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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年03月23日

『Foot!』Five Stories ~西岡明彦【前編】~(2017年2月27日掲載)

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『Foot!』Five Stories ~西岡明彦【前編】~

(2017年2月27日掲載)

『Foot!』で月曜から金曜までそれぞれMCを担当している5人のアナウンサーに、これまでの半生を振り返ってもらいつつ、どういう想いで今の仕事と向き合っているかを語っていただいています。五者五様の"オリジナルな生き方"を感じて戴ければ幸いです。

Q:最初にお名前をお願いします。

A:西岡明彦です。197031日生まれ。46歳です。

Q:どちらのご出身でしょうか?

A:愛知県名古屋市です。

Q:これは知ってらっしゃる方も多いと思いますが、ご実家が西岡学園西城幼稚園を経営されているということで、ご両親はお2人とも西岡さんの幼少期から幼稚園に関わられていたということでしょうか?

A:いえ、元々は僕の父方の祖母が創業した私立の幼稚園です。祖母が教育に熱心だったというのが、幼稚園を始めたキッカケだったと聞いています。僕の両親は2人とも高校の教師をしていました。

Q:ちなみに教科は何を担当されていたんですか?

A:母は国語で、父は社会です。祖父は映画系の仕事をしていて、名古屋に映画館を作ろうと活動したメンバーの一人だったらしく、それこそ映画評論家の淀川長治さんの友達で、直筆の手紙を見せてもらった記憶があります(笑) ありがたいことに、株主優待で映画の鑑賞チケットが届くので、名古屋駅前にあった"グランド"と"ピカデリー"という名前の映画館に出掛けた時は、いつも招待券で鑑賞していました。父は大の映画好きで、今でも時間があれば見に行ったりしているみたいです。

だから、祖父はエンタメ系の人で、祖母は教育系で幼稚園を運営し、両親は大学が一緒だったんですけど、卒業後に父が名古屋市内の高校の教師を務め、母は大阪で高校教師をやっていて、後に結婚したという感じですね。

Q:西岡さんが小さい頃はお2人とも高校の先生をされていたんですか?

A:父は定年まで高校の教師をやっていて、バレーボール部の顧問もやっていました。母は結婚した時に教師を辞めて名古屋に嫁いできて、幼稚園の手伝いを始めました。

Q:そう考えると教育熱心な家族に囲まれて育ったという感じですね。

A:子供の時から父の影響もあって、大きくなったら学校の先生になって、部活の顧問をやりたいなと思っていました。父が教鞭を執っていた学校はスポーツで全国大会に出場する強豪校で、サッカー部が選手権で全国大会に出た時、応援バスが出るじゃないですか。父が応援バスの引率係を務めていたこともあって、僕も一緒に西が丘サッカー場まで行きましたし、野球部が甲子園に出た時も、親戚のお兄さんと一緒に朝の5時くらいにバスに乗って甲子園にも行きましたね(笑) 西が丘はすごく覚えています。小学生くらいの頃だったかなあ。

Q:西城幼稚園は歴史も古く、フィギュアスケートの伊藤みどりさんも卒園生なんですよね。

A:僕は同級生ですよ(笑)

Q:ホントですか!(笑)

A:同じ学年です。幼稚園の頃だからまったく覚えていないですけど(笑)、4クラスある中の違うクラスにいて、ウチの幼稚園の卒園生の一人ですね。ウチの卒園生では一番メジャーな人じゃないですか。西城幼稚園は名古屋市で一番古い幼稚園で、実家が隣にあったので、子供の時は園庭で遊んでいましたね。その時にたぶん社交性みたいなものが身に付いた所もあるかと。先生たちとの付き合いも、幼稚園を離れた所で関係者を集めた納会とかありましたし、職員旅行に付いて行ったりもしましたし、特別扱いされているのはちょっとあったかもしれないですね。

Q:西岡さんには僕だけじゃなくて、世間一般のイメージとしても"優等生"という感じがあると思いますが、小学生の時は"優等生"でしたか?

