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J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

2020年03月24日

『Foot!』Five Stories ~西岡明彦【後編】~(2017年2月27日掲載)

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『Foot!』Five Stories ~西岡明彦【後編】~

(2017年2月27日掲載)

『Foot!』で月曜から金曜までそれぞれMCを担当している5人のアナウンサーに、これまでの半生を振り返ってもらいつつ、どういう想いで今の仕事と向き合っているかを語っていただいています。五者五様の"オリジナルな生き方"を感じて戴ければ幸いです。

Q:92年の4月に広島ホームテレビへ入社される訳ですが、実際に入社されてからはそのスキルの差を痛感することは多かったんですか?そこはそれほどでもなかった感じですか?

A:比較的ポジティブな性格なのと、人の真似をするのが得意なので、先輩たちのアナウンス技術を見て、学ぶことで力をつけていきました。素人同然で入社しましたが、そのぶん、吸収は早かったと思いますし、先輩も色々と教えてくれましたからね。どちらかと言うとアナウンスって、学ぶというよりは先輩の姿を見て盗むというか、そこが大切かなと。「こういう時はこうやって喋った方がいいよ」というのもないですし、「これをやっちゃいけないよ」というのは教えてくれますけど、そういう中で先輩の姿勢を見て学んでいった感じでした。

Q:タイミング的にはそれこそ92年にアジアカップが広島で行われたり、翌年に華々しく開幕したJリーグにサンフレッチェが参戦したり、広島を取り巻くサッカーの環境はかなり良かったんじゃないかなと思いますけど、そのあたりはいかがですか?

A:それは本当にラッキーでした。これも偶然ですけど、アナウンサー試験で一緒だった仲間に筑波大のラグビー部の友人がいて、サンフレッチェに入団した森山佳郎さん(U-17日本代表監督)の親しい友人だったんですよ。それで連絡しておいてくれて、「広島に行ったら、森山を訪ねていけばいいよ」と。挨拶に訪ねていったら「おお、オマエか」みたいな感じで、そこからメチャクチャ仲良くさせてもらいました。

ゴリさん(=森山さん)を紹介してもらったこともあって、仕事が少ない入社1年目は取材と称してチームの練習場に、社用車を借りて自分で運転して通ったりしました。向こうも「テレビ局なのに何でカメラも持たずに1人で来てるの?」みたいな(笑) 1年目の頃はやることが少なかったので、誰も来ていないような日に練習へ行って顔なじみを作っていって、練習が終わると選手たちと一緒に広島市内に戻りながらレストランで食事するような日々を過ごして、親交を深めていきました。

そこで森保(一・広島監督)さんとか高木(琢也・長崎監督)さん、片野坂(知宏・大分監督)さんとかと頻繁にランチしていましたね。取材も何もしていないんですよ。ただ練習を見に行っているだけですから(笑) そんな生活が1年目ですかね。特にやることがなかったので「誰よりもサンフレッチェに詳しくなってやろう」と思っていました。

Q:2年目はもうJリーグが開幕して、ああいう華々しい感じになっていた訳ですよね。

A:そうなんですけど、2年目と3年目は哀しいかな"朝ワイド"をやれと言われて...

Q:『フレッシュ・モーニング』!でも、「哀しいかな」なんですね(笑)

A:だって前の年にアジアカップでカズさんを目の前にして「ああ、凄いな」と思いましたし、92年のナビスコカップも見ましたし、「さあ!」という時に「朝ワイドは月曜から金曜まであるから、労務管理上で土日は出社しちゃイカン」と。それで練習もなかなか行けなかったんですけど、「それはそれで仕方ないかな」と思っていました。

朝は5時に出社して、7時から8時半の番組をやって、昼の2時に退社。それ以降は「帰りなさい」と。残業もしてはいけなかったですし、週末にサッカーや野球の試合を取材に行くのはもってのほかという感じでした。視聴率も二ケタぐらいあってみんな知ってくれたので、広島で知名度を上げるには良い2年でしたけど、スポーツの仕事は全然できなかったんですよね。サンフレッチェの試合もビッグアーチには行っていましたけど、仕事としては行ってはいけないので、休日扱いで行く感じでした。

