ラグビー愛好日記

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このブログについて

プロフィール写真【村上晃一】
1965年京都市生まれ。京都府立鴨沂高校→大阪体育大学。
ラグビーの現役時代のポジションは、CTB(センター)、FB(フルバック)。1986年度西日本学生代表として東西対抗に出場。
87年4月ベースボール・マガジン社入社、ラグビーマガジン編集部に勤務。90年6月より97年2月まで同誌編集長。出版局を経て98年6月退社し、フリーランスの編集者、記者、ラグビージャーナリストとして活動。J SPORTSのラグビー解説は98年より継続中。1999年から2019年の6回のラグビーワールドカップでコメンテーターを務めた。著書に「仲間を信じて」(岩波ジュニア新書)、「空飛ぶウイング」(洋泉社)、「ハルのゆく道」(道友社)、「ラグビーが教えてくれること」、「ノーサイド 勝敗の先にあるもの」(あかね書房)などがある。

日記 2013年11月23日

神谷考柄さんトークライブ

ラグビー愛好日記 by 村上 晃一
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22日の夜は、下北沢でラグビー愛好日記トークライブだった。ゲストは奇跡のラガーマン神谷考柄さん。東大阪市立日新高校出身、筑波技術大学で鍼灸師になるために勉強中である。右目は光を感じる程度で、左目は0,04の視力があるが視野狭窄があり、目の前に人がいても、その輪郭くらいしか確認できない。それでも彼は、一人暮らしの部屋から自転車でつくば駅に出てきて、東京にやってきた。自転車で? 毎度驚かされる。5歳のとき、お父さんに、いきなり補助輪なしの自転車を漕がされ、一度も転ばなかったという抜群の運動神経の持ち主なのだ。夜道では、人の足と地面の擦れる音で距離感を測って、ぶつからないように通り過ぎることができる。

下北沢のライブ会場では、最初にそこにいる人数を言い当てて驚かされた。空気が遮断される感じで、人の動きや場所が分かるという。目が見えない分、他の感覚が研ぎ澄まされている。そんな神谷さんだからなのかもしれないけれど、中学でラグビーをはじめ、高校では左プロップとして大阪府の全国大会予選準決勝で大阪桐蔭に敗れるまで全公式戦に出場した。彼が弱視であることは、学校とチーム関係者以外は誰も知らなかった。

詳しいことは彼が執筆した「夢見るちから」(新評論)、僕が2011年に書いた「仲間を信じて」(岩波ジュニア新書)にあるので、ぜひそちらを読んでいただきたいのだが、目の前30センチくらいに来ないとボールが見えないのに、どうやってラグビーをしていたのかという話は興味深いものだ。「僕にはボールが見えないので、みんなが走っていく方向にボールがあるんだろうと思って走るんです」。練習でランパスをするときは、声の出たところにパスし、自分がパスを受けるときは「胸をめがけて投げてもらって、胸に当たったボールを捕ります」という。顔にボールが当たったことはないの? 「子供の頃、いろんなものにぶつかって痛い思いをしてきたので、顔の近くに物がくるとかわせるようになりました」。

神谷さんは脳の髄液が体に吸収できない病気で、視神経もそれで圧迫された。今も体の中には髄液を体に流すチューブが入っている。チューブが詰まれば命にかかわるため、中学のラグビー部へ入部は許されたが試合に出ないというのが条件だった。「でも、チームの中で誰にも負けていないと思えるようになると、どうしても試合に出たくなって、先生にお願いしました。そして、一緒に父親を説得しました。一回だけやらせてほしい。自分がどれだけできるか試したい。死んでもいいから」。お父さんはしぶしぶOKしたが、お母さんの一言がすごい。「やったらええやん。あんたアホやから、死にきられへんわ」。でも、後で聞くと、お母さんは、この子にはできると思っていたのだそうだ。

その後は大活躍。中学時代はパワーも走力も際立っており、相手を弾き飛ばし、独走トライをすることも多かった。「ゴールラインは見えないけど、H型のゴールポストはぼんやり分かる。まあ、とりあえずまっすぐ走ればいいかなって。で、ゴールラインを越えると、みんなが、『神谷、ライン越えたぞ』って言ってくれる。最初のトライは、もう、めちゃくちゃ嬉しかったです」。

目標を定めそれを一つずつクリアしていく彼の生き方だけでも勇気をもらえる。そして、その考え方、物事のとらえ方にも感心させられる。彼が20歳のとき、体の中のチューブにトラブルがあって、生死の境をさまよったことがある。2か月間寝たきり。動くと髄液が漏れてしまうから体を起こすこともできなかった。その間全身麻酔の手術を7回。つらい時間だった。最後の手術の時、医師は家族に告げる。「助からないかもしれません。生きていても耳が聞こえなくなるなどの障害は残るでしょう」。厳しい現実だった。病室では明るくふるまう家族に、神谷さんは礼を言ったそうだ。「自分の身体のことは自分で分かります。もう、僕は死ぬのだと思いました。だから、オカンや弟に、迷惑かけたな、ありがとうって言いました。僕はみんなに助けられて生きてきたし、その恩返しがしたかったのに、それをする時間がない。それだけが悔しかったです」

しかし、彼は生還した。なんの障害も残らなかった。医師は「奇跡」と言った。だから彼はいま恩返しのために生きる。ぼぼ見えなかった目にわずかな光を与えてくれた鍼灸師の岩崎先生(故人)の後を継いで、たくさんの人を助けたいのだ。すっかり元気になった体で彼は日本一のブラインドサッカーチーム「アヴァンツァーレ」のキャプテンを務めている。2020年には、東京で開催されるパラリンピックで神谷さんの姿が見られるかもしれない。神谷さんの話に涙していた会場に希望の光がさしこんだ気がした。

最後の質問コーナーで、「困難にぶつかったとき、あきらめ、くじけてしまう人がほとんどだと思いますが、神谷さんはけっしてあきらめない。どんな気持ちでいるのですか」という趣旨の問いかけがあった。神谷さんは答えた。「自分にできないことはないと思っているんです。他の人ができているのだから、僕にもできる。できなければ、できるようになればいい」。ライブ終了後に聞いたのだが、実は答え方に困ったらしい。「だって僕、普通のことをしているだけなんです」。

終演後、出口で見送る神谷さんに、ほとんどのお客さんが声をかけ、握手をかわしていた。しばらく話し込む人が多かった。みんなの心に何かが刺さったということだと思う。つくばまで帰る神谷さんを秋葉原まで送った。神谷くん、高校の時より、やせたね。今夜は、ありがとう。

20111122

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