人気ランキング

J SPORTS IDを登録すれば、
すべての記事が読み放題

J SPORTS IDの登録(無料)はこちら

メルマガ

お好きなジャンルのコラムや
ニュース、番組情報をお届け!

メルマガ一覧へ

コラム&ブログ一覧

フィギュア スケート コラム 2021年5月31日

町田樹のスポーツアカデミア【Reportage:アリーナの今を訪ねて】 ~さいたまスーパーアリーナ~ 国内随一のアリーナ 建設の経緯

フィギュアスケートレポート by J SPORTS 編集部
  • Line
町田樹

町田樹のスポーツアカデミア

こんにちは、町田樹です。「ルポルタージュ」「アーカイブ」「ダイアログ」をテーマに、スポーツをする・見る・支える人々にお届けするスポーツ教養番組「スポーツアカデミア」いよいよシーズン2が始まります。

今回ご紹介するのは《さいたまスーパーアリーナ》。私もスケーターとして何度も訪れたことのある舞台ですが、いつも私の最高のパフォーマンスを引き出してくれた最高の舞台です。私は2018年10月にプロスケーターを引退しましたが、引退の舞台もここでした。今回このような別の立場でこのアリーナに潜入できることを嬉しく思います。

現在スポーツ庁は、スタジアム・アリーナ改革のガイドラインや指針を打ち出していますが、この中でスポーツ庁はこれからの日本のアリーナやスタジアムは「多機能複合型」「民間活力の導入」「街中立地」「収益性の改善」この4つを抑えるべきだと提唱されています。実は、このさいたまスーパーアリーナはこの4つのポイントを全て抑えています。

今回、さいたまスーパーアリーナのルポルタージュを展開していく上で、みなさんにご注目していただきたい4つのポイントがあります。まず1つ目が、国内随一の規模を誇るさいたまスーパーアリーナがどのようにして建設されたのか、その経緯について。2つ目が、利用者のニーズの合わせて変幻自在にトランスフォームが可能なアリーナの内部機構について。3つ目が、国内アリーナのロールモデルとなりうるマネジメントのあり方について。最後の4つ目が、このさいたま新都心という街とアリーナの将来像についてです。

町田樹の着目ポイント

町田樹の着目ポイント

1.国内随一のアリーナ 建設の経緯

さいたまスーパーアリーナを管理する埼玉県 都市整備部 部長の村田さんに当時の様子を伺いました(以後敬称略)。

町田:そもそもさいたまスーパーアリーナという巨大アリーナがあそこに建設された経緯をお聞かせいただきたい。

村田:そもそもスーパーアリーナが建設されているさいたま新都心というところがなぜ開発され出したかということを前段としてお話させていただきます。そもそも埼玉県というところは、今でも人口の内の93万人が東京都に通勤したり通学したりする状況にあります。このさいたま新都心に先立つプランが出来たのは、1980年代に遡ります。その頃でも80万人という人が都内に通っていました。あまりにも東京に依存しすぎるという面がありました。また、国としても首都機能を分散しようという動きが1980年代半ばから起きておりました。

埼玉県は東京都の利便性が良い反面、仕事から娯楽まで、東京都への依存度が高すぎることを改善する動きがありました。商業の街として県内1発展した大宮市、県庁所在地で文化教育の街として知られる浦和市、その二つの大きな街に囲まれた与野市の3市を合併し、政令指定都市を目指す話がもちあがります。その頃、政府も東京に国の機関が集中していることを問題視。地方に分散させる計画を立てていました。さまざまな思惑がうごめくなか、大きな転機が訪れますーーーー。

村田:大宮駅の南側のところに巨大な国鉄の操車場がありましたけど、これが1984年に機能が廃止されると。27ヘクタールもの膨大な遊休地が発生したと。

大宮・浦和・与野をまたがる中心地に27haの土地が生まれた

大宮・浦和・与野をまたがる中心地に27haの土地が生まれた

昭和2年、貨物運搬や列車の停車場として作られた大宮操車場。時代と共に輸送は列車からトラックに移り、昭和59年に貨物の取り扱いを廃止します。するとそこには27ヘクタールという膨大な土地だけが残ることに。しかも、そこは合併しようとしている大宮・浦和・与野をまたがる中心地。政府はそこに国の機関を移転することを決定。ここが、後にさいたま新都心として開発されることになりました。

村田:さいたま新都心の開発がはじまりまして、どうしても国の機関の移転ということでしたので、オフィスが中心になってしまう。しかし、それだけではということで、核となる施設がもう一つ別にないかということで考えられたのがスーパーアリーナ。そうした経緯で建設がはじまりました。

町田:埼玉県としては、当初どのような形でさいたま新都心という都市を構想したのでしょうか。

村田:人々が行き交い、そこに人・物・情報が集まり、いつ行っても楽しめるというような街づくりをしたいというコンセプトでした。

町田:ほとんどゼロから関東エリアで都市を作っていくことは、かなりのレアケースだったんではないでしょうか。

村田:あの時のエネルギーは大変なものだったと思いますし、私たちに近い年齢層の者がやっておりましたが、操車場の跡地でしたが、結構草がボーボーだったりして《野鳥の楽園》みたいな言われ方をしていたところだったので、ここに数年後に街が出来上がることを、担当していた職員たちもなかなか描けませんでした。本当に時間との戦いで、大きな事業をやり遂げたということで、充実感があったようです。

町田樹

町田樹

町田:今の新都心からするとあそこに広大な土地が広がっていることが考えられないですよね。その中でスーパーアリーナは建設に着手された訳ですが、総工費が600億円以上という形で、かなりの巨額な金額となっています。これは全て埼玉県が主導されて支出も資金調達もされたということでしょうか。

村田:今ですと官民連携の手法が主流になっていますが、あの当時の勢いと言っては怒られますが、これは埼玉県として覚悟を決めて作るんだというプロジェクトでした。

ただオフィスビルが立ち並ぶだけでのオフィスビルだけでなく《人や物が集う街》を目指した当時の担当者たちの熱い想いと覚悟が、さいたまスーパーアリーナには詰まっていました。そして、そのコンセプト通り2000年に街開きされた後、さいたまスーパーアリーナには年間300万人という人が集い、さいたま新都心を支えてきたのです。

次回は、利用者のニーズの合わせて変幻自在にトランスフォームが可能なアリーナの内部機構についてのコラムをお届けします。

文:J SPORTS編集部

J SPORTS編集部

J SPORTS 編集部

 

  • Line

あわせて読みたい

J SPORTS IDを登録すれば、
すべての記事が読み放題

J SPORTS IDの登録(無料)はこちら

ジャンル一覧

J SPORTSで
フィギュア スケートを応援しよう!

フィギュア スケートの放送・配信ページへ