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【村上晃一】
1965年京都市生まれ。京都府立鴨沂高校→大阪体育大学。
ラグビーの現役時代のポジションは、CTB(センター)、FB(フルバック)。1986年度西日本学生代表として東西対抗に出場。
87年4月ベースボール・マガジン社入社、ラグビーマガジン編集部に勤務。90年6月より97年2月まで同誌編集長。出版局を経て98年6月退社し、フリーランスの編集者、記者、ラグビージャーナリストとして活動。J SPORTSのラグビー解説は98年より継続中。1999年から2019年の6回のラグビーワールドカップでコメンテーターを務めた。著書に「仲間を信じて」(岩波ジュニア新書)、「空飛ぶウイング」(洋泉社)、「ハルのゆく道」(道友社)、「ラグビーが教えてくれること」、「ノーサイド 勝敗の先にあるもの」(あかね書房)などがある。
火曜日もマッチ箱のダビングをしながら、基本的に家で仕事をしていた。CD43枚はやっぱり時間がかかるなぁ。おまけに一曲ずつゆっくり聞きながらやっているので、なかなか進まない。知人から、「ipod買ったら?」というメールも着た。その通りだなって思いつつ、車の中で聞くにはMDやねん、などと独り言をつぶやき、ダビングを続けている。
コメントで、大学時代、就職について考えていたことについて質問があった。僕が大阪体育大学に入ったのは、ラグビーを続けながら体育の教師になりたかったからだ。高校ラグビーの監督になって花園に行くのが密かな夢だった。ところが、スポーツジャーナリズムという講義を受講して新たな選択肢が出来た。スポーツ記事の書き方を学びながら、「大体大スポーツ」という学内新聞で実践していくモノだった。もともと文章を書くのは好きだったし、新聞社や出版社への就職を考え始めた。企業でプレーを続ける選択肢は4年の春に消去した。日本代表を狙えるような実力ではないと判断したからだ。
そして、最終的にはベースボール・マガジン社の入社試験と教員採用試験だけを受けた。なぜベースボール・マガジン社だけ受けたかというと、そこにはラグビーマガジンがあったからだ。実は、入社してもラグマガの編集部に行けない可能性が高いことはその時知らなかった。ラグビー経験者を採用してラグマガに入れないなんておかしいだろうって勝手に思っていたが、その後ラグマガ希望で入社してきた新入社員の希望がかなった例は少ない。だって編集部、社員4人だもんね。枠がないわけです。僕はめちゃくちゃラッキーだったのだ。
コメントをくれた大西くん同様、僕もラグビーに育ててもらったと思っているし、そのことにはとても感謝していて、できればラグビーに役立つことで生きていきたいと思っていた。それがすべての判断基準だった。だから、もしラグマガに入れなかったら体育の教師になっていたと思うし、採用試験に落ち続けていたら、別のラグビーに関わる職業を探しただろう。ラグマガに入ってからも、何度か会社を辞めてラグビーの指導者になろうと思った。取材をしていると、現場は苦労が多いと思う反面、試合の結果に一喜一憂して、泣いたり笑ったり、選手達と一緒に戦う姿が羨ましくなるのだ。コーチは、いい仕事だと思うなぁ。
僕がラグマガの編集部にいた頃、何度か就職希望の学生に「ラグマガに入るために何を勉強しておけばいいですか」と聞かれたことがある。その学生がラグビー部の場合は「ラグビーで日本一を目指してください」と言うことにしていた。目標に到達するために何が必要かを考え、懸命の努力を続けることが社会に出て役立つ。レギュラーでなくてもいい、チームの中で自分が果たせる役割を全うした人間は、いい仕事ができると信じているからだ。
トップリーグができたこともあって、選手としてだけでなく、トレーナーや通訳も含め、ラグビーに関わる職業は増えた。その中から、自分に適したものを見つけてもらえればと思う。あ〜、また説教くさくなっちゃったかな。
話は変わるが、五郎丸選手の怪我は本当に残念だ。日本選手権欠場となれば、打倒・トップリーグを目指す早稲田にとっては痛手に違いない。だけど、トップリーグと互角の勝負をするにはFW陣の奮闘が最重要。一人欠けたことでチーム力ががっくり落ちるほど早稲田の層は薄くないはずだ。日本選手権自体のシステム変更は僕も必要だと思う。ただ、今季に関しては現状のスケジュールを念頭に置いて各チーム強化してきている。それぞれの最後の戦いをしっかり見届けたい。じっくり見た後で、自分なりの意見は書いていきますね。
あずおさんの質問については、dragonさんが答えてくれました。ありがとうございます。昔は、やはり社会人の練習量が少なかったことが大学に負けていた要因でしょうね。今は大学のトップ選手がさらに鍛えられていくのだから、普通に考えれば勝てないのが当然ということになります。