ただ、『フレッシュ・モーニング』に自分で企画を出して、「自分で編集するので」とプロデューサーに言って、のちにJヴィレッジの副社長になった高田(豊治)さんという方に、週1回のサンフレッチェコーナーのゲストで来てもらいました。そこには森保さんとか高木(琢也)さんにも出てもらったり。無理やりサンフレッチェコーナーを作って、自分がやりたいものを番組に反映するということもやっていましたね。

Q:僕が西岡さんとサンフレッチェのエピソードで一番記憶に残っているのは、森保さんが納会でほぼ毎年のように退団する選手と涙を流しながら話していたというお話なんですけど、それって西岡さんにとっても印象深いことですか?

A:そこがフリーになるキッカケですよね。入社1年目から練習場に通って、いつからかサントリーシリーズやニコスシリーズの中断の間に、選手たちとメディア関係者が一緒にゴルフコンペをしたり、食事会をしたりするようになりました。僕がメディア側の幹事で、選手側は森保さんや上村健一(讃岐コーチ)さんが務めていて、自分の中ではマスコミの中で選手たちに近い存在であるという自負もありました。

すると、いつからか年末に選手だけでやる納会にも呼んでもらえるようになって。そこで退団する選手、あるいは出場機会が少ないまま移籍する選手たちが、森保さんなどレギュラー組と親しく会話して、最後はお互いに涙しながら抱き合って別れるみたいな。一緒に戦っていたチームメイトであり、ライバルだった関係が、凄く素敵な関係に見えて。

一方で、その感覚を「サラリーマンが取材してわかるのかな?生活が安定している自分が、本当のプロの気持ちを理解できるのかな?」という感覚があったんですよね。1年で生活が変わる恐怖と、それから1年を掛けて戦ってきた最後にああいう別れがあることを知りましたし、プロ選手の本当の気持ちを知るには、「こっちもプロにならないとわからないかな」と感じ始めたキッカケですよね。

Q:そのお話は本当にすごく印象的です。

A:それと同時に、当時の今西(和男)GMがサッカー専門雑誌の記者の方を雇用して広報スタッフにしたんです。今西さんは先見の明があって、その当時から「自分たちから情報を発信したい」と。当時のクラブの広報と言えば、代々親会社からの出向の人が来て、各媒体からの取材申請を受けて対応するというのが主な仕事だったので、新しい試みでした。

それまで取材者として僕と同じようにスタジアムに通っていた人が "向こう側"に行ってしまって、選手の移動バスにも乗ってる訳ですよ。「アレいいなあ」と思うでしょ(笑)それを見て「やっぱりオレもそっち側に行きたい!」と思ったんです。それで高田さんに「僕も辞めてそっち側に行きたいです」と。でも、広島にはその広報の方がいたので、僕は「他のクラブに行きたいです」って言ったんです(笑)

「そのためにも1回海外を経験した方がいいですかね?」と聞いたら、「プレミアリーグを見た方がいい」と。当時からビル・フォルケスさん(元マツダヘッドコーチ)も含めてマンチェスター・ユナイテッドとの関係がサンフレッチェにはあって、それこそゴリさんも高木さんも森保さんも3ヶ月ぐらい短期留学しているんですよね。高木さんが帰ってきた時も「マンチェスターってどうなんですか?」とか聞いて、「いや、凄いよ!」とか聞かされているので、「これは見ないといけないな」と。「海外へ行こうかな」という感じになったんですよね。

学生の時もウチの親は「留学して1年くらい留年してもいいんじゃないか」と言っていたんですけど、大学が楽しかったですし、その勇気もなくて行かなかったので、「もうこのタイミングかな」と思って、28歳の時に会社を辞めて、高田さんに「ロンドンで1年ぐらい語学とプレミアリーグを勉強してくるので、帰ってきたらJリーグのクラブの方を紹介して下さい」とお願いしたら、「よし、わかった。任せとけ!」と言われたので、僕はロンドンに行く決意を固めたんです。

Q:英語のベースはあったんですか?

