ラグビー愛好日記

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このブログについて

プロフィール写真【村上晃一】
1965年京都市生まれ。京都府立鴨沂高校→大阪体育大学。
ラグビーの現役時代のポジションは、CTB(センター)、FB(フルバック)。1986年度西日本学生代表として東西対抗に出場。
87年4月ベースボール・マガジン社入社、ラグビーマガジン編集部に勤務。90年6月より97年2月まで同誌編集長。出版局を経て98年6月退社し、フリーランスの編集者、記者、ラグビージャーナリストとして活動。J SPORTSのラグビー解説は98年より継続中。1999年から2019年の6回のラグビーワールドカップでコメンテーターを務めた。著書に「仲間を信じて」(岩波ジュニア新書)、「空飛ぶウイング」(洋泉社)、「ハルのゆく道」(道友社)、「ラグビーが教えてくれること」、「ノーサイド 勝敗の先にあるもの」(あかね書房)などがある。

2022年05月24日

「荒ぶるタックルマンの青春ノート 石塚武生のラグビー道」

ラグビー愛好日記 by 村上 晃一
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久しぶりに大学のラグビー部時代を思い出して涙が出た。「荒ぶるタックルマンの青春ノート 石塚武生のラグビー道」(論創社)を読んだからだ。本を送ってくださった著者の松瀬学さんは、早稲田大学ラグビーOBで、ラグビー界を超えたスーパースターだった本城和彦さん、吉野俊郎さんらが活躍したチームのプロップだった。現在は大学教員とノンフィクションライターという二足の草鞋を履いている。

松瀬さんによれば、バレンタインデーには本城さんに200個超のチョコレートが届いたが、そのとき松瀬さんは4個だったらしい。松瀬さんはバレーボール部だった中学2年生のとき、日本代表対ウェールズ代表の試合を見た(1975年)。伝説のウイングJJ・ウィリアムズに見事なタックルを決めた石塚さんを見て感激し、石塚さんがキャプテンを務めた早稲田大学を目指した。

石塚さんは日本代表28キャップ。170㎝、74㎏という小さな体で的確で力強いタックルを決め続け「タックルマン」と呼ばれた。国学院久我山高校→早稲田大学→リコーと、ラグビーのエリートコースを歩んでいるが、その生きざまは不器用で泥臭かった。詳細はぜひ本を読んでいただきたいが、とことんラグビー道を極めようとした人生はすさまじい。茨城県の常総学院高校ラグビー部監督を務めていた2009年、57歳で急逝。早稲田大学、日本代表で監督を務めた日比野弘さん(202111月没、享年86)は弔辞でこう述べている。「君はすべての情熱をラグビーにささげてくれた。ありがとう」。

僕は高校1年生の頃、石塚さんにサインをもらったことがある。京都の西京極球技場で日本代表が関西代表と強化試合をしたとき、ボール拾いやロッカーの掃除の手伝いをした。関西代表には若き日の大八木淳史さん、平尾誠二さんがいて、日本代表には林敏之さん、石塚武生さんがいた。試合後、僕の高校の監督が石塚さんに「一緒に写真を撮ってやってください」と言ってくれた。石塚さんは笑顔で肩を組んでくれた。背は僕より低かった。この人、こんなに小さいのに日本代表ってすごいなと思った。肩を抱く腕が力強かったのをよくおぼえている。

その後は取材する立場として何度もお話を聞いた。2000年に出版された石塚さんの著書「炎のタックルマン」(ベースボール・マガジン社)も編集させてもらった。一緒に食事をしながら話すことも多かった。「ラグビーを愛する気持ちは、常に日本一が目標であり続けたい」という言葉は強く印象に残っている。「炎のタックルマン」のあとがきには、こんなくだりがある。「人に感謝するということを、今、痛切に感じながら生きています。自分が人に対して世話したことはよく覚えているものですが、お世話になったことは忘れがちです。だから見返りの言葉がないと気分を悪くする。私もこれまで感謝するということを深く考えずに生きてきたように思います。(中略)もう一度皆さんに心より感謝申し上げます。この気持ちを忘れず、私はこれからもラグビーとともに生きて行きます」

「荒ぶるタックルマンの青春ノート  石塚武生のラグビー道」(論創社)。自分のヒーローの本を学生時代の気持ちを忘れずに執筆した松瀬さん。石塚さんと松瀬さんの情熱に心を揺さぶられる。ぜひご一読を。

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