいな感じなんです。ものすごく広大な敷地の中にロータリーがあって、そこに職員室があって、そこから歩いて行った所に平屋の教室が点在していて、その教室に1クラスずつ生徒がいるような感じです。それがまず新鮮ですよね。

Q:そんなの見たことないですよね(笑)

A:あとはやっぱり敷地が広大なので、グラウンドが広いんです。遊ぶ場所もいっぱいあると。だから、ドッジボールをやるにしても、サッカーをやるにしても、日本では考えられないくらい好き放題できる場所だったと思います。

Q:小学校は市街地にあるんですか?

A:いえ、丘の上にあるんです。カンポ・リンポという丘の上にあって、だいたい日本人の駐在員が住んでいるエリアというのは、ある程度何ヶ所か決まっているので、そこにいくつかバス停を設けて、その近辺に住んでいる日本人学校の生徒がバスに乗っていくというシステムになっていて、僕が住んでいたのは割と街のど真ん中でしたけど、そこから学校までバスで1時間くらい掛かる所だったんじゃないですかね。

インパクトがあったのは、丘の上に学校があって、最後がものすごい坂なんです。最後の坂を上がり切って、ちょっと行った所に小学校があったので、必ずその坂でバスの運転手の方がグーンとふかして、ギアを二速に落とすんですよね。ものすごくふかさないと上っていけない坂だったのは覚えています(笑)

実は治安が悪い場所で、自分が日本に戻ってきたぐらいのタイミングで、学校の周りの塀に鉄条網を作ったんじゃなかったかな?「勝手に学校の外へ出ちゃダメ」というようなエリアだったらしいですけど、僕が住んでいた頃はブラジル全体もそこまで治安が悪くなかったので、住んでいて危険を感じたことはなかったです。

Q:生活圏的にブラジル人の人たちとの触れ合いみたいなものもあったんですか?

A:マンションだと意外とないですよね。戸建てが並んでいる所だったらあったかもしれないですけど、ポルトガル語を勉強していた訳でもないですし、マンションしかないようなエリアだったので、ブラジル人の人と仲良くするような機会はあまりなかったと思います。

Q:なかなかブラジルの人と関わる機会はなくても、サッカー自体と触れ合う機会はあった訳ですか?

A:現地に在住している移民の系譜で、ブラジル育ちだけど日本人の子供というような友達も日本人学校にはいて、そういう子たちはサッカーが好きなんですよね。小学校4年になった時に、新しいクラスにいた友達の中にやたらサッカーの話をする子がいて、そこからクラスメートもみんなサッカーに感化されるようになったんです。たぶん『プラカール』みたいなサッカー雑誌も学校に持ってきていたんでしょうね。それをみんなで見て、「今度試合があるんだ!」というような話をして、テレビで見てと。

当時はテレビを見た次の日に、みんなでそのテレビの話を学校でするというのは普通にあった時代なので、「昨日見た?あの試合?」というような会話が出てきますし、体育でサッカーをやることになったら盛り上がりますし、そのあたりからサッカーというモノを認識しました。日本にいた時はサッカーの"サ"の字も知らないですからね。

Q:それは時代もあってですかね。

A:それこそ高校サッカーも見ていなかったですから。両親がまったくサッカーを知らなかったですし、テレビのサッカー中継なんてほぼなかった時代です。ただ、「ブラジルがサッカーの国だ」というインフォメーションは行く前から聞いていて、学校に行ってクラスメートから色々教えてもらって、そこからは蹴っても面白くてみたいな感じですよね。

Q:そこからはかなりサッカーにのめり込んだ感じですか?

A:プレーヤーとしてどうこうではなくて、単純に遊びで蹴っているくらいですよ。でも、そこからは毎週のように『プラカール』が出たら買いに行き、それを見ると必ず色々なチームの集合写真が出ているので、名前を見て覚えて。だいたいパルメイラスとかサンパウロとかサントスとか人気があって、「あの選手見た?」「カッコいいよね!」という話をみんなでしていたと思います。やっぱり『プラカール』がバイブルでしたね。『プラカール』は自分で新聞スタンドに買いに行くんですけど、ある時期から毎週値段が違うんですよ。

Q:どういうことですか?