A:人様に言えるようなレベルではなかったですけど、一応大学がミッション系なので英語の授業は多かったです。あとは渡英するのを決めてから、広島で英会話学校には行きました。

Q:ウエストミンスター大学でメディア論を専攻とWikipediaには書いてありましたが、合ってますか?(笑)

A:合ってます(笑)結構メディアが評判の大学で、1年間のカリキュラムがあって、テレビと新聞の専門学科があって、社会人を世界から受け入れているということで入学しました。大学時代の成績と社会人経験として何をやってきたかを英文のレポートで書いて送って、入学許可をもらいました。

最初の7月から9月までは英会話を徹底的にやって、それからインタビューがあって、何年生の授業を受けられるかを測られて。それで10月ぐらいから2年と3年の授業に編入することが許可されました。授業の内容はわかるけど、あとは言葉のレベルが付いていければ、という感じでしたね。平日は大学に行って、週に2,3日はテレビ朝日のロンドン支局でアルバイトもして、週末はプレミアリーグを観戦して、という日々でしたね。

28歳で渡英したので「この1年は無駄にできないな」という焦りもあって、凄く充実していました。何もしない日を作りたくないというか。だから、遠方のマンチェスターやリヴァプールも行きましたね。また、ライセンスもあったらいいなと思って、スコットランドの少年指導資格のコーチ養成講座も受講しました。スコットランド代表が使用する施設で受講できたので、とても貴重な経験でした。

Q:かなりその1年は人生の中でも重要な1年ですよね。

A:それがなかったら今はないというか、あそこで思い切って渡英したのもそうですし、田口さん(田口賢司・『Foot!』プロデューサー)に声を掛けてもらったのも、「向こうに行った変わったヤツがいる」ということでしたし(笑) 普通なら広島から東京に出て行って活動する所を、海外に行ってプレミアを見てきたというのも珍しい存在だったかもしれません。その当時はそういう人がほとんどいない中で「向こうのスタジアムはだいたい知っています」みたいなことも言えますしね。

そういう人がなかなかいない時代だったと思いますし、これから何かを始めるに当たっても自分で何かを変えなければいけないと。それがクラブの仕事なのか、今のような仕事なのかは決めかねていましたけど、どっちになっても向こうで1年間暮らしていたというものがあれば、何となくうまく行くかなというか、「それをしなければ」という覚悟だったと思います。

Q:今って西岡さんがロンドンに留学していた頃より、イングランドに行くということ自体の日本におけるハードルも下がっていると思いますけど、やっぱり1年間ぐらい海外留学するという経験は勧めますか?

A:僕は人生観が変わったというか、あの1年間が楽しかったかと言えば、楽しいというよりは「何かしなきゃ」という苦しい時期だったことも事実ですし、「この1年を無駄に過ごす訳にはいかない」という危機感もありました。だから、日本人がたくさんいるような英会話学校には行きたくなかったですし、お金が掛かっても地元の人の家でホームステイを1年間通したんですけど、自分を追い込んでというか、「この1年で何ができるか」という危機感が大きかったですね。

完全に退路を断ってなんてことを言っても、「オマエ、テレビ局を辞めて何やってるの?」というのも自分の中にはありましたし、これでその先の生活がどうなるかというのも不透明で、せっかく入社したテレビ局を6年で辞めてしまって、大半の人は「何やってるの?」という感じでしたし、それでうまく行かなかったら「それ見ろ」という感じになってしまうなと。そうならないためにも「無駄にはできない」という意地はありました。色々と無理をしていたというか、時間を有効に使いたいから色々なことをしていました。だから、1年だけでしたけどロンドンという街を凄く知ることができましたし、愛着も湧きましたね。

Q:自分のことを考える時間が長い分、先行きが不安になったりもしましたか?

A:それはありましたね。「これからどうなっちゃうんだろう...」というのはありましたし、それを考えていてもキリがないんですけど、今以上に日本との距離も感じて、「遠い所に来たな」というのは思いました。当時はWi-fiが普及している時代でもなかったですし、ネット環境もホームステイ先は整っていなくて、携帯電話の電波でインターネットをやらなければいけなくて、対応している携帯を見つけるのに1ヶ月ぐらい掛かりました(笑) 日本のニュースをネットで閲覧することもできない状況からスタートしたので、最初は孤独でしたね。

Q:最初から1年で帰ってくることは決めていたんですか?