A:小学校は生徒会長をやっていました(笑) 目立ちたがり屋だったのかもしれないですね。小学校6年の時に選挙の勉強もあったと思うんですけど、3クラスの中から1人ずつ候補者を出して、その中から生徒会長を決めましょうと。社会科の授業の一環みたいな感じですよね。それでまずクラスの代表になって、高学年を体育館に集めて投票があって選出されました。6年の前期に生徒会長をやりました。

Q:パッと目立つ生徒みたいな感じではあったんでしょうね。

A:勉強は並みぐらいでしたけど(笑)、活発な方のグループだったので、勉強というよりは運動会のリレーでアンカーをやるとか、完全にそっち系でしたね。親から「勉強しろ」と言われたこともほぼなかったですし、高校まで公立の学校に通っていました。

Q:名古屋のスポーツと言えば中日ドラゴンズで、ナゴヤ球場にも通っていたとWikipediaに書いてありましたが(笑)、ドラゴンズはかなりお好きなんですか?

A:好きですよ。父はどちらかと言うと野球が好きでしたし、自分も小学校と中学校は野球部でしたからね。中学校のチームは結構強くて、それこそ何人かは東邦、享栄、愛工大名電といった強豪校からスカウトが来たりとか。愛知県大会でもベスト4まで勝ち進みました。その中で僕は辛うじて試合に出ていたという感じですね。

Q:ポジションはどこだったんですか?

A:小学校の頃は3番ショートで試合に出ていたんですけど、僕の中学校は3つの小学校から生徒が集まってくる学校だったので、野球部のショートがそれぞれ3人いた訳ですよ(笑) それで中学ではショートの控えになったので、ピッチャーをやるようになり、大会になるとスカウトから引っ張りだこだったエースと2人で投げてという感じで。最後の大会は12回戦で僕が投げて、3回戦からはエースが投げて。3回戦以降、僕はファーストにコンバートされました。

Q:野球も持ち前の運動神経で結構やれていたなという感じですか?

A:まあそれなりにというか(笑) 中学校は指導してくださる先生が不在だったこともあって、最初は野球部がなかったんですよ。それで野球経験者の仲間たちで「やりたいよね」という話になって、職員室の先生の所に行って「野球部をやらせてください」と言って始めたんです。でも、昔は野球部もあったらしく、先生が倉庫にあった古いユニフォームを出してきて、「あとはオマエたちでやれ。メンバーもみんなで決めろ」と(笑) 学校のグラウンドが狭かったので、それこそ自分たちでバッティングセンターに行ったりして練習していました。当時、その中学校にはサッカー部もなかったんですよね。

Q:1982年には中日もセ・リーグで優勝していて、モッカや田尾安志、大島康徳のようなスター選手が多かったですけど、当時好きだったのは誰でしたか?

A:ピッチャーだと小松辰雄と郭源治でした。だいたいそのへんのマネはしますよね(笑) 軟式ですけど変化球も結構投げていましたし。中日球場時代も見に行ったりしていました。『少年ドラゴンズ』という会があって、会員になると外野自由席のチケットを年間で何枚かと、昔の"マジソン・スクエア・ガーデン"のバッグみたいな青いスポーツバッグとドラゴンズの帽子がもらえて、あとはファン感に行けるというので入会して、それこそ小松辰雄選手と写真を撮ったりとか、試合を見に行ったりとかを小学校の頃はやっていましたね。

Q:逆に言うと、サッカーとの接点は小中時代になさそうですね。

A:ほとんどなかったですね(笑) 小学校の頃は夏が野球部で、それが終わったら冬はほぼ同じメンバーでバスケット部に鞍替えして大会にも参加していました。サッカーは昼休みに友達とボールを蹴って遊ぶぐらいでした。

Q:でも、そんな西岡少年は高校でサッカー部に入るんですよね?(笑)

A:進学したのが、家からも近い愛知県立名古屋西高校という学校でした。西高校は野球部が軟式しかなかったんです。軟式だからやっている学校数も県内では少ないですし、結構強かったんですけど、「軟式かあ...」という気持ちがちょっとあって、その時になぜか覚えてないですけど、サッカー部に行きたくなっちゃったんです(笑)クラスの中にそこそこサッカーが上手い友達がいて、誘われたのがきっかけだったような。

サッカー部は当時の時代の流れとしても「カッコいいかな」みたいな感じがあったんですかね。中学校の時も遊びではサッカーをやっていたんですよ。野球もやり切ったとまでは言えないですけど、中学卒業の時にスカウトの方の声が掛かった訳ではないから、「そこまでの実力ではないしな」とも思って、「サッカーでもやってみようかな」という軽いノリでしたね。

Q:実際にすぐサッカーにはのめり込んだんですか?

