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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年03月28日

『Foot!』Five Stories ~下田恒幸【後編】~(2017年3月15日掲載)

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『Foot!』Five Stories ~下田恒幸【後編】~

(2017年3月15日掲載)

『Foot!』で月曜から金曜までそれぞれMCを担当している5人のアナウンサーに、これまでの半生を振り返ってもらいつつ、どういう想いで今の仕事と向き合っているかを語っていただいています。五者五様の"オリジナルな生き方"を感じて戴ければ幸いです。

Q:90年の4月に仙台放送へ入社されていますけど、ブランメル仙台ができたのは94年ですよね。

A:94年の秋です。95年の1月にJFL昇格を懸けて戦った地域決勝は現場取材しました。

Q:その時に対戦したチームがどこでしたっけ?

A:1次リーグがNTT九州、ジャトコ。そのリーグを抜けて、決勝ラウンドが横河電機、福島FC、東亜建設工業かな。決勝ラウンドは初戦で東亜建設工業に勝ち、引きこもった福島FCに1点も取れず、0-0からPK戦で負けたんです。最終戦が最強かもしれないと言われていた横河電機で、「これはヤバいかも...」というそのゲームに5-1で勝って、JFLに昇格したんですよ。どちらのラウンドも現場に行っているので、2週に渡って取材して。当時は現場で全部の試合に自分で実況を吹き込んでいたんです。

Q:トレーニングということですか?

A:それもありますし、放送でも使えるようにです。実況の音を生かしたVTRを作った方が、見ている人間を惹き付けるという考えが自分の中にあって、どんなスポーツの取材でも自分が現場に行く時は先輩のディレクターやデスクに、「自分で実況を録ってきて、使えれば使いたいんですけど」という話をして、ほとんどの取材で実況を録っていたんですよ。だから、地決の取材の時も、ハイライト番組のVTRは「ナレーションと実況の音生かしの組み合わせでやりましょう」と。

Q:そうすると地域決勝の取材が、いわゆる『サッカー取材で熱くなった』原体験みたいな感じですか?

A:そうですね。自分の住んでいる街のチームが、当時のJリーグの2部に当たるJFLに上がれるかどうかという大会ですから。でも、一番最初のサッカー取材は宮城インターハイですよ。土橋正樹選手(元浦和)のいた東北学院が、上野良治選手(元横浜FM)の武南にベスト8で勝ってしまい、「マジか!」となった大会です(笑)。 まさか武南に勝つなんて誰も思っていなかったので、準々決勝は取材カメラしか出ていなかったんですよ。当然、準決勝を急遽取材することになり、僕はその日は別の競技の取材が付いていたんですけど、「お前が行け」と。しかも、「音生かしで使うから実況も録ってこい」と(笑)。そこで実況を付けてみたものの、想像以上にサッカー実況って難しくてね。僕はブラジルであれだけサッカー実況を聞いていたから、「絶対にできる」と思っていたのに、上手く行かずにヘコんで帰って来たんですよ。

それで、「一応録ってきましたけど、多分使えないです...」と正直に告白したんですけど、チーフディレクターの方がゲラゲラ笑いながら「粗いけど喋れてるよ。コレ、面白いから使うな」と。この話には意外な続きがあって。翌日は地元の選手が出る他の競技もあったのに、インターハイの番組を仕切っていたプロデューサーに、「明日は宮城県サッカー場な。サッカーの決勝の取材だ」って言われたんですよ。「宮城県勢と関係ないのにそこですか?何でですか?」と聞いたら、「一番良いモノを見てこい」と。

Q:凄い話!