A:大学はもともと1年で、最初の3ヶ月は英語を学んで、その後は聴講生としてメディア学部で勉強して、最後はインターンというプログラムでした。その先は残ってもいいし、残らなくてもいい感じでしたけど、何となく自分は「1年でいいかな」と思っていました。99年の春頃から帰国後の仕事を探さないといけないと思い、日本とコンタクトを取り始めた時に、「ここ(※旧J SPORTS)で実況はどう?」と、声を掛けて頂きました。それで、まずプレミアリーグの中継でチャンスを貰えるなら「チャレンジしてみようかな」と。

Q:ロンドンに行く時は考えていたJクラブの広報部には結局入っていないですよね。

A:高田さんに「間もなく帰国しようと思っています」と相談した時に、「わかった。紹介してあげるけど、たぶん君が1年間向こうで見てきた"プレミアリーグの広報"のような仕事は、今のJリーグではできないだろう」と。「きっと理想と現実のギャップを知ることになる。もしメディアの仕事で力を発揮できるのなら、実況の仕事を何年かやって、その中で西岡という存在を知ってもらい、将来迎え入れられるような形でJクラブに行ったらどうだ」とアドバイスを戴きました。

Q:それは「えっ?」ってなりますよね(笑)

A:当時は少し残念な気持ちもありましたけど、今思えば的確なアドバイスだったと高田さんには本当に感謝しています。あのタイミングでクラブで広報の仕事をしても、どこまで貢献できたかわからないですからね。結局、日本に帰ってきた99年の夏から2年ぐらいは、平日は地元名古屋のテレビ局のスポーツ部でアルバイトのディレクターをやっていました。そして週末になると新幹線で上京して、プレミアリーグを実況してビジネスホテルで一泊して帰省。そんな二重生活をしていました。

スカパーが2002年日韓W杯の中継をすることが決定したこともあり、番組の出演機会が増えていったので、01年に住まいを東京に移し、本格的にスポーツコメンテイターとしての仕事をするようになった感じです。

Q:今回お話を伺おうと思っている5人の実況の方の中で、他の方と西岡さんが決定的に違うのは、会社の社長であるということです。サッカーに関わりたいと思う人たちに、そういう場を提供するような会社を2004年に作られた訳ですけど、そういう会社を経営されていることを、ご自身の中ではどういう風に捉えてらっしゃるんですか?

A:僕の中では親の影響があって、両親が教師で物事を伝える、教えるということを何となく見ていて、子供の時から父はバレーボール部の指導者でもありましたし、教え子たちが卒業後にもウチに訪ねてくる光景を子供ながらに見ていて、父のことを「先生!先生!」と言っている訳じゃないですか。それが「いいなあ」と感じていました。僕も教師になるつもりで結局はなれなかったですけど、自分が経験したことや培った知識というものは、次の世代の人たちに伝える義務がある、みたいな感覚を持って育ちました。

だから、サッカーを仕事にしたい人がいるのだったら、その手助けをするのは先にその業界に入っている人の責務かなと。「オレはうまく行ったけど、みんなそれぞれ頑張って」というのも、ちょっと勝手過ぎるかなという思いもありましたし、教師になれなかったという想いが会社という別の形で後輩を教育する今に繋がっているかもしれないですね。

Q:そういうことなんですね。

A:要は「サッカーの仕事をしたいけど、どうしていいかわからない」という人たちが集まり、切磋琢磨することによって、結果的にサッカー中継や放送の質も向上するでしょうし。その反面、「最近、社長の実況イマイチだよね」と言われないように、こっちも意識して努力する訳ですよ。相乗効果ですよね。

いつかは世代交代が進み、立場が逆転する日も来ると思いますけど、そうやって業界に来たいという人がいる中で、可能な限りその環境を用意してあげて、それで競争すればいいんじゃないかなと。だから、野村(明弘・『FootTUESDAYMC/フットメディア)とか永田(実・フットメディア)の存在があるから、「負けてられないな」と思って自分も努力しますし、後輩たちもそこを目指して頑張りますし、それが業界全体の良い放送とか良い仕事に繋がるんじゃないかなと思っています。

Q:以前西岡さんが「自分にとって実況よりサッカー界に貢献できる仕事があったら、きっとそっちを選ぶと思う」とおっしゃっていたのが凄く印象的なんですけど、そういう想いも会社の設立に繋がってくる部分ですよね?