A:インフレです。僕が行った当初は"クルゼイロ"という通貨だったんですけど、その通貨もブラジルにいる間に2,3回変わっていて、『プラカール』は最初10クルゼイロぐらいだったのが、次の週には20クルゼイロになっていて、「お母さん、20クルゼイロになってて足りなかった!」みたいな(笑) 次の週は「えっ?25クルゼイロになってる!」と。毎週ではないにしても、頻繁に値段が変わっていくぐらいインフレが凄かった時代で、挙句に通貨が変わると(笑) そこでインフレという現象を実感しました。

Q:10クルゼイロっていくらくらいですか?

A:200円とか300円ぐらいじゃないですか。そういう国ですね。恐ろしいですよ(笑)

Q:1978年のワールドカップはブラジルで体験したんですね。

A:そうです。リベリーノからジーコに世代替わりする大会が78年なんですよ。77年が小学4年生で、そこで認識したサッカーを好きになって、小学5年生の時にワールドカップがあったんですよね。リベリーノが10番。ジーコは8番。センターバックはオスカール(元日産ほか)がやっていて、GKはレオン(元清水監督ほか)。日本では"ダイナマイト"と書くロベルト・ジナミッチもいて。でも、その時に一番カッコよかったのは、今は交通事故で亡くなってしまったジルセウという、左利きの中盤ともウイングともつかないテクニックがあって、シュートもうまい選手で、ジーコよりその頃は輝いていた選手です。

Q:アルゼンチン大会ですよね。

A:そうです。授業中は気もそぞろですよね。日本人なのにみんなブラジルを応援していて(笑) 「今日スペイン戦だね」「スペインなんて弱いよね」と。開幕戦はスウェーデン戦で、ジーコがコーナーキックを蹴って、オスカールがヘディングで決めたのに、主審はジーコが蹴った瞬間に笛を吹いてゴールが取り消されたという(笑) それもその日のニュースで見て、3試合目のオーストリア戦は土曜か日曜だったので、確か同じ会社に勤めていた駐在員の家族の家でみんなで見ていて、やたらと盛り上がっていたのは覚えていますね。その記憶はかなり鮮烈です。

Q:やっぱりワールドカップ期間中のサンパウロはちょっとうわついているような感じですか?

A:うわついていましたね。日中からシュートが入るたびにバン、バンと爆竹を鳴らす人がいますし(笑) 当然テレビはずっと扱っていますし、うわついている感じはあったと思います。単純に僕らがワクワクしていましたよね。サッカーを好きになって、自分の住んでいる国の"セレソン"がワールドカップに出るといった感覚なので、「当然優勝だろ」と思っていましたし。

Q:人生で初めて意識したワールドカップをブラジルで体感するというのは、なかなか凄いことですよね。

A:偶然の産物とはいえ、貴重な経験ですよね。

Q:その頃にずっと喋り続けるようなブラジルのサッカー実況に魅了されたんですよね?

A:そうです。みんなサッカーが好きで、ラジオのサッカー中継を聞き出した友達がいたか、現地にずっと住んでいた友達が「ちょっと聞いてみ?」と言ったのかは定かではないですけど、ラジオのサッカー中継のことを教えてくれた友達がいたんです。とにかく試合を喋り倒していくリズムとかテンポが、まるで『踊るような』というか、本当にそのまま"音"で試合をしているような感じなんですよね。巻き舌で喋りますし、ゴールの時の絶叫は凄いですし、そのゴールを決めた選手の名前を言った後に音楽を流して、その音楽中にもう一度選手の名前を上からかぶせてという、その実況が凄く面白かったんです。

当時は小学生なので、真似する友達がいる訳ですよ(笑) 僕ももちろん真似をしたんですけど、同級生で僕より数段真似の上手い子がいたんです。その子の実況の真似がメチャクチャ上手くて、昼休みに「ちょっとやってよ」と言われるくらいに。僕らもやるんですけど「オマエには敵わないな」と(笑)

Q:そういうのが得意な子っていますよね(笑)

A:そのぐらいサッカー好きのクラスメートみんなが、ラジオのサッカー中継を面白いと思っていて、「昨日『ラジオ・グローボ』聞いた?オズマール・サントスいいよね」と。特にその『ラジオ・グローボ』のオズマール・サントスという実況の人が一番有名だったんですけど、ゴールが決まった後のノリの出し方が凄くカッコよくて、みんな真似するんですよ。

その内に「オズマール・サントス、テレビでも喋るらしいよ」という噂を聞いて、「それは見なきゃ」と楽しみにして見たら、テレビだから意外と喋らなくて(笑) それで次の日に学校へ行って「オズマール喋らなかったね」って(笑) それが一番の原点ですよね。サッカー中継も含めての"音"で楽しいと思ったんです。

Q:下田さんは基本的にオシャベリ好きですよね?(笑)

A:好きだね。喋り過ぎて「うるさい」ってよく言われていましたから(笑) 「落ち着きがない」「うるさい」が通信簿によく書かれる2つで。頼まれなくても喋っているタイプです。

Q:それは小さい頃からですか?