A:そうですね。でも、それだけでレギュラーになれるほど簡単ではないですよね(笑) ポジションは背が高かったのでセンターフォワードでしたけど、最後の最後ぐらいまでずっと控えでした。

Q:僕が初めて西岡さんにお会いした時の第一印象は「デカッ!」だったんですけど(笑)、当時から結構大きかったんですか?

A:中学3年くらいでググッと伸びたかな。親が大学までバレーボールをやっていたような家系なので、その遺伝はあるかもしれないですね。

Q:じゃあ長身ストライカーですね。

A:ポストプレーヤーみたいな感じで、経験者から「オマエはそこに立っていて、ポストプレーをやれ」みたいに言われて、その意味もよくわからずに(笑) それで「10番を付けておけばオマエの所に2人マークが付くし、その間にオレらが決めるから立っといて」みたいな感じでしたね。ゴールはほとんどヘディングで、足で決めた記憶はほとんどないです(笑)

Q:そうすると1,2年生の時はなかなか試合に出る機会はなかった訳ですね。

A1,2年生の時はほぼベンチで、3年のインターハイ予選ぐらいから出るようになったのかな。全然出してもらえなかったですね。もちろん出たかったんですけど、経験者に比べたら、実力が劣っていたのも自覚がありましたし。同じ学年には2年から出ているヤツもいたのに、センターフォワードは1つ下の後輩が試合に出ていたりしていて。そのあたりは実力ももちろんですけど、努力が足りなかったんでしょうね(笑)

Q:同い年の渡邉一平さんとも、高校時代に対戦経験があるんですよね?

A:向こうは中京大中京高校で、一平ちゃんに聞いたらたぶん2年の選手権予選で、その時に僕は控えメンバーでベンチに入っていました。1学年上の先輩は結構強くて、確かベスト16まで勝ち上がったんですよね。僕らは1回戦から3、4試合を勝ち上がってきていたのに、中京はスーパーシードという扱いでベスト16から参戦してきて、結局0-5で完敗しました。僕たちが「上手いな」と思っている先輩たちがこてんぱんにやられて、中京にはのちにプロに行くことになる安原さん(安原成泰・東海学園大学監督)や鶴田さん(鶴田道弘・東海学園高校監督)がプレーしていて、試合の途中なのに「ちょっと回す練習しようぜ」みたいなことを言っているのが聞こえて、「これはダメだ」って(笑)

でも、その後の中京は8-07-0で決勝も4-0だったので、「オレたち2番目に良かったじゃん」とか言って納得していました。(笑) ただ、全国大会では手倉森誠さん、浩さんのツインズで話題になった五戸高校(青森)に2回戦であっさり負けたんですよ。「全国は凄いな〜」と驚いた記憶があります。

Q:高校3年間のサッカー部というのは、今から振り返るとどういう思い出ですか?

A:楽しかったですよ。そこまでガリガリやってというよりは、半分は勉強で半分はスポーツみたいな感じでしたし、指導者も先輩が教えてくれるようなチームだったので、「ポストプレーとは」みたいな練習もなくて、チームメイトから「そこ立っといて」みたいな感じですから(笑) 伝統的には大学受験を控えていることもあって、3年生の選手権予選前には部を引退するような流れがあったのですが、僕たちは2年の時にあまり試合に出られなかったので、「選手権の予選も出たい」と言って引退しなかったんです。「そこまでやってやめようよ」と。そこで3つぐらい勝ったのかな。そこで「楽しかった〜」と満足感を得て引退した感じです。

Q:いわゆるサッカーとの接点ができたのが高校時代という感じでしょうか?