A:アレは大きかったね。「わからないことがあったら"テレしず(テレビ静岡)"の方が来ているから、その方に全部聞け」と。翌日、その"テレしず"の方に「キヨショウ(清水商業)はどこを見れば良いでしょうか?」とお聞きしたら、「うーん、山田と名波を見ればいいかな。10番と7番ね」と(笑) 山田(隆裕・元横浜FM、仙台ほか)が凄いのは僕が見てもすぐわかったんですけど、「名波はどこが凄いんだろうな...」と全然わからなくて(笑) 名波(浩・磐田監督)くんは足が速い訳ではないですし、ドリブルで抜いたりはしないじゃないですか。今だったら何となく良さがわかる気がしますけど、当時は名波くんの良さが全然わからなくてね(笑)

そんな感じでインターハイでは一度サッカーに熱くなりましたけど、そこからサッカーの仕事は全然なくて。Jリーグができても仙台にはチームがなかったですし、「ちょっと残念だな」と。ただ、当時はJリーグブームで多くの地方クラブが「Jリーグに入ろう」と思っていた時代なので、PJMフューチャーズが鳥栖に行き、藤枝ブルックスが福岡に行き、各地域がクラブを地元に誘致して、Jリーグのクラブを持とうとする流れがあって。そこで仙台でも東北電力を母体にブランメルを設立して、Jリーグを目指すことになり、ブランメルがJFLに上がれるかどうかの試合を取材に行ったと。今後の自分の仕事にも関わってくる所だったので、熱くはなりましたよね。

Q:その後のベガルタももちろんそうですけど、やっぱりブランメルを取材し続けたことが、今の下田さんにとってものすごく生きている訳ですよね。

A:「生きている」どころではないです(笑) 血であり、骨であり、もっと言うと『すべて』に近いです。例えばブランメルの取材に行けば、どの取材者もブランメルのことは下調べして取材に行くじゃないですか。でも、当時の僕は中継もないのに、JFLに所属している全チームの出場記録を付けて、その情報を持った上で取材に行っていたんです。

Q:メッチャ共感できる!(笑)

A:当時はEXCELなんてなかったので、A3の方眼紙に手書きで。例えばコスモ石油四日市は、中盤に鳥居塚(伸人)、キム・ビョンス(元韓国代表)、ディフェンダーに若松(大樹)とかがいるなと(笑) 対戦相手の分も出場記録を作って、チームの流れを確認して、カメラマンの人に「このチームはこの選手を中心に撮っていこう」と指示したり。そういう準備をして臨んでいたので、相手のことをしっかり知った上で取材していたんですよ。当然選手名鑑も良く読んでいて「こういうキャリアなんだ」と気付いたりとか、そういう作業を細かくやるようなキッカケにはなっていますよね。そういうのが苦じゃないんです。

Q:むしろ好きですよね(笑)

A:好きですねえ(笑) だって、中学生の頃も巨人の記録を小さいノートに全部付けていましたからね。勝ち投手、江川、セーブ、角、みたいな感じで(笑)。

Q:ブランメル時代の一番の思い出は、先程おっしゃっていたJFLに昇格した時の地域決勝ですか?

A:思い出はたくさんありますけど、やっぱりそこが一番でしょうね。本当に『生きるか、死ぬか』という大会なので、そこの"キワ"の部分を現場で取材できたのは大きかったです。他にもブランメル時代の思い出はたくさんありますよ。JFL時代に東京ガスに0-5で大敗した後の会見で、フロントと話をする前に監督が「僕、辞めます」と言ってしまったり(笑) 開幕して負けが込んでいた時期で、「こういう事態を招いたのは監督の責任です。私は今日をもって辞任します」と。こっちも「え?今、辞任って言ったよね?」となって(笑)、すぐにフロントの人の所に行って「監督が辞任って言ってますけど」「え?辞任って言ったの?」とか(笑)

あとは、仙台サポーターというのはどちらかと言うとアグレッシブなサポーターだと思いますが、順天堂大に天皇杯で負けた時に、選手がゴール裏へあいさつに行ったら大ブーイングを浴びせたんです。その時にメチャメチャ熱い男だった真中幹夫選手(新潟コーチ)が、「オレらだって人生懸けてやってんだよ。ふざけんな!」とサポーターとやり合ったりとか(笑)

Q:それも熱い話ですね。

A:あとは97年から98年に変わる時は、累積赤字のために資本金を削らないといけない状況で、大幅に規模を縮小せざるを得なくなって、さらにスポンサーも集まらなかったことがあったんです。その「ブランメル、ピンチだな」というタイミングで、『カニトップ』がスポンサーに付いてくれたんですよ。ただ、付いてくれたのが開幕第2節からだったので、開幕戦は"ブランメル"というロゴが書いてあるユニフォームで戦ったのに、第2節から"カニトップ"というシールみたいなものを"ブランメル"のロゴの上に貼って戦ったんです(笑)

