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【村上晃一】
1965年京都市生まれ。京都府立鴨沂高校→大阪体育大学。
ラグビーの現役時代のポジションは、CTB(センター)、FB(フルバック)。1986年度西日本学生代表として東西対抗に出場。
87年4月ベースボール・マガジン社入社、ラグビーマガジン編集部に勤務。90年6月より97年2月まで同誌編集長。出版局を経て98年6月退社し、フリーランスの編集者、記者、ラグビージャーナリストとして活動。J SPORTSのラグビー解説は98年より継続中。1999年から2019年の6回のラグビーワールドカップでコメンテーターを務めた。著書に「仲間を信じて」(岩波ジュニア新書)、「空飛ぶウイング」(洋泉社)、「ハルのゆく道」(道友社)、「ラグビーが教えてくれること」、「ノーサイド 勝敗の先にあるもの」(あかね書房)などがある。
火曜日は、深緑郎さん、JSPORTSプロデューサーのカンちゃんたちと、マントンに行ってきた。ウィリアム・ウェッブ・エリスの墓参りである。早朝、パリからニースへ飛び、そこからバスにてマントンへ。途中、モナコ公国を走り抜けつつ、地中海の海岸沿いを約1時間15分。美しい眺めにずっと見とれていた。
マントンは、モナコ公国の東側、イタリアとの国境にある海辺のリゾート地だ。この写真はイタリア側から撮影したもの。国境、越えてみました! 30mくらいだけど。国境沿いのお店に入ったら、いきなり「ボンジョルノ」でイタリアを実感。ビールがパリの半額以下で嬉しかった。1パイント、2ユーロ! ガイドブックによれば、マントンは1年中温暖で、1年のうち300日以上が晴れという恵まれた気候らしい。実際に、ビーチで日光浴を楽しみ、泳いでいる人がたくさんいた。パリの寒さは嘘のようである。海の青さには感動した。こちら国境地点である。
「1823年、イングランドのパブリックスクール・ラグビー校で行われていたフットボールのルールを破り、ボールを持って走り出した」というラグビー発祥エピソードの主人公ウィリアム・ウェッブ・エリスさんのお墓が、ここマントンにある。当時ラグビー校で行われていたフットボールは、ボールをキャッチすることは許されていたが、そのまま走ってはいけなかった。当時、サッカーはまだ生まれていない。このエピソードについては深緑郎さんの「世界ラグビー基礎知識」に現時点で分かっている事実をもとに詳細に書かれているので、そちらを読んでいただきたいのだが、エリス少年を誤りのないように表現すると、「ラグビーという競技の特徴を最初に表現した人らしい、とされている」ということになるのかもしれない。
簡単に説明すると、当時のラグビー校にウィリアム・ウェッブ・エリスという少年が在籍し、フットボールをプレーしたことは確か。しかし、そのエピソードを目撃して書いた人は誰もいない。唯一、同時期にラグビー校に学んだ歴史研究家のマシュー・ブロクサムがこのことを書いたのみ。のちにラグビー校OB会が調査に乗り出すが証言は得られず、かといって他の説も出ず、OB会は、このエピソードをラグビー発祥の起源として校庭の銘板に刻み、それが世界に広まったという。
エリスは、オックスフォード大学に進学し、卒業後、英国国教会の聖職者となり、晩年、病気療養のために渡った南仏のコートダジュール付近で1872年1月24日、65歳で亡くなった。その後、英国人ジャーナリストが、マントンの教会地下にエリスの墓を発見し、フランス・ラグビー協会の手で地中海を望むこの場所に葬り直されたという。これ、すべて深緑郎さんの本に書いてある。イングランド協会から贈られたプレートには、THE FIRST RUGBY PLAYER と記されていた。
ラグビーを愛好する者として、W杯期間中に一度は来てみたかった。行けるように段取りしてくれたカンちゃんや、深緑郎さんに感謝したい。市場で薔薇の花束を買い、目印のサン・ミシェル教会(写真上)を目指して歩いた。マントンは、色とりどりの壁の家が建ち並び、とても可愛らしくて綺麗なところだった。W杯が行われていることもあり、写真の通り、道案内がところどころにあって、確実にエリスのお墓にたどり着くようになっていた。10年前にこの地を訪れた深緑郎さんによれば、「すごく綺麗になったなぁ」とのこと。
新しい建物も多くなり、10年前は手探りでお墓を探したのに今は道案内つき。バス停の近くでは、フランスラグビー協会によるラグビーの普及プログラムも行われていた。しかし、マントンにはエリスにちなんだおみやげ物は見あたらない。おそらく、この町の人はエリスの墓のことをよく知らない。ほんとうに静かに眠っているのである。僕は墓の前に立って手を合わせた。そして、僕の人生を決定づけたラグビーが生まれてくれたことに心から感謝した。