A:そうですね。確か中学3年の時に名古屋でフェスティバルがあって、清水東高校で1年の時の選手権で大活躍した武田(修宏)さんが来たんですよ。普通の高校のグラウンドに清水東が来て、みんなで自転車で行って、「おい、武田だよ!」みたいな感じで見ていたら、クロスボールをオーバーヘッドしたんです(笑) 「ハンパねえ!アレが武田だよ!」みたいなことを言いながら、「オレらもサッカーやろうよ」みたいに盛り上がったのは覚えています。

Q:大学は青山学院大学経営学部ですね。これは一般受験ですか?

A:一般受験です。「よく入れましたね」という感じですね(笑) 名古屋だと東京に行くか関西に行くかで岐路が分かれます。試験日程では関西の方が早くて、当時立命館大は名古屋駅前の河合塾が試験会場だったので、京都まで行かなくていいんですよ。それで試験の一発目で受けたら、友達は何人も受かったのに、僕は落ちたんです(笑) 「これはヤバいな」という感じで慌てて猛勉強しました。その後で青学や上智を受験して、辛うじて青学に滑り込んだという感じです。どこも受かっていなかったら浪人でした。

Q:青学っていうとやっぱり"青山"っていう響きもあって、都会の大学ってイメージがあるじゃないですか。そういう"都会感"を期待した所もありましたか?

A:たしかに東京で一人暮らしを始められるので期待しましたが、1、2年生のキャンパスは神奈川の厚木市でした。正直、地元の名古屋より田舎だったので、少し拍子抜けしましたね。

Q:サッカー部に入ろうとは思わなかったんですか?

A:部を見学に行くまでもなかったですけど、厚木にキャンパスがあったこともあって、本厚木駅から徒歩10分ほどの所にある、寮みたいな2階建ての20人ぐらいが入れるアパートで一人暮らしを始めました。そこに、偶然大阪の高校で選手権に出ている同級生が入居してきたり、それ以外にも東京代表で選手権に出場した同級生とも友達になったんです。そうしたら、その2人が「サッカー部はキツいからやめる」って言い出したんですよ(笑) そんな2人がサッカーはしないと言っているのに、「レベルの低い自分には無理でしょ」って感じで入部を諦めました。それでテニスサークルに入りました(笑)

Q:出た!チャラいですね(笑)

A:夏はテニス、冬はスキーという勝手なイメージで、「楽しくやりましょう」みたいなね(笑) 運動が好きなので、テニスを始めたらやっぱり「上手くなりたい」と思って、週2回のサークル活動以外にもテニススクールでアルバイトもしました。一面で8名ほどの生徒さんに、メインのコーチがいて、僕はアシスタントとして球出ししたりとか、ラリーをしたりとか。そこにも週2回ぐらい通っていました。そうすると、プロコーチたちと練習する機会もあって、自然と上達しますからね。たぶん最後はそのサークル内では、かなり上手な方だったと思います(笑)

Q:テニスサークルで上手いとかになったら、絶対女の子の後輩にモテるヤツじゃないですか(笑)

A100人ぐらいのサークルだったんですけど、そのサークル内に彼女がいるのがカッコ悪いみたいなイメージがあって(笑)、そこに彼女は置きたくないというか、その中でのガールフレンドはいなかったですね。普通サークルの中で付き合ったりは当然あると思うんですけど、そこでは全然でしたね。奥手だったというのもありますし、地方から出てきた僕らと地元が東京という学生たちとはちょっと差がありました。

僕は仙台と茨城出身の同級生とつるんで「何だよ、東京組はチャラチャラして」みたいな(笑) こっちは本厚木とかに住んでいるのに、向こうは都内に住んでいたりして、住む所から違うじゃないですか。「厚木は遠いなあ」って言いながら来るヤツらと、「いや、厚木が地元なんですけど...」という僕たちと、みたいな違いですよね(笑)

Q:そうすると大学時代は勉強をバリバリしていたというよりは、サークル活動や日常を楽しんでいた4年間という感じですか?