A:そうですね。根本的にスポーツのアナウンサーをやりたい人って「喋りたい」という人と、「その競技が好き」という人に分かれると思うんですけど、僕は「生涯現役アナウンサーで」という想いはなくて、そもそも就職活動の時もサッカーに携わっていたいと思って就職先を探しました。よりサッカーに関われる、貢献できると感じられるものがあるんだったら、別に喋らなくてもいいでしょうと。

今は見てくれている視聴者の方がいるので、もちろん喋ることは大事ですし、疎かにする訳ではないですけど、それと同時にサッカー界のためになることがあるのなら、そこに尽力したいなという想いが凄くあります。これまでの人生において、岐路に立った時は必ず人に助けてもらって生きてきました。その都度お世話になった方々がいて、そこを不義理せずにやってきたから今の自分がある訳で、これからは若い人たちに返していかなければいけないというか、それが先に生きてきた人間の務めですしね。

Q:これを最後の質問にさせてください。あえてザックリとお聞きしたいんですけど、夢ってありますか?

A:夢ねえ...何だろうなあ... 個人的にはサッカー界の中で、クラブやリーグ、サッカー協会の関係者、選手、監督以外の外部からサッカーを支える業種の中で"西岡明彦"という存在を誰もが知ってくれることかなと。「ああ、ああいうことやっている人だよね」と。それが1つ。

それから、やっぱりスポーツに特化した会社を経営しているので、その会社のパワーというか、この業界で「あそこはスポーツメディアに特化した会社だよね」と認知されて、スポーツアナウンサーのマネジメントと言えばフットメディア、何かリサーチしたければフットメディア、というような色々な意味で、サッカー界の中での"フットメディア"が今以上に誰もが知る存在になってくれればいいかなと。今はそれですかね。

アナウンサーだったら、「チャンピオンズリーグの決勝を喋りたい」とか「ワールドカップの決勝を喋りたい」とかあると思いますけど、僕にはそういった直接的な目標以上に、色々な意味で「サッカーに関わっているな」と思われるような個人であり、会社であったらいいなと思います。

(この項終了)

【土屋から見た西岡明彦さん】

やっぱり"社長"と周囲から呼ばれるだけあって(実際に社長なんですけど・笑)、「何でもできる人」というイメージがあります。基本的には優しい人ですけど、控え室では他の4人ほどオシャベリするタイプではないので、初めてのスタッフなどには「西岡さん、怒ってたんですかね?」と勘違いされることも(笑) 見た目もシュッとしているので、そう思われがちな部分もあるのかなあと。結構ゴシップ好きだったりするんですけどね(笑)

野村明弘さんがおっしゃっていたことで印象的だったのは、「"社長"っていろいろなタイプの人に好かれるんですよねえ」と。わかる気がします。別に無理に話したり、媚びたりする訳ではないのに、いわゆる"偉い人"とか、そもそもそういう役職とかに関わらず、みんなから好かれる感じ、すごくわかるなあと思います。

僕はもう15年近い付き合いになりますけど、西岡さんの中で一貫しているのは本文の中にもあるように、「よりサッカーに関われる、貢献できると感じられるものがあるんだったら、別に喋らなくてもいいでしょう」という部分。その想いをベースに、アナウンサーやデータを扱うスタッフを含め、アレだけの人数の後進を社長として導いていく姿は、誰にも真似できません。

個人的にはJリーグのチェアマンとか合っているんじゃないかなあと。英語も堪能ですし、海外の要人と並んでも見劣りしないぐらいスタイル抜群ですし、世界と対等に渡り合えそうな感じがマッチしてるんじゃないかなあと。「よりサッカーに関われる、貢献できると感じられるもの」としてはうってつけだと思うんですけど。西岡さん、どうですか?(笑)

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