そういう浮き沈みのある時代を見ているので、ベガルタも今はああいうチームになっていますけど、そういう時代の紆余曲折があったからこそ今があるという、やっぱりそこの部分は何らかの形で、どこかのメディアが伝え続けて欲しいな、といつも思っています。ブランメル時代を取材した4,5年間というのは、日本サッカー界がプロ化していく過程のいびつな部分がものすごく出ていますから。

Q:一歩間違っていれば、ベガルタも夢破れていったチームの1つになっていた可能性も十分ある訳ですよね。

A:そうです。そういう意味で鳥栖は、僕の中でものすごく共感できるチームなんです。鳥栖フューチャーズが消滅しかけて、サガン鳥栖として存続はしたものの、フューチャーズ時代に獲得できたタタウ(元カメルーン代表)やビニッチ(元ユーゴスラヴィア代表)のような有名選手を獲れなくなり、規模を縮小して、そこからコツコツ上がってきたという点で言うと、この2チームは経営の大変さを身をもって知って、そこから立て直したという意味でも感じるものがありますよね。

Q:仙台放送時代には「『Mr.BIG』を仙台に呼んできた」ということがWikipediaに書いてあるんですけど(笑)、この真相はいかがですか?

A:『Mr.BIG』は僕が呼んだ訳ではないですよ。当時、僕は深夜の洋楽番組のMCをやっていたんですけど、当時の仙台は「外国人アーティストがライブで来ることはほとんどありません」というエリアだったんですよ。洋楽のライブって、例えば「東京、大阪、名古屋ではやるけど、地方ではやりませんと」いう時代です。その3つの都市でやれる"ハコ"がなかった時に、単発で『イングヴェイ・マルムスティーン』が仙台に来たりとか、『TAKE 6』が来たりしましたが、仙台は洋楽のライブの開催地に必ずしもならない時代だったんです。

ただ、バブルの残り香があったので、プロモーター的にも「地方は結構ファンがいるし、やってみる手があるかな」という空気になっていたのは聞いていたんです。それなら、「仙台はファンが一体となってバンドを呼んだ」という機運を作れば、プロモーターが仙台にアーティストを呼ぶような流れができるんじゃないかなと思い、当時ラジオ番組をやっていた女性MCの方と共謀して(笑)、「仙台でのライブが決まっているバンドを、あたかも署名で呼んだようにして盛り上げませんか?」という話になり(笑) それで仙台の洋楽を仕切っていたイベンターの人間に電話して、「この先にどんなバンドが仙台に来ます?」と聞いたら、「『Mr.BIG』かな」と言うので、「それ、いただき!」と(笑)

Q:メッチャ面白いじゃないですか(笑)

A:それで女性DJの方に連絡して「『Mr.BIG』にしましょう」と。それで自分でやっていた番組の中で「皆さんの署名で『Mr.BIG』を呼びましょう!」と呼び掛けたんです。「どこどことどこどこのレコード屋さんに署名用紙を置くので書いてください」と。その運動を何ヶ月かやって、来仙が発表される頃に「皆さん、決まりました!!」とやったんです(笑) そういう仕掛けをすることによって、仙台が盛り上がればいいなということですよね。

Q:僕は「"三味線ロック"のリベンジなのかな」と、今日お話を聞く中で思っていました(笑)

A:全然違います(笑) 単純に仙台の洋楽が盛り上がればなと。自分の音楽番組も持っていましたし。でも、この番組も最初は違う内容の番組だったんです。気付けば勝手に音楽番組になったんですけどね(笑)

Q:そんなことあるんですね。

A:最初は僕の先輩が、夜中に地元の高校生の恋愛メッセージを読むという番組をやっていたんですけど、その先輩が担当を外れた時に「枠があるからオマエがやれ」と。僕はまだ入社1年目で、ディレクターも同期のヤツが付いて、「会社に入って半年ぐらいの2人に番組やらせるのか」と驚きました(笑)