A:たぶん。だから、アナウンサーになったキッカケもそこが理由で、小学5年生の時の担任が「オマエは本当によく喋るな。アナウンサーになれ」と言ったんですよ。そこで"アナウンサー"というものを認識して、ラジオの実況は聞いていたので、「ああ、アナウンサーか。オズマールカッコいいな」という所から、もう実況という職業は常に頭の中に入っていたという感じです。

Q:そうすると小学4年から中学1年で帰国するまでの一番の楽しみは、サッカーのラジオ実況という感じですか?

A:そうです。ラジオを録音して聞き直して、家族で買い物に行く時は、車の中でも「サッカーかけて!かけて!」と言って、嫌がられながらもかけてもらって、妹は引きまくりみたいな(笑) そういう感じですよね。実況というモノを込みでサッカーを楽しんでいたのがスタート地点なので、それが全部セットでした。

Q:ブラジルの人はいわゆる"心のクラブ"がある訳じゃないですか。下田さんはどのチームだったんですか?

A:僕はサンパウロに住んでいたので、レオンの人気があったことからパルメイラスが最初は好きだったんですけど、クラスメートの影響もあってジーコにシフトしたんです。当時のジーコは国内リーグでも凄くて、点は取る、スルーパスは出すという感じで、単純にメチャクチャカッコいい訳ですよ。だからフラメンゴですね。

Q:フラメンギスタですか。

A:そこまではいかないですけど、フラメンゴは"心のクラブ"ですね。今でもやっぱり気になりますし。僕が帰国する前の年のカンピオナート・ブラジレイロンを勝って、翌年のコパ・リベルタドーレスも獲って、トヨタカップに来た時は父親に「絶対チケット取って!」と言い続けて(笑)、国立に見に行きました。ヌネスがいてレアンドロがいて、モーゼルもいて。その頃のメンバーは自分がブラジルでも好きで見ていた選手たちで、それが日本に来てリヴァプールに圧勝した訳ですよ。アレは凄く興奮しましたね。

トヨタカップは第1回も行きましたよ。2月11日にナシオナル・モンテビデオとノッティンガム・フォレストの試合があって、日本のメディアがトレバー・フランシス一色だった中で、「誰だよ、それ。南米の方が凄いだろ?」と思っていましたから(笑)

Q:ビクトリーノの決勝ゴールですよね。

A:そう。ビクトリーノ。同じ年に2回トヨタカップをやった、最初で最後の年ですよね。その年の12月にジーコが来たので。あの時代は熱かったですよね。

Q:中学1年の時に日本へ戻ってくることはわかっていたことだと思いますが、実際には「戻りたくないな」というような気持ちはあったんですか?

A:ありました。やっぱりサッカーが面白かったですからね。あの生活リズムに慣れていた所もありましたし、単純に日本へ戻ったらサッカーが見られなくなることも何となくわかっていたので。しかもブラジルのサッカーは見られないですから。オズマール・サントスの実況も聞けなくなると。それが一番嫌だったと思います。それぐらいあのラジオ実況が好きだったんです。もっといっぱいカセットに録音しておけば良かったですね。

Q:そうか。カセットなんですね。

A:それをMDに落として、今でも保存してあります(笑)

Q:町田はサッカーどころですよね。中学1年に帰国された後、プレーはされていたんですか?

A:全然していないです。学校の体育ぐらいで、高校の時にちょっとサッカー部に入りましたけど「やっぱりセンスないな」と思ってやめているので(笑) 逆に言うとブラジルにいた時もサッカー実況やサッカーを見ることは好きでしたけど、プレーを突き詰めてやっていた訳ではないですからね。だから、町田がサッカーどころだということも知らなかったです。

Q:中学や高校時代は学級委員とか生徒会長とかやったりしました?