A:サークルのメインは3年生で、6つくらいの大学が集まる合同サークルグループがあったんです。夏の大会をよみうりランドで開催するようなリーグで、各大学から幹事を1人ずつ出すんですけど、そこの幹事長になってしまって。よみうりランドのテニスコートを貸し切りにして大会を運営して、打ち上げは六本木のクラブに、みたいな仕切り役をやりました。

3年生の時は学校に行くよりもそっちの活動が忙しかったですね。スポンサーに運営費協力のお願いをしたり、会費を6大学の全学生から集めたり、"キング・アンド・クイーン"や"マハラジャ"に行って「いくらで貸してくれますか?」みたいな交渉をしたり(笑) 大会運営も参加選手がメチャクチャ多いので、シングルスは1団体何人まで、団体戦はどう、男子と女子はどう、みたいなことを全部やらなくてはいけなくて。結構大変でした。

Q:元々小学校時代は生徒会長をやっていて、それこそ大学時代は幹事長をやられていて、いわゆる"長"が付くものとか、全体をオーガナイズするようなことは結構昔からやられていたんですね。

A:やらされていたという感じですね。それはあると思います。

Q:そういうのが好きでもありますか?

A:まあ、そうですね。ウチの父も高校の教師をやりながらも、一応経営者の息子なので、いつか学校の先生を辞めたら幼稚園の仕事をやるというのもありましたし、僕も何となく「いつかはそういうこともやるだろうな」と思っていました。そのあたりは生徒会長とか、サッカーの監督をやる人というのは、何となくキャラクターというか、自然にできてくるものですよね。昔キャプテンをやっていた人に監督が多いのと一緒で、「気付いたらそうなっていたかな」という感じです。目立つのが好きだったかもしれないですし、そこで「嫌だな」という感情はありませんでした。小学校の頃から人前に出ることとかも、みんなから推薦されて「じゃあ」という感じでやっていた方なので。

Q:就職活動の時はスポーツに関わる仕事をしたいと思ってらっしゃったんですよね?

A:大学3年の秋口くらいに「何をしようか」と思って、全然やりたいことがなかった中で「やっぱりスポーツに関わる仕事がしたい」と。一番最初に野球の中継放送を見ていて、「選手を囲んで移動しながら喋っている人は何だろうな?」と思って、新聞記者の存在を知ったんです。「スポーツ選手とああやって話せる人って凄いな」と思って、「アレってどうやったらなれるのかな?」と思ったのが最初の動機です。そこからリサーチを始めて、「新聞社がある」「テレビ局がある」と。

さらに色々調べていくと、新聞記者にも経済部、政治部、スポーツ部とかがあって、いつかはスポーツ部ではない部署にも異動しなくてはいけないと。テレビ局もスポーツ部があれば、報道部や人事部などもあって、入社できても必ずしもスポーツ部に配属になるかはわからないと。そうやって調べていくと、アナウンサーというのはもしかしたら選択肢はスポーツ、報道、制作の3つで回るので、メディアの中でもスポーツをやれる可能性が高いかもしれないと思いましたし、色々な選択肢の中で目指してみたいと思ったのがテレビ局だったんです。

Q:テレビの仕事って調べないと結構仕事内容がわかりにくいですよね。

A:そうですよね。でも、新聞社も考えましたし、スポーツメーカーも考えました。あとは「地元だから名古屋に帰ろうかな」というのもありました。「いつかは帰ってこい」と言われて4年間東京に出てきたので、地元の企業も受けました。そんな中で青学の友達と一緒に、「試験日が早いから」という理由でフジテレビのアナウンサー試験にエントリーシートを出したんです。根性試しじゃないですけど、「面接慣れのためにやってみよう」と。そうしたら書類審査が通って、面接試験を受けたら、なぜかそこも通ったんです。それで男性20人、女性30人ぐらい集められて、1週間フジテレビで研修を受講することになりました。発声練習とか原稿読みを通して、人物調査をして内定者を出すと。