最初はビデオクリップも流す中途半端な深夜番組だったんですよ。ただ、僕がメタル好きだったので、MTVでやっていた『Head Bangers Ball』というメタル番組と同じタイトルを付けて、メタルを1曲フルコーラスで流すというコーナーは番組が開始した時に作ってくれたんです。「このコーナーだけは好きにやっていいから」と。

それで半端な深夜番組のままで半年ぐらいやった所で、その同期のディレクターが「もう番組内容を変えようや」と。「オマエのやっているコーナーが、たぶん一番観ている人間を惹き付けるから、全部洋楽の音楽番組で行くぞ」と。こっちは「リスクないか?」となりますよね(笑) でも、その同期のディレクターがものすごく男気があって、守ってくれるヤツだったので「何かあってもオレが全部ブロックするから、好きにやっていいよ」と。そこから洋楽のロック番組に変わっていったんです。

Q:何ともいい話ですね。

A:人には恵まれましたよね。同期の後を継いだ後輩のディレクターも、「下田さんの熱さを待っているファンを裏切れないです」と言って、MCの僕も内容も変えずにやってくれましたから。当時はインターネットもそこまで普及していないので、洋楽のリアルタイムの情報を得られるのは、自分がやっていた番組しかなかったので、ニーズがあったというのも大きいですけどね。ちなみにタイトルは『夜は変ホ短調』という、洋楽番組としては笑えるタイトルですが(笑)

Q:どんなタイトルなんですか(笑)

A:部長クラスのディレクターが「シモちゃん、『夜は変ホ短調』ってタイトルどうだ?"あなたの夜を変える"とか、"夜だから変なの"とか、色々含みがあって、何となくヒネリがあるだろ」と。「そ、そうっすか?」って答えるしかなかったですけど(笑) まあタイトルなんて何でも良かったですから、それに乗りました(笑)

ただ、面白いものでタイトルというのは付いてくるんですよね。どんな変なタイトルでも、それが確立してしまえば。凛として番組を作っていくと、「『夜は変ホ短調』?メタルのバイブルだろ」って認知されてしまうんですよ。それで「ああ、番組ってタイトルじゃないんだな」と。やっていったことに対して、タイトルのイメージが付いてくるということを、そこで思い知りましたね。

Q:それをお聞きしていると、『夜は変ホ短調』もそうですし、お好きなラーメンのコーナーもやっていたそうですし、それだけ楽しそうで充実していた中で、ベガルタの実況に関してはどういう状況だったんですか?

A:ブランメルがJFLに昇格した時から、ローカル各局がシーズンで1,2試合は中継を必ずやっていて、最初は僕と上司のスポーツアナウンサーでシェアしてやっていたんですけど、昇格3年目ぐらいから自分が全試合実況するようになったのかな。年1回ですけどね。

Q:それこそ"年1回"が10年ぐらい続いたということですよね。

A:11年ですかね。

Q:その時期もサッカーの実況、あるいはスポーツの実況をする場がほとんどなかった訳ですよね?

A:少ないけどありましたよ。フジ系列なので春高バレーがありますし、その全国大会でも喋らせてもらえましたし、あとは野球中継もバスケット中継もやっていました。スポーツ中継自体はなくはないですけど、少ないですよね。

Q:おそらくご自身の中では「もっとスポーツ中継をやりたい」という気持ちはあったと思いますけど、他の『ヨルヘン』みたいなものもある中で、そのあたりのバランスや折り合いは自分の中で付けていた感じですか?

