mas o menos

メルマガ

お好きなジャンルのコラムや
ニュース、番組情報をお届け!

メルマガ一覧へ

最近のエントリー

カテゴリー

アーカイブ

2014/06

S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

このブログについて

J SPORTSのサッカー担当がお送りするブログです。
放送予定やマッチプレビュー、マッチレポートなどをお送りします。

ワールドカップ 2014年06月15日

【3】エレファンツの象徴。36歳のラストダンス。

mas o menos
  • Line

エレファンツの象徴。36歳のラストダンス。


62分。サブリ・ラムシは決断した。
先制こそされたものの、流れは悪くない。
ここで一気にチームのギアを上げる必要がある。
念入りな指示なんて与えなくてもよい。
あの男ならすべてをわかっているからだ。
アレナ・ペルナンブーコにその名前がコールされる。
ピッチへ向かって走り出した男の背番号は11。
ディディエ・ドログバの3度目となるワールドカップが幕を開けた。


5歳の時に家族の元を離れてフランスへと移住している。
サッカー選手だった叔父と共に生活していたが、
叔父と同じ未来を夢見ていた訳ではない。
元々銀行員だったディディエの父は
「しっかりとした教育を受けさせるために
息子をフランスに行かせる決断をした」と後に述懐している。


プロキャリアをスタートさせたのは
松井大輔もプレーしていたことで
日本のサッカーファンにもその名を知られているル・マン。
ただ、在籍していた4シーズンを振り返ると、
72試合に出場して挙げたゴールは15。
既に24歳となっていたディディエは
あくまでも凡庸なストライカーの域を出なかった。


転機になったのはギャンガンへの移籍だ。
2001-02シーズンの冬にル・マンから加入すると、
降格危機にあったチームの残留に貢献。
翌シーズンはいきなり17ゴールを記録して覚醒し、
一躍フランス中にその名前を轟かせることに成功する。
ちなみにこの時、ディディエと絶妙のコンビネーションを発揮し、
ギャンガンの7位躍進に貢献したのがフローラン・マルダ。
この2人は偶然にもその4年後、
ロンドンのメガクラブでチームメイトとして再会を果たす。
ちょうどこの頃、ディディエは母国の代表でプレーすることを選択している。


その後のキャリアは言うまでもない。
マルセイユで1シーズンプレーすると、
ジョゼ・モウリーニョの監督就任と同時に
その指揮官のラブコールを受けて
クラブ史上最高額となる移籍金と共にチェルシーへ加入。
在籍期間には3度のリーグ優勝と4度のFAカップ優勝を経験。
2度のリーグ得点王にも輝き、
2011-12シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグも制す。
近年の"ブルーズ"が獲得してきたカップと地位は
すべてディディエと共にあったと言っても過言ではないだろう。
遅咲きのストライカーは世界の耳目を集める存在になった。


それでも、"エレファンツ"と称される
コートジボワール代表での彼は苦難の連続だったと言っていい。
そもそも2002年に自ら祖国の代表を選択した時点で、
ワールドカップ出場経験は皆無。
7大会連続で予選敗退を強いられており、
決してアフリカの中でも強豪国の部類には属していなかった。


同じファーストネームを持つディディエ・ゾコラや
ヤヤとコロのトゥーレ兄弟、サロモン・カルーなど
首都アビジャンのアカデミー出身者を従え、
2006年には念願のワールドカップ初出場を果たしたものの、
アルゼンチン、オランダ、セルビア・モンテネグロと同居する
"死のグループ"に放り込まれ、無念のグループステージ敗退。
ディディエも1得点と不本意な結果でドイツを去った。


2010年の南アフリカでは
またしてもブラジル、ポルトガルの優勝候補に挟まれ、
大会前に自身が負った怪我も追い討ちを掛ける格好で
前回同様早々に大会から姿を消している。
さらに、2012年のアフリカネイションズカップでは
決勝でザンビア相手にPK戦の末に涙を飲む。
実はその6年前にも"エレファンツ"は決勝まで勝ち上がっていたが、
やはりエジプトにPK戦で屈して準優勝。
その時に1番目のキッカーとして、PKを失敗していたのがディディエ。
華やかなクラブシーンでの活躍とは裏腹に、
代表での彼は常に苦難に見舞われてきた。


2010年。
権威あるアメリカ・タイム誌の
「世界で最も影響力のある100人」にディディエは選出される。
例えば2012年にはリオネル・メッシ、
例えば2014年にはクリスティアーノ・ロナウドが
同じくこの100人に選ばれているが
その2人とディディエの選出はややその趣が異なる。


9年前。
"エレファンツ"が悲願のワールドカップ出場を決めた、
まさにその試合のロッカールームから、
TVカメラの向こうにいる国民へディディエは語りかけた。
「コートジボワールにいる北部出身、南部出身、
中部出身、そして西部出身のみんな。
我々はすべてのコートジボワール人が共存できるということを、
同じ目的のために共に戦えることを証明した。
許し合おう。許し合おう。許し合おう。
武器を置いて、選挙を行おう。
そうすればすべてがよくなるはずだ」。
それは長年の内戦に苦しむ祖国へ向けた魂のメッセージだった。


それから2年後。
内戦は一端の終結を見た。
この時のメッセージが、
そしてディディエを筆頭とした"エレファンツ"の存在が
すべてではないにしても、その終結に力を貸したことを
コートジボワールに暮らす国民ははっきりと理解している。


往時の切れ味は失った。
3度目となるワールドカップはベンチで迎えることになった。
それでも、人々は彼の存在に夢を見る。
62分にディディエを得た"エレファンツ"は
64分と66分に続けてゴールを奪い、スコアを引っ繰り返す。
2つの歓喜に直接プレーで関与したわけではないかもしれないが、
その登場が劇的にすべてを変えた。


勝利の瞬間、不仲も囁かれる北部出身のヤヤ・トゥーレと
南部出身のディディエは歓喜の抱擁を交わした。
遠く離れたコートジボワールの地でも
北部出身の誰かと南部出身の誰かは
"エレファンツ"の活躍に抱擁を交わしているだろうか。


おそらくはディディエにとって、
ブラジルの地が最後の檜舞台になるだろう。
祖国に愛された、そして祖国を愛した偉大なるストライカー。
36歳のラストダンスは、
まだまだ当分終わりそうにない。


土屋

  • Line