A:一見活発そうに見えたり、キャラクターは明るかったので、学級委員は「やれ」と言われたことがあったと思います。でも、優等生である訳ではなく、かといって不良にも振り切れない、メチャクチャ中途半端な感じでした(笑) 学級委員をやるとマジメじゃないとダメじゃないですか。それが嫌で学級委員の会合などをサボっていたら、途中で先生に「無理だ」と思われたのか、「替わっていい」と言われました(笑)

Q:そんなことあるんですね(笑)

A:"解任"ですよ(笑) ハッキリは覚えていないですけど、そんな感じだったと思います。

Q:勉強は結構やっていたんですか?

A:勉強はそれなりにやっていました。やっぱり子供は母親に対する恐怖感があるじゃないですか。それで怒られたくないからそれなりにやっていましたけど、塾に行くほどではなくて、「しっかり受験勉強しなさい」という感じですかね。あとは「夜は8時までしかテレビの前にいちゃダメ」とか。ただ、野球のナイター中継は必ず見ていました。高校受験する頃は9時までナイターを見てもOKで、そこから「勉強しなさい」と。ただ、ラジカセは机に置いてあって、ラジオで野球の続きを聞きながら勉強していました。

結局ラジオですよね。ラジオのサッカー中継でスポーツ中継に対する憧れが始まって、日本に帰ってきてからは野球中継を聞くと。ちょうど日本に帰って来た翌年に、江川卓選手が20勝したんです。とにかく凄かったので巨人戦は食い入るように見ていて、テレビの中継が終わったらラジオ中継を聞きながら勉強してと。それは頭が良くなるはずないですよね(笑)

Q:間違いないです(笑)

A:江川選手の登板日だけは9時までに終わるんですよ。相手が打てなくて展開が早いので。「ああ、今日は8時20分に終わっちゃったよ!」みたいな(笑) そうすると、今で言う"雨プロ"。『巨人軍栄光の歴史』みたいな短い番組が始まって。

Q:アレ、好きでした(笑)

A:僕も好きでした。知らない時代のことをやってくれたじゃないですか。『川上時代V9』とか。「江川の時は試合も最後まで見られるし、こんな番組まで見られて最高だな!」と思っていました(笑) 巨人のホームゲームはラジオ関東で聞き、ビジターゲームはニッポン放送で聞き、という時代でしたね。

Q:高校時代は少しサッカー部に入っていたんですね。

A:1年半くらいです。でも、自分で「センスないなあ」と思いながらやっていましたけどね。サッカーは好きなので一生懸命やろうとはしますけど、その努力も中途半端で(笑) 前の方の選手をやりたかったですし、やろうと思っていたんですけど、初めて試合に出た時はサイドバックでした。「ああ、ディフェンダーか...」と(笑) それで戦意喪失しました。

2年の頃に受験に向けて「ちゃんと勉強をやった方がいいかな」と思って、やめたような感じだったと思います。楽しかったですけどね。夏の山中湖合宿では死ぬ思いで走ったり、みんなで雑魚寝したりとか。その1年の合宿ですね。試合に初めて出させてもらったのは。「下田!」「はい!」「右バックだ!」「(バックかよ...)」みたいな(笑)

Q:慶應義塾大学経済学部は一般受験ですか?

A:そうです。でも、合格できたのは、運が良かっただけですよ(笑) 実は慶應の経済学部は受験科目がちょっと違うんです。だいたい文系は英語、社会、国語の3科目じゃないですか。慶應の経済学部は数学があったんです。数学、英語、社会の小論文という並びだったので、たまたまピンポイントで知っている所が出ると得するような所もあって、試験を受け終わった時に「小論文は外してないな」と。

ただ、数学は全然わからなくて、自分のなけなしの知識でやりましたけど、「たぶん0点だな」という感覚だったので、合否は半信半疑でしたよね。「可能性はゼロではないかな?」くらいだったので合格して驚きました。運が良かったんですよ。小論文でたまたまよく勉強している所が出たので。

Q:元々慶應には行きたかったんですか?

A:一番行きたかったのは早稲田大学です。何か早稲田って"スター感"があるじゃないですか。野球が強いとか、ラグビーが強いとか。結局僕はスポーツを通して色々なことを見ているので、早稲田は校歌といい、ユニフォームの"W"といい、華があって憧れますよね。だから、早稲田も受けましたけど、落ちたんです。4つ受けた中で、2つ受かって慶應に行きました。慶應は「自分らしくはないけど、ちょっとカッコいいな」というのはありましたね(笑)

一番最初にどういう大学に行きたいかで頭に浮かんだのは外語大なんですよ。ポルトガル語を学びたいと思っていたので。でも、予備校の先生に相談したら、「勉強は楽しいかもしれないけど、就職の時に苦労する可能性はある」と言われて、それでやめたんです。結構、簡単な人間ですよね(笑)

Q:大学生活の4年間というのはどういう時期でしたか?