A:そうです。『ヨルヘン』は4年で終わってしまったので、ブランメルができるまでの1年は何もなかったんです。そこは迷いますよね。「何もないな」と。それでブランメルができてからは、その取材を軸にやっていくようになった感じです。音楽に関するものは早々になくなりましたけど、ブランメルはアウェイも含めてほぼ全試合行っていましたから。「三脚は自分が持つから」と言って、カメラマンとアシスタントの3人とか、ディレクターと僕とカメラマンの3人で行って、アシスタントが持つような荷物は3人で持ってとか。そんな感じですよね。

Q:その中で一番の転機は、J SPORTSでベガルタ戦の中継をやるようになったことなんですよね。

A:そうです。年1回のサッカー中継だと、自分の中で出た課題を1年後の中継で反映したとしても、3歩進んで2歩下がる感じなんですよね。そうなると、どれだけ頑張っても少しずつしか前に進まないという感覚があったんです。「これが年に3回あったら全然違うな」という意識は常に持っていた中で、J SPORTSからの中継依頼が来たのが2004年です。

2003年までの9年間は、15試合しかサッカーの実況はしていないんですよ。J SPORTSの仕事が来て、「ホームゲームはほぼやりましょう」という中で、その時に色々な事情もあって全試合僕が実況したんです。2週おきに放送席で実況をすると、前回の感覚が温かいままに次の中継に臨めますよね。10年仕事をしているということは、年齢的に35,6歳になる訳で、同年代の各局のアナウンサーには僕より多くの実況キャリアを積んでいる人もいて、やっぱり「僕より前に進んでいるな」と感じていたんです。1年間その感覚で10試合以上喋らせてもらって、「ああ、これは変わるな」と。「やっぱり"試合"にたくさん出ないとダメだな」と。

Q:僕も2004年はJ2担当でしたから、その頃のことはよく覚えています。

A:2004年は37歳になる年で、そのぐらいだとある程度各局でもエース格になる人が出てくる年齢なので、「まだこの年齢でも自分にのびしろがこんなにあるんだ」と感じたんです。それで「継続的に喋らないとダメなんだな」と思っていた中で、次の年に仙台に楽天イーグルスができて、局として楽天の取材をしなくてはいけなくなった時に、今の人員で2週に1回のサッカー中継はやれないという経営陣の判断があったんですかね。局側が中継の継続依頼を断ったんです。

それで「またこれで年1か」と。実況するペースが年に1回に戻ったら、せっかく進化のサイクルができていたのに、「これでは進化が止まってしまう」と思ったことが、退社に踏み出すキッカケですよね。その中継をやっていた時に、スカパーやJ SPORTSの方がそれぞれ立ち会っていて、「下田さんの実況は良いですねえ」とみなさん言ってくださって。その言い方がお世辞ではなく聞こえましたし、そういう方々との接点がある上に、良いイメージで見てもらえていたので、そこは"ダメもと"で会社を辞めて東京に帰ってきて、まずは接点のある方に話をして、色々な方を紹介してもらおうと。それでダメだった時の見込みは何もなかったので、今から考えると「何て甘いんだろう」と思いますけど(笑)

Q:結構恐ろしいことですよね。

A:恐ろしいです。でも、「ダメにならないだろう」という空気感も何となく感じていました。単純にその時期はタイミングも良くて、2006年にワールドカップがあると。スカパーが世界バスケや世界バレーの放送も持っていて、あとはJ SPORTSでJ2全試合が生中継になったので、本当にタイミングが良かったんです。当時のスカパーもプレミア、セリエ、オランダ、スコットランドと相当なリーグを放送していて、スカパーのプロデューサーも「こちらも助かるし、実況は聞いてわかっています」と。「すぐにたくさん依頼はできないですけど、お願いはしますからやりましょう」と言ってくれたんです。

Q:とは言っても、37歳で仙台放送の中ではエース格だった訳ですよね。当然会社から引き留められると思うんですけど、そのあたりはどうだったんですか?