最終的には男性1人、女性2人が受かったんですけど、「いやあ、すごい世界だなあ」と憧れの眼差しで合格者を見ていました。その研修の責任者が当時のフジテレビのアナウンス部長だった露木茂さんで、研修の最終日に、「もし本当にアナウンサーになりたいのなら、この就職活動を続けなさい。可能性があるから君たちはここまできたんだよ」とおっしゃって。「ええ、ホント?」と半信半疑に感じていたんですが、これが凄いんですよ。その後もいくつかのテレビ局を受験したら、フジテレビ系列の局を受けると、どこも僕のことを知っているんです。要は試験官の方がフジテレビの最終試験に残った学生のリストを持っていたんです。

Q:ということは、そのフジテレビの最終試験まで残った50人近い人たちは、その年のアナウンサー候補のトップ・オブ・トップだったってことですよね。

A:そこから日本テレビに受かった友人もいますし、テレビ朝日の試験でもほぼ同じメンバーが最終試験まで進みました。結果的に僕もフジテレビでそこまで行ったことが自信になって、日テレやテレビ朝日でも最終試験まで行けた訳です。最終的には全部落ちたんですけどね(笑)

それで「全部落ちたし無理だったか」と思って、地元名古屋の企業からは内定をもらっていたので、「地元に帰ろうかな」と決意を固めつつあったんですけど、11月ぐらいになって、テレ朝のアナウンス部長から突然電話が掛かってきたんです。「ウチの系列の広島で欠員があるけど、行く気はあるか?確か君はスポーツをやりたいって言っていたよね?広島に行けばカープがあるし、1年すればマツダのチームがプロ化してJリーグに入るぞ」といきなり言われて、「ああ... 広島ですか...」って(笑)

Q:まったく縁もゆかりもなかった訳ですよね?

A:高校の時の修学旅行で行ったぐらいで(笑) それで試験に受かって、親と相談した時に永住する訳ではないし、いつかは名古屋に帰る身なので、「何年か夢のような職業をやってみるのもいいかな」という感じがあったのも確かですし、親は「そんな夢みたいなことを言っているのに、どこからもアナウンサー職で内定を貰ってないだろ。内定してから言え」みたいな感じだったのが、最後の最後で内定をもらえたから(笑)、「やっぱり行こうかな」と思って、丁重に地元の企業に入社辞退の断りを入れて、広島に行かせてもらいました。

Q:そう考えると青学も最後の最後で受かったりとか、広島ホームテレビも最後の最後で内定が出たりとか、人生の岐路になりそうな部分はギリギリで滑り込めている感じなんですね。

A:確かにそうですね。アナウンサーはそこまでやりたいのかどうか、自分もそこまでわかっていなかったんですけど、入社試験を通じて知り合った仲間たちの「アナウンサーになりたい」という熱意に影響され、いつしか僕も本気でアナウンサーを目指していました。

ただ、専門学校などで基礎を学んでいた訳ではないので、内定後が大変でした。2月くらいから全国のテレ朝系列の新人アナウンサーが、六本木に集められて研修が始まるんですけど、グループ分けの一番下のグループでした(笑) Aグループはすでに専門学校で学んできていて腹式呼吸とかもできるので、原稿読みなどの実践のトレーニングが中心のグループ。その一歩手前がBグループで、僕はCグループに分けられ、「あ・え・い・う・え・お、あ・お」と基礎練習の繰り返し。Aグループが原稿を読んでいる時に、「キミ、腹式呼吸わかる?」とか、「ここは鼻濁音で」「ビダクオン...?」「これは無声化が」「ムセイカ...?」みたいな(笑)

原稿をちょっと読んだら、夕方のニュースのキャスターをされている名古屋出身の渡辺宜嗣さんから、「キミ、名古屋?」って聞かれて、「はい!名古屋です!」って親近感を持って返事をしたら、「いや、喜ぶ所じゃないから」と(笑) 「名古屋訛りが出ちゃってるから直さないといけないよ」って(笑) それぐらい、入社前はテレビ朝日系列全体で一番下のレベルでしたね。

(後編に続く)

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