A:「放送業界に入りたい」という想いは当然あって、最初は放研(放送研究会)に入ったんです。ただ、あの独特の空気感に同化できなくて。慶應は付属校から来ている子もたくさんいて、放研もそういう子がたくさんいたんですよね。高校の時から繋がりがある人たち中心のコミュニティみたいな所もあるんです。

例えば1年生で入った時に、同級生で塾高(慶應義塾高校)出身の子がいると、みんな先輩たちを知っているので、そういう中で僕はまったく関係ない所から入っていて、今一つなじめない感じがあったんです。それで1年くらいで辞めました(笑) そこからは普通に勉強して、「大学生活って本当に楽しいの?」という感じではありましたけどね。

Q:付属高出身者独特の感じはありますよね。

A:あるでしょ(笑) ただ、慶應には『三田祭』があって、学園祭の実行委員は随時募集している訳ですよ。何年生でも入れた中で、「せっかく慶應に入ったので、何か爪痕は残したいな」と思っていて、あれだけの学園祭を仕切るのは結構大変なんです。それで「ちょっと面白いかも」と思って、3年の秋ぐらいから三田祭の実行委員をやりました。

Q:文化祭の実行委員って大変そうですよね。

A:凄く面白かったですね。いくつかのセクションに分かれて、あれだけ大きな学校の文化祭を仕切る訳ですから。多くの人間を動かす訳ですし。例えば、期間中は校舎内の電源を全部封鎖するんですよ。みんなが使ってしまうと、電源がパンクして落ちてしまうので、期間中に校舎を見回りして電源封鎖が破られていないかチェックするセクションもありましたね。

自分はイベントを企画して仕切るセクションにいたんですけど、前夜祭で日吉の講堂にタレントを呼んでライブをするのが習わしになっていて、それと文化祭の期間中もホールを借りて、ミュージシャンやバンドを呼んでライブをやったり、正門を装飾したり、そういうことを司るセクションですね。僕らの代の前夜祭は米米CLUBを呼びました。

Q:当時大人気だった訳ですよね。

A:旬ですよ。凄いですよね。それで「もう1つのライブは何をやろう?」となった時に、みんなで企画を持ち寄ってやるんですけど、僕は三味線とロックを融合させた伊藤多喜雄さんという方を推したんです。確か『AERA』を読んでいて、「面白い人がいるな」と(笑) 単純に僕がロック好きなのもあって推したんですけど、普通の"ヒラ"だった僕の案はあえなく局長に押し切られて、違うミュージシャンを呼んだんですね。

ただ、三田祭が終わった後に後輩数人からは「下田さんが推した企画、センスあって良かったから、アレにすれば良かったのに」なんて慰められて(笑) 伊藤さんは今でも活動されているんですよ。三味線で『ディープ・パープル』とかやるんです(笑)

Q:メッチャ面白そうですね(笑)

A:実行委員は面白かったです。大学全体が見えますし、改めて「凄い大学だな」と感じましたしね。

Q:おそらく三田祭の実行委員に本腰を入れられたのは、就職が内定してからだと思いますが、就職活動はアナウンサー1本だったんですか?

A:そうです。なぜなら、それが可能な時代だったからです。我々の時は"就職天国"で、「高望みしなければ必ずどこかの会社に入れる」と言われていた時代でしたから。自分の場合、「アナウンサーになりたい」という願望や意志は小学校4年生の時から常に頭にあって、就職を考えた時にそういう時代だったので、「アナウンサー試験は簡単ではないけど、とりあえず受けてみようか」と思って、3年生の3月ぐらいに九州の放送局を受けたんです。

講習会という名の採用試験で、「これでダメだったら難しいかな」と思っていたら、1つ目の試験を通って、ラスト5人ぐらいまで残ったんですよね。そこでディベートをやったり、原稿読みをやったりしたんですけど、そこで「これはアナウンサーになれる可能性があるな」と自分も思いましたし、その前に秋ぐらいからアナウンスアカデミーには通っていて、その時に就職の相談に乗ってくれていた方が、「下田くんはアナウンサーになる素養があるから、受けられるものは全部受けた方がいい」と。

だから、同じ時期に人気業種の銀行や商社も試験がありましたけど、他の就職試験のことは一切考えずに、そこはアナウンサーにこだわりましたね。それぐらい"実況"というモノに惹き付けられるものがありましたから。

Q:相当な数の放送局を受けたんですか?