A:社長を退任して会長になっていた方が、僕の辞表を見て「待て」と。「何で辞めさせるんだ。アイツは必要だろ」ということになったらしく、「直接会いたい」と。普段2人でなんて会わない人と1対1で食事に行って、まあ緊張しましたけど(笑)、「これはあくまで僕の感覚だけど、下田君の実況は全国どこに行っても通用する。こういう人材がウチにいるということは大事で、これからローカルもスポーツの時代になっていくから、俺としては絶対にいなくなってもらっては困る」と言われたんです。

それだけ引き留めていただいたので、一度は「残ります」と言ったんですけど、もう一度熟考してから、会長に「申し訳ないですけどやっぱり辞めさせてください」と言い直して、そこで受理してもらったという感じですね。会長は情熱を持って引き留めてくれましたけど、スポーツ中継や実況に対する社内の考え方は、結構温度差がありましたね。

Q:そうすると退社されたのは「サッカー実況の数をこなしたい」というのが最大の理由ですよね。

A:その通りです。原点はサッカーの実況で、「サッカーの実況の仕事をしたい」という所からスタートして、サッカーの実況ができるようになって、1年間コンスタントに喋れたことで、実況者としてののびしろがあることがわかり、それなら「もうサッカー実況を突き詰めることで勝負できたら面白いかな」と。「勝負したいな」と思ったんです。

Q:フリーになってどのくらいから「自分はサッカー実況者という仕事でやっていけるな」という手応えを掴んだ感じですか?

A:比較的早い段階であったと思います。まず、2005年にJ SPORTSでJ2中継をやらせてもらって、年が明けたタイミングでスカパーがアフリカネーションズカップを放送することになったんですよ。そこで「1試合担当してください」と戴いた仕事が、コンゴ民主共和国対エジプトです(笑) 本当はトーゴとカメルーンが上がってくるはずのゲームだったんですけど、両方とも負けて、まさかのコンゴ民主共和国が上がってきたんですよ(笑)

でも、逆に「面白い」と思って、ネットで色々なリサーチをして、基本情報や背景をチェックしつつ、選手の横顔も入れながら実況したんですね。その中継後にプロデューサーがメモの入った封筒をくれたんですけど、そこには「サッカーを凄く楽しんでいる感じがあって良いです。欲を言えばこうも思いますが、その感覚は大事なので、このままやってください」というようなことが書いてあったんです。それを違うスタッフの方に言ったら、「それは本当に珍しい。あのプロデューサーは褒めない人ですから」と。

そこで「なるほど」と。スカパーでサッカー中継にこだわりを持っていて、辛口と言われている方に評価してもらえていることがわかって、「ああ、自分の思っている良いサッカー中継の捉え方は間違っていないんだな」という感覚はあったと思います。今みたいな流れになるかどうか、ハッキリとはわからなかったですけど、「ちゃんとやっていけばきっちり評価はしてもらえるんじゃないかな」というのは、割と早い段階でありました。

Q:僕はJリーグ中継を担当していた時に、10人中9人が思うような"意味合い"ではなくて、10人中で1人か2人が感じるような"意味合い"のあるゲームを選択することがあって、そういうゲームを下田さんにお願いすることがよくあったんですけど、要は「想いを意気に感じる」みたいな部分は、下田さんの中で大事にしてくださっている部分ですよね?

A:もちろんです。誰が何を頼んでくれるかというのはものすごく重要で、「これはあなたにこうやって欲しいんです」というものには、100点ではなくて120点で応えたいという気持ちはサッカーに限らず常にあるので、J SPORTSのJリーグ中継に関しては「たぶんこういう想いのゲームかな」というのは感じながらやっていましたし、そうなると「ここは触れて欲しいだろうな」とか、そういうことは考えますよね。

Q:この間の大宮戦の中継で「長谷川アーリアジャスールが坂戸ディプロマッツにいた」という情報を出したのも良かったですね(笑)

A:あれはたまたまね(笑) 彼のキャリアをおさらいした時に「ああ、埼玉出身か。これは絶対言った方がいいな」と。そういう部分を拾えるかどうかはアナウンサーの感性でもあるので、やっぱり"勘の良い"中継にしたいですよね。選手同士のキャリアの繋がりみたいなものは凄く大事にしますし、それは原点として、例えば国見のように高校時代のチームに想いを持って見ている視聴者の方もいる訳なので、「ああ、あの時のアイツか!」みたいなことは触れ込みとしてあった方がいいですよね。そこは色々な情報を繋げながら、面白いと思うポイントを広く持った中継にしたいという想いはいつも持っています。

Q:そういう感性を生かすにもベースの情報量が必要ですよね。

A:あとは"勘"じゃないですか? そこはある意味で天性の部分だったりするのかな。例えば大宮の開幕戦で、新加入のアーリアをもう1回調べ直してみようと思うかどうか、さらに調べた時に"坂戸"というキーワードを拾えるかどうかで、「ああ、そうか。坂戸だったか!」と(笑)

勘の良い中継になるかどうかは、そこに気付いて、その瞬間にそれを面白いと思えるかどうかだと思うんですよ。そこはもう理由も説明できないですし、偶発的なモノも結構あって、必ずしも時間の使い方が上手いから情報量が多い訳ではなくて、たまたま見たモノをちゃんと拾って、それをフィードバックしているような感じですよね。

例えば野球で言うと、僕の場合は100回打席に立って、3割5分ぐらいは打つようなコンスタントさではなくて、打数は10打数そこそこでも、半分以上をヒットにしてしまうタイプなんだと思います。それは、もう自分が根っこに持っているナチュラルな感性なのかなと。自分の中で色々な情報が頭の中でポッ、ポッ、ポッと付いてくる感じなので、それは自分でもちょっと説明できないですね。感覚的なものなのかなと。

Q:点と点が線になる回数が人より多いという感じですかね。

A:そうだと思います。閃くかどうかなんですよ。あとは記憶です。覚えているものの引き出しは多いので、「あの時のあの試合だ」というのは割と頭の中にすぐ浮かんでくる方なんです。そこもアナウンサーとして『人の耳を惹く』部分なのかなと思います。例えば倉敷さん(倉敷保雄・『Foot!FRIDAY』MC)は、倉敷さんにしか気付けない所や感じない所をポッと拾って、自分の言葉でフッと言うから、こっち側もゲラゲラ笑ったり、クスッと笑ったり、「なるほど」と思ったりする訳で、それは色々な意味での"華"だと思うんですよ。

アナウンサーには、そういう"華"の有無も重要で、それは誰もが持っている訳ではない部分なのかなと思いますし、ドリブラーでも"華"のあるタイプっているじゃないですか。そこも言葉では説明し切れない部分ですよね。瞬間瞬間で印象に残る言葉が浮かぶとか、細かい記憶が浮かぶというのは、僕のアナウンサーとしての特徴だと思いますし、ある意味で"華"の1つなのかなとは思いますけどね。

Q:せっかく僕が話を聞いているので、これもお伺いしておきますけど、J SPORTSのJリーグ中継でしか実現しなかったコンビとして、玉乃くん(玉乃淳)と下田さんのコンビがあった訳じゃないですか。それこそ他の番組にも取り上げられたようなコンビでしたけど(笑)、実際に玉乃くんとのコンビはいかがでしたか?

A:どうですかねえ(笑) でも、最初は「コイツ大丈夫か?」と思いました。玉乃くんの言っていることって、実は解説というより感覚的な感想が多いんですよ。でも、その感覚的な感想がクリエイティブなサッカー観を持っていた選手じゃないとわからないことだったりするので、そういうのを「面白いな」と思いつつ、「そこは驚くだけじゃなくて、もうちょっと分析してくれよ」という想いもありつつ(笑)

ただ、僕は解説者の方の感性を強調しながら、自分が『試合とプレー』をきっちり描写すれば必ず良い中継になると思ってやっているので、それをやりながら玉乃くんが乗ってくるものには乗りながらやっていた感じで、途中からは彼の扱い方に慣れてきましたね(笑)

Q:2人のコンビはどういう所が視聴者の皆さんにウケていたんだと思います?