A:いえ、受けたのはそれほど多くないです。TBSと日本テレビは1次面接とか2次面接で落ちましたが、フジテレビは男女20人ぐらいの講習会まで残って。

Q:西岡(・明彦『Foot!MONDAY』MC)さんもそこには残ったとおっしゃってました。

A:そうなんですね。フジは最終の1つ前で落ちて、ニッポン放送は最終まで行って、夏にTBSの"敗者復活"的な本採用試験を受けて、それは最終の1つ前まで行きましたね。テレビ東京はアナウンサーとしての募集ではなく、一般職の採用でしたが、そこは最終まで残りました。

テレ東は、一般職採用者の中からアナウンサーを登用する可能性はあるけど、登用されるか否かは入ってみないとわからない、みたいなことを言われていた気がします。あと地方局は、仙台放送と他にも2つの局を受けたかな。ただ、7月くらいに仙台放送ともう1つの地方局から内定を戴けたので、割と早い段階でアナウンサーになる目星は付いていた感じでした。

Q:ということは、地方局の二択だった訳ですよね。仙台放送に行くことになった決め手は何だったんですか?

A:それは僕の上司になった方の言葉が大きかったですね。実は、僕は競馬が好きで競馬実況にも強い興味があったんですよ。やっぱり僕は実況が好きなんですね(笑)

Q:知ってます(笑)

A:競馬のことをちょっと説明すると、高校1年生の時にクラスメートが寿司屋でバイトをしていて、そこで競馬をやっているバイト仲間がいたらしく、競馬の文化をクラスに持ち込んだんです。学校でみんな揃ってスポーツ新聞や競馬新聞を読んだりして、「今週天皇賞だぞ」って感じで盛り上がって。当時はミスターシービーの時代ですよ。そんな中で競馬中継を見るようになって、杉本清さん(元関西テレビ)の実況に出会う訳です。「これは競馬実況も面白いな」と。「『菊の季節に桜が満開』と来たか!」とか(笑)

それで競馬実況にも興味を持っていた中で、もう1つの地方局は競馬中継のある局だったんですけど、系列の立ち位置的にはあくまでローカルなんですね。それでも僕は競馬実況ができることと、ラジオもある局だったので、実はそちらに行くつもりでした。ただ、仙台放送で僕を採用してくれた責任者の方に「あちらに行こうと思っています」という話をしたら、「ちょっと待て」と。「ウチはフジテレビの中で基幹の局だから、キー局と対等に向き合ってする仕事もあるし、全国ネットのゴルフ中継もあるんだぞ」みたいな感じで、ものすごく熱心に説き伏せられたんです。

元々フジテレビには良いイメージを持っていて、凄く好きな局でしたし、例えば「野球のキャンプに行ける」とか、「『プロ野球ニュース』がある」とか、そういうことも言われていたので、「じゃあ仙台放送に行こうかな」と。もう1つの局からも相当熱心に勧誘して戴いて、そこはもう「どっちも行きたい」と思いましたけど、仙台放送に決めたんですよね。結果的には全国ネットの中継に携わる機会がたくさんあったので、仙台放送に入って良かったのかなと思います。大きい舞台の中で仕事ができるかどうかというのはとても重要なことなので。ただ、ラジオで競馬の実況をやり続けるのも間違いなく楽しかったでしょうね(笑)

Q:そこは人生の分岐点ですね。

A:そうです。仙台に行っていなかったら、こうやってフリーになったかどうかもわからないですし、ましてやサッカーとこういう向き合い方をしていたかどうかもわからないですしね。サッカー中継も、野球中継も、競馬中継も何もなかった仙台放送に行ったんですけど、気付けばブランメル仙台というチームができて、取材体制作りをほとんどゼロからスタートさせたので、若手だった自分が中心になって関わることができて、そのままブランメルと共にサッカー中継やサッカーの取材、サッカーそのものに深く関わっていけたという点で、キワの運は良いのかなと(笑) たまたま読んだ所が小論文のテストに出た大学受験の時と一緒で、ちょっとズレていたらまったく違う人生になった可能性もある訳で。キワの運は結構良い方だと思いますね(笑)

(後編に続く)

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