A:拾うからじゃないですか。それはスルーすることも含めて(笑) あとは僕と玉乃くんの波長が近いんだと思います。それはJ SPORTSのJリーグ中継が一番大事にしていた部分だと思いますけど、その試合や1つのプレーや、サッカーそのものをものすごく楽しんで、乗っかっちゃっている感じの波長が近いのかなと。

実はその試合が持つ面白いポイントも同じように感じていて、そこを「楽しい」と思いながら、目をキラキラさせながらやってしまうような感じだと思います。僕もいつも目をキラキラさせてやりたいと思っていますから。そういう意味ではやりやすい解説者ですよ。たまに変なことを言うから、それを流すのがちょっと大変なくらいで(笑)

Q:久々にコンビを組んでみたかったりはしますか?(笑)

A:自分から「やろうよ」とは言わないですけど(笑)、そういう話があれば喜んでやりますよ。「ああいう解説者がいてもいいのかな」とは思いますし、みんな同じである必要はないので、話があれば。できればJリーグがいいですよね。Jリーグに彼は情熱を持って見ていると思うので。毎週やることになったらシンドいですけどね(笑)

Q:これを最後の質問にします。あえてザックリをお聞きしますけど、夢ってありますか?

A:夢ですか?ええ... でも、放送席で死ねるのが一番いいんじゃないですか。死ぬギリギリまで喋っていて。それが一番カッコいい気がしますけどね。綺麗事とかではなく。実況しなくなった後の自分の人生がどんなものなのか、今はイメージできないんですよ。なので、夢はないですねえ。

だって、完成形ってないですから。「100点満点のサッカー中継ができた」ということは絶対にないので。今は階段をちゃんと上がれていて、だいぶ高い山に登ってきている感覚はありますけど、頂上を極 めるという感覚には一生ならないと思うんですね。頂上を極めようと思っても、年齢と共に実況者としてのスプリント能力は必ず衰えてくるので、そうなると今までできていたものでも、できない要素が出てきます。

その一方で、若い頃は持っていなかった"深み"という武器が身に付いてくるので、そういうもので衰えた部分を補完しながら実況していくと。実況者ってスポーツ選手と一緒でアスリートなんですよ。だから、スプリント能力やフィジカルは確実に落ちていきます。それを考えると、高みに登れたとしても"100点"には絶対にならないんです。

ただ、常にその"100点"をイメージしながら、より鋭利で太く、自分が「こうだ」と思うモノに向かって突き進んでいくことが、夢というよりは"道"みたいな感じなんじゃないのかな。だから、夢はないです(笑) 中継が終わった後の放送席で力石徹みたいに「灰になった」という方がカッコいいと思いますし(笑)、そのくらいのテンションで実況に向き合っていければいいかなと思っています。

(この項終了)

【土屋から見た下田恒幸さん】

下田さんと初めて会ったのはあるスタジアムのミックスゾーン。僕が「下田さんってベガルタ以外の試合も見に来るんですね」って上から目線で話し掛けたって、下田さんが言い張るんですよね。そんな失礼な感じだったかなあと。でも、そんな感じだった可能性も正直否定できません(笑)

2002年のワールドカップをスカパーが放送したということは、おそらくフリーでサッカーの実況をされている方々にとっては凄く大きなことで、当時の下田さんは仙台放送にお勤めだったので、その波には乗っていない訳で。2000年代後半におけるフリーの実況者の中ではある意味で"後発"だった所から、今の位置まで辿り着くために凄まじい向上心と、凄まじい努力があったことは、絶対に見逃せない部分なんです。

本文中にもありますが、「誰が何を頼んでくれるのか」というのを下田さんは大事にされていると思うので、僕もJリーグ中継の実況をお願いする際には、本人に伝えるか伝えないかは別にして、何かしらの意味合いがあるゲームに来ていただいていました。鳥栖×仙台をお願いした時には、僕の中で"PJMフューチャーズ×ブランメル仙台"が裏テーマだったんですけど(笑)、そこはしっかり汲んでいただいて、その話もしていただいて。アレは嬉しかったなあ。

先日、ある大学で開催された下田さんのトークショーにお邪魔したんですけど、まあ会場は満席で。質問もバンバン飛び出すし、熱気が凄かったんです。ただ、会場の男女比は10:0。アニキの話を聞きに来た男たちのむさくるしさったら(笑) でも、あそこまでの熱気は下田さんの話を聞きたいという圧倒的な熱量あってこそ。女性人気はよくわかりませんが(笑)、みんなのアニキ的な立ち位置で、これからもみんなが真似したくなるような独特の実況スタイルで、サッカーに関わり続けて欲しいなと思っています。

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